50 / 166

六月四日目【催事】

 翌朝、携帯のアラームで目を覚ます。今日は待ちに待った学園祭当日だ。  阿佐美のいなくなった一人部屋はやけに寒く感じた。カーテンを開ければ窓の外は薄暗い。どうやらこれも低気温の原因のようだ。  梅雨時期だ、曇空も仕方ない。  雨は降らなければいいのにな、そんなことを考えながら気だるい体を起こした。  今日明日の二日間、生徒だけではなくそれ以外の者も多くこの学園祭を出入りすることになる。  楽しみというよりも、不安の方が大きいのが正直なところだった。  けれど幸いクラスの出し物に関して俺には役目らしい役目はない。寧ろ「齋藤君は会長を手伝ってきた方がいいんじゃない?」なんて流されるくらいだ。無理して関わろうとして疎まれたくもない、結果俺は今日一日自由なわけだ。……まあ、いつもと変わらないか。  朝の星座占いを横目に制服に着替え、戸締まりや忘れ物の確認を念入りに済ませた俺は部屋を出た。 「おはようございます」 「ひっ」  爪先を蹴りながら通路へ出た瞬間、すぐ真横から聞こえてきた声に驚きのあまり鞄を落とす。 「な……灘君……」  慌てて鞄を拾い上げ、改めて顔を上げればそこには涼しい顔した灘が立っていた。目が合えば、「おはようございます」ともう一度挨拶してくるのだ。 「あ、おはよう。じゃなくて……あの、なんでここに」  もう少し、こう、そんな死角を狙うんじゃなくて扉の前とか他にもあったんじゃないのか。  ドキドキと騒ぐ心臓を抑えながら尋ねれば、全く悪びれた様子のないまま灘は「芳川会長から伝言です」と続ける。 「……会長から?」 「……『櫻田洋介は捕獲したからもう気にしないでいい』とのことです」  灘が来るということは生徒会絡みだと予想ついたが……そういうことか。  目的の説得から捕獲にすり変わっている時点でなにがあったのか概ね想像ついてしまう。 「つまり、それって……」 「本日付けで、齋籐君についていた見張りは外されます」  淡々と紡がれるその言葉。それが聞き間違いではないことを確認すると、安堵のあまりに脱力しそうになった。 「ほ……本当に?」 「はい。ですがまだ不安というのであれば自分が……」 「いい、大丈夫だから……っ! ……気持ちだけ貰っておくね」 「そうですか」  残念がるわけでもなく灘は「でしたら自分はこれで失礼します」と頭を下げる。  どうやら本当に用はそれだけだったようだ。  灘が聞き分けがいい男で安心した。  そう、立ち去ろうとしていた灘の後ろ姿を見送っているとふと思い出したように灘はこちらを振り返る。 「……それと。単独行動を取る場合、あまり人気のないような場所には近付かないようにしてください」 「これは、個人的な忠告です」俺の身を案じてくれているのだろうが正直不安になった。  けど、確かにそうだ。……櫻田が一人いなくなったところで阿賀松や縁もいる。 「では失礼しました」とだけ頭を下げ再び歩き出す灘を見送る。……ああ、伝言を伝えてくれた御礼を言うのを忘れていた。  そう気付いたときには既に灘の後ろ姿は見えなくなっていた。  灘と別れ、一人廊下に取り残された俺の耳にはは灘の忠告がこびりついていた。  ……櫻田捕獲か。珍獣じゃあるまいし、と思ったが芳川会長のことになると頭のネジが二三本外れたようになる櫻田だ。  ……とにかく、この件に関して俺は芳川会長から「説得に成功した」という報告が来るのを待つことしかできない。  芳川会長を慕っている櫻田だからこそ芳川会長の言うことは聞くかもしれないが、前何度か話したときのことを思い返せば頭に血が昇ると芳川会長の話を聞かない節もあった。  それに、今日は学園祭だ。ずっと櫻田のことに構ってる暇もないだろうし……やはり不安だ。  あわよくばやつが大人しく捕獲されてることを願うしかない。  とにかく、何事もなければいいのだが芳川会長の櫻田への嫌悪感も中々のものだから穏便には済まないかもしれない。  そこまで考えて、昨日保健室で見せられた栫井の背中の怪我が脳裏を過る。  …………いや、いやいやいや。なにを考えてるんだ、俺は。  芳川会長が無差別に暴力振るうような人なわけがないだろう。……栫井のことだって理由はあった。けど、それなら櫻田だって……。そこまで考えて、思考を中断させる。  念願の護衛解除だ、ならば余計気は引き締めないとならない。周りを見渡す。いつもより少し早い時間帯に出たのでまだ人はいない、食堂で食事取りながら少し時間潰すか……。  そうエレベーター前までやってきた俺は基盤を操作し、エレベーターが上がってくるのを待つ。  流石朝方だ、すぐに迎えのエレベーターはやってきた。それに乗り込み、目的地である一階を押した。  ゆっくりと閉まろうとしていたエレベーターの扉が急に開き始める。どうやら乗り込もうとした人間が外から操作したようだ。  俺と同じように早起きした人がいるのだろうか、そんなことを思いながら邪魔にならないようにエレベーターの隅へと移動したときだった。自動で開く扉、そこに立っていた人影にそのまま凍り付いた。 「…………」  扉の前に立っていた志摩は開きかけていた扉を手で掴み抉じ開けるようにし、機内に足を踏み入れる。そこにいつものような笑顔もなく、ただ無表情の志摩に俺は冷水を浴びせられたような気分だった。 「……ッ……」  なんで、志摩が。そんな言葉を出すこともできなかった。汗が滲む。最悪な別れ方をして無言で現れる志摩が怖かった。  俺を待ってたのか?……いつから?聞きたいことは山ほどあったのに、言葉一つも出てこない。  閉ボタンを押す志摩。ゆっくりと出来上がる密室空間に俺の心臓の音だけがやけに煩く響いた。  そのまま俺の隣までやってきた志摩に体が無意識にびくりと震えた。  逃げようと後退ろうとしたとき、不意に志摩がこちらを振り返る。 「おはよう、齋籐」  先程までの生気のない表情とは打って変わっていつも通りの笑みを浮かべる志摩は、そう俺に笑いかけた。  誰から見てもわかるくらいの作り笑い。こういうときは志摩の機嫌がすこぶる悪いのを俺は知っている。 「……お、はよう」  周りから切り離された空間の中。俺は自分が上手く笑えているのかどうかさえわからなかった。  十中八九志摩は昨日のことを根に持っている。そもそも目が笑ってないし、当てつけのような作り笑顔。  確かに、昨日は江古田がいたとはいえ露骨に志摩を避けてしまった。こうなることは重々承知の上だっただけに不機嫌な志摩の態度になにも言えなくなる。 「あ、あの……昨日は……ごめん、一緒に帰れなくて」  沈黙で切り出しにくくなる前に自分から謝罪すれば、志摩と目が合う。 「……なんで謝るの?」 「自分でも……昨日は失礼なことしたなって思ったから」  嘘はついていないはずだ。ついていないはずなのに、なんでだろうか。  なんとなく自分の言葉が薄っぺらく感じてしまう。 「……へえ」そう口にすれば、志摩はすぐに無表情になった。 「……失礼なことね。電話にも出ないで、掛け直すこともしないで。いざ面と面合わせて居づらくなってからようやく謝るんだ、齋藤って」 「……ッ、そ、れは……」 「今更誤魔化さなくてもいいよ。齋藤の性格はこれでもよくわかってるつもりだから」  にっこりと微笑む志摩に俺は言葉を飲んだ。  ……鋭い。実際、俺は志摩からの着信に気付いて無視した。けれど志摩がその現場を見たわけではないはずだ。 「……っ、ごめん……怒られると、思って」 「はは、素直だね。……もう雑な嘘で誤魔化すのはやめたんだ?」 「……志摩……っ」 「別にいいよ、どうせあの過保護な彼氏からの命令だったんでしょ?……生徒会長様には逆らえないだろうからね」  俺のことを許したわけではないだろう、実際言いながらもその言葉には嫌なほどの険が含まれていた。  それでも、そう思ってくれただけでもまだましなのかもしれない。  ごめん、ともう一度呟けば、志摩は「もういいよ、それ。聞き飽きたし」と手を広げた。 「……それにしても今日はやけに素直だね。学園祭だから浮かれてるのかな」 「そういうわけじゃ……その、本当に悪いことしたと……」 「ふうん、俺にレイプされたのに俺に対して悪いって思うんだ?」  志摩の口から吐き出されたその言葉に思わず硬直した。恐る恐る目を向ければ、志摩と視線がぶつかる。 「ねえ、なんで?」 「っ、し……ま……」 「普通はさぁ、齋藤の反応って間違ってないと思うんだよね。今の齋藤は寧ろさぁ――無防備すぎ」  伸びてくる指から逃げようとして、踏み止まる。ここで逃げてはならないと防衛本能が警報を鳴らすのだ。試されているのだと、志摩に。  頬を撫でる指先に驚いて体が硬直する。志摩、と名前を呼べば、志摩はふ、と鼻で笑う。 「ねえ、震えてる? また逃げたらいいじゃん」  煽るような言葉とともにするりと横髪を掻き上げるように耳朶に触れる指にぞくぞくと背筋が震えた。  志摩の言葉にはいつも裏がある。それを信用してはいけないのだ。 「っ、俺は……志摩と喧嘩したくない……」  勇気を出し、絞り出した俺の言葉に志摩の笑みが深くなる。何故こんなに志摩の笑顔が嘘臭く見えるのか、それは俺が志摩の素顔を知ってしまったからだろう。  このまま志摩を避け続け、付き纏われ、気遣って疲弊するだけの日々を歩まなければならないというのなら全て水に流してしまった方がまだましだ。……そう思えた。 「……俺は、今まで通り志摩と仲良くしたい」 「へえ、俺と仲良くねえ? ……それ本気で言ってる? 避け始めたのってさ、齋藤の方からでしょ」 「随分と虫のいい話だよね」そう笑い、一歩また近付いてくる志摩に思わず後退りそうになり寸でのところで堪える。  ここで逃げ出したら変わらない。頭では理解していても志摩の視線に、棘のある言葉に怯みそうになってしまう。 「分かってる。……けど、俺は……」  平常心を装おうとするが声の震えまでは誤魔化すことはできなかった。  そうしている間にも吐息がかかるほどの至近距離に迫る志摩。あまりの近さに思わず視線を反らしたときだった。意外なことに志摩はす、と俺から身を引いた。そして、 「いいよ」 「――……え?」 「齋藤のいう今まで通りというのがどんなものかは知らないけど、俺は構わないよ。……元より、俺は齋藤と仲良くしたかっただけだしね」  人良さそうな笑みを浮かべる志摩。皮肉混じりではあるものの、想像していなかった志摩の反応に今度は俺が狼狽える番だった。  ……これは、安心していいのだろうか。答えに言い淀んでいるとエレベーターが目的の階についたようだ。  扉が開き、志摩と二人きりの空間から開放されたことにほっとした。  先にエレベーターを降りた志摩はこちらを振り返る。そして、微笑んだ。 「ほら、早く行くよ。今まで通り過ごしたいんでしょ?」  身も蓋もない言い方ではあるが否定するつもりもない。俺は志摩の待つロビーへと降りた。  ――学生寮一階、ロビー。 「齋籐、なに食べたい?」 「……軽いやつならなんでも」 「じゃあ売店にしようか。この時間ならまだラウンジ空いているだろうしそこで食べよう」  志摩は本当に何もなかったように俺に話しかけてきた。  思えば揉めた直後も志摩は何も変わらなかった。皮肉混じりに笑って、それでも俺の隣にいようとしていた。  ……志摩の言う通り、俺の受け取り方の問題だったというのだろうか。  目的地である売店へと向かうため、俺達は店舗の並ぶショッピングモールを通り抜ける。  学園祭当日。  学生寮も一階だけは一般開放されるようだが仰々しく飾り付けされた校内に比べればいつもと変わらない学生寮の様子に安堵すら覚える。  ……まあ、普段が派手なだけあってわざわざ装飾する必要がないのだろう。  目的地であるコンビニの中へと足を踏み入れれば、後ろからぴたりと志摩がついてくることに気づいた。目的地が同じなのだろうかと惣菜コーナーや飲み物コーナーへとうろうろするが、離れずにくっついてくる志摩は棚の商品を見ようともせず俺の後をついてくるのだ。  ……気のせい、ではないよな。適当に目の前の塩おにぎりを手に取る。そして、俺は恐る恐る背後の志摩を振り返った。 「……志摩、食べないの? ……さっきから全然棚見てないけど」 「俺は朝齋籐待ってるときに朝食取ったからいいよ」 「……え?」  俺を待ってるときって。  部屋の前、俺が出てくるのを待ち伏せしながらパンを齧る志摩が浮かぶ。あまりの生々しさに堪らず俺は思考を振り払った。  いつから、どれほどの時間あそこで待っていたのか恐ろしくて聞けなかった。 「それよりも齋藤、もう少し栄養つくものにしたら? それ塩しか入ってないでしょ」 「ほら、これとかどう?」なんて言いながら塩昆布おにぎりを手に取り渡してくる志摩に一々突っ込む気にもなれなかった。  ……というか、自分は食べないくせに朝食には付き合うのか。そういうものなのか、それとも志摩が異質なのか俺には普通というものがいまいちわからないが……取り敢えず塩昆布おにぎりを選ぶことにした。  時折入る志摩の横槍を受けながらもおにぎりとお茶を手に取った俺はそのまま精算を済ませる。  宣言通り最後まで志摩の食指は動かなかった。  ――学生寮一階、ラウンジ。  朝食が入ったビニール袋を片手に志摩とともにラウンジに足を踏み入れれば、そこには既にちらほらと先客の姿があった。  そしてその中に、見覚えのある生徒が一人。  丁度たった今席を立とうとしていたそいつは、出入り口から入ってくる俺を見て舌打ちをする。  ――栫井だ。  見知らぬ生徒と相席をしていたらしい栫井は俺と目が合えば露骨に面倒臭そうな顔をする。  なんというタイミングだろうか。昨日のお礼を伝えたかったのを思い出し、咄嗟に「栫井」と名前を呼べば栫井はそれを聞こえなかったフリをして立ち上がるのだ。  そして俺達を避けるようにラウンジを出ていこうとする栫井に咄嗟に俺はその腕を掴んだ。  瞬間、こちらを睨む栫井は俺の腕を振り払った。 「っ、ぁ……」 「……離せよ」  どうやら掴んだ場所が悪かったようだ。  昨日、保健室で見た栫井の傷のことを思い出し、慌てて俺はごめんと謝った。 「その、怪我は……」 「……邪魔なんだよ。退け」  大丈夫?と聞くよりも先に、苛ついた栫井に押し退けられそうになる。  なんで昨日よりも柄が悪くなってるのか、何かあったのかと気になったがそれよりも先に反応したのは俺の隣にいた志摩だった。 「ねえ、心配してもらっておいてそれはないんじゃないの?」  ……まさか栫井にまで突っ掛かるとは思っていなかっただけに全身に嫌な汗が滲んだ。  鬱陶しそうに目を細めた栫井は志摩を睨んだ。 「誰もそんなことを頼んだ覚えはねえよ。……通行の邪魔だ、このグズ連れて隅にでも寄ってろ馬鹿が」  言わずもがなグズというのは俺だろう。  栫井から罵詈雑言投げ掛けられるのは慣れていた。寧ろ今ではこういうやつなのだろうと受け入れることができたが、志摩がいる今はまずい。 「ば……馬鹿……?もしかしてそれ俺に言ってんの?」  志摩の笑みが凍り付く。ぴくぴくと引き攣ったその頬が痙攣するのを見て血の気が引いた。  一触即発とはまさにこのことだろう。  静まり返るラウンジからいつの間にかに不穏な気配を察知した他の生徒たちはその場を移動していた。  俺だって逃げられることなら逃げたかった。  明らかに俺達の周りの温度が下がっているのがわかったからこそ余計。 「し、志摩……俺は大丈夫だから……」 「大丈夫ってなにが?馬鹿にされて喜んでるの?」 「そ、そうじゃないけど……その……」  しまった、火に油を注いだみたいだ。  志摩には下手に触れない方がいいだろう、俺は志摩と栫井の間に入り、目の前の栫井を見上げた。 「あ……あの、呼び止めてごめんね。それと……五味先輩のこと、ありがとう。助かったよ」 「怪我、お大事に」そう慌てて栫井を見送ろうとすれば、栫井はこちらを睨み、そのまま俺達の横を通り抜けラウンジを後にした。  ……なんとか大事になることは回避できたようだ。  栫井の姿が見えなくなったのを確認し、ふうと一息吐いたとき。 「なんで黙って行かせたわけ?」  栫井もギャラリーもいなくなったあとのラウンジに志摩の怒ったような声が響いた。  ……案の定、というべきか。  こうなることは大体予想ついていた。 「……取り敢えず、座ろっか」  志摩の表情からしてまた今回も長くなりそうだな、と思いながらも俺は志摩と一緒に席に着く。 「それで……なんなの?さっきのあれ」  座って開口一番これだ。  余程気になったのだろう。……そもそも志摩は生徒会役員のことを快く思っていない。そんな生徒会相手だからこそ余計志摩は気に入らないのだろう。  ここは冷静に、なるべく怒らせないようにしなければ。 「……その、せっかくの学園祭なのに、問題起こしたらまずいだろうし」 「へえ、真面目だね。今まで散々問題起こしているのに」 「それは……」 「で、ありがとうとかお大事にってなに?」  来た。やはり聞いていたのか、当たり前だが黙って聞き流しちゃくれない志摩のことはわかっていた。 「まあ……その、色々お世話にっていうか、助けてもらって……」 「助けてもらった?あいつに?なにを?なんで?何があったの?」 「……別に、志摩が気にする程大したことじゃないよ」  そう誤魔化そうとしたとき、志摩の目の色が変わる。あっ、と思った。  志摩の嫌がることがわかってきた。志摩は隠し事されたり、誤魔化されたりするのを極端に嫌がる。これは怒涛の詰問に合うかもしれない、そう思って俺は咄嗟にコンビニで買った袋を開いた。  そして、ガサガサと中からおにぎりを二つ取り出した。そしてその内の一つを手渡す。 「……あの、これ。志摩、流石に昼まで保たないだろうからと思って買ってきたんだけど……」 「よかったら食べて」と志摩の目の前にそっと置けば、志摩は何かを言いかけて口を一文字に結ぶ。そして、じとりと俺を見た。 「……齋藤、もしかして俺を餌付けしようとしてない?」 「そういうわけじゃないけど……志摩が何も食べないのに俺一人だけ食べるのは気が引けるなと思って……」 「いらないなら、いいよ」とおにぎりを引っ込めようと手を伸ばせば、志摩に手を取られた。 「……要らないとは言ってないでしょ」  ……餌付けはされるのか。 「齋藤、都合が悪くなったらそうやって人を誤魔化そうとするのやめたら?……わかりやす過ぎ、このくらいで俺が絆されると思われるのは結構癪なんだけど?」  言いながらももぐもぐとおにぎりを食べる志摩を見てると餌付け作戦も悪くないと思える。 「飲み物もあるよ」とボトルのお茶を渡せば、志摩はじーっと俺を見てくるのだ。……疑いの眼だ。 「何か企んでる?」 「企んでないよ。……ただ、栫井のことは本当に助けてもらっただけだから。……あと怪我のこと知ったのも昨日保健室でたまたま会っただけだし……」  嘘だ。けど、一から十を言って更に志摩を怒らせるよりもその上辺だけを掬ってそれらしく伝えた方が志摩も納得するだろう。  ……と思ってたけど。 「まあ、おにぎりに免じてそういうことにしておいてあげるよ」  含みのある言い方だ。  俺の言葉を信じていないのだろう。それでも執拗に言及されないだけましだ。  ……というか餌付けは有効なんだな。  そして志摩との朝食を済ませ、俺達はラウンジを後にする。  そのまま渡り廊下を通って校舎へと向かう俺達。  一般開放されるまでまだ時間があるはずだが、ちらほらと学園周辺が賑わいでるのが俺でも分かった。  そして飾り付けられた廊下を通って自分たちの教室へと向かう。  お化け屋敷に出店など、それぞれのコンセプトで目一杯装飾された教室の前を通り過ぎれば見えてきた――俺たちのクラスの喫茶店だ。  客寄せと従業員役の生徒は制服からウェイター服に着替えていた。  本来ならば俺も手伝っていたのだろうか。皆と一緒になって完成した内装に喜んでいたのかもしれない。……今となってはなんの感慨も沸かない。  けれど志摩は別だろう。仮にも委員長である志摩は他の生徒たちと一緒になって飾り付けなど準備を頑張っていた。 「……すごいね」 「そう?……あ、見てこのメニュースタンド。俺が作ったんだよ」  そう言いながら入り口前のメニュースタンドを持ってくる志摩。確かに見覚えのあるおどろおどろしいリボンがふんだんに盛り付けられている。すごいね、とだけ言っておく。  疎外感を覚えながらもこの自分だけが浮いた教室から逃げ出さずに済んだのは隣に志摩がいてくれたからだろう。  けれど、どうやら時間がやってきたようだ。 「志摩君、これ」とこわごわと一人の生徒がやってきて、申し訳なさそうに紙袋を志摩に手渡した。それを無言で受け取った志摩は中を見て、露骨に面倒臭そうな顔をする。 「あー……忘れてた」 「……どうしたの?」 「俺、午前客引きなんだよね」 「客引きって……志摩が?」 「そうだよ」と志摩はにっこりと微笑む。  客引きと言われ、俺は町中で呼び込みしてる人たちを思い浮かべる。……確かに志摩は目立つから女性客は増えそうだが、それでも普段の志摩の振る舞いからしてちゃんと接客できるのかという疑問が湧いて出た。 「……齋藤、今失礼なこと考えてるでしょ」  そしてバレた。 「いや、まあ、その……頑張ってね」 「齋藤もね。一日自由行動」  ぐ、と押し黙る。  そう、俺は他の生徒たちのようになんの役割も無いだけフリーになる。  一緒に回る人がいるのならまた違うのだろうが今のところ芳川会長との一件を除いて予定はない。……つまり暇なのだ。  それに会長との一件も一件だ、会長は「心配するな」と言っていたが俺からしては祭りムードを楽しむような気分にもなれない。  無意識に肩が落ちる。そんな俺を見て、志摩は笑みを深くする。 「ねえ齋藤。午後、俺フリーだから一緒に回ろうよ。どうせやることないんでしょ?」 「……午後?」 「嫌?それとも何か用事でもあるの?」 「……それは、その……」  否定しきれなかった。  いつ芳川会長からの呼び出しが掛かるかわからない状況だ。……志摩の誘いを素直に喜べなかった。  歯切れの悪い俺に志摩も気付いているのだろう。 「暇なときでいいよ。齋籐も、デートで忙しいみたいだからね」  そのときは呼んでね、とそれだけを言えばそのまま志摩は紙袋を手にして教室を後にした。  一人取り残された俺は「まあ、デートには違いないのか」とぼんやり考えていた。  長い長い一日は始まったばかりだ。

ともだちにシェアしよう!