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四月三日目【狂言】

 いくら殴られても、別に、耐えられた。  痛みは包帯でぐるぐるに巻いてしまえば緩和される。  けれど。 『勝手に友達だって思い込むなよ、迷惑だから。つーかさ、誰がお前みたいなグズ、友達かよ。……一緒に並んでるのも恥ずかしいっての』  蘇る懐かしい声が響く。あいつは、いつだって俺に笑い掛けてくれた。そう言って、手を叩き落としたあの時も。  誰に殴られようと、蹴られようと、耐えられた。けれど、言葉の刃は突き刺さったまま、傷も塞がらないまま、年月だけが経過していく。  昔から友達が多いタイプではなかった。  この性格だ。自分から話しかけることが出来ず、人目ばかりを気にして生きてきた。  それでも、別に良かった。挨拶を交わす程度の関係を築ければ、良かった。寂しくはあったが、そういうものだと思っていたのもあってその事実を受け入れることができた。  祖父母が資産家で、父親は大手企業の経営者。母親も所謂バリキャリだった。自宅にメイドがいると言えば大抵の子は引いた。  実際、親の七光というやつだ。俺自身勉強ができるわけでもなければ、何か秀でたものがあるというわけでもない。  それでも、通う中学は一般家庭で育った生徒が殆どだ。放課後、周りの生徒が友達同士で遊びに行ったり、部活動に励んだり、勉強が大変だと口にしあいながらファミレスで勉強会を開くような学生生活を送る中、俺は門限を守るため部活が終えれば速やかに下校準備をし、校門の前に待機していた送迎車に乗り込む。そんな毎日を繰り返していた。  ……あいつが、やってくるまでは。 『痛いの、お前好きだろ。人前でオナニー出来るようなドMだもんな』  忘れていたのに、忘れたかったのに。  響く。靄がかっていたその声は次第に鮮明になっていく。  耳障りがよく、よく通る爽やかな声。それは、中学時代俺が最も隣で聞いてきたものなのかもしれない。  いつだって、あいつは笑っていた。俺を見て、嘲笑して、笑って、俺を甚振っては楽しんでいた。  今頃、こんな夢を見るなんて。俺は、汗でぐっしょり濡れた額をぬぐった。額だけではない、背中も濡れているのが分かった。  窓の外からは鳥の囀る声が聞こえてくる。  あいつのことを思い出してしまったのは、間違いなく、あの男が原因だろう。 『よろしくな、ユウキ君』  「……、……」  阿賀松伊織。俺に恋人になることを強要してきた、横暴を具現化したような男。  目を覚ましたら全部夢でした、という展開になればどれだけ良かっただろうか。けれど、腰の痛みも腿に残った指の感触も間違いなく現実だった。  俺は、ただ平穏に、今度こそまともな学生生活を夢見ていただけなのに。  俺自身が変われてない、からだろうか。ちゃんと、嫌だと言わないから。  人に意見することを避けては流されて生きてきた。それが今になって災いしてきたということか。  考えれば考えるほど滅入る。暫くベッドに横になったまま、動けなかった。  けれど時というものは無常で、俺のことなんか知ったこっちゃないとでもいうかのように秒針を刻んでいくのだ。 「……起きよ」  隣で寝息を立てる阿佐美に布団を掛け直しつつ、俺はゆっくり、なるべく体に負担が掛からないようにベッドから降りた。  鏡に向かい合えば、酷いものだった。顔は死にかけ、まるで死人みたいな顔色の自分の顔に何も言えなくなる。せめて、周りには、悟られないようにしないと……。  あの男がどういうつもりか知らないが、最悪先生に相談して、あとは無視したらいい。  写真ももうないんだ……何も恐れることはない。  そう自分に言い聞かせながら、俺は支度を済ませる。  丁度、ネクタイを締め、ブレザーを羽織ったときだ。扉がノックされる。 「は、はい……!」  もしかして、志摩だろうか。  昨日とうとう最後まで現れなかった志摩のことを思い出し、慌てて俺は鞄を拾い上げ、それを抱えながら玄関口へと駆け寄った。  扉を開き、俺は、凍り付く。 「よう、随分と朝っぱらから元気じゃねえか……ユウキ君」  今まさに会いたくないと思っていた男がそこにはいた。  肩に掛かる程度無造作に伸びた赤い髪に、眉と唇、そして両耳にぶら下がる大量のピアス。着崩した制服。阿賀松伊織は、俺の姿を見つけるなり、厭らしい笑みをその口元に浮かべた。  咄嗟に、扉を閉めようとするが、阿賀松がドアの隙間に靴先を差し込む方が早かった。  思いっきり扉を開かれ、その勢いにドアノブを掴んだままだった俺は扉の外へと引っ張り出される。  そして、 「おい、閉めてんじゃねーよ」  胸倉を掴まれ、とうとう捕まってしまった。  無理矢理閉められる扉。その大きな音に、既に通路にいた生徒たちはぎょっとした顔でこちらを見る。けれど、今はそれどころではなかった。 「っ、な、なんで……ここに……ッ」 「なんでって……可愛い恋人に会いに来ちゃ駄目な法律でもあんのか?」 「か……」  可愛い。口から出任せだろうが、どこからどこまでが本気か分からないこの男のことだ。  俺は、正直嫌な予感しかしなかった。  そもそも何故ここにいるのか。部屋の場所だって教えたつもりはない。ということは……調べたのか?  名前を知られていた件に関してもだ。どこまで知られてるのか分からないだけにただ気持ち悪かった。 「や……っ、やめてください、俺、付き合うなんて一言も言ってない……ですから……」 「馬鹿か、テメェ。別にお前がどうって知ったこっちゃねーんだよ。俺がユウキ君と付き合ってやるって言ってんだ、拒否権がお前にあると思ってんのか?」  唯我独尊、とは正にこの人のことだろうなと思った。  まるでさも当たり前のように言ってのける阿賀松に、正直俺は目眩を覚えた。こんな人間がまさかこの世にいるとは思っていなかっただけに、余計。  人のことをなんだと思ってるのだろうか。俺の意見をまともに聞こうとしない阿賀松に、冷や汗が滲む。  絶対、この人頭がおかしい。関わりたくないけど、部屋を知られてる以上、これ以上付き纏われるのも迷惑だ。震える拳を握り締め、俺は阿賀松に向き合った。 「……っ、迷惑です、これ以上付き纏うって言うなら……先生に言いますよ……!」  精一杯の抵抗だった。  付け込まれる前に、釘を差す。後戻りが出来なくなる前に、現状打破する。  なけなしの勇気を振り絞って声を上げれば、先程まで笑っていた阿賀松の笑みが一転して、無表情になる。  そして。 「……まだ自分の立場が分かってねぇみたいだな」  地の底から這い上がるような、低い声に背筋が震えた。  据わった目。怒ってる、と頭で理解したときには遅かった。  扉に後頭部を押し付けられる。鈍い痛みが走った。  重ねられる唇。その感触に目を見開く。ピアスが当たり、それでも阿賀松は無視して俺の顎を掴み、無理矢理顔を固定した。  ざわつく周囲に、俺は、ここが自分たちだけではないということを思い出す。  カッと顔が熱くなる。阿賀松の胸板を押し返そうとするが、その手首すら取られてしまえばどうすることも出来なかった。 「ッ、ふ、ぅ……ッんぐ……ッ」  肉厚の舌が、唇を弄る。薄皮に触れる金属ピアス。その特有の熱に擦り上げられ、体の芯が熱くなる。  俺は、唇を開き、阿賀松の舌を受け入れる。そして、割って入ってきたそれに、思いっきり舌を立てた。  ガリッと鈍い音を立て、次の瞬間、鉄の味が口の中いっぱいに広がった。  阿賀松は微かに息を吐き出し、それから、赤く染まった舌を引き抜く。 「……なんだ、ちょっとは出来るみてぇじゃねーの」 「……っ」  そう言って、舌なめずりをする阿賀松。その舌が、唇が、自身の血で赤く濡れる。  怒るかと思っていただけに、寧ろどこか楽しそうに笑う阿賀松が余計分からなくて、俺は、怖くなって慌てて、阿賀松の胸を思いっきり突き飛ばした。  それでも、ろくに鍛えてなどいない俺の腕力はたかが知れている。精々出来たその隙に、俺は、鞄を小脇に抱えて阿賀松の横をすり抜け、逃げ出した。  途中、一部始終を見ていたらしい生徒たちの視線が突き刺さったが、そんなこと気にしてる暇もなかった。ただ。あの男から逃げたかった。  阿賀松伊織は、逃げ出した俺を捕まえようともしなかった。  朝からついていなかった。夢見も悪かったし、そもそも昨日が最悪過ぎたのだ。  エレベーターに乗り込み、一階まで逃げてきた俺はゴシゴシと感触の残った唇を擦った。  一晩寝たらあの感触も忘れられると思ったのに……なんてことはない。新しく塗り替えられてしまえば意味がない。  何度口を濯いでも、阿賀松の血の味は染み付いたみたいに取れなかった。  ◆ ◆ ◆  学生寮一階・ロビー。 「……齋籐君?」  不意に声を掛けられる。振り返れば、そこには芳川会長がいた。  その両脇には、女装男……もとい櫻田とクマのぬいぐるみを抱えた江古田がいた。  珍しい組み合わせだが……今見たくない顔でもある。というか、こんな顔、見られたくなかった。 「随分と慌てているようだが、何かあったのか?酷い顔をしているぞ」 「な……なんでもないです」 「本当か?」  こちらの目を覗き込んでくる芳川会長に、背筋に汗が流れる。  ……会長には、知られたくない。それも、対立しているであろう阿賀松に絡まれてるなんて、絶対。  俺は強張る表情筋を無理矢理動かし、笑みを作った。 「……はい、あの、ちょっと寝坊しちゃって……」 「寝坊?まだ予鈴には時間があると思うが」 「ええと、その……もう少し早起きするつもりだったんです……!そ、それで……慌ててしまって……」 「そうか、まあ……まだここに来て日も浅い。慣れるまでには時間も必要だろうしな」  ……なんとか、誤魔化せたようだ。  頷く会長にホッと安堵するのも束の間。早くここから移動しないとまた阿賀松が来るかもしれない。そう危惧した俺は「それじゃあこれで」と慌てて会長たちの前から立ち去ろうとした、その時だ。 「そうだ、齋藤君。君さえよければ一緒に朝食でもどうだ」 「その様子だと、まだなんじゃないのか?」鋭い。  芳川会長は、善意のつもりなのだろう。それでも、会長を慕っている背後の櫻田の目が痛い。 「……いえ、俺は……」 「遠慮する必要はない。……それとも、友達と約束でもあるのか?」 「そういうわけではないですが……」 「なら、一緒にどうだ」  口籠っていると、そっと顔を寄せてきた会長は「このメンツだけで食事は結構来るものがあるんだ」と耳打ちする。  ……もしかしたら、そっちが目的か。  確かに、この前櫻田に絡まれてる様子を思い出す限り会長は櫻田に対して苦手意識を持ってるようだ。  ……このまま放っておくのも心が痛む。  俺は、つい「分かりました」と折れてしまった。  先程以上に目付きが鋭くなる櫻田に、早速選択肢を誤ってしまった気がしてならないが、一度頷いてしまえばおしまいだ。 「そうか、助かる。なら、行こう」  そう会長に肩を軽く叩かれる。俺は、会長たちとともに そのまま食堂へと向かった。  食堂は、学生食堂と呼ぶにはあまりにも豪華で、広かった。  清潔感溢れる白い壁とタイル張りの床。マンモス校とはいえ、ここは高等部限定の食堂だ。それでも備え付けの机と椅子を見る限り、一度に数百人は容易に受け入れることが可能だろう。  奥にはボックス席もあり、既に何人かの生徒たちが座っては談笑し合っているのが見えた。  ガラス張りの壁の向こうには青空とガーデンテラスが広がっていた。会長が言うには天気がいい日はテラスが開放され、外の空気を吸いながら食事を取ることも可能のようだ。  現に、天気のいい今日は既に先客で埋まってる。どうやら人気の席のようだ。  俺たちは食事をする生徒たちの脇を通り抜け、食堂の奥に繋がる階段を上がり、他の席から隔離されたその空間に足を踏み入れる。心なしか一階のテーブルセットよりも豪華なデザインのソファーにテーブルに、俺は悟る。ここは、特別な生徒のみが使えるテーブル席なのだと。  現に、大半の席は埋まってるにも関わらず二階の席には誰もいないのだ。  芳川会長も何も言わないし、櫻田たちも何も言わないので、俺も何も言わずに席についた。  備え付けのメニューから朝食を選び、やってきたウェイターにそれを頼む。  学食と言うよりも、レストランと言った方が個人的にはしっくり来た。  本当に、桁違いというか……力を入れるところと一般高校のそれとは違う。  料理はすぐにやってきた。  先程の出来事もあって余計食欲がないので、ワンプレートで済ませることにしたのだが、思ってた以上にボリュームがあるそれについ腹の虫が鳴る。  会長はパンケーキ、櫻田はハンバーガー、江古田は塩鮭定食を頼んでいたようだ。……というか、会長、がっつりデザートのような気もするのだが……甘いものが好きなのだろうか? 「会長ー、あーんしてやりましょうか。あーん」 「……食べ物で遊ぶな」 「えー、遊んでないですって俺! あ、これ美味いっすよ!これ!」 「いらん、自分で食え」  揉めてる(というか、櫻田が一方的に絡んでいる)のを眺めてると、不意に、江古田が何か横でもぞもぞしてることに気付く。どうやら膝に置いたくまにナプキンを掛けて上げてるようだ。本当に可愛がっているようだ。  なかなか不思議な光景だが、少し、和んだ。 「えと、江古田君……だったよね?これ、俺のあげるよ。……そのクマさんに使ったら、君の分がないよね?」  つい、俺は声を掛けていた。使っていないナプキンを差し出せば、江古田は目を丸くして、こちらを見る。 「……あの、結構です……別に、僕は汚れても構わないので……」 「あっ、ご、ごめん……余計なお世話だったね……ごめんね?」 「……いえ、お気遣いありがとうございます……」 「……」 「……」  き、気まずい。 「わーい、ありがとうございます」と喜んでくれるようなタイプではないと分かっていたが、ここまでバッサリと断れるとなんというか、取り付く島もないというか。  おずおずと手を引っ込めれば、江古田はばつが悪そうに俯く。そして。 「……齋籐先輩、これあげます……」 「えっ? いいの?」 「……はい……」  どういう風の吹き回しなのだろうか。こくりと小さく頷いた江古田は、取皿に載せられた卵焼きを二つ、そぅと俺の側に置いた。  本当に貰っていいのだろうかと江古田を見るが、江古田は無言のまま俺をガン見するだけだった。  ちょっと怖いが、もしかしたら気遣ってくれてるのだろうか。 「じゃあ……貰おうかな。ありがとう、江古田君」  江古田は何も言わずに顔を逸らす。  やっぱり、何を考えてるのか分からないが……いい方に取ってもいいのだろうか。どう接すればいいのか迷いながら、俺は江古田から貰った卵焼きを口にした。  口にしたそれはほんのり甘かった。  「齋籐君は、甘いものが好きか?」  それは唐突な会長からの問い掛けだった。 「あ、はい……好きですね」 「会長、俺も甘いもの好きですよー!」 「お前には聞いていない」 「因みに俺が好きなのはカカオ100%のチョコレートですね」 「……それは……」  甘いものが好きと呼べるのだろうか。思わず櫻田に突っ込みそうになるが、絡まれるのも嫌なので俺は口を紡ぐことにする。 「今度駅前通りにスイーツパーラーが新しくオープンしたようだ。興味があったのだが……一人ではなかなか行きづらくてな」 「た、確かに……行きづらそうですね」 「そんなことなら俺がお供しますよ、会長!」 「……君さえよければ一緒にどうだろうか」  とうとう櫻田を無視し始めた会長。「ねーねー会長会長ってば!」とぶんぶん会長の腕を振り回す櫻田を見ないことにしてるのだからすごい。俺には出来ないだろう。  正直、会長にそんな風に誘われるなんて思いもしなかった。  生徒会役員と一緒に行かないのだろうかとも思ったが、確かに五味や栫井や十勝を思い出す限りデザートが好きって感じでも無さそうだったが……何故俺なのだろうか。  良くしてもらえるのは嬉しいが、阿賀松の件もまだ解決していない今、あまり親睦を深めるわけにもいかない。  ……こうして同じテーブルを囲んでるところだって、どこで誰に見られてるのか分からないのだから。 「あの……ありがとうございます。けど、すみません……遠慮しておきます」 「そうか。……君さえ良ければと思ったのだが、男同士であのような場所に行くにはやはり度胸がいるからな。……残念だが、仕方ないな」 「す……すみません」 「会長、なんなら、俺がついて行きますって!」 「断固お断りさせていただく」 「えっ?! なんで!! 俺が女装して行けばカップル風で周りから浮かないと思ったんすけど名案じゃないですかこれ!」 「……余計浮くし入店拒否されると思うけど……」 「されるかよ!! 俺みたいな美女が入店拒否なら世の中の女全員入店拒否だ!!」  ……何を言ってるのだろうか。  というか本気で女装して付いていくつもりなのだろうか。  見てみたい気もするが、芳川会長が許すわけがないだろう。  しかしこんなトンデモなくナルシスト発言でも、まあ……長身で体格がいい美少女と見えなくないと思ってしまうのがすごいと思う。  喉仏と声は男子高校生のそれだが、正直喋らず首元を隠してたら俺は少し迷ってしまうだろう。  というわけで、騒がしい朝食を済ませ、一階へと降りた俺達はそのまま食堂を後にした。  通り過ぎていく生徒たちは、会長の姿を見るなり「おはようございます」と頭を下げる。会長は「ああ」とだけ返し、まるでいつものことでも言うかのように生徒たちの前を通り過ぎていくのだ。  やはり、講堂のステージの上に立っていた会長なんだと思った。  このマンモス校、矢追ヶ丘学園高等部の生徒たちの頂点に立つ生徒会長。  そんな人と一緒にご飯を食べていたなんて、今更ながら夢を見ているような……そんな気になってしまう。  初対面……ではないが、まだ出会って日も浅い。それなのに、会長はまるで昔からの知り合いみたいによくしてくれるのだ。……だからこそ、親身になってくれるからこそ沢山の生徒に慕われるのだろう。  芳川会長が生徒会長に選ばれた理由が、俺はなんとなくわかった気がした。  学生寮を出て、校舎へと繋がる通路の途中。 「齋籐君は、このまま教室に行くのか?」 「はい、そのつもりです」 「……そうだな、予鈴前に教室に入ってクラスメートたちと親睦を深めるのも大切なことだしな。……教室への行き方はもう覚えたか?」 「はい、教室だけは毎日通う場所なので早く覚えないとと思って……」 「そうか、なら大丈夫そうだな」  会長はそう笑う。会長の笑った顔は、普段の堅い表情からは考えられないくらい優しくて、暖かかった。 「それでは、俺は生徒会室に用があるからここで失礼する。……君たちも、ちゃんと遅刻しないように教室に迎えよ」 「はーい!」 「……はい……」  というわけで、昇降口前。俺達はその場で解散することになった。  一年生である櫻田と江古田は、二年の教室がある棟とはまた別の棟に移動する必要がある。  踵を返す江古田と櫻田だったが、不意に、櫻田は何かを思い出したように「あ、そーだ、せんぱーい」と俺に声を掛けてくる。 「えっ、ぁ……何?」  櫻田は、苦手だ。  切り揃えられたウィッグの前髪から覗く猫目が二つ、俺を捉える。 「齋藤先輩、気を付けた方がいいっすよ」 「え……?」 「さっきからお前、着けられてるみてーだから」 「着け……?!」 「親衛隊連中じゃなさそうだし、もしかしたら気付かないところで恨みでも買っちゃった?……ま、俺としてはどーでもいいんだけど、先輩になにか遭って一緒にいた会長の責任にされても困るしなぁ」 「っつーわけで、自分の身だろ? なんとかしろよ?」そう、耳打ちし、櫻田は「じゃあな」と手を振ってさっさと歩き出す。  着けられてる……ってことは、尾行されてるということか。視線が痛いとは思っていたが、心当たりがありすぎて、俺は暫くその場から動けなかった。  ……振り向くのが怖くて、とにかく、櫻田がわざわざ忠告してくれたというのだからそれを無碍にするわけにもいかない。俺は、早急にその場を移動することにした。  それにしても、櫻田は信用していいのか悪いのか、よく分からない……。けれど、会長のメンツに関することならば、嘘を吐かないはずだ。  面倒臭そうなやつだけど、それでもそれだけは信用していい気がしていた。

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