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今の俺が判断力が低落しているのは確かで、栫井たちの方がより冷静なのは明らかだった。
二人に促されるがまま会長に連絡を取った俺は、すぐに生徒会室前で会長と落ち合う約束をした。
――そして、生徒会室前。
二人と別れ、生徒会室前までやってきた俺は扉の前で入ろうか迷っていた。
そんなとき、背後から「齋藤君」と声を掛けられる。振り返れば、そこには芳川会長がいた。
「すまない、遅くなった。……怪我は?」
「……俺は、大丈夫です」
会長には『匿ってほしい』という連絡だけをしていた。
栫井と灘からは、『とにかく、芳川会長の前ではか弱い被害者であり続けろ』と言われていた。しかしそんなことをせずとも、この状況でいつも通りで居続ける方が難しい。
縁の腹に広がる赤い染み、その映像が瞼裏に蘇ってはただ具合が悪くなる。
「取り敢えず、中に入れ」
余程酷い顔になっていたのかもしれない。そう、声を掛けてくる芳川会長の声がいつもよりも少し固く聞こえた。俺はその言葉に甘え、目の前で開かれる扉から生徒会室へと足を踏み入れる。
生徒会室の窓から射し込む夕陽がやけに赤く見えた。
生徒会室の中に人気はなく、俺は芳川に招かれるまま客人用のソファーへと座らせられる。
「それで、それはどうしたんだ」
隣に腰を下ろした芳川会長は、俺の腹部を見て更に怪訝そうに眉根を寄せた。
先程ラウンジで揉み合いになったときだろう、先ほど揉みくちゃにされた際にゆれたワイシャツの腹部。縁の血が付着していた。芳川会長でなくともこんなものを見たらぎょっとするだろう。
「え、あ……これは、その、ただの返り血で……」
かといってうまい言葉が出てくるわけでもない。
口ごもれば、「返り血だと?」とより一層芳川会長の表情が険しくなった。
なにも答えられなくなる俺に観念したらしい、「わかった」と会長は静かにつぶやく。
「取り敢えず、着替えた方がいい。そのままでは気持ちが悪いだろう」
「え、あ……でも」
「替え、俺のでいいか?」
「あっ、すみません……お借りします」
まさかこんな形で世話になるなんて。流石に申し訳なかったが、こんな血まみれで会長の隣にいる方が迷惑かけてしまうのも本意ではなかった。
大人しく俺は芳川会長の好意にあまえることにした。
制服は芳川会長の予備の制服らしい。仮眠室からワイシャツの替えを借りた俺はすぐにシャツに着替えることとなる。
別室を借り、そこで会長のシャツに着替える。
やはり少し大きく感じるが、不格好なほどではない。それに、我が儘を言えるような立場でもない。
着替えて戻れば、俺を見るなり「少し大きかったか」と会長は目の前までやってきて、まじまじとこちらを観察する。なんだか酷く緊張する。
「急ごしらえで悪いが、少しの間それで我慢してくれ。」
「は、はい」
「脱いだシャツをこっちに渡せ。これは俺が処分しておこう」
そう、こちらへと手を差し出してくる芳川会長に一瞬ぎょっとする。
思わず目の前の会長を見上げれば、俺が言わんとしていることに気付いたのだろう。「新しいシャツは俺の方から準備させてもらう」と会長は続けた。
「あの、でも」
「洗ったところで他人の血で汚れた制服など袖も通したくないだろう」
寧ろなぜ俺が躊躇するのかわからない、そう言いたげな会長に折れ、俺は促されるまま会長に脱いだシャツを渡す。
渡した後、縁とのひと悶着の証拠品でもあるシャツをこんなに簡単に他人に手渡していいのかと思ったが、考えたところで時すでに遅し。今更やっぱ返してくださいなどと言えなかった。
そして、目の前でシャツを広げた芳川会長にぎくりとする。
「……酷いな」
ぽつり、と漏れたその言葉に、急速に喉が渇いていくようだった。
会長の長い指は、白いシャツに染み付いた乾いた血をなぞる。そして、そのまま血痕に向けられていた視線がゆっくりとこちらを向いた。
「そろそろなにがあったのか聞かせてもらってもいいか」
「……っ」
「齋藤君」と、また、名前を呼ばれる。
ここが、正念場だ。
頭の中で栫井と灘、二人との会話が過ぎる。
ここでいかに会長を味方にできるかで、今後すべての状況が変わる。そんな状況に緊張するなという方が難しい話だ。
「すっ、……すみません……っ俺、もう、どうしたらいいのかわからなくて……」
声が震える。それは本心でもあった。
そのまま俯く俺の肩に触れた会長はそっとソファーに座らせる。
そしてそんな俺の目の前、跪いた会長は俺の顔を覗き込むように見つめってくるのだ。
「ゆっくりでいいから話してみろ」
そう、幼い子供を宥めるかのように優しく肩を撫でられる。
最初は触れられることに緊張したし、自分も殴られるのではないかとびくりと体が震えた。
けれど、思いの外優しい声に、手に、戸惑う。
肩から腕を撫でられ、「ゆっくり深呼吸をしろ」と目を覗き込まれ、囁かれるのだ。
「……っ、か、いちょう……」
「ここには俺と君しかいない――……大丈夫だ」
この手が栫井を傷付けていた。その事実を疑いたくなるくらい、会長の手は優しくて、暖かい。
綺麗な人間ではないと理解している。それでも、会長という人間がわからなくなっていた。
それでも今はこの優しさに頼ることが最善だ。俺は会長に体を預け、「はい」と小さく頷いた。
――被害者になりきれ。
「いきなり、知らない人たちに襲われて、刺されそうになって、必死に逃げてきましたけど、俺、やっぱり無理です……こんな……っ」
「この血もそのときのか?」
「はい、いきなり目の前で……自分の腹を……」
俺がそう口にした時、ほんの僅かに芳川会長の眉がぴくりと反応した。
「自分で?」そう、隣に腰をかけた芳川会長はうずくまる俺の背中を優しく摩る。大丈夫だから、そうゆっくりと促してくるような手だった。俺は小さく頷き返す。
「っ俺、どうしたらいいのか……もう、わかりません……っ」
恐らく、また縁たちが俺の目の前に現れることはわかっていた。いくら阿賀松が退学に追い込まれたとしても、縁たちは違うのだ。
その事実にただ、心臓が握り潰されるような不安感に襲われる。
そんな俺の肩に、芳川会長の手が触れる。思いのほか強い力で抱き寄せられ、思わず俺は芳川会長を見上げた。
「大丈夫だ、ここにはそんなことをするやつはいない」
肩を抱き寄せる手は優しく、はっきりと口にされた言葉はどこまでも心強かった。
実際、何度も芳川会長に助けてもらったからこそ余計心に沁み込んでいく。それと同時に、どうしても縁の顔がちらついた。守る、そう口にしてあっけなく掌を返したあの男の顔が。
俺だって会長のことを信じたかった。それなのに、会長の知らない顔を見る度に頼もしく感じる反面恐ろしくもなってしまうのだ。
「怖い目に遭わせて悪かった。……俺の配慮が足りなかったな」
正面から抱き締められ、一瞬、心臓が止まったような気がした。
自責の念を露わにする会長に、慌てて俺は首を横に振った。
会長のせいではない。俺がもっと危機感を持っていれば、縁に付け込まれるようなことにならなかったはずだ。そんな俺を見詰めたまま、会長は「君は優しいな」と小さく呟く。
それから、会長は体が震えが収まるまでずっと付き添ってくれた。
会話などない。背中を摩る手の熱が心地よくて、次第に呼吸も脈もなだらかになっていく。それを確認し、芳川会長は俺から手を離した。
「悪かったな、勝手に触れるような真似をして」
「あ、あの……いえ」
「少しは落ち着いたか?」
尋ねられ、小さく頷く。そうか、と会長は小さく笑った。
それも少しの間だった、すぐその表情に険しさが戻る。
「それにしても、そんなことする馬鹿はどこのどいつだ。……いや、いたな。しそうなやつが」
「あ、の……」
「ああ……飲み物がまだだったな。ちょっと待ってろ、すぐ用意してくる」
そういって、会長は席を離れた。ソファーに腰を下ろした俺は、だだっぴろい生徒会室内にゆっくりと視線を向ける。
会長が俺の味方をしてくれる。その事実は酷く心強い反面、自分がとうとう引き返すことの出来ない場所まで足を踏み入れたような気がしてならない。
……いや、いつだって俺は引き返すことの出来ない立場であるはずだ。余計それを強く思ってしまうのは、やはり縁とのことがあったからだろう。
俺は、阿賀松たちを敵に回してしまった。その事実が、今更大きく俺に伸し掛かった。
だけど今、俺は一人ではない。栫井と灘が後ろにいると思えたからこそまだこうしていられるのかもしれない。
あのとき二人がこなかったらと思うとぞっとする。
――芳川会長を味方につける。自分は被害者であり続ける。
必ずまた縁たちがアクションを起こしてくるだろうが、落ち着いて被害者を語る。
自己防衛を語るのは、本当に立場が危うくなってから。そして、会長を利用し尽くす。
無表情の灘と苦虫を噛み潰したような栫井が提案した内容はそれだった。
二人曰く、俺の立場は特殊らしい。それがどういう意味かはわからなかったが、特別扱いされているのならそれを使わないことはない。ということを二人が言っていたのだが、やはり人を動かすのは難しい。なにをするにしても心は疲弊していく。罪悪感のオマケ付きで。
暫くして芳川会長は戻ってきた。
「すまない、これしかなかった」と置かれるフルーツジュースの入ったグラスを「ありがとうございます」
と有り難く受け得とる。
緊張で喉は渇いていたが、それを口にすることはできなかった。代わりに、俺は対面のソファーに腰を掛ける芳川会長に向き直る。背筋をピンと伸ばし、“本題”に入ることにした。
「会長……その、お願いがあるんですけど」
「なんだ」
「少しの間でいいので、俺を……ここに置かせてもらえませんか」
「ここって……生徒会室か?」
「無理なのはわかってます、けど、俺、部屋に帰るのが怖くて……わがまま言ってごめんなさい」
「……」
――やはり、無理か。
頭を下げる俺に対して会長はそのまま押し黙る。沈黙がひたすらいたたまれなかった。
栫井たちは大丈夫だと言っていたが、やはり無茶な願いだったのだ。もう少し言葉を選ぶべきだったか。
そう後悔しかけた矢先だった。
「頭を上げろ」
「会長……」
「そうだな、元はといえば俺が撒いた種だ」
まさか、と顔を上げれば芳川会長はふっと微笑んだ。
「君さえよければ仮眠室を使えばいい。……大抵のものは揃っているから不便なことはないと思うが、一人でいるのは心細いだろう」
「君がここにいる間、俺もここにいよう」そう、芳川会長は静かに続ける。
まさか本当に許可してもらえるなんて。諦めかけていたところだったかろこそ余計驚いた。
「い、いいんですか……?」
「君の方から頼んできたんだろう。本来ならば校舎とはいえ無断外泊、教室を寝床にするなんて以ての外だが……状況が状況だ。君の安全が最優先だろう」
「……ありがとうございます」
「状況が状況だ、君がそう畏まる必要はない。取り敢えず、仮眠室の鍵を渡しておこう」
「好きに使ってくれ」と、会長は制服のポケットから取り出した鍵を手渡してくる。それを受け取り、俺は失くさないようにすぐにポケットにしまった。
「今日は色々あって疲れただろう。ゆっくり休んだらいい。ベッドも好きに使え」
確かに、本当怒涛の一日だった。俺は会長の言葉に甘えさせてもらうことにする。
――仮眠室。
今は片付けられ、小綺麗な状態だがやはりここにくるとあのときのことを嫌でも思い出してしまう。
散乱した花瓶の破片に、カーペットに染みた赤い無数の点。痛みに顔を歪めた栫井と、冷たい目をした会長。
会長は、どんな気持ちで俺にここの鍵を渡したのだろうか。思いながら俺は置いてあるベッドにそっと触れた。一人用にしては大きすぎるそれは当たり前だがひんやりと冷たい。
一人になるとどうしてもマイナスなことばかり考えてしまう。もうこれは性格的なものだと諦めて、俺は気を紛らわすために仮眠室の中を調べることにした。
窓はなく、眠りを邪魔されないために防音になってるようだ。ここからは生徒会室での会話も聞こえないだろう。
仮眠室の奥にはシャワー室に繋がっているようだ。誰かが用意したのだろうか、そこには清潔なタオルやボディーソープが置かれている。棚には傷薬や絆創膏などの医薬品が常備されているのを見てなんとも言えない気持ちになった。
――会長はここを好きに使っても構わないと言ったが。
脱衣室からシャワー室へと繋がる扉を開き、息を飲む。真っ白な浴槽とシャワー。しっかりと換気され、清掃も行き届いたそこを見てるとなんだか無性にシャワーを浴びたくなってくる。
体も汗やらでべとべとして気持ち悪いし、少し借りさせてもらうことにする。
それから風呂に入り、ベッドに潜る。
何度も寝返りを打ち、枕の位置を変えたりと試行錯誤してみたが、どれだけ目を閉じていても俺が眠りにつくことはなかった。
それどころか、変に冴えた頭は昼間の出来事を鮮明に蘇らせるばかりで。
「……」
――少し、喉が乾いた。
シャワーの水を飲むわけにもいかないし、取り敢えず生徒会室に戻ってみることにした。
なるべく音を立てないようそっと扉を開けば、扉の隙間から明るい光が差し込む。
会長、起きているのだろうか。なんて思いながら生徒会室内に足を踏み入れた時、会長机の前。ソファー椅子に深くもたれかかったその人を見つける。
会長、と恐る恐る近づこうとして芳川会長が眠っていることに気付いた。
普段かけている眼鏡は畳んだままテーブルの上に置かれて、そのまま椅子に座ったまま目を閉じる会長。
テーブルの上を照らす点きっぱなしのパソコンの画面からするに、どうやらなにか作業中だったようだ。
――こんなところで寝るなんて、やっぱり会長、疲れているのかな。
当たらないようにとテーブルの上に置かれた眼鏡を会長から遠ざけた俺は、そのまま一旦仮眠室へと戻る。そしてタオルケットを持って生徒会室へとやってきた。
会長は先ほどの状態のまま微動だにしていない。俺はなるべく起こさないようにゆっくりとその体にタオルケットを掛けた。
そのときだった、いきなり伸びてきた手に手首を掴まれてぎょっとする。慌てて顔を上げれば、うっすらと目を開いた会長と目が合った。
「ん……齋藤君?」
俺の顔がまだ認識できないようだ、寝ぼけ眼のままじっと見つめてくる会長に心臓はまだドキドキしてしる。
「す、すみません。起こしましたか?」
「いや、大丈夫だ。……そうか、俺は寝てたのか」
「会長、あの、疲れているようですしそろそろベッドで横になった方が……」
「問題ない」と短く答えた会長はテーブルの上の眼鏡を手に取り、そのままかけた。
そこで膝にかかったタオルケットに気付いたようだ。それを手に取り、会長はこちらを見上げてくる。
「君が掛けてくれたのか?」
「いえ、これくらい別に……」
「君は本当に優しいな」
「……っ」
頭を撫でられるとつい気が緩んでしまいそうになってしまうのだ。
本当に、ただ純粋に会長のことを勘ぐらずにいられたままの関係だったら。そう思わずにはいられなかった。
「なんだ、眠れないのか?」
「……すみません、ちょっと、まだ緊張してて」
隠していたところでバレてしまうだろうので、俺は素直に自分の心境を告げる。
すると、会長は渋い顔をした。
「ああそうだな。無理もない。……そうだ。少し、外の空気を吸わないか」
「え? ……今からですか?」
「無理にとは言わない。気休めではあるが、少しくらいは気分転換になるだろう」
もしかしたら会長なりに気を使ってくれているのかもしれない。言いながら椅子から立ち上がる会長に俺は狼狽えたが、ありがたくその気遣いに甘えることにした。
「そうですね。……ありがとうございます」
会長を頼って生徒会室にやってきてからずっと屋内に引っ込んでいたせいか、酷く外の空気が恋しくなっていた。
もしかしたら外に阿賀松たちが待ち構えてるかもしれない、なんてことも考えたが今の時間からしてその可能性は低いだろう。
それに、元々は深夜の校舎は一般生徒は立ち入りが出来ないようになっている――一般生徒ではない、阿賀松を除けば。
それでもこんな状況だ、阿賀松が自由に行動できるとは思わない。
「気にしなくてもいい。……ただ、俺も気分転換をしたくなっただけだ」
畏まる俺に、会長はただ苦笑を浮かべた。
「すごい、静かですね」
「こんな時間だからな、無理もない。風が冷たいな」
「そうですね。涼しくて……気持ちいいです」
「そうだな」と、会長は俺の言葉に小さく頷いてくれた。
動かないエレベーターの代わりに階段を使い、校舎一階まで降りてきた俺達。
しんと静まり返った廊下は酷く薄気味悪かったが、隣に居るのが会長だからだろうか。以前一人でぐるぐると夜の校舎を回っていたときに比べればかなり心強かった。
……それにしても。
「……」
「……」
面白いほど会話が続かない。
ぽつりぽつりと言葉はあるものの、会長も話したい気分ではないのだろう。それがわかったからこそ俺の方から話しかけることが憚れ、薄暗い校舎内に沈黙が続いた。
それでも、会長の隣を歩くのは苦痛ではない。緊張しないといえば嘘になるが。
「少し、そこで休もうか」
ふと足を止めた芳川会長は、月明かりに照らされるガラスの扉を指差す。
その向こう側には青々と茂った緑が目に付いた。そこは中庭へと繋がる扉だった。
普段、昼間の中庭ばかり見てきたせいだろうか。薄暗く、月明かりに照らされた中庭の様子はまるで知らない場所のような気すらもした。
「あ……あの、勝手に入っていいんですか?」
「ここまでついてきておいて君は不思議なことを言うな」
「別に、荒らしに来たわけじゃないのだから構わないだろう。ほら、こっちだ」そう、ついてこいとでも言うかのように先を歩いていく芳川会長。
たまに、会長にはこういう一面がある。真面目で厳格そうな人だと思いきや、まるで好奇心に駆られた子供の用に思い切った行動に出る会長。そんな会長の一面を見せられる度に、普段の芳川会長とどちらが本当の会長なのか分からなくなってくるのだ。
戸惑いながらも、俺は芳川会長に置いて行かれないようにそのあとを追いかけて深夜の中庭へと足を踏み入れた。
深夜の学園というのもなかなか雰囲気があったが、深夜の中庭というのも不思議なものだった。
足元、ライトアップされた木々や手入れの行き届いた花たちはなかなか幻想的で。
足を踏み入れた瞬間強い風が吹き、ざあっと音を立て揺れる木の葉。それもすぐに止み、辺りに先ほど以上の静寂が走った。
「なんか、すごい雰囲気変わりますね」
「昼間も賑やかで悪くないが、夜の静けさもいいだろう」
「……はい、落ち着きます」
「そうか、気に入ってもらえてなによりだ」
用務員の人が手入れしている花畑は、薄暗い夜空の下でも鮮やかなのがわかる。
風に吹かれて葉がぶつかり合う音を聞いていると、酷く、荒んだ心が落ち着いていくようだった。これが自然の力ということか。
なんてぼんやりと考えながら辺りを眺めていると、芳川会長は「座ろうか」と近くのベンチを指した。断る理由もなかった。俺は会長の言葉に頷き返し、会長と並んでベンチへと腰を掛けた。
「会長はよく夜にここへ来るんですか?」
「ああ。……他のやつらには言うなよ、怒られるから」
「わ、わかりました、内緒にします」
何気なく尋ねたつもりだっただけに予想していなかった回答が返ってきて驚く。
戸惑う俺を見て会長は笑う。もしかして会長なりの冗談だったのだろうか、とちらりと横目で会長の横顔を盗み見た時だった。
「夜の学校にくると、落ち着くんだ」と、会長は口を開く。
「昼間あんなに人で賑わっているのに、今は自分しかいない。――その事実に酷く安心する」
そう目を伏せ、淡々と続ける会長。
一人しかいないという孤独感、それは俺がなにより恐れているものだ。
誰もいない、誰とも繋がらない。自分の中に存在するのはただ一人……会長は、それが安心するという。
「……」
会長がそんなことを言い出すとは思いもしなくて、同時に、会長の言葉にきつく胸が締め付けられた。
だって、それって、つまり……。
「……すみません、俺」
「どうして君が謝る?」
「俺がいると、落ち着きませんよね」
一人が好きだという会長にとって、傍にいる俺は邪魔でしかないはずだ。
そのことを突き付けられた気がして、酷く居た堪れなくなる。落ち込む俺に会長は目を丸くし、そして笑う。
「君は面白いことを言うな。いや、俺の言い方も悪かったな。……別に、一人が好きなだけで君が邪魔といったつもりはない」
「会長……」
「なんで俺がここに君を連れてきたかわかるか?」
いきなり問い掛けられ、言葉に詰まる。
なにか答えなければと必死に思考を働かせてみるが、「えっと、あの」と喉で詰まった言葉はうまく出てこない。
口籠る俺に会長は柔らかく微笑み、そして、ぽんと頭の上に手を乗せられた。
「齋藤君、君に教えたかったんだ。……俺の好きな場所を」
静まり返った中庭に広がる、落ち着いた声。くしゃりと髪を撫でられた俺は、会長を見上げた。
「かい……ちょう?」
「……君には知ってもらいたかった」
薄暗い中、会長の瞳は確かに俺を見ていた。向けられた会長の目はどことなく寂しそうで、向けられたその視線に胸の奥がざわつく。
その言葉に嬉しくなるよりも先になんとなく、なんとなくだがしこりのような違和感を覚えたのだ。
「あの」と恐る恐る口を開きかけたとき、頭を撫でていた会長の手が離れる。そしてそのまま会長はゆっくりとベンチから立ち上がった。
「そろそろ戻ろうか。……悪かったな、付き合わせて」
こちらを振り返り、照れ臭そうに笑う会長に慌てて俺は首を横に振った。
「いえ、あの……嬉しかったです。会長が、お気に入りの場所を教えてくれて」
嘘ではない。ここに連れてきてもらえたことによって会長に認めてもらえたような気がして、戸惑ったものの嬉しく思ったのは本当だ。ただ、俺が慣れていないだけであって。
「……嬉しい、か」
慌ててフォローする俺に、会長はふっと笑う。
その笑みが、僅かにぎこちないものになったのを俺は見逃さなかった。
「俺のことを軽蔑しないのか」
笑みを浮かべたまま尋ねてくる芳川会長に、どくんと心臓が大きく脈を打つ。
必死に蓋をしようとしていたところを無理矢理抉じ開かれたような、そんな感覚だった。先ほどまで穏やかだった神経が、一斉にざわつき始めた。
まさかこのタイミングで会長の方から“あのこと”に触れてくると思わなかっただけに、余計戸惑った。
「った、しかに、驚きました。それに、事情があったのも分かります」
どうして会長はそんなことを言い出すんだ。
こちらの反応をじっと確かめるような会長の視線がひたすら痛い。
会長が俺にどんな反応を求めているのかわからなかった。それでも。
「……でも、栫井にあまりひどいことしないで下さい。……お願いします」
それは本心だった。
確かにあいつが会長に逆らう真似をしたのも事実だろうし、全くの善人でもないのも俺自身知っている。
でも、それでも、傷の痛みに呻く栫井を思い出すと酷く心が痛んだ。その理由はなんとなくわかる。殴られることがどれだけ痛いのか、信じてもらえないことがどれほど辛いのか知っているからだろう。
背景になにがあったのかよくわからない。それでもやはり、苦しむ誰かを見るのは辛かった。
言葉を絞り出せば、こちらに向けられていた会長の目が僅かに細められる。
「君は、随分とあいつを気に入ってるみたいだな」
「俺は……俺は、会長には暴力を奮ってほしくない……だけです」
自分の気持ちを伝えるのは、いつだって苦痛だ。
喉に刺が刺さったみたいに喋る度に息が苦しくなったが、それでも会長にはちゃんと伝えなければならない。そんな気がした。
俺自身、会長のことを嫌いになりたくなかった。会長が優しい人だと、そうまだ信じていたかったから。
「す……すみません、俺、生意気なこと言って」
怒られるだろうか、不愉快に思われることは間違いないだろう。
それを覚悟して発言したつもりだったが、やはり会長の目を見るのが怖くなって咄嗟に俯いたときだ。会長の手が伸びてきた。
殴られるのだろうか、とぎゅっと目を瞑る。しかし、いくら待っても痛みはこない。
それどころか、
「っ、……あの」
わしゃり、と無造作に頭を撫でられる。予想していなかった優しい手の感触に驚いて顔をあげれば、思いの外近いところに会長の顔があって心臓が大きく弾んだ。
会長、と息を飲んだときだった。
「理由を、聞かせてもらってもいいだろうか。……俺に手を汚させたくない理由を」
「……え? あ、あの……」
「聞かせてくれ」
目の前に、会長の顔が迫る。鼻先同士がぶつかりそうになり、ベンチの上、思わず俺は後退る。
それでも、会長の視線は俺を捉えたままだった。投げかけられたその言葉は純粋な疑問のように聞こえた。
会長のように敏い人ならばニュアンスからでも分かりそうなものなのに、それでも敢えて俺の口から言葉を引き出そうとしてくる会長の意図は分からない。それでも、今この瞬間なら会長にちゃんと言葉が通じるのではないか。
「会長は……俺の、憧れの人だから」
「ヒーローみたいな人だから、人を傷付けて欲しくないです」何を言ってんだ、と自分で言ってて顔が熱くなった。それでも、この言葉に嘘偽りはない。
人から慕われ、堂々と立つ会長は俺の理想だった。
自分の意思を貫き、人に流されない。この人みたいになれたら、と何度思ったことだろうか。
だからこそ、そんな会長が暴力を振るう姿は見てて、ショックだった。それでもこの人のこと完全に見限ることが出来無いのは、そんな会長が考えて起こした行動だと信じたいからだろう。
そこまで言って、反応しない会長にはっとする。やはり相当変なことを言ってしまったのだろう。居た堪れなくなった俺は熱くなった顔を掌で覆い隠す。
「すっすみません! やっぱりあの、今のなしで……」
「……ヒーローか」
「この俺が」と、芳川会長はぽつりと呟いた。喜んでいる、というよりも寂しそうな曖昧な笑顔だった。
もしかしたらドン引かれているのではないだろうかと思ったが、どうやら違うようだ――会長は俺のことを見ていない。
「……会長?」
恐る恐る、そう声を掛ければ、そこでようやく会長は俺を見た。
「君は甘いな。そこが、いいところなのだろうが」
「す、すみません」
「謝らなくてもいい。……嬉しいよ」
そう言って、会長は「そろそろ、戻るか」とベンチから立ち上がった。
生ぬるい風が吹く。会長の表情は見えなかったが、なんとなくその声が柔らかく聞こえたのは気のせいだけではないはずだ。
校舎へと向かう会長に置いていかれないよう、慌てて立ち上がった俺は「はい」とそのあとを追い掛けた。
来るときに比べ、幾分足取りが軽くなったのはここで様々なものを吐き出したからかもしれない。
◇ ◇ ◇
『齋藤佑樹が伊織さんを売りやがった』
先程、安久から掛かってきた電話を受け取ったときは正直驚いた。
ゆうき君が、というのが大きかっただろう。そのあと、それを頭で理解した時「とうとうこの時が来たか」という諦めにも似た感情が脳の全体を占めた。
「……そっか、ゆうき君。ゆうき君は、そうするんだね」
あっちゃんが身も心も潔白な人間ではないことを知っている。
ゆうき君との関係も、知っている。知っているけど、それでも俺にとってあっちゃんは掛け替えのない存在であった。
そんなあっちゃんの立場がなくなる。ひっきりなしに着信を受け取る携帯端末を一瞥し、俺はテーブルの上に置かれたグラスを手に取った。ゆうき君がいなくなった部屋は酷く広い。
数ヶ月前まではこの広さと物寂しさは当たり前のことだったというのに、慣れというものは恐ろしい。
薄暗い部屋の中、白く発光するノートパソコンの画面に目を向ける。そこに表示されたのは、メッセージに添付されたとある動画。動画に表示されている日付は昨日。映像には見慣れたラウンジには数人の生徒が集まっていて、その中にはゆうき君の姿もあった。
「ゆうき君」
ゆうき君が自発的にあっちゃんを告発するなんて考えられないし、そのために会長を利用したようにも思えない。あながち、会長から唆されたのだろう。会長は頭は悪くない。
俺個人としても、あの人の性格は嫌いではなかった。好き嫌いがはっきりしているあの性格は、正直羨ましく思う時がある。
だけどあっちゃんの、阿賀松伊織の身内である俺の立場からしたら会長のことを許すということは出来ない。
出来ないんだ。出来ないのに。
「ごめんね、ゆうき君」
出来ることなら、ゆうき君には平和に暮らして欲しい。けれど、今の俺にはゆうき君を幸せにするほどの力量もない。
ゆうき君が会長を選んだと聞いて、本当は少しだけ安心した。
あの人は俺よりもしっかりしている。その腹の中がどうであれ、ゆうき君を守ってくれるに違いない。
――そうしたら、俺も心置きなくあっちゃんの味方をすることが出来る。
天国か地獄 √α:ep.1『本当で嘘で』
【END】
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