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五月六日目【恋人】
会長の部屋に行って、ベッドを借りて、それからの記憶がない。横になったと同時に泥のように眠りについてしまったようだ。
カーテンの隙間から差し込む日差しを瞼越しに感じ、その眩しさに目を覚ます。
体は鉛のように重いが、不思議と頭の中は冴え渡っていた。
会長は……いないようだ。
壁掛けの時計を見れば、まだ登校には早い時間帯だ。
……どこかに行ってるのだろうか。気にはなったが、相手は多忙な生徒会長だ。どうすることもできないが、勝手に部屋を彷徨くのも少し申し訳ない。
俺は会長が寝ていたはずのソファーへと移動し、テレビをつける。見慣れたニュース番組が流れていて、どこどこの誰かが行方不明だとが、強盗が入っただとか、そんな物騒な報道が流れていた。
それを他人事のような気持ちで眺めていると、不意にテーブルの上の物体の存在に気付く。
それは丁寧に畳まれた制服。そして、畳まれたその上に小さな紙切れがちょこんと乗っていた。
紙切れを手に取る。そこには走り書きで『洗濯しておいたから着てくれ』と書き殴られていた。
間違いなくこれは芳川会長が執筆したもので、テーブルの上の洗濯は俺のものなのだろう。
几帳面な人だと思っていたが思いの外字は崩れていて読みにくい。……すこし意外だ、なんて思いながら俺は制服を手に取った。乾燥機にかけられてそれほど時間が経っていないのかもしれない、手に取ったそれは暖かい。
制服だとか着替えの心配はなくなったが、会長、戻ってくるのだろうか。
いつか志摩たちの部屋に泊まったときの翌朝を思い出す。
あのとき待ち伏せしていた阿賀松に捕まったこと、それを考えると一人でこの部屋を出ることが怖かった。
とにかく身支度を整え、いつでも登校できるようにはしておくか。
タオルだけ借りよう……それ以外は勝手に触らないようにしないと……。そう思ってそっと洗面台を覗いてみれば、ちゃんと俺用らしいタオル一式から歯磨きセットまで用意されたケースが置かれてた。
まるでホテルみたいだ……。なんてぼんやりとした頭で考えながら、会長のまめさに感謝しつつ俺はありがたくそれをお借りすることにした。
鏡の前、ちらりと自分の顔に目を向ける。首から下の引っ掻き傷を見つけ、昨夜会長に見られたことを思い出した。たしかにそれは猫や犬に引っ掻かれたものには見えない、一本の太い傷は皮膚を破き、ミミズ腫れのようになっていた。
……これは、嫌でも目に入るな。そりゃ言われるわけだと恥ずかしくなると同時に、栫井のことが恨めしくて仕方なくなる。
あの男が何を考えてるかわからないが、少なくとも俺に嫌がらせをしたいと言うのだけは顕著に伝わる。
クソ、と口の中で吐き捨て、制服のシャツの襟で隠せないか奮闘してみる。……丸首のTシャツよりかはましだが、それでも傷があるのは一目瞭然だ。
制服に着替えて待っていると、扉が開いた。会長だ。どこかに行っていたのか、ビニール袋を手にした会長は既に着替えていた俺を見て目を丸くした。
「結構早いんだな、君は」
「あ、えと……」
「起きるのが早いな、という意味だ。ちゃんと眠れたか?」
「は、はい……ぐっすり眠っちゃって……」
「そうか、ならよかった。逆に寝れなくて目が覚めたのかと思った」
「いえ、そんなことは……!」
他人と寝ることになれてない俺自身も会長の部屋で眠るなんて恐れ多すぎて寝れないだろうなと覚悟してたくらいだ。おまけにあんなことがあったあとだ。
けれど思いの外俺の神経も図太いようだ、ぐっすり眠って途中目を覚ますことなく朝を迎えたのだから。
「それにしても……やはり目立つな」
スリッパを脱いだ会長はそのまま俺の前までやってきて、首筋に視線を落とす。やはり目立つか。
自分で確認したあとだからこそ余計、会長の目に映る自分を想像しては顔が熱くなった。
伸びてきた指先にそっと傷口を触れられそうになり、息を飲む。
「っ、ぁ……会長……?」
「痛いか?」
囁くように尋ねられ、脊髄反射で飛び上がりそうになった。
腫れたそこを薄皮一枚で撫でられ、ぴりっと痺れるような痛みが走る。
小さく頷き返せば、会長は切れ長の瞳をすっと細めさせた。
「……そのまま、少し待ってろ」
そう静かに続ける会長は、手にしていたビニール袋からガサガサと何かを取り出した。それは小箱のようだ。
箱を開き、中からそれを取り出した芳川会長はそう俺の顎を掴んだまま、無理矢理顔を固定した。
会長が何をしようとしていたのかは、その手に握られていたものを見てすぐに判断ついた。
絆創膏だ。芳川会長の手には数枚の絆創膏があった。
ピリッとなにかを破くような音がして、首筋に絆創膏を貼られる。
会長が近いだとか、そんなことを言ってられない。バクバクと騒ぎ出す心臓の音を会長に聞かれやしないか、それだけが心配だった。
首筋から覗く傷を隠すように会長は絆創膏を惜しげもなく使っていく。
確かにあのときつけられた傷をこのまま晒して人前に出るのもそれはそれで嫌なのだが、こうして芳川会長に見られるのもそれはそれでかなりの拷問に等しい。
視線のやり場を失った俺は天井にぶら下がる照明を見上げる。その顔にじわじわと熱が集まっていくのを感じた。
「……よし、終わったぞ」
どれくらい経っただろうか。その声と同時に、首に当てられていた芳川会長の手が離れる。
内心ほっとしながら顔を下げれば、すぐそばに芳川会長の顔があってビックリする。
「一応、これ、君に渡しておこう。……なるべくなら使う機会などない方がいいんだが、俺が持ってても仕方ないからな」
「あ……ありがとう……ございます」
会長から受け取った小箱は、制服の胸ポケットにしまっておくことにした。
……もしかして、会長はこれのためにわざわざ早起きして買いに行ってくれてたのだろうか。
そう思うと、申し訳なさと居たたまれなさでいっぱいいっぱいになる。
「取り敢えず制服で隠れないところだけ貼っておいたから、気になるなら自分で隠れているところも貼るのを勧めておく」
「す、すみませんでした……こんなことまでしてもらって」
「別に構わない。自分一人でするのは大変だろう。……それに、元はと言えば俺の責任だ」
後半、声がワントーン下がる会長に思わず俺は顔を上げた。そこまで気にしなくてもいいのに、と思ったが責任感の強い会長のことだ。自分の後輩がしたことに負い目を感じてるのだろう、と思ったけど会長の言葉は申し訳ないというよりも……どことなく怒りのようなものを感じて違和感を覚えたのだ。
別におかしなことでもないが、何故だろうか。胸の奥がざわつく。
それもほんの一瞬の間だ。こちらを振り返った芳川会長は、既にいつも通りだった。
「……しかしまだ七時か。HRが始まるまでまだ時間があるようだがこれからどうする?少し早いが食堂へ向かうか?」
「あ、えと……」
「とはいえ今日はなにもない。別に慌てる必要もない。……それとも少し寛ぐか」
会長の提案に頷いた。
「なら飲み物を用意しよう、少し待っててくれ」と会長はそのまま冷蔵庫前へと向かった。
……本当、会長には尽くしてもらってばっかだ。
なにか手伝えないだろうかと会長のところまで行けば、丁度ペットボトルを出していた会長がこちらに気づき、そして笑う。
「どうした? 齋藤君」
「え……えと、その……お手伝い……したくて……」
「君がそんなことをする必要はない。……俺が無理矢理連れてきたのだからな」
「……けど……」
「……と言っても君も引きそうにないな。それじゃあ、そこのグラスをテーブルまで持っていってくれ」
「……! は、はい!」
俺は会長に言われた通り、予め台所に用意されていたそれを手にし、テーブルまで戻る。
会長はというと、言葉にし難いような優しい目で俺のことを見てることに気付いて恥ずかしくなったが、迷惑がられていないのだけはわかってほっとした。
ソファーに腰を下ろし、用意したグラスに飲み物を注ぐ。会長と並んで座った俺は飲みながらニュース番組を眺めていた。先程までの殺伐とした報道から打って変わって動物園のパンダがどうたらというほのぼのした内容へとなっていたことにほっとする。
「あの、会長……制服、洗濯までしていただいてありがとうございます」
「別に構わない。……それに、ないと困るだろう」
確かにそうだけど、俺なんかのために会長がここまでしてくれることが正直未だ不思議だった。
『お前、好かれてんじゃねえの?』という阿賀松の言葉が再生され、顔が熱くなる。
……会長に限って阿賀松のようなことはないと思うが、それでも嫌な気はしないのは確かだ。寧ろ、申し訳なさはあるけど、会長みたいな人に目にかけてもらえるのは正直……嬉しい。
そのせいで厄介事に巻き込まれてるのも否めないが、あくまで会長を勝手に恨んでる連中のせいだ。
優しくて頼りになって、誰よりも生徒思いな会長を嫌うこと自体が不思議だ。
「……齋藤君、俺の顔はそんなに面白いか」
「え」
「……またじっと見てたぞ。……いい加減穴が開きそうだな」
苦笑混じり指摘され、じわじわと顔が熱くなる。恥ずかしい。俺、またやってしまったのか。
「す、すみません!」と慌てて謝るがその声すら裏返ってしまい決まらない。
「……無意識だったのか?」
「……ごめんなさい、その、考え事してて……」
「考え事? 俺の顔を見てか?」
「は、はい……その、会長はどうして俺に優しくしてくれるんだろうって……」
沈黙が気まずくて、咄嗟に本当のことを口にしてみるが言って後悔した。俺、なんかすごく気持ち悪いこと言ってないだろうか。
誤魔化そうとすればするほどボロが出てしまう。
もう会長の顔を見れない。きっと呆れられる。笑われるかもしれない。
そう覚悟して会長の言葉を待つが、やってきた言葉は想像していないものだった。
「……俺は君にとって優しいのか?」
「……へ?」
会長の言葉の意味がわからず、顔を上げる。
黒い瞳がこちらを向いていた。前髪が落ち、陰った目元、黒い目が余計黒く、深く思えて……息を呑む。
どういう意味ですか、と聞き返すよりも先に、俺はなんだか息苦しくなってとっさに目を逸してしまった。なんでだ、理由はわからないけど、なんか急に足元が覚束なくなるような不安感を覚えたのだ。
「……人に優しいと言われたのは初めてだ」
「は、初めて……?」
「ああ、『厳しい』だとか『やりすぎだ』とか、そんなことばっか言われてきたからな」
自嘲気味に笑う会長は、いつもの会長に戻っていた。
確かに、と先日の親衛隊とのことを思い出した。
退学に追い込もうとした会長は傍から見ればやりすぎなのかもしれないが、それでも当事者である俺からしてみれば俺のためにやってると思うと素直に嬉しい気持ちはある。
「……けど、その厳しさも、会長が優しいからだと……その、思うんですけど……」
「…………」
「す、すみません……変なこと言っちゃって……」
「いや、嬉しいよ。けど俺に気を遣わなくていいからな。……俺は自分で思ってるより頑固らしい、君が嫌だったら嫌だと言ってくれても構わない」
「そんなこと……ないです。俺、会長に助けられて……だからその、寧ろ俺の方こそ会長の負担になってるんじゃないかって……」
「君も、変なところで気にするな。……いや、俺達か」
小さく笑う会長に、ほっとする。少しだけ機嫌がよくなったらしい。
「けれど、その言葉を聞けて安心した。……君がいいなら、俺はいいんだ」
結局、肝心の質問には答えられていないが、それでも会長の本音を聞けたようで素直に嬉しかった。
気付けばいい時間帯になっていた。そろそろ行くか、と会長が立ち上がった矢先のことだ。
ドンドンといきなり部屋の扉が叩かれた。
「……か、会長……」
「……来たか」
来たってなんだ?誰が?
聞きたかったが、あまりにも乱暴なノックの音にびっくりしてしまって言葉を飲み込む。
芳川会長はというと暫く聞こえないフリをしてやり過ごそうとしていたが、一向に鳴り止む気配のないノックに痺れを切らしたらしい。
小さく溜め息をついた芳川会長は「ソファーの裏にでも隠れていてくれ」と短く告げ、そのまま玄関口へと向かった。
◆ ◆ ◆
教室前廊下。
灘と一緒に登校、というよりも寧ろ置いていかれないようについて行った方が適切なような気がする。
灘との間に無駄な会話はない。けれど、沈黙が苦ではなかったのは相手に悪意がないからだろうか。一緒にいて妙な安心感があるのだ。
「……あの、灘君。ありがとう、ここまでで大丈夫だから……」
教室はすぐ先だ、灘だって暇じゃないだろうにこれ以上付き合わせるわけにもいかない。そうお礼をいったときだった、こちらを振り返る灘の視線はそのまま俺の背後へと向けられた。
そのときだ。
「……齋籐」
聞こえてきた声に、背筋が凍る。恐る恐る振り返れば、そこには志摩が立っていた。俺を探し回っていたのだろうか、珍しく息は上がり、僅かにシャツが乱れていた。
「……普通さあ、いきなり連れていったりするかな。ねえ、どういうつもり?」
「素行に問題がある生徒には極力齋籐君を近付けないよう言われていますので」
「心外だな。自慢じゃないけど、俺は問題を起こしたことなんて一度もないんだけど?いくら生徒会とはいえ偏見で勝手な決め付けは良くないんじゃないの?」
「お言葉ですが、立場上貴方の評判は耳に入ってきます。処分までとはいかずとも、対人関係でよく問題を起こしていたそうですが」
「な、灘君……っ」
「……よくそんなこと言えるね、俺に失礼だとか思わないの?」
「それならば貴方の齋藤君に対する態度も礼儀が欠けているように思われますが」
冷え切った通路。一般の生徒たちは明らかに揉めてる二人に関わりたくないのだろう、通路の端へと避けるように、しかしながら耳を立ててるのがわかる。やめてくれ、二人共落ち着いてくれ。そう思うが、仲裁に入る隙すら見当たらない。
遠慮ない灘の物言いが志摩の神経を逆撫でしてるのだろう、俺が志摩の怒りを感じるほどだ。それなのに灘は顔色を変えるどころか先程と変わらないあくまでも毅然とした態度で続けるのだ。
「そいうことですので、齋籐君に関わらないようにしてください」
「な……おい……っ」
「それでは自分はこれで失礼します」
志摩を無視して、俺に会釈した灘はそのまま来た道を戻っていく。正直、驚いた。志摩相手にここまで言うなんて。
怖いもの知らずというか、マイペースというか。歯に衣を着せない人だとは思ったが、それは俺に対してだけではないようだ。
「なんなんだよ、あいつ」
「…………」
当たり前だが志摩は不機嫌だ。このまま灘を追いかけて掴みかかるんじゃないかとヒヤヒヤしていたが、校舎中に予鈴が鳴り響くと溜息をついて、そのまま教室へと入っていくのだ。
助かった、のか。後が怖いが、今はホームルームだ。俺も、他の生徒たちに遅れを取られないように慌てて教室へと入った。
◆ ◆ ◆
教室は相変わらず学園祭ムードだ。
本来ならば通常通り行われる授業は学園祭準備へと変更され、教室の中は飾り付けや迫る当日へと向けた準備で賑わっていた。
そんな教室にも、阿佐美の姿はない。部屋に戻っていないし、昨夜はどこで過ごしたのだろうか。ちゃんと寝てくれていたらいいのだけれど。
学園祭の準備が始まってから暫く経つ。
昨日に引き続き準備を手伝わせてもらえない俺は手持ち無沙汰を防ぐために自習に励んでいた。志摩はというと、何やら仕事を頼まれたらしい。数分前に教師に呼ばれて教室から出ていったのを確認していた。
そして本日何度目かのチャイムが鳴る。昼休みだ。
俺は教材を机の中に片付ける。朝もバタバタして朝食を取り損ねたお陰でお腹が減っていた。
灘から貰ったパン、食べるか。そう思いながら席を立とうとしたときだった。
「あの、齋籐君……生徒会の人が呼んでるよ」
側にやってきたクラスメートは緊張した面持ちで扉の方を向いた。言われて視線を向ければ、そこには大きく手を振る十勝と――その隣には灘がいた。慌てて立ち上がった俺は二人の元へと向かう。
「と……十勝君、灘君も」
「よ! 悪いな、いきなり」
「ううん、別にいいんだけど……どうしたの?」
「会長がさー、なんか佑樹に会いたがっててさ。でも手が離せねえからって俺達が迎えにきたってわけ」
「会長がっ?」
「おう。つか、今抜け出して大丈夫そう?」
「う、うん……それは全然いいんだけど……」
予期してなかった誘いだ。嬉しいという気持ちよりも、困惑の方が大きい。呼び出しというものにいい思い出がないからだろうが、けど二人の反応からしてきっと悪い呼び出しではないとは思う。思いたい。
「そういうことですので一緒に来てもらえますか」
「わ……わかったよ」
「まじ? よっしゃ! んじゃ行こうぜ、会長が寂しがってるかもだし。」
ほらほら~っ!と背中を押してくる十勝に転びそうになりつつ、やんわり支えてくれる灘。こんなところ志摩に見られたら怒りそうだな。そう思いかけて、思考を振り払う。……どうして俺が志摩の心情を推し量らなければならないんだ。それも、志摩はいないというのに。いけない、忘れよう。そう思考を振り払った。
部屋を出て、エレベーターで降りようとしたときだ。見覚えのある、今は見たくはないそいつがそこにいた。
「……おはよーございます」
「……っ、……」
気怠気に細められた目がこちらを向き、力なく吐き出される挨拶に思わず身構える。壁にもたれ掛かっていた栫井は姿勢を正し、俺を無視して会長の元へと向かった。
会長は、僅かに目を細めて栫井を見た。
「……どうした、こんな朝早くから」
「……会長の耳に入れておきたいことがあったんで。……今大丈夫ですか」
「ああ、構わない」
そう、栫井と会長が何かを小声で話してる。
二人共表情は変わらないが、なんとなく深刻なことを話してるような気がした。それは会長の身に纏う空気が僅かに変わったのを感じたからだ。
短いやり取りを終え、「それじゃ俺はこれで」と栫井が立ち去ろうとしたとき。
「待て」
猫背気味のその背中を呼び止める会長。
栫井の肩を掴んだ芳川会長はやつに耳打ちした。
「後から俺のところに来い、話がある」
「……わかりました」
さして驚くわけでも狼狽えるわけでもない。
会長からの呼び出しに栫井はただ頷くだけだった。そして、会長が手を離したのを見てそのまま栫井はその場をあとにした。
……嫌な予感に下腹部がずんと重くなる。
栫井は、最後まで俺の存在を視野に入れないようにしていた。
「待たせたな。それじゃ行くか」
「は、はい……」
待ったつもりはないが、そう答えるしかできなかった。
目の前にいるのはいつもの会長だ。先程までの冷たい顔をした会長とは違う、いつも見せてくれる優しい目の会長……。
昨日から会長と過ごすことになって気付いた。会長には、二人の会長がいるように思えるのだ。
普段から俺に優しくしてくれる会長と、先程栫井や櫻田に見せたような冷たい目の会長。
後者が生徒会長としての芳川会長だとわかってても、まるで別人のような雰囲気に俺はどう接したらいいのかわからなくなってしまう。
なんだか緊張状態の空気のまま、俺たちは食堂へと向かった。
そしてそこにいた先客に、俺は驚いた。
「……どうも……」
「おはよーっす会長~! と、佑樹も! おはよー!」
「お、おはよう……江古田君と十勝と……灘君も」
江古田と十勝、その二人の後ろにいた灘はこちらを一瞥し、無言で会釈した。
そのテーブル席を見て俺と同じことを考えていたらしい、会長は「珍しい組み合わせだな」と目を丸くした。
「……櫻田君がいないので一人で食べようとしたら、十勝先輩たちに捕まって……」
「んだよー! そんな言い方ねーじゃん! 江古田が一人寂しそーにしてるからせっかく一緒に飯食おうと思ったのに~!」
「……寂しそう、ですか……そんなつもりはなかったんですけど……」
まさかここで櫻田の話題が出てくるとは思わなくて、先程の会長と櫻田のキスシーンが過り緊張する。
対する芳川会長が素知らぬ顔で興味なさそうに「そうか」とだけ相槌を打つのだ。
「よかったら二人共一緒にどうっすか? 飯は大勢で食ったほうが楽しいですよ! 絶対!」
「……十勝、いつも思うがお前は強引すぎだ。少しは齋藤君のペースに合わせろ」
「お、俺は……全然大丈夫です! ……その、俺も、賑やかな方が好きなので……」
ちょっと嘘をついたかもしれない。
本当は距離をガンガン詰めてくる十勝にどう接したらいいのかわからなくなってしまうときがあるが、今は会長と二人きりになるよりは大勢といたいと思ったのだ。
そんな俺の本心なんて知らないだろう、十勝は目をキラキラさせる。
「佑樹~~!! わかってんじゃん! ほら、佑樹は俺の隣来いよ! ここ、ここ!」
「全くお前は……。齋藤君、すまないな」
「いえ、寧ろありがたいです……」
「……そうか、ならいいが」
十勝の言葉に甘えて、俺は十勝の隣の椅子に腰を掛ける。
このメンツで盛り上がるのだろうかと些か疑問だったが、やはり十勝がいるだけで不思議と会話は途切れない。
主に十勝と話してるとあっという間に食事が終わる。
俺が食べ終わったのを見て、会長は立ち上がった。
「それじゃあ俺達は先に失礼する」
「え、早くねーっすか」
「遅刻するだろ。江古田君も、あまりこいつに付き合ってると遅刻するからほどほどのところで切り捨てておけ」
「……わかり、ました……」
「ちょっ、会長も江古田もひでー!! 俺の味方はもう和真しかいねえのか?!」
「十勝君、デザートが残ってますよ」
「うおー!! 食う!!」
相変わらず十勝は十勝のようだ。デザートを食べながら「またなー」と手を振ってくる十勝に軽く手を振り返し、俺と会長は食堂を後にした。
「やれやれ……騒がしいやつだな」
「あはは……」
食堂を出て、呆れたように口にする会長につられて俺は笑う。
そんな賑やかさに救われてるところもあるのかもしれない。少なくとも俺はそうだった。
学園、昇降口前。
靴を履き替えたとき、不意にどこからか 視線を感じた。
立ち止まり、辺りを見渡す。各々教室へと向かう生徒たちで溢れたそこで視線の持ち主を探すのは難儀の技だった。
「どうした、齋藤君」
「いえ……すみません、大丈夫です」
……そもそも、目立つ会長といるのだからその一つや二つがこちらを向くのもおかしな話ではない。
自意識過剰なのか、それでも前回のこともあるから余計過敏になっているのか。
……やっぱり、目立つんだろうな。悪い意味で。
思いながら、俺は階段前で待っていた会長の元へと向かう。
そのときだ、一人の教師がこちらへと歩み寄ってきた。
「芳川君、少しいいですか。次回の朝礼のことで話があるんですけど……」
「……わかりました、すぐに行きます」
どうやら生徒会の用事のようだ。それじゃ頼みます、とペコリと頭を下げて立ち去る教師を見送ったあと、会長は何もなかったかのようにこちらを向いた。
「それじゃあ、行くか」
「え、あの……いいんですか?」
「なに、君を送ってからでも構わないだろう」
「い、いえ! 急ぎみたいでしたし、行った方が……。あ、あの俺なら教室から離れてませんし、一人で大丈夫です」
「……そうか?」
俺のせいで肝心な生徒会の仕事まで支障来すことになるのは流石に申し訳ない。
大丈夫です、と念を押すように何度も頷けば、やはり不服そうだが会長は渋々といった調子で頷いてくれた。
「わかった。……すまないな、気を使わせて」
「いえ、俺は十分会長によくしてもらったので」
「……齋藤君」
伸びてきた大きな手に、くしゃりと頭を撫でられる。
見た目よりも分厚い掌に少し驚きながらも、子供扱いされてるみたいで恥ずかしくなってうつむいた。
「……何かあればすぐに俺を呼べ」
そう、一言。耳元で言い残した会長は、そのまま教師の元へと向かった。
離れる掌の感触が名残惜しく感じるなんて、変なのだろうか。
一人残された俺は、会長の姿が見えなくなったのを確認してその場を離れることにした。
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