48 / 166

05

 学生寮一階、食堂。  食堂内は比較的に空いていた。さあどこに座ろうかとキョロキョロ辺りを見渡していたときだ。 「なんだ、君たちも夕食をとりに来たのか」  聞こえてきた足音、そしてその凛とした声に辺りの空気が僅かに緊張する。  恐る恐る振り返ればそこには十勝と灘を引き連れた芳川会長がいた。 「会長」と驚く俺に「奇遇だな。齋籐君」と芳川会長は口元を緩めるように微笑むのだ。  普段ならば会長と会えて素直に喜べるはずなのに、昼間保健室でのことがあったお陰で俺は芳川会長を前にどんな顔をすればいいのかわからないでいた。  阿賀松たちの言葉本当ならば、会長は栫井に暴力を振るったという。けれど、目の前にいる会長はいつもと変わらない、俺の知っている優しくて頼りになる会長だ。 「どうやら仲良くしているようだな。結構。……江古田君、変わったことはなかったか?」 「……いえ、特に。……ただ、先輩の友達を名乗る方に絡まれたくらいですかね……」  江古田の言葉にぎょっとする。志摩のことだろう。 「絡まれただと?」と心配そうにこちらを見てくる会長に慌てて俺は首を横に振った。 「そのことは……もう大丈夫です、その、ちょっと揉めただけなので……」 「そうか。なら良いが……またしつこく何かを言ってくるようなら言えよ」 「……は……はい」  言ってどうするのか、なんて恐ろしくて詳しく聞くことなんてできなかった。 「しかし丁度いい、よかったら同席させてもらっても構わないだろうか」 「あ、俺は大丈夫ですけど……」  ちらりと江古田の方を向けば、江古田もこくりと頷く。芳川会長は「ありがとう」と微笑むのだ。  灘や十勝に確認しなくてもいいのだろうかと思ったが、それよりも気になることが一点。 「……あの、十勝君どうしたんですか?」  普段ならば真っ先にはしゃいでそうなものなのに、先程から一言も発さない十勝が気になった俺は芳川会長に小声で尋ねる。  ああ、と芳川会長は思い出したように頷くのだ。 「大したことではない。ただ臍を曲げているんだ」 「全然大したことありますよ。あんなの、寧ろあんなこと言われて普通でいられる会長の方がおかしいっすよ! 俺だったら絶対に無理、許せねえよあいつ……」 「……さっき丁度学園で阿賀松伊織と鉢合わせになったんだ。それで少しな」  ようやく口を開いたと思えば憤る十勝とは対象的に会長も灘も落ち着いていた。会長の言葉にああ、とすべてを理解する。  恐らく以前、会長と阿賀松が鉢合わせになったときのことを思い出す。……きっとあの状況に近いことが起こったのだろう。 「会長、でも……」 「お前の言い分はわかった。……それよりテーブルに移動するぞ。ここじゃ邪魔になる」  会長の言葉に納得したのか、相変わらずむくれた十勝だったが灘に促され近くの大人数用のテーブル席へと移動した。 「……」 「……」 「……」 「……」  そして沈黙が流れる。  いつもならこのメンツで静かになるのはあまりないはずなのに。原因はやはり十勝だろう。  ……というのも、大体生徒会の人間と食事していてまともに話す人間が十勝しかいない。むっすりとしたまま黙り込む十勝は、テーブルの上に置かれたナプキンで折り紙していた。 「……やっぱり、納得いかないっすね。あんなの侮辱罪ですよ、侮辱罪! 有名税だとかなんだとかいって好き勝手会長のこと言いやがってアイツ……」 「好きなだけ言わせておけばいい。気にするだけ無駄だ」 「でも、まるで会長のことを陰で暴力振るうクズみたいなこと言ってたじゃないっすか!証拠もないくせにあいつ……」  十勝の言葉に冷たい汗が滲む。おかずの味がまるでしなかった。 「あーっ、思い出したら余計ムカついてきた、許せねえ」と髪を掻き毟る勢いで抑える十勝に対し、芳川会長は何も言わない。灘も、江古田もだ。慣れた顔して淡々と食事を続けているのだ。  阿賀松、まさか栫井のことを会長本人に言ったわけじゃないだろうな。十勝は信じていないようだが、それでもあまりにも恐ろしくて会長の顔を見ることができなかった。 「……ぁ、あの……俺、ちょっとお手洗いに行ってきます……」  このままこの空気に耐えれる自身がなかった。  箸を置き、立ち上がった俺は「大丈夫か?」と心配してくれる十勝に頷き返すだけ返した。  怪しまれただろうか。それでもあの場にいると心臓が苦しくてどうしようもなかった。  食堂の奥、取り付けられたトイレに駆け込んだ俺は催してもいないのに個室に逃げ込んだ。そして便器の蓋の上に腰を掛けた。 「……っはぁ……」  平常心を保つ。呼吸を整える。芳川会長の一挙一動に神経が囚われている。  ……まだ、まだ決まったことではない。栫井が会長のことで嘘を吐くとは思えないし、あの傷も全部フェイクの可能性の方が低いとわかっている。それでもまだ信じられなかった。  ―ーとにかく、会長に気取られてはいけない。  栫井のことも、阿賀松とのことも。そう自分に言い聞かせ、手の震えを殺すように握りしめた。  然程長い間ではなかったと思う。  便所の個室の扉を開いたときだった。扉のすぐ横に人が立っていることに気づいた瞬間心臓が止まりそうになる。 「ッ、か………………いちょ……」 「……随分と長かったが具合は大丈夫か?」  齋藤君、と静かに尋ねてくる芳川会長に俺は自分がどんな顔をしているのかすらわからなかった。  なんで会長がここに。  心の準備がろくにできていなかっただけに酷く自分でも動揺しているのがわかつた。 「……そういえば齋籐君。昼間、阿賀松と話したそうだな」  例えるなら心臓を握り締められたような息苦しさだ。  辺りに人気はない。なるべく会長に動揺を気取られないように手を洗おうとしていた俺だが、その一言に背筋に冷たい汗が流れる。  阿賀松本人の口から聞いたのか、それとも――。  どちらにせよ、下手に嘘を吐いても会長相手に誤魔化しきることができるとは思えなかった。観念し、「はい」とだけ答る。無意識の内に声が震えてしまう。 「なにか言われなかったか?」  洗面台、取り付けられた鏡越しに背後の壁に立つ芳川会長と目が合うのだ。  ……別に芳川会長は変なことを言っているわけではない、そもそも会長自身のことを聞いてるわけでもない。それなのにここまで狼狽えてるのは昼間会長について聞かされてしまったせいだ。  勘繰られてるのではないか。もしまた俺が余計なことを言えば栫井が呼び出されるのではないだろうか。そんな悪い思考ばかりが次から次へと浮かんでは消え、思考が纏まらない。 「……いえ、特には。……いつも通り、会長の悪口ばかり言われたくらいです」  悩んだ末、俺は誤魔化した。嘘ではない。俺の言葉を聞いた芳川会長は「そうか」とだけ答えた。その返答に満足したのかも知らない。 「もしまた君に失礼な真似をしたのなら、と思ったが俺の悪口だけならよかった。……なにかあったらすぐに言えよ」 「君は少し、自分で抱え込むところがあるからな」そう、そこでようやく会長は頬を緩ませ微笑むのだ。  ……良かった、バレていない。  安堵するのも束の間、笑い返そうとしたが頬の筋肉が強張り上手く笑えなかった。  誰を信用すればいいのか。会長のことを信じたい。けれど、既に会長の言葉の裏を勘繰ってしまう自分がいた。  その後十勝たちと合流する。十勝はというと阿賀松の不満をぶち撒けすっきりしたようだ、江古田に絡んでいた。俺と会長が戻ってくると「大丈夫か佑樹!」と大声で心配され、俺は曖昧に笑って返した。  そして残りの食事も済ませ、俺たちは食堂を後にする。  ◆ ◆ ◆  ――学生寮一階、ロビー。 「それじゃあ、俺は明日の最終確認があるから一度校舎に戻る。君たちは真っ直ぐ戻るんだぞ。なるべく夜ふかしもしないように」  そう、芳川会長は俺たちに向き直るのだ。  最終確認と聞いて、阿賀松との約束を思い出す。 「なーんだ、会長もなんだかんだ張り切ってるじゃないですか! でも、準備するんなら俺も手伝いましょうか?」 「いや問題ない。十勝、お前には明日、重大な任務があるからな。……今夜は早めに休むんだぞ」 「げ……ヤブヘビだったか……」  すっかり元気を取り戻し、青褪める十勝に会長はふ、と微笑んだ。そして、灘に視線を向けるのだ。 「それでは後は頼んだぞ、灘」  名前を呼ばれた灘は「はい」とだけ頷いた。  そして俺達は芳川会長と別れ、エレベーター乗り場へと向かう。 「はー、本当会長って真面目だよな。何度も最終確認するなんて、もう大丈夫だろうに。なあ、佑樹」 「え? あ、……うん……そうだね」  栫井のことがあるから念には念を入れてるのかもしれない。いきなり十勝に話を振られ、困惑しながらも頷き返す。妥協を許すつもりはないということだろう。当たり前だ、下手すれば芳川会長の沽券にも関わる。十勝たちにも事情を伝えていないということから自分の目以外信じるつもりはないという会長の念を感じ、俺は何も言えなかった。  ◆ ◆ ◆  ――エレベーター機内。  会長に言われた通り大人しく部屋に戻ることにした俺達。乗り込むなり灘は二階と三階を押す。それを見た江古田が「ぁ……」と小さく声を漏らしていた。 「どうかしましたか」 「……あの、なんで二階……」 「貴方の部屋は二階ですよね」 「……」 「どうやら着いたみたいですよ」  どうやら江古田は三階までついてくるつもりだったようだ。それを容赦なくぶった切る灘に取り付くもない江古田を見て俺はなんだか可哀想な気持ちになる。  ……つくづく灘と江古田は相性が悪いというか、馬が合わないというか。なんとかフォローしてやりたかったが、フォローのしようがない。  静かに開く扉の前、「降りないんですか?」と開ボタンを押したまま尋ねる灘。 「……僕は、いいです……」 「どういう意味でしょうか」 「……ま、まあ、その……大丈夫だから先に三階から行こうよ」  このまま江古田が暴れ出しやしないかハラハラした俺は咄嗟に閉ボタンを押す。灘は俺の意図を汲んだかわからないが、「わかりました」とだけ答えるのだ。江古田かというと今にも消え入りそうな顔で俺の後ろに隠れていた。 「……ごめんなさい……」 「いや、寧ろお願いしてるのはこっちだからね。……ありがとう、江古田君」  そう、なるべく傷つけないように言葉を選べば、江古田は返事の代わりに項垂れたままぎゅっとぬいぐるみを抱き締めた。  そしてやってきた学生寮三階。  結局三人に部屋まで送ってもらうことになったのだが、正直複雑だ。友達が付いてきてくれたとかならまだ喜べたのかもしれない。 「じゃ、俺らも帰るわ!」 「失礼します」  部屋の前。そう立ち去る十勝と灘に「わざわざありがとう」と頭を下げれば返事の代わりに十勝が大きく手を振り返してきた。 「……それじゃあ、僕もこれで……」 「あ、江古田君……っ」 「……? ……まだ、なにか……?」 「さっき……教室で、ありがとう。ごめんね、変なことに巻き込んで……」 「……別に、僕はただ思ったこと口にしただけでしたので……」  ごにょ、と口籠る江古田。そしてすぐに「……それじゃあ、失礼します……」と頭を下げた江古田はそのまま灘たちとはまた別の通路を歩いていく。  遠慮、してるわけではないのだろう。俺はトボトボと立ち去る江古田の後ろ姿を見送り、そして自室へと戻る。  ――ようやく一人になれる。  このまま四階の五味の部屋へ向かおうかとも考えたが確実に江古田と鉢合わせになってしまうだろう。それを恐れた俺は時間をずらすために一旦部屋に戻って服を着替えることにした。  制服を脱ぎ、私服に着替えていると不意に携帯のバイブレーションに気付いた。ベッド横のサイドボードに置きっぱなしにしていたそれを手に取れば、ディスプレイに表示されるその名前にぎくりとする。  ――志摩亮太。  先程の別れ際の志摩のことを思い出し、出ようか出まいか迷った。電話の内容からして想像つく。恐らく江古田のことについて言われるに違いない。  ……もう少し時間を置いたほうがいいだろう。そう着信を気付かなかったことにしようと決めたとき、丁度電話は切れた。卑怯かもしれないが、相手は志摩だ。携帯電話をベッドの上に放り、そのまま俺は部屋を出た。  知り合いに会う前にこそこそとエレベーター乗り場へと向かった俺は上の階を選び、エレベーターが来るのを大人しく待った。そして下からエレベーターが上がってきたときだ。  ゆっくりと開く扉、そして、その隙間から指がぬっと生えてきたのを見て「ひっ」と思わず息を飲んだ。  なんだと思えばエレベーターの中から見慣れない細身の男子生徒が飛び出してきた。乱れた制服を必死に手で隠し、顔を真っ赤にして去っていく男子生徒に何事かと動けないでいたとき。 「あーあ、齋籐君が扉開かせるから逃げちゃった」  開いたエレベーターの中から聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「せっかくいいとこだったのに」と微笑む縁に血の気が引く。 「あ、す、すみま……」 「まあいいや、君が来てくれたから」 「あの、俺、違っ」 「なに? 乗るんだろ? ほら、おいで」  慌ててエレベーターから離れようとするが遅かった。伸びてきた白い手に肩を抱き寄せられ、そのまま半ば強引にエレベーターの中へと引きずり込まれる。  嘘だろ、と青褪める俺の横、縁は問答無用で扉を閉めるのだ。瞬く間に密室の出来上がりだ。 「上に行くつもりだったんだよね? 四階に用事ってことは……もしかして俺目的?」 「い、いえ……その……」 「違う? じゃあ伊織かな? ……その顔も違うな、じゃあ芳川君?」  優しい声音とは裏腹に絡みついてくる指の動きは生々しく、あまりの距離の近さに変な汗が全身に滲む。  違います、と上擦る声で答えれば縁は驚いたように目を開くのだ。 「へえ、まだ誑かしてる男がいるんだ。……君も純情そうな顔をして案外やるんだね」 「ち、……違います、そんなんじゃなくて……」 「んー?」 「え、縁……先輩こそ……っ」  誑かすなんて人聞きが悪い。寧ろ先程出ていった男子生徒の様子からして縁の方がよっぽどではないか。咄嗟に言い返そうとして、きゅっと指を絡められる。まるで恋人にするかのようににぎにぎと指の谷間を撫でられ息を飲んだ。 「俺が、なに?」 「……っ、は、なして下さい……」 「手を握ってるだけなのに?これも駄目なの? ……伊織にそう言われてるのかな」 「っ、……先輩……」  壁際に追いやられていることに気付いたときには遅い。逃げ場を塞がれてることに気付き、息を飲んだ。四階に着き、扉が開く。 「お、俺……降り……ッ」 「聞いたよ。齋籐君、随分亮太に好かれてんだって?」 「……っ!」 「あいつ一度思い込むと止まらないんだ、猪みたいだろ? ……大変だろ? 相手にすんの」  なんで、今志摩の話なんて。  肩を撫でられ、ぞくりと背筋が震える。そのまま鎖骨のラインを撫で、首筋から首の付け根、顎へと触れる指先に凍り付いた。 「俺の方から言っといてあげようか、君に構うなって」  長めの前髪の下、こちらを覗き込むその真っ直ぐな瞳に息を飲む。  唇をなぞるように這う親指に気を取られていたとき、エレベーターの扉が閉まった。そのまま四階に停止したままの機体の中、自分の鼓動だけがやけにうるさく響いた。  どういう意味か、深く聞くことすらできなかった。 「っ……気持ちだけ、もらっておきます」  俺の言葉に少しだけ意外そうにした縁だったがすぐに「ああ、そう」と笑う。  良かった、納得してくれたのかと安堵した矢先のことだった。  不意に、眼前に伸びてきた縁の手に髪を掻き上げられる。え?と視線を上げたとき、唇を塞がれるのだ。 「ん、んん……ッ」  一瞬何をされてるのか分からなくてパニックに陥る。首を押さえつけるように顎を固定され、深く唇を啄まれるのだ。  ぬるりと舌が唇を割って入ろうとしてくるのを感じ、俺は咄嗟に硬く唇を閉じたとき。縁は笑って俺から唇を離した。 「……優しいなあ齋籐君は、益々俺の好みだよ」 「亮太と同じ趣味なのは気に入らないけど」そう、何事もなかったような変わらない笑みを浮かべる縁にれろ、と唇を舐められ、堪らず声が漏れる。

ともだちにシェアしよう!