8 / 166
04
何も考えられなかった。
恐らく、自分がとんでもないことをされたというのは節々の痛みと下腹部に走る鈍痛で自覚することは出来たが、それでも、まだ、現実味が沸かなかった。
こちらを見下ろす赤髪のあの男の目が、食い込む指の感触が、じっとりと滲む汗が、溢れ出す精液が、先ほどの行為が現実のものと知らしめてくる。
「…………」
なんで、こんなことになってしまったのだろうか。
酷い倦怠感の中、肛門から溢れる赤が混ざった精液を拭い、掻き出す。
不思議と、もう、涙は出なかった。ただ、これからのことを考えると、向けられたレンズが頭を過ぎり、気が気ではなくなるのだ。
とにかく、人目を盗んで精液を拭って、服を着直して、俺は阿賀松の残り香から逃げるように便所を後にした。
安久と呼ばれた男子生徒も、阿賀松も、そこにはいない。
けれど、他の生徒の姿を見つける度に、心臓が破裂しそうになる。聞かれてるんじゃないか、おかしいと思われてるんじゃないか、何があったのかバレてるのではないか、そんなよからぬ想像ばかりが先行してしまい、俺は、人から逃げるように自室へと駆け込んだ。
「ゆうき君、おかえりなさい」
部屋に入ると、阿佐美が出迎えてくれた。
明るい笑顔、その声に、いつもの俺なら「ただいま」と返すことができたのかもしれない。
けれど、部屋に阿佐美がいないものだと思っていた俺は阿佐美がそこにいることに動揺してしまい、つい、言葉に詰まってしまう。
「……ゆうき君……?」
恐る恐る名前を呼ばれ、ハッとする。
心配そうに覗き込んでくる阿佐美に、肩を掴まれそうになって、全身がびくりと震えた。
「……」
「あっ……ご、ごめ……」
ごめんなさい、と言い掛けたとき、阿佐美の手がスッと離れる。
そして、申し訳なさそうに笑う阿佐美がそこにいた。
「こっちこそ……ごめんね、ちょっと不躾すぎたかな」
「ち、違う……俺が勝手に、ビックリしただけだから……その、悪いのは……俺だから……」
阿佐美は悪くない。寧ろ悪いのは、と阿賀松の顔が脳裏に蘇り、下腹部に痛みが走る。
それを紛らすように、俺は服の裾を掴んだ。
「……ゆうき君、何かあったの……?」
言い淀む俺に何かを察したのか。微かに表情を強張らせた阿佐美は、静かに尋ねてくる。
いつも通りに振る舞うなんて、出来るわけがなかった。
助けてくれ、なんて、阿佐美に言えるわけもない。阿賀松と面識のある阿佐美には、特に。
「な、なんでもない……少し、お腹が、痛くて……」
「……お腹が? 大丈夫? 薬飲む?」
「ううん、大丈夫。……きっと、その内収まるだろうから……だから、ごめんね」
そっとしておいてくれ、ということは出来なかった。
けれど、俺のニュアンスから感じ取ってくれたのだろう、阿佐美は少しだけ寂しそうに笑い「何かあったらすぐに呼んでね」と言ってくれた。
……阿佐美は、ぽややんとしているように見えて、敏い。それは、ここにきてからすぐに気付いた。
何も見えていないように見えて、人の細部にまで目を配らせている阿佐美に嘘を吐くことは無意味だとわかってても、本当のことなど言えるわけがないのだ。
俺は、服を着替えるために洗面室へと向かった。
自室には、洗顔などができる洗面室と、浴槽とシャワー付きの簡易浴室、そして便所がある。
一通り済ませることは出来るのだが、娯楽の一つとして一階には大浴場とサウナ、トレーニングジムもあるらしい。
殆どの生徒はコミニュケーションの一環として大浴場を使用しているらしいが、とてもじゃないがこんな状況で人前で脱ぐことは出来なかった。
俺は汗と精液がこびりついた制服と下着を洗濯機に突っ込み、浴室へと足を踏み入れる。
何度身体を洗っても、阿賀松の手の感触が取れなかった。こうしている間にも阿賀松の手元にデータがあるのだと思うと、気分だけが急ってしまう。
そんな中、気持ちが落ち着けるわけがなかった。
全身を何度も擦り、赤くなった皮膚にお湯が染みる。そこでまた、枯れたと思っていたはずの涙が滲んだ。
憂鬱な気持ちのまま風呂を出て、髪を乾かす。
自室に戻ったとき、パソコンと向かい合う阿佐美がそこにいた。
「湯加減、どうだった? 俺は結構熱めが好きなんだけど、ゆうき君はどのくらいがいいのか分からなかったんだよね」
「……俺も、熱めでいいよ。ありがとう」
「……ううん、俺はこれくらいしか出来ないから」
「……」
どういう意味か、深く聞くことは出来なかった。
それでも、それ以上阿佐美といるのが辛くなって、俺は、「ちょっと飲み物買ってくる」と言って手ぶらで部屋を出ていった。
絶対、避けられたと思ってるよな、阿佐美……。
そんなつもりはないのだけれど、やっぱり、阿佐美に変な気を遣わせるのも忍びない。
……と言っても、その結果余計気遣わせてるのだからどうしようもない。
殆どの生徒が大浴場に向かっているお陰か、学生寮内・三階は比較的人気が少なかった。
俺は外の空気を吸おうと思い、ラウンジから繋がったバルコニーに出た。
そこに人気はない……と、思っていたが、どうやら、先客がいたようだ。
それに気付いたのは俺がベンチに腰を掛けたときだ。
バルコニーの奥、佇む人影に心臓が停まるかと思った。
「……何、勝手に入ってきてんだよ」
「ここ、俺の場所なんだけど」と、一言。気だる気な声がバルコニーに響いた。
生徒会副会長、栫井平佑。じとりとこちらを睨む栫井に、俺は、軽率にこの場を選んでしまった自分を恨んだ。
「ご、ごめん……その、知らなくて……」
そもそも、ここは公共の場ではなかったのか。『俺の場所』ということは、予約制になっているということか?まさか私物化しているわけでもないだろうが……。
なんて、一人で考えていると、栫井のシルエットが近付いてくる。
早くここから出ていかないと、と一歩後ずさったとき、手首を掴まれる。
「ぁ、あの……っ」
驚いて、顔を上げれば、すぐそこには眠たそうなやつの顔があった。
まずい、まずい、また因縁吹っ掛けられる。
正直、この男のことは苦手だった。こいつも俺のことをよく思っていないことは分かったし、だからこそ余計、俺は耳を疑った。
「座れよ」
そう、一言。
「は?」と思わず、素っ頓狂な声が喉から出てしまう。
「勝手に入ってきたのはお前だろ。……なら、責任とって付き合えよ」
付き合うって、何を。そう聞き返すよりも先に、さっき座っていたそこに無理矢理肩を押され、座らせられる。
ひんやりとした木の感触に、俺はどうしたらいいのかわからず、ただされるがままに座っていた。
そして、その向かい側。動揺の椅子に腰を掛けた栫井平佑とは、テーブルを挟んで向かい合うような形になった。
……どうして、こんなことになっているのだろうか。
バクバクと鳴り止まない心音。掌にはじんわりと汗が滲む。
俺は、向けられた視線から逃げるようにただ俯いていた。
「齋藤……佑樹」
「は、はい……」
「お前、甘いものは好き?」
そう言って、栫井は静かに尋ねてくる。
甘いもの。と言われても、一概には言えないが、いわゆるポピュラーな洋菓子類は実家でよく出されていたので好きだ。と思う。
返答に迷っていると、苛ついたように栫井がテーブルを指で叩いた。俺はそれに反応するように「はい」と声を上げた。
「そうか……なら、カフェラテは?」
そう言って、栫井は手に持っていた缶を指で弄ぶ。
カフェラテ、は好きというほどでもないが、普通くらいだろう。が、下手に応えて苛つかせるわけにもいかない。質問の意図に迷いながらも、俺は「好きかな」と頷き返した。
「そうか。……なら、これやる」
今度こそ、俺は驚いた。栫井は持っていた缶を俺に渡した。
既に口は開いていて、半分くらいだろうか、中で液体が動くのが分かった。
「え……いいの?」
「俺はもういらねーから」
「あ、ありがとう……」
回し飲み、というやつか。栫井はこういうことがあまり好きなようには思えなかったが、それでも、俺にくれるというその事実が素直に嬉しかった。
「飲めよ……ぬるいかもしれないけどな」
そう、半笑いを浮かべた栫井に促され、「うん」と俺は慌ててその飲み口に唇を押し当てた。
そして、思い切って傾けた瞬間、口の中に、言い知れぬ味が広がる。ざらっと流れ込んでくる灰のような何かと、水分を含んだ棒状の紙のようなものが唇に当たり、瞬間、堪らず俺はカフェラテを吐き出していた。
「ッ、ぶ、ぅ、ぇ……ッ」
口を汚れることも構わなかった。いまはただ、口からこの『異物』を吐き出したかった。
床の上に落ちた液体の中には数本のタバコが混ざっていて、痺れるような舌の感触、こびり付き、刺すようなドギツイヤニの味に、吐き出しても、舌をこすっても、それは消えなかった。
何が起こったのか理解できず、目を白黒する俺に栫井の笑い声が響く。
呆れて、そちらを見れば、冷ややかな笑みを浮かべた栫井平佑は制服のポケットから箱を取り出し、一本、タバコを咥えた。
俺の前だというのに、隠すわけでも、当たり前のように取り出したライターで着火したやつは気分がよさそうにそれを吸い、吐き出した。
「おい、どうしたんだよ……まだ残ってるだろ。もういらないのか?」
そう、缶に目を向けた栫井は喉を鳴らして笑った。
俺は、正直、ここにいたくなかった。
分かっていたはずなのに、栫井に好かれていないと。それでも、少しでも浮かれてしまった自分が許せなくて、椅子から立ち上がろうとしたとき、腕を掴まれた。
「っ、はなし……」
「そう、つれないこというなよ。……お前とは『仲良くするように』って言われてんだよ、俺」
そう言って、栫井は咥えていたタバコを指に挟み、そして、俺の手の甲に思いっきり押し当てた。
「い、ひ……ッ」
慌てて栫井の手を振り払おうとするが、手首を掴む栫井の指は絡みついたように離れず、それどころか、執拗に火のついたそこを押し当ててくる栫井に、全身が強張る。
熱いというよりも、痛い。熱された棒が貫くようなそんな感覚に、堪らず喉奥から悲鳴が漏れた。
そんな俺を見て、栫井は笑う。このままでは、やばい。そう直感で感じた俺は、机の上のカフェラテの缶を思いっきり栫井に投げつける。
既に中身のなくなっていたそれは乾いた音を立て、栫井の頭にぶつかり、床に落ちた。その一瞬、栫井の手が緩んだのを狙って、やつの手から離れる。
「……なんで、こんな、こと……っ」
「……なんでって……お前が飲んだんだろ。俺の灰皿」
「……ッ」
「お前、それくらいしか役に立ちそうにないしな」
何を言ってるんだ、この男は。
俺のことを、人として見ていない。
それだけは明らかで、その薄暗い瞳は笑っていない。言い返す気力もなかった。
人に好かれる性格ではないと分かっていたが、何故、ここまでされなければならないのか。そんな気持ちの方が大きくて、それ以上にただやるせない。俺は、そのまま逃げ出そうとした。けれど。
「……っ、離して」
再度掴まれ、思いっきり壁に叩き付けられる。放課後、阿賀松に組み伏せられたときの痛みが蘇り、身体が竦む。
殴られる、と身構えた時。胸倉、シャツの胸元を思いっきり引っ張られ、ぎょっとした。
「や、め……ろ……ッ」
「……ふぅん……」
そう、俺の上半身に目を向けた栫井は相変わらず感情のない表情のまま呟く。
なるほどね、と笑うその口元に、俺は何がなんだか分からなかったが、大きく開かれた襟の下、阿賀松の手の跡だろうか、赤黒く浮かんだアザが目につき、ぞっとした。
「……阿賀松伊織か」
そう栫井が口にすると同時に、俺は、思いっきり栫井を突き飛ばす。
やつは少しバランスを崩しただけだったが、それでも、俺にとっては絶好のチャンスだった。
襟元を抑え、俺は、栫井から逃げ出した。
どうしてバレているのか、そんなこと考えたくもなかった。
俺はただこの男から逃げたい一心でバルコニーを後にした。
◆ ◆ ◆
最悪だ。何もかも、最悪だ。
トイレに駆け込み、口を何度も濯いだ。
ざらついた感触を思い出す度に吐きそうになるのを必死に堪え、俺は自販機で買った飲み物で感触を掻き消そうと一気に飲み干す。
消灯時間まで然程ない時間帯。学生寮内には人気がなかった。殆どの生徒はもうすでに自室に戻ってるのだろう。
……やっぱり、阿賀松のところに行こう。
あんなことがあったばかりの後だ、会いたくないが、あの写真があの男の手元にあるというだけでも耐えられない。
……正直、手足が竦んで動けない。逃げ出したかった。けれど、ここで逃げたら何も変わらない。
阿賀松伊織は、俺が芳川会長に贔屓されてると勘違いしてるからあんな真似をしたのだろう。
ならば、そんなこと事実無根だと伝えれば俺にちょっかいかけても無駄だと分かるんじゃないだろうか。
希望的観測。甘いと分かっていても、相手も同じ血が流れてる人間だと思いたかった。
俺はエレベーターを降り、ほぼ無人に近い一階をさ迷う。
この前、阿賀松伊織と会った時は……確か、ゲームセンターから出てきたところだった。
どこにいるかも分からない状況下。当てずっぽうで訪れてみれば、消灯前にも関わらず複数の人影が見えた。
ガラス張り扉から店内の様子を伺う。制服姿の派手な生徒たちが楽しげにゲームをして遊んでいるのが見えた。そこに阿賀松の姿はないが……その代わり、見覚えのあるピンク頭が見えた。安久だ。
阿賀松がいなくとも、安久に聞けば居場所が分かるかもしれない。……まともに教えてくれるかどうかはともかくだ。
扉を押し、足を踏み込む。瞬間、店内全体に響く大音量の無数のBGMに頭が割れそうになる。
薄暗い店内、まともに役目を果たしていない小さな電球の照明。同じ学園内とは思えない程の空気の悪さに、早速俺は帰りたくなっていた。
……早く済ませてさっさと帰ろう。そう辺りを歩いていたときだ。
「お前……齋藤佑樹!」
ふと、背後から声をかけられ振り向く。
薄暗い店内でもよく目立つ、白に近いピンクのその頭は間違いない。安久だ。
「何しに来たわけ? 一人でのこのここんなところにさ、もしかして、伊織さんに会いに来たの?」
「先輩は、ここにいるの?」
「本気? ……だとしても、僕が会わせると思ってるの?」
「話が……その、大切な話があるんだ……お願い、会わせてくれ」
「少し伊織さんに目を掛けてもらえたからって調子に乗らないでよ。元はお前みたいなのとは伊織さんは釣り合わない存在なの、伊織さんは忙しいんだから! お前みたいなやつに付き合ってる暇はないの!」
不愉快そうに声を荒らげる安久。
その大きな声に周りも気付き始めたようだ。「まーた始まったよ安久の阿賀松様病」と、にやついては笑い合っては止めようともせず傍観決め込む周囲。その様子からして、安久のこれはいつものことのようだ。
どうしよう、これじゃ堂々巡りだ。そう、思案したときだ。
どこからか現れた一人の生徒が空気を読まずに安久に声をかける。
眩しいくらいの金髪に、健康的に焼けた肌。垂れ目がちな双眼。いかにもチャラそうな見た目の生徒だった。
「安久、なにしてんだよ。伊織さんが呼んで……あれ、こいつって確か」
「そうだよ。伊織さんに会いに来たんだっていうんだよ」
「え? マジで? じゃあ、一応連れて行った方がいいんじゃ……」
「は? アンタバカなわけ? 馬鹿仁科 、なんでそうなるんだよ!」
「うっ、悪い……」
仁科と呼ばれた金髪の生徒は、安久の一言に酷く傷ついたような顔をする。派手な見た目の割に、繊細なのだろうか。
俺は目の前で揉める二人を横目に、そっと人混みに紛れその場を立ち去った。
どちらにせよ、この辺りに阿賀松がいるのは間違いないようだ。ここでうだうだしてても仕方ない。俺は、阿賀松の影を探した。
ゲームセンター内は学園に比べればそう広くない。阿賀松の姿を見つけるのにはそう時間が掛からなかった。
――ゲームセンター奥。
ドリンクサーバーが並んだカウンターの更に奥。ボックス席のど真ん中、腰を下ろした阿賀松伊織を見つけた。見つけたはいいが、俺は、正直後悔した。テーブルの上に並ぶ無数の空き瓶、そして阿賀松を囲むように並ぶ屈強な男達。
タバコを咥え、阿賀松はつまらなさそうな顔をしてテーブルに足を乗せて携帯端末を弄っていた。
正直、帰りたかった。何も見なかったことにして帰りたかった。
見た目からして苦手なタイプだと分かっていたが、何故こうも学園内でこんな好き勝手してるのか俺は不思議で仕方ない。
震える掌をぐっと握り締め、拳を作る。意を決し、俺は、ボックス席に近付いた。
「あの」と声を掛けるよりも先に、阿賀松がこちらを見た。阿賀松だけではない。周囲の男たちの視線が突き刺さる。阿賀松は、上機嫌だった。
「どうしたの、ユウキ君。わざわざ俺に会いにきてくれるなんて」
構える男たちを手で制し、ゆっくりとした動作で重い腰を持ち上げた阿賀松はそのまま、俺の前までやってきた。
こうして向かい合うと、やはり、デカイ。その威圧感に、先程のことを思い出し、足が竦みそうになった。
さっきまで何度もシミュレーションしてはずなのに、いざ本人を目の前にすると何も考えられなくなるのだ。
「用があるならハッキリ言ってくれないとさあ、なぁ、俺も暇じゃねーんだけど?」
「……っ、写真、消してください」
……言ってしまった。
バクバクと脈打つ心臓の音が一層煩く聞こえた。
例えるなら、処刑されるのを待つ受刑者のような緊張感。
殴られるか、はたまた怒鳴られるか、最悪また同じような目に合う可能性もある。
阿賀松の一挙一動に全神経が向かう。固唾を飲んだ、その時だった。
「いいぜ、消せばいいんだろ」
……え?
阿賀松から返ってきた言葉はあまりにも、予想外のものだった。
俺は驚きのあまりに、阿賀松の顔を見上げる。
阿賀松は優しく微笑みながら、俺に携帯端末を押し付けてきた。
「ほら、消せよ。使い方わかる?わかんねーなら教えてやるけど」
「あ、あの……っ、いいんですか?」
「消して欲しくて来たんだろ? 何をそんな不思議がってんだよ」
笑う阿賀松に嫌な予感を覚えた。
「消すわけねーだろ」と言ってたくせにこの代わりよう、もしかしてもう既にバックアップを取ってるのか。
不安になるが、阿賀松は何も言わない。にやにやと笑いながら俺を見ている。
偶然、機種が同じだったお陰で操作方法が分からないということはなかった。
データフォルダを開き、画像一覧を目にすると一番上に確かに俺の写メが表示される。
思い出したくもない、見たくもない映像記録。俺は、躊躇いなくそれを消去した。
『画像を一件削除しました』というポップアップが表示されるのとそれは同時だった。
「その代わりに、俺と付き合えよ」
耳を疑った。意味が分からなくて、思わず阿賀松を見上げる俺に阿賀松は笑いながら携帯端末を取り上げた。
「はい、決定ね」
「待っ、待ってください……! どうして俺が……っ!」
「人の話を最後まで聞かなかったのはお前だろ?」
「……でも、だからって、なんで……っ」
「うるせえな、お前は黙って頷いとけばいいんだよ」
胸ぐらを掴まれ、思いっきり引っ張られる。額と額がぶつかり、至近距離で睨み付けられ、身体の芯が震えた。
阿賀松が拳を作るのを見て、殴られる、と目を瞑ったときだった。
「……ああ、そうか ユウキ君、いじめられてたんだっけ?悪ィ、忘れてた」
そう、口にしたと同時だった。
次の瞬間、目の前が翳る。そして、唇に柔らかい感触が触れる。
キスされてる、と頭で理解したのは唇に這わされた舌が唇を割って中に入ってきたときだ。
「っ、ふ、ぐ、ぅ……んんッ」
肉厚な舌が、ピアスが、舌根ごと絡め取ってくる。
キスと呼ぶには深く、俺が知ってるそれとは違う、独善的なものだった。
引ける腰を掴まれ、抱き寄せられる。後頭部を掴まれ、角度を変えて深く貪られる。舌が擦れ合う度に腰が揺れ、口の中いっぱいに濡れた音が響いた。
あれだけ煩かったBGMも、遠く聞こえる。人の目を気にする余裕すらなかった。
「んん……ッぅ、ふ……!」
酸素ごと奪われ、朦朧とする頭の中、俺はどんどんと阿賀松の胸板を叩いた。
舌を伝い、唾液を流し込まれる。無理矢理開かれた口の中へ、アルコール混ざった唾液が口いっぱいに広がる。嫌だ
、嫌なのに、拒めない。開いた喉に直接注ぎ込まれる熱いそれに、頭の芯がぼうっと熱くなる。
それでも、現実に引き戻されたのは、ざわつく周囲の声があったからだ。舌を引き抜いた阿賀松は、「随分と呆けた顔をしてるな」と笑い、俺の口を拭った。
俺は、その手を振り払い、慌ててハンカチで口を拭った。
「な、っ、何をするんですか……ッ」
「キスくらいいいだろ? 付き合ってるんだから」
「お、俺は、付き合うなんて……」
「伊織さん、なにいってるんすか!」
俺の言葉を遮り、どこからともなく現れた安久が声を荒げ阿賀松にズカズカ詰め寄った。
その後ろには仁科と呼ばれたあのチャラ男もいた。
「伊織さんにはもっと相応しい人がいるじゃないですか、それなのに、こんな、こんな、ちんちくりんみたいな奴……ッ!!」
ちんちくりん……。あまり褒められてはいないが、安久の言葉は俺にとって助け船でもある。
安久の一言を聞いて阿賀松が、「ああそうだな。やっぱり付き合うなんてやめよう。お前つまんないし」と改心してくれるのならもっといい。
というより、そうしてくれないと困る。
けれど、阿賀松の態度はあくまでも冷え切ったものだった。
「安久、お前何様だ? つまらないかどうかは、俺が決める」
「それともなんだ、俺に意見するつもりか?」それは、見るものを凍り付かせる冷徹な目。
地を這うような低い声に、俺だけではなく安久も顔を引きつらせた。そして、萎縮する。
「すみませんでした」と泣きそうな顔をして慌てて阿賀松から離れる安久に、俺は、正直他人事ではなかった。
「ってことでユウキ君、明日からよろしくね」
そう、阿賀松はわしわしと俺の頭を撫でる。そしてそのまま携帯端末を指先で器用に玩びながら、歩き出す。その後ろを慌てて付いていく安久、そして他の生徒たち。
「……」
一人取り残された俺に、金髪の男、仁科が歩み寄ってくる。「運が悪かったな」と、一言。憐れむようなその目に、俺は何も返せなかった。
運が悪いのは今に始まったことではない。……と思っていた。けれど、これは、最悪だ。
騒がしい喧騒の中一人残された俺は、阿賀松たちの姿が完全に見えなくなるまで、その場から動けずにいた。そして阿賀松たちが出ていくのを確かめた後、急いでその場を後にする。
一階から三階へと向かうエレベーターの中。
目的は果たしたのに、釈然としない。それもそのはずだ。現状はただ悪化している。
……付き合うってなんだよ。
動き出すエレベーターの中、頭を抱えた。
もし阿賀松が「俺たち付き合ってる」なんて言い出したときには、「勝手にああいっているだけだから」と周りを説得させれば阿賀松の被害妄想だったで済まされる問題だ。
だからだろうか、俺には阿賀松が何を考えてるかわからない。
そもそも付き合うってなんだ?どこまで本気なのか?
写真はブラフで、本当の狙いはそっちだということか。ちゃんと芳川会長とのことの誤解も解けなかったし、俺はなんのためにあそこまで行ったのだ。馬鹿みたいだ。涙すら出てこなかった。
エレベーターを降り、333号室に向かう。
考えても答えがわかるはずがないのに、どうしても阿賀松のことを考えてしまう。
今日はもう、早く寝よう。きっと疲れてるんだ。
333号室前。鍵を開き、扉を開く。出ていくとき同様、阿佐美の姿は見当たらない。
俺は着替え、ベッドに飛び込み、布団に潜った。次目を覚ましたら阿賀松とのことは全部実は夢で、志摩は俺のことを迎えに来てくれて、阿佐美も学校に行ってくれる。そんな一日が待ってくれているはずだ。……そうだったらどれだけよかっただろうか。
ともだちにシェアしよう!