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04
生殺しの上に、口の中はイカ臭い。
栫井はというと他人の体で暇潰しをしてスッキリしたようだ。相変わらず涼しい顔して座ってる。俺はというと、まだ熱の残った体を鎮めることで精一杯だった。
会長の言うとおり、灘は十分後ぐらいにやってきた。
三回のノック音後、入ってくる灘を見て俺はちゃんと自分が普通の顔を出来てるか、そのことだけが気がかりで……気が気ではない。
栫井を一瞥し、灘はソファーから動かない俺の元へとやってくる。その腕には紙袋と、そして見覚えのある鞄が抱えられていた。
「こちら、齋藤君の鞄です」
「っ、ぁ、ありがとう……」
どんな顔をして受け取ればいいのだろうか。
先程まで異物が突っ込まれていた尻の穴がムズムズして仕方ない。射精しきれず不完全燃焼のままの前も、少しでも動けば暴発しそうな気がして怖くて、最小限の動きで俺は灘から鞄を受け取った。中にはちゃんとノートや教科書も入ったままだ。
……そうだ、俺、昼休みに会長たちのところに行くと言ってからそのままサボってしまったんだった。
志摩と阿佐美の顔が浮かぶ。阿佐美はともかく、志摩は怒ってるだろうな。そう思うと、気が晴れない。
ふいに、灘の視線を感じた。
「な、何……?」
なんか、変なところでもあったのだろうかとドキドキしながら聞き返せば、灘は相変わらずのポーカーフェイスのまま、自分の首筋を指先で叩いた。
つられて、灘が叩く箇所に触れる。
「痕がついてます」
そう、俺にだけ聞こえる声量で告げる灘に、俺は、栫井とのあれこれを思い出し、瞬間、全身の血液が熱くなる。
固まる俺。灘はそれ以上言及することなく、栫井の方へと向かった。
灘に、気付かれた?嘘だろ。
血の気が引いたが、灘は特に反応するわけでもなくいつも通りの無表情だ。……それだけが救いだったが、それでも、俺からしてみれば生きた心地はしない。それとも栫井のことだから別段おかしくないということか?どちらにせよ、堪ったものではない。
「……本気か?」
不意に、栫井の声が響く。生徒会室の隅で灘となにやら話していた栫井だったが、その表情からしてあまりよくない話のようだ。
「そういうことでしたので、念の為食事は俺の方で用意させていただきました」
「……それはどうでもいいけど、会長は、本気でそんなこと言ってるのか」
「会長から聞いてないんですか」
「……さっきは、別に何も……」
僅かに狼狽える栫井に、灘は「そうですか」とだけ答える。二人共表情が乏しい淡白なタイプだとは思っていたが、こうしてみると灘の表情のなさに比べるとまだ栫井の方がわかり易い。……灘は、本当に手応えがないというか、掴みどころがないというか、機械を相手にしてるようなそんな気すらしてくるのだ。
不意に、灘と目があった。やばい、と慌てて顔を逸した時にはもう遅い。こちらへと歩み寄ってきた灘は、持っていた紙袋をテーブルの上に置く。
「会長から、君の食事を用意するようにと言われました。……自分の主観で選ばせていただきましたが、苦手なものがあればお申し付け下さい」
何を言われるのかと身構えていた俺の横、長身の体を屈むように膝ついた灘はそう言って紙袋の中から色々取り出した。
サンドイッチから始まってありとあらゆる惣菜パンが並べられていく。
中から次々と取り出されるのは売店で売られてるパンたちだ。
「……こ、こんなに……」
「……入りそうになければ自分もいただきますので、好きなものをどうぞ」
「あ、ありがとう……」
食事か。気付かないうちにもうそんなに時間が経っているということに驚きを隠せない。
……それにしても、志摩曰く人気だと謳われるパンばかりだ。こんなに貰っていいのだろうか。気が引けたし、何より先程まで物理的に腹いっぱいだったせいか、あまり食欲はなかった。
なかなか手をつけない俺を急かすことなく、「いえ」とだけ短く答えれば、灘は立ち上がって袋を片付ける。
栫井が、向かい側のソファーに腰を下ろした。そして、苛立たしげに溜息を吐き、制服から何かを取り出そうとする仕草をしたが、灘の方を一瞥し……やめた。
「……これから、あんたには会長のところへ行ってもらうことになった」
「……え?」
「今日は、会長の部屋に泊まれってことだよ。……アンタの部屋に、阿賀松たちが来てるらしい」
息を吐くように告げる栫井の言葉に、思わず、あ、と声を上げた。
……完全に、忘れていた。
今朝、安久に『放課後は空けておけ』と言われていたんだった。血の気が引き、思わず立ち上がろうとすれば下腹部に鈍痛が走る。
けれど、今なり振り構っていられなかった。部屋には、阿佐美もいるのだ。
そのまま部屋から出ていこうとすれば、栫井に肩を掴まれ、引き止められる。食い込む指の感触に、場違いな緊張を覚えた。
「アンタさぁ……バカか?なんのためにわざわざここに置いてたと思ってんだよ」
「そんなこと言われても……」
「このまま会長のところへ向かう」
「準備しろ」と、短く栫井は告げた。
拒否権はない。逆らうことも、できなかった。阿賀松たちに鉢合わせになるよりかはましだとわかったが、会長に迷惑を掛けてしまうことになるのは気掛かりだ。
そして、学生寮四階。
俺の部屋があるフロアの一つ上の階は三年生の部屋が集まるフロアになっている。
ここに来たのは、阿賀松の部屋に連れて行かれたとき以来だ。
無条件に緊張したが、栫井が歩いていく先は以前阿賀松に連れられて行った方角とは違う。
廊下にいた三年生たちは栫井が歩くのを見て、視線を向ける。
それは俺が普段向ける奇異の目とは違う、別の熱を孕んでいることに気付いた。……生徒会はモテると聞いたが、それもそれで考えものなのかもしれない。色めきだつ周囲に別段反応することもなく、寧ろ興味ない顔で通り抜けていく栫井に続いて俺はその通路を通り抜けた。
芳川会長の部屋がある場所は、フロアの最奥だ。ラウンジ横、扉の前に立った栫井は三階扉をノックした。そして、それに応えるように鍵が解錠され、ゆっくりと扉が開いた。現れたのは、私服に着替えた会長だ。
「……ご苦労だったな、栫井。ここまでで結構だ」
「齋藤君、君は……入ってくれ」そう静かに続ける会長に、栫井は少し緊張してるみたいだった。「失礼します」とだけ頭を下げ、その場を離れる。
残された俺も、会長に促されるまま、恐る恐る会長の部屋へと足を踏み入れた。
念の為口を濯いだりとかはしたのだが……匂いとか、大丈夫だろうか。不安になりながらも、ここまできたからにはもう遅い。スリッパに履き替えさせられる。
会長の部屋は、無駄がない。最低限の家具しかなく、まず印象としては片付いていると思った。
同室者の阿佐美が物をごちゃごちゃ置くタイプだから余計そう感じるのかもしれない。
装飾品の一つもなく、簡易本棚には参考書や、見てるだけで頭が痛くなるような小難しい本が並んでいる。
阿賀松と同じ一人部屋、というやつだろう。
この広い空間で芳川会長が生活してると思うと、今になって緊張してくる。少しでも生活スペースを見出したくなくて固まる俺に、会長は「どうした?空いてるところに座るといい」と何気なく声を掛けてくれる。
「……あ、すみません……じゃあ、失礼します……」
「ああ、自室だと思って寛いでくれ。君が来るとなればと慌てて片付けたんだが……どうもなかなか上手く行かなくてな」
「えっ、そ、そんな……すみません」
「俺が気になっただけだ。……あまり普段部屋に他人を入れることがないからな、こんなことで君からの印象を悪くするような真似はしたくなかったんだ」
リビングのソファーに腰を下ろす。
ローテーブルの上には会長が先程まで飲んでいたコーヒーカップが置いてあり、その傍らには校内新聞のような束が置かれてる。どうやらまだ発行前の分のようだ。
付箋が複数貼られたそれを見てると、会長がジュースが入ったグラスを用意してくれた。
「すみません、ありがとうございます」と受け取れば、会長は「ああ」とだけ笑い、そして隣に腰を下ろした。
二人がけのソファーなのだから当たり前のように距離は近くなるが、膝が会長にぶつからないように縮み込みながら俺はそっと鞄を足元に置いた。そして、グラスに手を伸ばす。色からしてオレンジジュースだろう。
「……今日は一日振り回してしまった悪かったな。急なことばかりで大変だっただろう」
「い、いえ……俺は……全然」
寧ろ、振り回されたことよりも待っている間の方が大変だったです、とは言えない。
「そうか」と不思議そうな顔をしながらも、会長は少しだけほっとしたように息を吐いた。
「……今朝、君と御手洗の話を聞いてからどうも気になってな、君には悪いが……放課後まで身柄を確保させていただいた。手荒な真似をして済まないと思うが、こうする方が早いと思ってな」
「……身柄を確保?」
「ああ、君の飲み物に睡眠薬を仕込ませてもらった」
俺は、飲みかけていたオレンジジュースを噴き出しそうになる。
硬直する俺に、会長はなんの気なしに「ああ、それには入っていないから問題ない」なんて言ってみせた。
……確かに、言われてみれば昼休み、食後急な睡魔に襲われたのを覚えてる。まさか、あれは会長が仕組んだものだったのか。そして、十勝たちの口ぶりからしてそれは皆知ってたということなのか。
ぐるぐると思考が回りだす。それって、どうなんだ。そう思わずにはいられないが、あまりにも悪びれない会長に、俺のことを助けてくれるためだったのなら……いいのだろうか?なんて、絆されそうになるのだ。
「話には聞いていると思うが、今晩は悪いがここで寝泊まりをしてくれ。……君の寝巻きも用意している。……俺がいると落ち着かないのなら夜間はラウンジで過ごしても構わない」
そう、考え込む俺の横、会長は淡々と続けた。
ここは会長の部屋だ。寧ろ、会長が俺をラウンジに放り投げてもいい立場のはずなのに、あまりにも丁重過ぎる扱いにこっちが狼狽える番だった。
「い、いえ、そんな!寧ろ、俺は全然……」
「大丈夫そうか?」
優しい声で尋ねられ、俺はつい何度も頷き返す。
寧ろ、会長がいてくれた方が心強い。……睡眠薬を盛るというとんでもないことをする人だが、それも俺のことを心配しての行動だと思うと……あまり悪く思えなかった。
「それなら良かった。……そうだ、灘に夜食を頼んでいたのだが、どうだった?」
問い掛けられ、ハッとする。そうだ、あのとき結局受け取ったいいがバタバタしてしまって食わず仕舞いになっていたんだった。
「すみません、あの、実はまだ食べれてなくて……灘君から受け取ってはいたんですが……」
「そうだったのか。なら、好きなときに食べればいい。なんなら、君が食べたいものを用意してくるが」
「い……いえ、大丈夫です」
「まあ、時間はまだある。俺は遅くまで起きているからいつでも声を掛けてくれ。風呂も湯船を張っているから好きなタイミングで入ればいい」
いたせりつくせりとはこのことを言うのではないだろうかと思う。俺が変な気遣いせずに済むように先手を売ってきてくれてるのだろうが、余計、肩身が狭い。本当に俺はこの人にこんなに優しくしてもらえていい立場なのだろうかと、不安になってくる。
会長は優しい。けれどその優しさは俺の身に余りすぎたもののように思えて仕方ないのだ。
「……それじゃあ、俺は少し部屋を出てくる。一応施錠はしておくが、すぐに戻ってくる」
「あ、わかりました……」
どこに行くのだろうか、と気になったがそんなことを聞ける立場でもない。会長は「寝間着なら脱衣所の方に置いてるから使ってくれ」とだけ言い残し、部屋を後にした。
閉まる扉。外側からロックがかかるのを確認して、俺は深く息を吐いた。
緊張がようやく解けたような気がする。会長のことは苦手ではないし、寧ろ、尊敬してる。けれど、そんな会長の部屋で寝泊まりをするとなればまた別の問題だ。
志摩の部屋に泊まったときとは違う、わくわく感よりも嫌なところを見せてしまわないかの不安と緊張の方が大きい。
会長の行為は素直に有り難いが、阿賀松の反応が気がかりだった。
芳川会長と付き合うなんて、考えられない。そもそも、会長が俺のことを好きになると考える方が畏れ多い。そもそも、栫井が何を考えてるのかもわからないし、志摩の反応を考えるだけでも胃が痛い。……一人になれば落ち着くどころか悪い考えばかりが脳を支配してしまう。
思考を振り払い、俺は、お風呂が冷めない前に風呂を借りることにした。
……勝手に借りていいのかも迷ったが、いち早く体をきちんと洗い流したいというのが本音だ。……他人の、それも会長の部屋のお風呂でそれをするのは気が引けるが、背に腹は変えられない。
浴室も、無駄なものがない。会長は片付けたと言っていたが、普段の会長からしてあまり物をごちゃごちゃ使うような人とは思えない。
会長の言った通り、棚のところには寝間着と下着一式が新品未開封のまま置かれていた。タオルまで買ってきてくれたらしい。……後で会長にちゃんとお礼を言わなければ。まさか、いきなりの泊まりだというのにここまでしてもらえるとは思わなかった。
俺はそれを先に開け、風呂上がりすぐに使える状態にしておく。
そろっと服を脱ぎ、俺は用意された洗濯かごに衣類をまとめて入れた。そして、浴室へと続く扉を開く。
溢れ出すむわっとした蒸気が全身に纏わりつく。……会長が戻ってくる前に風呂を済ませたかった。あまり、他人の部屋で脱ぐということをしたくなかったのだ。
汗を流し、栫井に触れられた四肢をそっと拭う。指の痕がくっきりと残ってる。鏡を見れば、確かに灘の言う通り、そこには赤い痕が残っていた。シャツをきちんと留めておけば見えない位置だが、寝間着は丸首だ。会長に気付かれないようにしないと。そうは思うが、どうすればいいだろうか。
髪を洗いながら、考える。……灘が目が良すぎるだけで、そんなに目立たないはずだ。そっと首筋をぬぐえば、その痕は微かに薄くなったような……気がした。間違いなく錯覚だろうが、目の悪い人なら影と間違える程度ではないだろうか。
……けれど、万が一のことがある。後で首元を隠せそうなものがないか探してみよう。
浴槽に浸かりながら、俺は考そんなことばかりを考えてしまう。
考え事をしていると無駄に長風呂になってしまうのだ。悪い癖だ。俺は、なるべく余計なことは考えないようにして体を洗うことだけに専念した。
風呂を上がり、用意されていたタオルで濡れた頭をわしわしと拭っていると、玄関口で扉が開く音がした。会長が戻ってきたようだ。
少しぎくりとしたが、会長は脱衣室へくることはなかった。遠ざかる足音にほっとしながら、俺は慌てて服に着替える。どれもサイズがピッタリのものばかりで、正直驚いた。
取り敢えずキスマークはそれほど目立たないはずだ。タオルを首に掛けとけば、ごまかせるだろうか。なんて、鏡をちらりと見たときだ。
扉がノックされ、飛び上がりそうになった。
『齋藤君、上がったのか』
「は、はい! 今、上がりました……!」
『そうか。洗面台の横にドライヤーがあるからそれを使って乾かすといい』
「あ、ありがとうございます……」
扉の外、会長は『ああ』とだけ答え、離れる気配があった。……正直、油断してただけにすごく焦った。
会長の言う通り、洗面台の横にはドライヤーが掛かっている。それを手に取り、言葉に甘えることにした。
髪をざっと乾かし、タオルを片手に風呂を上がる。
リビングには会長がいて、テレビもついていない無音の部屋の中で何やら書類を見ていた。
「あの……お風呂ありがとうございました」
声を掛けていいものか迷ったが、やはりお礼は言わなければ。そう思い、恐る恐るその背中に声を掛ければ、会長は書類から顔を上げ、こちらを向いた。
「ああ、温度は大丈夫だったか?」
「はい、丁度良かったです。……あの、パジャマも……すごいピッタリでした、ありがとうございます、ここまで用意してもらって」
「良いんだ、俺が好きでやってることだからな。……そうか、丁度良かったなら安心した。君の趣味や、どういうものを着てるのかとか……そういうのが見当つかなかったものでな、とにかく無難なものを選んだんだ」
ソファーから立ち上がった会長が目の前までやってくる。こうして向かい合うと、高い位置にある顔や、制服を着ているときは気付かなかった見た目よりもがっしりとした体格とかに少し、気圧されそうになった。ブレザーを着ているときは、線が細く見えたが薄着をしていると骨格は俺よりもいい。
「よかった」と、寝間着の俺を見て、会長は笑う。普段はクールな会長だからだろうか、こうして微笑みかけられると、胸の奥がじわりと熱くなる。
「あ、の……」
何か、色々お礼とか、もっとちゃんと言わなきゃいけない。そう思うのに、こうして会長を前にすると何も言えなくなる。
阿賀松が妙なことを言ったせいもあるだろう。会長をそういう目で見てはいけないとわかってても、先程まで中途半端に掻き立てられた体が思考が無条件に反応してしまいそうになるのだ。
こんなに至近距離で見られたら、色々気付かれてしまいそうで、怖かった。俺は「あは、は」と笑って誤魔化しながら一歩後退る。
そのとき、レンズ越し、会長の目が俺の首筋に向いた。
あ、やば、と思ったときにはもう遅い。
「ここ、虫刺されか? ……引っ掻き傷になってるな」
するりと伸びてきた手に首筋を撫でられた瞬間、飛び上がりそうになった。
「あっ、こ、これは……その……痒くて、掻いちゃって……」
「そうだな、そろそろ夏に掛けて虫が増える頃か。……掻くと痕になる。塗り薬でも用意しておくか」
「い、いえ、そこまでは……」
一時はどうなるかとヒヤヒヤしたが、なんとか誤魔化せたようだ。ヘラヘラ笑いながら首筋を抑え、会長から逃げようとしたときだ。首筋に伸ばした手首を取られる。
何事かと顔を上げれば、今度は、先程までとは違う。険しい顔をした会長がいた。
「……っ、えと、あの……?」
「……これ、どうしたんだ?」
手首、その周囲をなぞられ、つられて目を向けた俺は、ぎょっとする。赤く擦れたような痕が残ったそれには、覚えがあった。栫井に手首を縛られたときだ。
長袖の時は気にしなかったが、風呂上がりで引いていた熱が戻ったのかもしれない。赤みを帯びたそこを見た会長は、俺が答えるよりも先にもう片方の手首を掴んだ。
「……今日はまだ阿賀松伊織とは会っていないはずだろう?」
怒鳴られてるわけではない。静かな口調で問い詰められてるのにも関わらず、そのプレッシャーに嫌な汗が滲む。心臓が、鼓動が、加速する。
「っ、これ、は……その……」
「この位置からして、まるで両手首を縛られたような痕だな。……それも、太いもので」
「……ッ」
「……誰にされた?」
落ち着いた声。聞き慣れていたはずのその声なのに、酷く冷たく響く。握り締められた手が震える。会長の顔を見るのが怖くて、俺は、足元を見詰めたまま動けなくなった。
「……昼間は、こんな痕はなかったはずだが……あの後生徒会室を出入りしたやつと言えば……灘か、栫井しかいないはずだが」
栫井の名前を口に出された瞬間、体が、震える。
本来ならばわからないくらいの機微だが、俺に触れていた会長はそれを見逃さなかった。
「栫井か」
「……っ、あの、これは、俺が逃げようとしたから……それで……あいつがしただけで……」
なんで、俺は、栫井を庇っているのだろうか。
自分でも、理解できなかった。あいつのせいで禄な目に遭わなかったと言えば、助けを求めればいいのに。
それができなかったのは、見たことのない会長の顔が恐ろしかったからだ。
これでは、白状してるようなものだ。どうすればいいのかわからなくて、ただじっとこちらを観察するように見ていた会長だったが、やがて、俺に手を伸ばした。殴られるのだろうかと思わず身構えたが、想像していた痛みは来ない。
それどころか、ふわりと優しく触れる掌の感触に驚いて、思わず目を見開いた。
「……悪かった、怖い思いをさせただろう」
「……っ、かい、ちょ……」
「あいつには俺から言っておく。……これは俺の監督不行届だ。謝ってどうにかなる問題ではないが、すまなかった、痛かっただろう」
手を重ねられる。冷たく、ゴツゴツとした掌に包み込まれ、心臓が跳ね上がりそうだった。
慈しむように手首を撫でられ、呼吸が浅くなる。「すまなかった」と耳元で囁かれるだけで、何も考えられなくなるのだ。近い、とか、そんなこと言ってる段ではなかった。
「俺は……だいじょ、うぶなので……あの……本当に、全然……気にしてないので……」
声が震える。触れられた箇所が焼けるように甘くうずき、心臓が時限爆弾みたいに早鐘打ち、顔が熱くなる。俺は、会長から離れるように後退れば、会長は俺を引き止めるようなことはしなかった。
「……本当に悪かった。……そのままでは明日の朝、支障が出るだろう。……少し待っててくれ、傷薬を用意してくる」
「っ、あ……」
そこまでしなくても大丈夫です、という俺の言葉は届かなかった。会長は再び部屋を後にし、施錠の音だけが響く。
会長がいなくなったあとも鼓動は暫く収まらなかった。
バレたときはどうなるかと思ったが、あのときのあの目、あの空気……正直、怖かった。
生徒会の役員たちも会長にだけは一目置いているようだったが、確かにあの目で睨まれれば俺も縮み上がるだろう。
普段優しい顔ばかり見てきただけに余計、会長が知らない人のように見えてしまったのだ。
けれど、あまり言及されずに済んで良かった。根掘り葉掘り聞かれればボロが出てしまいそうで怖かった。
会長は暫くして戻ってきた。
本当にわざわざ薬を用意しに行っててくれたらしい。
会長は俺の手首の手当をしてくれた。薬を塗って、ガーゼのようなもので抑え、テープで止める。その上から包帯を巻かれそうになったときは流石に大袈裟ではないかと思ったが、会長が「化膿したときが一番怖いんだ」と口を酸っぱくして言ってくるのでもう会長に任せることにした。
「これで大丈夫だろう。……一応替えも渡しておく。一人で出来なさそうなら俺を呼んでくれて構わない」
「すみません、何から何まで……」
「構わない。……君が苦しむよりかはましだ」
さらりとこういうことを言うのだ。俺が女の子だったら多分、こういう会長の発言にうっかり惚れてしまうんじゃないかと思う。
男の俺でさえ、本当に愛されてるかのような錯覚を覚えるくらいなのだから、そのつもりがない会長の天然っぷりも末恐ろしい。
会長の部屋で灘から貰ったパンを食べる。時間が経っていたのでどうかなと思ったが、杞憂だった。時間が経っていても問題なく食べられるものを用意してくれたのだろうか。
会長とは、それから他愛ない話をした。
学年も違う俺と会長の共通点となると、やはりこの学園のことになる。学校は慣れたのかとか、学校行事のことだったりとかの話題に偏るが、俺としては知らないことばかりのこの学園のことが色々聞けて嬉しかった。
時折、俺自身のことを聞かれることもあったが、あまり話せるようなことは少ない。
「会長って、その、付き合ってる、人とか……いるんですか?」
どれくらい経った頃だろうか。俺は、そんな疑問を会長に投げ掛けていた。
会長と話してて、ずっと気になっていた。別に、阿賀松に言われたことも関係ないとは言い切れないが、純粋な興味だった。
色恋沙汰には興味なさそうな会長ではあるが、志摩から聞いた情報によるとやはり同性からも人気という。……正直、同性云々以前に異性からも好かれるだろうというイメージはあった。
会長はというと、俺にそんなことを聞かれるとは思ってもいなかったようだ。目を丸くさせ、そして、ここにきて初めて会長は言葉に詰まる。
「……付き合ってる、というのはその、恋人関係の相手がいるのかってこと……か?」
「あ、は、はい……すみません、変な意味じゃなくて、その、気になって……」
少なからず、会長に恋人がいてくれれば、阿賀松の命令を断る理由にもなるのだ。それ以上に、会長にここまで良くしてもらえると恋人に対しても悪い気持ちになるのもあるが、本音、好奇心の方が強かった。
会長は眉間を揉み、そして、困ったように息を吐く。
「……俺が十勝のようなタイプに見えるか」
「そ、そういうわけじゃないんですけど……その……優しいので、色んな人に好かれそうだなって思って……」
「俺が優しいか。……先日、五味には過保護過ぎないかと小言言われたばかりなのだがな」
「……っ、それは……」
確かに、という言葉を飲み込む。
「恋人はいない。……君は俺を買い被りすぎだぞ、寧ろ、『お前とだけは付き合いたくない』と言われたこともあるくらいだからな」
「ええ……っ! そ、それはまた……」
「俺よりも君の方が好かれるんじゃないか?」
「う……いや、はは、そんなこと……全然……」
世間一般から見た会長と俺の見てる会長は別なのだろうか。そんな風にいう人がいることに驚いたが、確かに生徒会長としての芳川会長は他人に隙きを見せないような人だ。……恋人に甘い顔してる姿なんて想像できないかもしれない。
「それじゃあ、好きな人……とかは……」
「……どうした、今夜の齋藤君は随分と俺の話を聞きたがるな。そんなに俺のことが知りたいのか?」
「っえ、いや、す、すみません……!」
あまりにも踏み込み過ぎたかと思い、「やっぱり大丈夫です」と慌てて撤回しようとしたとき、会長は少しだけ泳がせ、口元に触れる。
「君がどういう意味で言ってるのかわからないが……そういった意味での好きな相手なら、いないな」
会長に好きな人がいるのなら、そう阿賀松に言えばいい。そう思っていた。俺には脈無しだと言えば阿賀松も流石に諦めるだろう。そう思っていたのに、そう、こちらを見る芳川会長の言葉に、俺は頭の中で考えていたあれこれが吹き飛ぶのを感じた。
好きな人がいない。ここは男子校だ、出会いが早々ないのもあるが、それでも、そうハッキリと口にする会長に胸の奥がざわつくのだ。なんだろうか、なんだか、モヤモヤする。よくわからない。
「……人にばかり聞いているが、そう言う君はどうなんだ」
「……へ」
「いないのか? ……そういった相手は」
確かに、俺が変なことを言い出したのが悪かった。
まさか、相手にこう聞かれることがここまで心臓に悪いものだと思わなかったのだ。
隣り合って座るソファー。背もたれに腕を回した会長に尋ねられ、汗が滲む。空気が、やけに甘ったるい。飲んでいたオレンジジュースのせいなのかわからないが、こちらを見る会長の目線が絡みつくみたいで、身動きが取れなかった。
「……わ、わからない……です」
「わからないだと?」
「そういう風に、人を意識したこと……あまりなかったので、よく……わからなくて……」
誤魔化すようにオレンジジュースを喉奥へと流し込む。なんだか、肌に絡みつくようなこの空気が嫌で、苦手で、飲み込まれてしまいそうで、じっとしていられなかった。
「……そうか、そうだな。俺も似たようなものだ。……そういった類は不得意分野でな」
会長は、新しく注ぎ直した水を流し込んだ。
多分、俺にはよくわからないが、これが俗にいういい雰囲気というやつなのか、わからない。誰かわかる人がいたら教えてもらいたい。
嫌な思考がよぎる。ここで、俺が今会長に『付き合って下さい』と言えば、どうなるのだろうか。阿賀松の命令は遂行したことになるのだろうか。
会長は少なからず俺のことを考えてくれてるはずではないのだろうか。甘やかされたせいでズブズブになった思考までも甘くなってしまう。
「っ、あの……俺……」
会長のことが好きです。そう、一言言えば全て片付く、そんな気がして、俺は会長の方を見た。
至近距離、視線がぶつかり合い、息が止まった。
「……どうした?」
鼓膜に染み込むような、低く、優しい声に、現実に引き戻された。
俺はいま何を言おうとした。自分で、血の気が引く。
自惚れも大概だ。会長が、俺を相手にしてくれるはずがない。何を考えてるんだこの脳味噌は。顔が熱くなり、俺は慌ててソファーから立ち上がる。「すみません、お手洗い借ります」と一言、それだけを残して俺はトイレへと逃げ込んだ。
会長が、怖い。会長といると、どんな失礼な発言でも許してもらえそうな気がして怖い。
甘えてはいけない。阿賀松に毒されている。そんなことしたら、会長にだって迷惑が掛かってしまうというのに、俺は。
個室に逃げ込んだ俺は、深く溜息を吐き、その場にズルズルと座り込んだ。
……わからない、わからない。自分がこの学園に毒されていってるのが怖い。俺は、普通に恋愛をして、普通に幸せになりたいだけなのに。自分から道を踏み外そうとしてる気がしてならない。
今更軌道修正は難しいと言われようが、それを夢見てここまで来たのに。
下腹部の疼きを必死に落ち着かせ、深呼吸を繰り返す。俺は全身の火照りが取れるまで部屋に戻ることができなかった。
トイレから戻ると、会長がシーツを広げていたところだった。
「随分と遅かったが、腹の調子でも悪かったのか?」
「……すみません、もう大丈夫です」
「そうか。また酷くなったら言え、温かいものでも用意しよう」
「……ありがとうございます」
なんだか、会長には心配掛けてばかりだ。
おまけに会長は嫌な顔一つもしないのだから、余計頭が上がらない。本当は腹痛ではない。主に下腹部が痛んだせいでなかなかトイレから出られなかったのだが、これはもう時間に任せて癒やしてもらうしかない。
「眠りたくなったらいつでもベッドを使えばいい。俺に気を遣わなくていいからな」
「……でも、会長は……」
「元々不眠症気味でな、あまりベッドで眠ることの方が少ないんだ」
「俺はソファーがあればそれで構わない」そう、会長はソファーの背もたれを軽く叩いて笑う。
俺に気を使わせないための言葉かと思ったが、会長は睡眠薬を持っていた。ということは、あながちその言葉も嘘ではないのかもしれない。
となると、会長のことが心配だったが、不眠症は第三者がどうにかして治る問題ではないと俺も中学時代の経験でわかっていた。
それに、俺がいる時点で会長が安眠できることもないだろう。
そう思うと非常に申し訳ないが、このまま帰ると言っても阻止されるに違いない。……まだ浅い付き合いではあるが、会長がそういう人だというのは痛いほど知っている。
「……それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
他の人、それも会長の部屋で眠るなんて緊張して寝れないのではないだろうかと思っていたが、いらぬ心配だったようだ。
「照明の光が気になるなら使うといい」と渡されたアイマスクは遮光性抜群で、会長も会長で音を立てないようにしてくれていたおかげでぐっすりとその日の夜は眠ることができた。
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