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02
湿気を多く含んだ、じっとりと肌に張り付くような梅雨特有の空気の中、当たり前のように時間は過ぎていく。
授業中、隣の席の志摩の視線がやけにもぞもぞしたが、それも気づかないふりをしてやり過ごした。
阿佐美はというと、今月に入って二度目の登校に他のクラスメートたちや教師は目を丸くしていたが、特に問題を起こさず大人しくしてる阿佐美を見ると何も言わずに授業を始めるのだ。
チョークの擦れる音、ノートに走るペンの音、教科書を捲る音。静まり返った教室にはそれらと教師の声のみが響く。
久し振りに集中して授業を受けることができたかもしれない。……変な緊張もあるが。
午前中の授業が全て終了し、教室のスピーカーからは昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。
座ったまま、志摩は俺の机を軽く叩いた。
「昼食、なににしようか」
それとほぼ同時に、俺の席までやってきた阿佐美は屈むように声をかけてきた。
「ゆうき君、食堂行こ」
二人の声が重なり、妙な沈黙が訪れる。
ここまでくると、もしかしたら逆に仲がいいのかもしれないなんて思えてくるレベルだ。
「え、えと……」
睨み合う二人に、俺が言葉を濁したときだ。
教室の扉がガラリと開き、そこからずば抜けて明るい声が響いた。
「おーい、佑樹ー!」
何事かと思えば、名前を呼ばれ、ぎょっとする。振り返れば、意外な二人がいた。
生徒会書記・十勝直秀と生徒会副会長・栫井平佑。
ざわつく周囲なんて気にも留めず、十勝は俺に向かって手を振り続けるのだ。
なんの組み合わせだ。生徒会絡みだろうということはわかったが、十勝はまだしも何故栫井がいるのかがわからず、戦慄する。
しかし、名前まで呼ばれて目が合ってしまえば無視できない。俺は、志摩が何が言ってくるよりも先に逃げるように通路の二人の元へ向かう。
「おっ、ようやく来たなー」
「遅い。……こっちはお前と違って暇じゃねえんだよ」
「なーに言ってんだよ、別にやることねえくせに」
「……それはお前だけだ」
俺が口を開くよりも先に勝手に揉めだす二人に益々混乱してしまいそうだ。本当に、何事だ。
「あの、一体どうしたの……?」
恐る恐る尋ねれば、思い出したかのように十勝は「あ、そーだった」と手を叩く。
「今日はさ、昼飯に誘おうかと思って」
「昼飯…? 十勝君たちと?」
「そうそう。まあ詳しい話は置いておいて、生徒会室まで来てくれたら多分分かると思うから」
「……そういうこと、不本意だが、会長がお前を連れてこいって言うからな」
「栫井、お前は毎回一言多すぎ! ……ってか、佑樹、大丈夫か? もしかしてもう先約とか入ってる感じ?」
十勝に尋ねられ、俺は教室内の志摩たちに目を向けようとしたときだ。
「入ってるよ」
伸びてきた手に、肩を掴まれる。十勝から引き離すように体を引っ張られ、ぎょっと顔を上げればすぐそこに志摩の顔があって心臓が停まるかと思った。
「……生徒会役員がぞろぞろと何事かと思いきや、それも会長命令なわけ?齋藤は、今から俺と食事の予定だから」
俺……俺たち、ではないのか。というか勝手に話を進められてるような気がしてならない。
「ちょっと、志摩」あまりにも強引な志摩に思わず口を挟もうもしたときだった、「嘘付け」と十勝が言い返す方が早かった。
「どうせ佑樹を強引に丸め込んだんだろ?悪いけど、お前との用事なら佑樹は俺らが借りていくから」
「はあ? 何を勝手なことを……」
「……面倒臭ぇな……こっちは会長命令が出てんだよ」
志摩も中々強引さで言えば負けてないと思っていたが、生徒会も面々も黙ってる性格ではないようだ。
正直、俺は会長がこうして誘ってくれること自体嬉しくもあるが、タイミングがタイミングなだけにすぐに頷くことができなかった。それと、十勝はともかく隣のこの眠たそうな男だ。
……栫井のやつ、どういうつもりなのだろうか。
阿賀松と並んで見たくない顔トップクラスの栫井だが、それは相手も同じとばかり思っていた。
恐らく腹の底では俺のことを歓迎してないに違いないのだろうが、やはり会長命令にはこいつ自身も逆らえないということだ。だからといって、こいつにホイホイついていく気にはなれない。……十勝がいるのでまだましなのだろうが。
「会長命令って、こんなことで発動させるものなの?それってさぁ、職権濫用ってやつじゃない?」
「あーもう細かいことばっかうるせぇんだよ、別に佑樹をイジメようってわけじゃねーんだよこっちは。寧ろ、助けてほしいってか……」
「……助けてほしい?」
「早い話、一緒に生徒会室でご飯食おうぜってこと。会長が今、デリバリー頼んでてさ、料理が冷える前に佑樹を誘ってこいってうるせーの。……ま、量が量だし俺的にも佑樹には来てもらいたいってこと。……これでいい?別に誰かさんみてーにやらしいこととか裏とかねーから」
主に志摩を睨みながら十勝はそんなことを口にした。
なるほど、だから俺が行かなければ料理が無駄になってしまうということか。本当にただの善意だったようだ。俺はホッとすると同時に、テキパキとデリバリーを頼む会長の姿を思い浮かべて少し嬉しくなる。
「そっちだって、どこまでが本当で嘘かわかんないくせに」
「俺、行くよ。……用意してもらってるなら、断るのも悪いし……」
「……って、齋藤」
志摩が睨んでくる。言いたいことはよくわかった。
芳川会長に近付くなって忠告したのに、という目だ。怒る気持ちはわかるが、俺からしてみれば会長を警戒する理由がわからない。……それと、会長に会って話したいことがあるのも事実だ。
昨夜からずっと考えていたこと、阿賀松との約束の件だ。
「おお! 助かったぜ、佑樹! ……けどまあ、嫌っつっても土下座してでも来てもらうつもりだったんだけどな」
「それじゃ、行こうぜ」と俺の肩をぺしっと叩いた十勝はニコニコと楽しそうに笑いながら歩き出そうとして、志摩に引き止められていた。
「それなら、俺も連れていってよ」
まさか志摩が食い下がるとは思わなかった。
「やましいことなんかなければ俺も一緒に連れていけるはずだろ」表面的な笑顔とは裏腹に、その言葉は挑発的でもある。皮肉を込めたその言葉に反応したのは、栫井だ。
「部外者は無理に決まってんだろ」
俺は、部外者ではないのか。そう言いたげな志摩の目に、言葉が詰まる。……本来ならば俺も志摩と同じ扱いを受けるのが通りであるし、実際栫井から部外者扱いされたこともあった。
けれど、今はもう。
「つーわけで、佑樹は貰ってくから」
じゃあな、と手を振り、十勝に連れて行かれるようにその場を後にした。
志摩の反応があまりにも恐ろしくて、とうとう振り返ることはできなかった。
二人に連れられてやってきた生徒会室前。
先導する十勝が扉を三回ノックし、そして「失礼しまーす」と扉を開いた。瞬間、食欲が唆られるような匂いが広がる。
生徒会室のテーブル周りには既に残りの役員たちが揃っていた。そして、そのテーブルの上に広がる料理の数々を見て慄いた。
「よく来てくれた、齋藤君」
「あの、誘っていただいてありがとうございます。……すごい量ですね」
「ああ、ちょっと数量注文ミスがあってな」
そう言いながら眼鏡を軽く上げた芳川会長は俺の横にいた十勝をじとりと見る。
十勝はと言うと下手な口笛を吹きながらそのまま逃げるようにソファーに座る。
そして、続いてソファーに腰を下ろす栫井。
一人入り口に取り残されて右往左往してると、やってきた灘に「どうぞ、空いている場所にお座りください」と声を掛けられる。
空いてる席、と言われても。
それぞれ四人掛け用のソファーがテーブル挟んで向かい合って並ぶ中、俺から見て右手のソファーには芳川会長と五味、そしてその向かい側には栫井と十勝……と先程まで灘が座ってた場所だ。年齢的に十勝側に座るべきなのだろうが、狭くなったと栫井に文句言われそうな気もする。
「どうした、こっちに座ればいい」
そう言って、会長は自分の隣端を軽く叩く。
なんとなく栫井の視線が痛いが、会長の方から誘ってくれたお陰で断る理由もない。俺は、会長の言葉に甘えてその隣にそっと移動した。
人数分のグラスをトレーに乗せた灘が、全員の目の前にグラスを置いていく。中身はお茶のようだ。「どうぞ」と差し出されるそれを俺は「ありがとう」と受け取る。
……受け取ったはいいが、グラスの置き場がないくらい色んな料理の皿で埋め尽くされてる。
「君が来てくれて本当に助かった。……いくら育ち盛りとはいえ、この人数では食べ切れないからな。まだお代わりもあるからな」
そう、近くのワゴンを指す芳川会長。そこにまだ料理が乗っているのを見て、正直これだけでお腹いっぱいになりそうだった。
戦力になるのだろうか。この量なら大食いの阿佐美を連れてきた方が良かったのではないかと思わずにはいられないが、頼られたからには頑張らなければ。
朝を軽くしかとっていないので、空腹ではある。
「まあ、この人数なら案外なんとかなるかもしれねえな」
五味は「じゃ、いただきます」と言うなり料理に箸をつける。
「どうだかな。お前にも掛かってるんだからな、五味」
「あんたに比べちゃ食えないだろうけどな」
そう言って三年が箸を取るのを確認して、各々好き勝手食いたいのを取っていく。栫井はと言うと、案の定他の役員と比べては取る量も多くはない。肉料理や味付けが濃いものを避けて食べているように見える。
対象的に五味や十勝は肉料理をガンガン取っており、灘は早速空いた皿をどんどん片付けていった。
「齋藤君、何か食べたいものはあるか。盛るぞ」
「あ、えと……大丈夫です、自分でやるので。……ありがとうございます」
「そうか、ならいい。遠慮しなくていいんだからな」
「は、はい……」
役員たちの食いっぷり(一部除く)に呆気取られていたが、指摘され、慌てて俺は近くにあったサラダを取ろうとして、伸びてきた箸に気付いた。
……栫井だ。
丁度向かい側に座っていた栫井は、同じ皿に手を伸ばした俺を睨んできて、つい俺は慌てて皿を戻した。
結局ごめんとか一言も口利くことはできなかったが、会長の前だからか栫井はそれ以上何も言わずに葉物を更に乗せてもそもそと食べ始める。
俺は栫井が手を離したのを見て、そっと取皿に寄せる。
「和真、お前片付けは後ででいいから先に食おうぜ。ほら、皿とかその辺重ねときゃいいだろ」
「……その通りだ、灘。お前のその気遣いは助かるが、料理が食えなければ本末転倒だぞ」
「……畏まりました」
グラスが空けば皆の飲み物を用意し、皿を片付けては次の料理を並べていく。ウェイターのような真似ばかりをしていた灘は会長たちに言われ、相変わらず何考えてるかわからない無表情のまま席についた。
十勝の隣に腰を下ろす灘。こうして改めて生徒会役員全員が揃って食事する姿を見るのは珍しいかもしれない。
仲が悪いわけではないのだろう。寧ろ、俺から見たら羨ましいくらい和気藹々としてるときもある。……勿論、その中心にはいつも十勝がいるような気がするが。
そうなると、やはり俺には栫井の存在が異質に思えて仕方なかった。
……栫井は、生徒会と敵対してるはずの阿賀松と繋がっている。その理由がまるでわからない。
生徒会が本当は嫌いだから?陥れるために?何かを企んでいる?
けれど、会長や五味の言葉は黙って聞き入れてる姿は不満があるように見えない。……二人に対しては栫井なりに敬意を払ってるようにすら見えるのだ。
料理を口に詰め込み、咀嚼する。美味しいのだろうが、やはり、栫井のことが気になって食事に集中できないというのが本音だ。
「齋藤君、そんなに慌てて食べなくてもいいんだぞ」
「んぐ……す、すみません……」
「佑樹佑樹、これ美味いぞ、ほら、栫井に食われる前に取っておけって」
「あ、ありがと……」
「……誰が取るかよ、お前の箸付いたのなんか」
「なんかは余計だろ! なんかは! 俺だってやだよ!」
「おい、お前ら喧嘩してんじゃねーよ、会長に怒られるぞ!」
「うぐ……ッ」
「……」
喧騒にも近い騒がしさだが、この空気は嫌いではなかった。
なんだろうか、皆がワイワイしているのを見るのは、寧ろ好きだった。楽しそう、というわけではないがなんとなく、仲がいいのだろうなというのが肌で分かるのだ。
そう考えると、やはり栫井の言っていた部外者という単語が深く突き刺さる。
……この場に不要な異物は間違いなく俺だ。
…………。
………………どれくらい経ったのだろうか。
序盤ハイペースで皿をもりもりと平らげていた十勝は中盤にはもういらないとグロッキーになり、最初から最後までペースを崩さず自分の好きなものばかりを取っていた栫井も後半は水分以外は取らなくなる。
灘はあまり食べない、というか無理をしないのだろう。それでも皆が手を付けたがらないような重いものをぺろりと平らげたりしていたのでよくわからない。
芳川会長と五味の胃は底抜けなのかもしれない、後輩たちがダウンしていく中、二人だけは最後まできっちり完食させた。……俺は、言わずもがな十勝と同じくらいのタイミングで胃の限界を察し、ちまちまと食べるのが精一杯だった。
そして全てを平らげたときだ。
「ぅおっしゃー!! 終わった終わったー! 完食ー!!」
先程までソファーに凭れてぐったりとしていた十勝は水を獲た魚のように勢いよく飛び上がり、そして宙に向かってガッツポーズをしてみせる。
その声にびっくりするが、他の役員は慣れっこらしい。顔色変えることもなく「お前早々リタイアしてたくせに」と五味と栫井にツッコまれていた。
「まーまーでも大分貢献しましたよね、俺!」
「あーそうだな、よく頑張ったよく頑張った」
「五味さん適当すぎ!」
「十勝はまだ元気があるようだな、このままデザートでも頼むか」
「ちょっ……会長冗談にしては笑えなさすぎっすよ!」
「半分本気だ」
笑いもせずそんなジョークをする芳川会長に十勝は震え上がる。……会長なら遣りかねない。多分、その場にいた皆がそう考えたのだろう。
それからは、一番最初に立ち上がった灘がテキパキと片付けをしていく。時計を確認すれば、既に大分時間が経っていることに気づいた。走って戻れば、ここから教室まで間に合うだろうか。
「……あ、あの、ごちそうさまでした。俺、そろそろ……」
そう、立ち上がろうとしたとき、俺同様ソファーから立ち上がった十勝に「まあまあ」と肩を叩かれる。
「そんじゃ、俺は先に失礼しますね。……佑樹はゆっくりしてけよ」
そう、人懐っこそうな笑みを浮かべ、十勝は俺の肩を軽く揉んでそのまま扉の方へと歩いていく。その言葉の意味がわからずに目を白黒させていると、続いて五味が立ち上がった。
「……ベルトキツイなこれ。……俺もそろそろ戻るか」
腹部を擦りながら生徒会室を後にする五味。
俺はというと、十勝の言葉が上手く飲み込めなくて、五味たち同様席を立とうとした灘に目を向けた。灘は何も言うわけでもなく、「失礼します」と軽く会釈だけして生徒会室を後にする。
あ、と思ったときにはもう遅い。生徒会室に残ったのは俺と栫井と、芳川会長だけだ。一気に静まり返った生徒会室の中、気まずいという気持ちはあったが、それ以上に襲いかかってくるのは強い眠気だ。
俺も、戻らないと。そう思って立ち上がろうとしたつもりだが、体に力が入らず、そのまま視界がぐらりと揺らぐ。倒れる、と脳が意識した瞬間、伸びてきた腕に体を抱かれた。
「大丈夫か。……齋藤君」
耳障りのいい、低い声。
すみません、ありがとうございます、とお礼をいいたいのに口が動かない。口だけではない、指先すら動かなくて、意識が、声が遠くなる。
寝不足、ではないはずだ。それなのに、こんなところで眠くなるなんて、迷惑を掛けちゃ駄目だ。そう思うのに、体が言うこと聞かない。
俺の意識はそこでぷつりと途切れた。
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