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04
手当という名目の行為も終わり、仁科と阿賀松が出ていった理事長室内、一人残された俺は暫く動くことができなかった。
下腹部に走る痛みと、まだ中に何かが挿れられてんじゃないだろうかという異物感は何度拭っても消えない。
仁科は最後まで優しい人だった。阿賀松の居る手前だから仕方ない、わかってても、傷つかないように爪を立てず指の腹で中を摩擦された瞬間自分でも驚くくらい感じてしまったのが腹立ったし悲しかった。
次に会ったときどんな顔をすればいいのかわからない。仁科に引かれたんじゃないかと思うと遣る瀬無かった。
もっと俺がちゃんとしておけば、阿賀松から逃げていれば、そんなことを考えてもどうしようもない。
いつまでも理事長室にいるわけにはいかない。理事長室から出た俺は、とにかくここから離れたい一心で歩いた。
身体が痛い。それ以上に、心が軋む。
結局、俺は近くにあった男子便所へ入った。幸い教室棟から離れてるそこに人気はない。
男子トイレの個室に入る。それこそいい思い出のない場所だが、一人になるにはうってつけだった。今は誰とも会いたくなかった。
「……」
授業もサボってしまった。
どんな顔をして教室に戻ればいいのか。志摩とも顔が合わせづらい。けれど、荷物も全部置きっぱなしだ。
……どうしよう。とにかく、何もなかったような顔をしよう。こんなんじゃ、何かあったなんて一目瞭然だ。せめて、気分だけでも戻さなければ……。そう思うが、割り切ることができない。
……けど、ずっとここにいるわけにも行かない。
時計がないので今が何時なのかもわからない。大分鼓動は落ち着いた。とりあえず、ここから出よう。あとは何食わぬ顔して戻ればいい。
浮かない気分でトイレを出て、教室に向かったとき。
「ゆうき君!」
教室棟、廊下。
いきなり名前を呼ばれ、咄嗟に振り返ればそこには意外な人物がいた。
周りよりも頭一個分高いその影は、俺を見つけるなりパタパタと駆け寄ってきた。
「……よかった、ゆうき君、あっちゃんに連れて行かれたって聞いたから……その、気になってたんだ」
「し、おり……」
阿佐美だ。いつの間に学校にきていたのか、朝はいなかったのに。
喜ばしい気持ち半分、よりによってこんなタイミングでという気持ち半分。心配そうにこちらを覗き込むやつに、俺は、咄嗟に反応することができなかった。
「……その、大丈夫だった?」
「だ、いじょうぶって……なにが……?」
「……昨日、あっちゃんの様子がおかしかったから心配で……痛いこととか、されてない?」
おずおずと尋ねてくる阿佐美に、ギクリと全身が竦む。
思い出したくもないことまで思い出してしまい、血の気が引いた。
「何言って……っ、そんなわけ、ないよ……」
「そ、そう……? ならよかった……ごめん、俺の考えすぎだったかな……」
「……そうだよ、本当にただ、話してただけだから……」
早く、離れたい。心配してくる阿佐美だからこそ余計何かを勘付かれそうで怖かった。
やんわりと離れようとしたとき、「待って」と手首を掴まれる。俺よりも大きく骨張ったその手の感触にあの赤い男に掴まれていた箇所がカッと熱くなる。
「詩織?」と顔をあげれば、長い前髪の下、阿佐美の目は確かにこちらを見ていた。
そして。
「……これ、どうしたの」
阿佐美の手が伸び、そっと首筋に触れる。
しまった、と思った。首のことを完全に忘れていたわけではない。けれど阿佐美が昨日も部屋に帰ってこなかった俺のこの首を見て、何もなかったと言って信じてくれるような相手ではないことを忘れていた。
「っ、これは……ただ、ぶつけただけで……その、関係ないから……っ」
「……」
「あ……の、詩織……」
我ながら苦しい言い訳だと思う。
阿佐美は、責めているわけではないのもわかった。けれど、気取られたくなかった。
そっと触れる指先は、割れ物か何かを触れるような優しくて、それが余計心を不安にさせる。
「あっちゃんにされたんじゃないの?」
「ちが、先輩じゃ……ないよ……」
「……あっちゃんじゃない人にされたの?」
「ちが、その……俺が、勝手につくった傷だから……」
「本当に?」
問い詰められ、俺は少しだけ躊躇って――頷いた。
きっとバレてるんだろう、気付かれてるのだろう、わかっていたけどこれを認めてしまいたくなかった。それは相手が阿佐美だからかもしれない。阿佐美には、余計な心配をかけたくなかった。
阿佐美は、俺からそっと手を離す。
「……そっか、わかった」
阿佐美はそれ以上追求することはなかった。
その声には落胆や失望、それ以上の複雑ななにかが込められてるようで、突き放されるような気分になったがそれはきっと俺のとった行動も同じだ。
「傷……菌が入ると良くないから……何か絆創膏とか貼ったほうがいいよ。……それに、その、目立つし」
絆創膏なら、幸い会長に貰ったのがある。剥がされた部分を手で隠しながら、俺は阿佐美と別れてもう一度トイレに戻った。
何度も鏡で確認したからもう大丈夫だろう。
……そう言い聞かせ、教室に戻ることを決意した俺を教室前で出迎えてくれる人影が一つ。
「おかえり」
待ち伏せしていたのか。
教室前廊下、そこに佇んでいた志摩は俺を見つけるなり変わらない笑顔で出迎えた。
「随分と長い間可愛がってもらったんだね」
「……っ、志摩……」
志摩は、気付いてるのか。いや、志摩は最初から俺と阿賀松がどういう関係なのか知ってる。だからこそ疑っていないのだろう。その悪意のある言葉がただ胸に突き刺さる。
けれど、言い返す気力も俺には残されていなかった。
「齋藤は、阿賀松のことが好きなの?」
志摩が何を考えてるなんて分かるわけがない。
突拍子のないその問いかけに、俺は思わず「は?」と素っ頓狂な声を上げてしまう。
あの男が、好き?どうしたらそんな思考になるのか。
呆れたが、あの男のせいで俺がやつと付き合ってるということになってるのもまた事実だ。
けれど、それを志摩に聞かれること自体が虚しかった。志摩なら合意ではないとわかってくれる、そう思ってたから。
無言で首を横に振れば、志摩の目が僅かに細められた。
「じゃあさ、齋藤は阿賀松と一緒にいたいの?」
それは、『一緒にいて楽しいか』とも取れるし『阿賀松と離させてやろうか』という風にも聞こえる。
これは、俺の願望が入ってるのかもしれない。邪な考えを振り払う。向けられた視線が怖くて、その目を見ることはできなかった。
「どういう、意味……?」
「どうって、そのままの意味だけど。……人の忠告も全部無視してんだもん、齋藤が何考えてんのか気になってさ」
トゲのあるその言葉に、俺はとうとう何も言い返せなかった。当たり前だ、志摩の言ってることは言葉はキツイが最もなのだ。わかってるからこそ余計、反応することができない。
俺が答えるよりも先に時間切れになる。響くチャイムに、志摩は「次は、数学だね」と笑った。
「それで? 次の授業もサボるの?」
「……戻るよ」
「そう、それがいいよ」
授業が終わる。
やってきた放課後にようやくこの場から解放されると思うだけでホッとした。
けれど、部屋に帰れるだけで何もかも解決したわけではない。それどころか自分の置かれた状況がどんどん悪化してるのがわかったが、それをどうこうする術もない。つかの間の休息時に身体と心を休めるしかなかった。
けれど、どうやら神様は俺を休ませる気もないらしい。
「出てこい、齋藤佑樹ィ!!」
蹴破る勢いで思いっきり開かれる扉に、教室に残っていた誰もが驚いていた。
放課後、そいつがやってきたのは俺もそろそろ帰ろうかと身支度をしていたときだった。
本日二度目の来訪者は、一度目の来訪者よりかはまだましだが、面倒なやつには違いなかった。
足癖の悪さのあまり翻るスカートの裾、そして、周りから浮いた色を抜いたようなクリーム色の髪。
「っ、櫻田、君……っ?」
「良くもやりやがったなこのタコッ! 俺の、俺の会長に……っ!」
言うや否や胸倉を掴まれ、無理矢理椅子から立ち上がらせられる。
ざわつく教室内。
「ちょっと……一年がいきなり来てなんなの」
見兼ねた志摩が櫻田の腕を掴み、なんとか引き離してくれるが、櫻田の怒りは収まらない。
というかそもそもなんでこいつが怒ってるのかがわからない俺からしてみたら本当に何がなんだかわからなくて、「どういうこと、これ」と目で聞いてくる志摩に俺は「わからない」と首を横に振るしかなかった。
「何すっとぼけてんだよ、これだよこれ! お前しかいねーだろこんなバカ見てえな記事書かせんの!」
記事?と首を傾げる俺の目の前に、櫻田はぐしゃぐしゃになった紙を突きつけてきた。
何事かとそれを手にした俺は、そっと開く。
どうやら校内新聞のようだが……。
『飼育小屋の兎が出産』『食堂の人気メニューランキング&梅雨限定新メニュー』『芳川会長、親衛隊のS田君とキス?!』『今年の文化祭スローガン決定』『芳川会長、噂の転校生と熱愛?』
ほのぼのとした記事の間に間にとんでもないことが書かれているような気がするんだが、これは俺の見間違いかなにかなのだろうか、というかそうであって欲しい。
「な、に……これ……」
本日未明、生徒会会長の芳川君が二年生のS君とともに一夜を過ごしていることが判明。
S君は先月県外の公立高校からこの学園に転校してきた生徒で、その際優しく案内してくれた芳川君に惹かれたのだろう。
現在は謹慎中の芳川君の親衛隊のいない隙を狙ったのだろうか。S君の首にはキスマークが……と、そこまで読んで堪えられなくなった俺は顔をひきつらせた。
「……これって、もしかして」
もしかしなくても、S君というのは俺のことだろう。これで、櫻田の怒りの理由がわかった。
横から覗き込んでいた志摩も、呆れたように溜息を吐いた。
「というか、校内案内したのそもそも俺なんだけど? ……どういうことなの、これ」
「んなのこっちが聞きてえから来たんだっての! どういうことだよ、これ! 俺がキスの記事書かせたってのにこれじゃ意味ねーだろ、お前も脅して書かせたのか? あぁ?!」
「そ、そんなこと……するわけないだろ……っ」
「じゃあどういうことだよ、これは!」
バンッと新聞を机に叩き付ける櫻田。それはこっちが聞きたいくらいだ。
そのときだった。
「――失礼します」
混沌とした教室の中に、低く、静かな声が響いた。
開いたままになっていた教室の扉からやってきた三人目の来訪者の姿に俺は驚いた。
短く切り揃えられた黒い髪に、貼り付けたような無表情。生徒会会計・灘和真だ。
現れた灘に、騒がしかった周りにまた別のどよめきが起きる。
なんで生徒会が、しかもあの灘が、などと、周りが何やら言ってるのも全部無視して教室へと足を踏み入れた灘は足音も立てずに真っ直ぐにこちらへやってきて、そして、立ち止まる。
「――齋藤君、生徒会室までご同行願います」
外野なんて眼中にないような真っ直ぐな瞳に、俺は一瞬新聞のことも頭からすっぽ抜けそうになる。が、それは櫻田も同じだったようだ。
「丁度良かった、おい、灘先輩、これどういうことだよ! なんで会長が……」
「ですから、そのことについてです」
そう、灘は新聞を突きつけてくる櫻田から新聞を取り上げ、何事もなかったように制服の内ポケットに仕舞う。「あ、おい!」と慌てる櫻田。見事な早業だ、と感心してる場合ではない。
「言っておきますが、貴方には拒否権はありません」
「っは、随分と強引だね。……こんなふざけた記事で随分焦ってるみたいだけど、物の頼み方っていうのがあるんじゃないの?」
「っ、志摩……」
このままでは余計ややこしくなる。俺は、慌てて志摩を止める。「齋藤」と何か言いたそうな志摩の目が気になったが、それよりも灘だ。
きっと、生徒会でも問題になってるのだろう。
「……わかった、行くよ」
灘は、何も言わなかった。満足そうにするわけでもなく「それでは行きましょう」と志摩と櫻田を無視して歩き出す。マイペースというよりも、仕事人間というか、ストイックというか――隙がない。
俺は二人から逃げるようにその後をついていった。
志摩の視線が痛いほど突き刺さるが、強制連行と釘を打たれてしまえばどうしようもない。……そう、言い訳を並べながら。
――最上階・生徒会室。
「一応、残っていた新聞は全て押収したが、何部かはもうすでに他の生徒の手に回っているようだ」
芳川会長は呆れた様子で小さく溜め息を吐いた。会長机の上には回収分らしき校内新聞が置かれている。
静まり返った生徒会室内には会長の他にも五味、栫井、十勝も揃っていて、それぞれが神妙な顔をしていた。
ただ一人、俺の横にいる灘だけがいつもと変わらない。
このふさがけた記事と同じものを持っている生徒がいるというだけで生きた心地がしなかった。
出回っているものが何部と考えればまだましな方だろうが、敵が少なくない会長だ。拡散されるのもまた時間の問題だろう。
「櫻田のことはともかく……なんで君が俺の部屋に泊まっていたことが新聞部の耳に届いているのか疑問に思わないか?」
芳川会長の疑問は最もだ。俺も、そこが引っかかった。
櫻田なら会長を貶めるような記事は書かせないだろう、というよりも書かせた記事は別にあるしまずない。
それに俺の首筋の絆創膏がキスマークを隠しているものだと確実に知っている人間となると、その数はかなり限られてくる。
芳川会長は、当たり前だがリークされた被害者だ。なにがあっても自分の醜聞を流すような真似はしないだろうし、まずメリットがない。
そうなると、新聞部に垂れ込んだのは付けた張本人である栫井か、この絆創膏を剥がした阿賀松、そして志摩と仁科、阿佐美の五人しかいない。
更に言うなら、この中でこの記事が出回ることによりメリットがある人間となると、一人だ。
――阿賀松伊織。あの赤い髪の男の顔が浮かび上がり、血の気が引いた。
阿賀松は、俺に芳川会長と付き合えと言った。痺れを切らしたやつが今日のことを知り強行突破に出たのも頷ける。
「その様子だと、誰の仕業か君も分かったようだな」
「新聞部の話によると、昼過ぎ頃に阿賀松がやってきて無理矢理記事を書かせたようだ」ああ、と思った。
やはり、そうだったかと。想像できていたはずだ、いいスキャンダルのネタを掴んだ阿賀松が芳川会長の足を引っ張る真似をすることは。
それなのに俺は自分のことしか考えれなくて――その結果がこれだ。
「齋籐君、なんで阿賀松が今朝のことを知っているんだ」
ドクン、と心臓の音が一層大きく響いた。俺たちのやり取りを静かに聞いていた他の役員たちの視線が、俺に向けられる。
普通に考えれば、あの場にいすらしなかった阿賀松が俺のキスマークのことや今朝のことを知っているのはおかしい。
当事者であり、尚且つ阿賀松と繋がりがある栫井が阿賀松に話したと考えるのは容易いことだが、今回の出自は間違いなく俺だ。……俺が阿賀松に口を滑らしたのだ。
芳川会長も周りもそれに気付いているのだろう。突き刺さる視線が恐ろしいほど冷たい。
「……それで? 俺に話すことがあるんじゃないのか?」
レンズ越し、こちらを見る芳川会長の感情は読めない。けれどいつものように優しい笑みはそこにはない。
会長に迷惑を掛けてしまった後ろめたさと罪悪感に言葉が詰まる。足元が崩れ落ちるような、不安感。けれど、その反面、これはチャンスではないだろうかと考える俺もいた。
阿賀松に命じられたこと、阿賀松が企んでいることを全てをここで吐いてしまえばいい。脅されていたと、ぶち撒ければいい。
芳川会長は、どんな形であれ阿賀松と自分が繋がっていると確信しているはずだ。なら隠す必要もないもないのではないか。
言ってしまおうか、阿賀松が俺と芳川会長をくっつけさせようとしていると。その後、俺をつかって芳川会長に恥をかかせようとしていると。
そう言えば、必然的に芳川会長も俺に関わらなくなるし、阿賀松も俺に関わってこなくなるだろう。それがみんなにとっての最善なのだろう。
そう考えるのは簡単だったが、実際そうなった時のことを考えると心が薄ら寒くなる。
俺が、芳川会長たちと一緒にいなければいい。そして、生徒会も俺と関わらなければいい。
……簡単なことだ。
言おう。全て芳川会長に説明しよう。後から阿賀松たちになにを言われても構わない。
そう覚悟を決め、息を飲む。
「……会長……その……っ」
沈黙の末、声を絞り出そうと顔をあげたとき。
こちらを見ていた栫井と目が遭った。
栫井は、阿賀松と繋がってる。そのことを思い出し、思わず口籠った。
「……話しにくいなら場所を変えるか」
そして、俺の様子からなにか感じたのだろう。助け舟を出してくれたのもまた、芳川会長だった。
場所を変えよう、そういった会長が俺を通したのは生徒会室の奥にある仮眠室だ。
部屋に入るなり内側から鍵をかける会長はそのまま簡易ベッドをソファー代わりに腰を掛ける。
「君も座るといい」と促がされ、俺は会長から少し離れて腰を掛けた。硬いクッションだが、シーツは手触りがいい。
「元々生徒会室は理事長室だったんだ。この部屋は前の理事長が使っていた仮眠室をそのまま使っている」
「だから、その、あれだ。……あまり気にしないでくれ」緊張させないようにしてくれてるのだろうか、バツが悪そうな会長だが俺は納得する。
「……それで、俺でいいなら聞かせてくれないか。あの男となにかあったんだろう」
すぐに芳川会長の目は真剣なものになる。
ここまでお膳立てしてもらって、躊躇うものなどなかった。俺は、肺に溜まった空気を吐き出した。
「……わかり、ました」
響く声はまるで他人のもののように冷たく響いた。
そして俺は、洗いざらい芳川会長に話した。阿賀松が俺と芳川会長をくっつけようとしていて、それをネタに醜聞を広めて会長を貶めようとしていること。全部だ。
……ただ、阿賀松にされたことまでは言うことはできなかった。殴られたことも、犯されたこともだ。口にはしなかったが、敏い会長のことだ。……気付かれてるのかもしれない。会長自身も深く追求してこなかったことだけがほっとした。
そして、全部を聞き終えたとき、会長は眉間に深い皺を刻んだまま俺を見た。
「……じゃあ、阿賀松は俺と君が付き合うのを狙っているということか」
顎を指で擦る会長に、俺は頷き返す。軽蔑されるかもしれない、冗談じゃないと突っ撥ねられるかも知れない。どんな反応取られても受け入れるつもりだった。
だって、それが俺の最善だと思ったからだ。
けれど、会長の口から出た言葉は俺が予想していたどれとも違った。
「なら、俺と付き合うか」
一瞬、芳川会長がなにを言っているのかがわからなかった。
この人は人の話を聞いていなかったのか、それとも俺の耳がおかしくなったのか。
固まる俺をじっと見て、もう一度会長は口にする。
「付き合えと言われたのだろう。ならば、付き合う他あるまい」
「な……なに言って……」
「……なに、あくまで付き合うフリをするだけだ。そうあの男が望んでるのだろう?」
「けど、それじゃあ会長が……っ」
「別に構わない。君は言われた通りのことをするだけだ。そうすれば、あの男に責められることもないだろう」
「……っ、それは……」
「簡単なことだ。付き合うと適当に噂を流させる。どうせ遅かれ早かれ問題にはなるはずだ」
「ならばそれを逆手に取る」と会長は続ける。
会長の考えは、俺が考えていなかったことだった。阿賀松の言うことを聞く。そんなこと、考えてすらなかった。 だって、そんなことをしたら会長も汚名を被ることになるのだ。
「君は俺を好きなように利用すればいい」
どうしてこの人は、ここまでしてくれるのか。
俺には理解できなかった。だって、絶対、会長の負担になることは間違いないはずなのに。
「っ、ごめんなさい」
咄嗟に、声が溢れた。言わなきゃ、ちゃんと断らなきゃ。正義感の強いこの人は、ただの一個人である俺のせいで全部を棒に振るつもりでいる。
そんなことは、絶対駄目だ。俺自身が許せなかった。
「気持ちは、嬉しいです……けど……」
「齋籐君の言い分もわかるが」
やっぱり、迷惑掛けられません。そう言いかけた言葉を芳川会長に遮られる。
「これは君だけの問題じゃないんだ」
芳川会長の言葉が、嫌でもハッキリと耳に残った。
確かにそうかもしれない。芳川会長と阿賀松の問題だ。
そして、あくまで俺は第三者。
「無関係の生徒が自分のせいで酷い目に遭うくらいなら、俺はなにされても構わない。……だから、一人で抱え込まないでくれ」
俺は、会長に酷いことを言わせてる。被害者という立場を嵩に着て、甘えてる。
わかっていた、わかっていたはずなのに、その一言を待っていたかのように肩の荷が降りる。
胸に熱いものが溢れ、全身から力が抜け落ちるようだった。
「……齋藤君?」
「っ、す……みません、ごめんなさい……俺……っ」
俺は、卑怯者だ。この優しくて、真っ直ぐな人を利用することを選んだのだ。
溢れそうになる涙を飲み込み、俺は、差し出された手を取った。
「と、言うわけで齋籐君は俺の恋人になった」
生徒会室から出るなり、芳川会長はそう生徒会の面々に告げる。
コーヒーの注がれたカップに口をつけていた五味が激しく噎せ返る。十勝は話を聞いていなかったようで「五味さんやべー」と笑いだし、灘は咳込む五味の背中を擦った。
栫井は、ただなにも言わずに芳川会長の背後にいた俺を見た。俺は、顔を上げることができなかった。会長は『大丈夫だ』と言うかのように俯いたまま黙り込む俺の肩をそっと触れる。
生徒会の面々には『フリ』だということを伏せておいた方がいい。そう伝えたのは俺だった。
こんな茶番をするに当たって阿賀松にはなんとしてでも嘘だとバレないようにする必要があった。そして、内部にいる栫井平佑という男は危険分子そのものだ。
俺は、会長にケーキ屋に行ったときのことを伝えた。
栫井に学校に送られる途中、そのまま阿賀松に連れて行かれたときのことを。栫井は、恐らく阿賀松と繋がっていることを。
告げ口みたいで嫌だっただが、それでも、会長と手を組むに当たってここは一番気をつけなければならないところだとわかったからこそ俺は会長に伝えた。
会長はただ怒るわけでも悲しむわけでもなく、「そうか」と目を伏せた。
そして、生徒会の皆にも黙っておくという俺の作戦を呑んでくれた。
「そういうことだから、まあ――周知徹底を頼む」
「な……なに言ってるんすか、会長」
「お前らには先に伝えとこうと思ってな」
「先にって……櫻田とのことがショックなのはわかるけど、会長はそっちの趣味なかっただろ」
「俺が誰を好きになろうと関係ないだろう。なんだ、お前は祝ってくれないのか。五味」
「待て……ちょっと……はぁ、何言い出すかと思えば本当に……」
「え? なに? 芳川会長やっと彼女できたんですか?」
「ああ、俺の恋人の齋籐君だ。仲良くしてやってくれ」
「あれ? 佑樹? え? 佑樹女だったの……?」
会長の言葉に狼狽える十勝。
会長も、他にももっと言い方があるだろうに……それでも恥ずかしがりもせず堂々と恋人宣言する会長はすごいと思う。
十勝は混乱しながらも「ま、でもおめでたいか!お幸せに!」なんて喜んでくれて、五味はまだ納得いかない様子だった。
そして、相変わらずのポーカーフェイスな約二名は芳川会長の言葉にも大して反応を見せなかった。お茶を啜る灘と、こちらを見る栫井。
……これからどうなるかなんて考えてもいなかった。
とにかく、阿賀松の手から逃れる。或いは用済みと判断させることができるのなら。
あくまで希望であるが、一人ではあれほど心細かったのに隣にこの不安を共有できる相手がいる。それだけでここまで気持ちが楽になれるものなのかと驚いた。
五月上旬――俺は、芳川会長と手を組んだ。
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