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09
「あーあ、やっちゃったなー」
「パニクってナイフ振り回してたのを止めようとしていただけ方人さんを刺すなんて」
「あいつ 終わったな」
誰一人、ことを重大視しているものはいない。
囁かれる声、隠そうとしない笑い声、飛んでくる野次。中には携帯を手にし、こちらへとカメラを向けてくる人間もいた。
――すぐに、状況は理解できた。
「――ッ!」
最悪だ。脳裏に犯罪者として新聞に載る自分を想像してしまい、全身から血の気が引いていく。
縁がなにを企んでいるか、理解できた。出来ただけに、どうしたらいいのかわからない。
全身の毛穴が開き、どっと汗が滲む。緊張から器官が締め付けられ、次第に呼吸が浅くなった。
「ぁあ……どうしよう、齋藤君。血が止まんないよ、どくどく溢れてくる。俺、死んじゃうかもしれない」
そんな俺の肩を抱き寄せ、耳元に唇を寄せた縁は甘い声で囁いてくるのだ。
吹きかかる吐息は熱い。縁の白いシャツはどんどん赤く染まっていく。
この男は、と思った。俺がナイフを持ち出すとは思わなかったくせに、咄嗟にこんな手法を取った目の前の男がただ不気味で、吐き気がした。
「……っそのために、薬局に行ったんですよね。止血して、早く、先生を呼んで下さい」
「いいの? 齋藤君、捕まっちゃうかもよ?」
「最初からそのつもりだったんじゃないんですか」
少なくとも、縁は毛頭から俺をハメるつもりだったんだ。自分が殴られること前提で全て仕組んでいた。
薬局に寄って傷薬や包帯を買い溜めていた縁を思い出し、腸が煮え繰り返るというよりも呆れてなにも言えない。
そこまでして俺を陥れなければならないのか。
「だから、なにをいきり立ってんのって」
こっちを向いて、と顎を掴まされ、強引に振り向かされる。
目の前に縁の顔があって、まさか、と全身を強ばらせたと同時に唇を塞がれた。
「んん……っ!」
人前で、しかも腹から血を流しながらもキスしてくる縁。
噤んだ唇を抉じ開けられ、舌を捩じ込まれる。
なにを考えてるのだと顔を離そうとするが、角度を変えて更に深く口付けられれば逃げられない。
引っ込めた舌を絡み取られ、音を立てて吸われれば指先から力が抜けていくのだ。
「……っふ、むっ……っ」
その場に崩れ落ちそうになるのを腰を抱かれ、更に密着する。
腹部同士が触れ合い、ひんやりと濡れた感触がこちらまで染み渡ってくるようだ。
咄嗟に体を離そうとするが、縁は離れない。
濃厚な血の匂いが辺りに充満する。その血の量に、こちらの方が酷い目眩を覚えた。
「齋藤君、俺の心配よりしなきゃなんないことがあるだろ」
「……っ、は……」
ちゅっ、ちゅっ、と音を立て顔にキスをしてくる縁は最後に俺の目元に唇を押し当て、にこりと微笑んだ。
痛みを感じさせないような、爽やかな笑顔だった。呆気取られたまま動けなくなる俺に、「口封じ」と微笑む。
「ほら、頑張って」
そう笑う縁は放心する俺の背中を押し、そのままラウンジの中央へと押し出した。
向けられた無数の視線、今更それらに恐怖を覚える余裕なんてなかった。
「ほら、齋藤君が俺の怪我の分まで身を呈して償ってくれるんだって」
「せっかくだから、好意に甘えてやれよ」縁がなにを考えているのか、なにを目的にしているのか。俺を犯罪者としてでっち上げたいのならすぐに教師なりなんなりを呼べばいいはずだ。
ならば、なぜこんな大人数の前で脅迫するのか。
口封じ、と縁はいった。ただ単に嬲られている俺を肴にしたいのか。
清々しいくらい自分の欲望に対しドストレート縁ならばそんな回りくどいやり方をしないはずだ。だとしたら、他に目的があるということになる。
人の痴態を大勢に見せつける?なんのために?単なる性的倒錯?
……分からない。理解などしたくもなかった。
「……っ!」
服を剥ぎ取ろうと伸びてくる手を振り払い、縁たちから逃げようとする。
しかし、縁に足を払われる方が早かった。
「よっと」
「っ、わ!」
ずしゃっとバランスを崩し、転倒する俺。
慌てて起き上がろうとするが、そのまま頭を床に押し付けられる。
「そんなに照れなくていいのに。どうせ初めてじゃないんだから。まあ、そこが齋藤君の魅力なんだろうけど」
くすくすと笑う縁の声。
四方から伸びてきた手に制服を引き剥がされ、俺は縮こまるように丸まった。
「逃げんなよ」と前髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。顔を上げれば、見知らぬ生徒がいて。
「っふ、んん……ッ!」
当たり前のように唇を塞がれ、一瞬頭の中が真っ白になった。
次に、視界に色が戻った時にはベルトを掴まれ、スラックスを脱がされそうになっていた。
――嫌だ、触るな。
手足を抑えられているお陰で体が思うように動かず、俺はそれを受け入れる事しかできなかった。歯痒さと羞恥で全身が熱くなる。
「……っ、は、んん……」
抵抗さえしなければ、なんとかやり過ごすことが出来るかもしれない。
いつもそうだった。連中が飽きるまで我慢すれば、従順でいればより痛い目に合うことはないのだ。
――でもそれは、俺にとってはあまり使いたくない手だった。
他に他になにか。なんて、ぐるぐると回る頭の中、眼球を動かして辺りを探る。
瞬間、ずるりとスラックスを脱がされ、俺は現実に引き戻された。
「っぁ、……ッ!」
誰かの手に下着のウエストを掴まれる。咄嗟に下着を脱がされないように下半身へ手を伸ばすが、その腕は誰かもわからない手に掴まれ、そのまま頭の上で拘束されるのだ。
「っ、や、め……ッ」
その場にいた全員の視線が下腹部に向けられ、顔から火が噴きそうになる。
「う……っわ、なにこれ。すっげぇ」
「こんなところにまでついてるし」
腿を掴まれ、足を開かされた。
一瞬、なんのことを言っているのかわからなかったが、恐らくキスマークのことを言われてるのだと分かって余計いたたまれなくなる。
――最悪だ。
「っ、さ、わるな……っ!」
とにかくこの場から逃げ出したかった。
無遠慮に腿を撫でられ、キスマークを確認するようにシャツごと捲り上げられる。
覗き込むように多数の目がこちらへ向けられる。新しい玩具を見つけたような好奇の目や、下品な笑みを浮かべた目――恐怖よりも吐き気が勝った。
「今更恥ずかしがってんじゃねえよ。いらねえだろ、こんなの」
「っ、……っ」
ウエストが伸びそうなくらい下着を引っ張られ、それでも必死になって脱げないように抑える。半ばやけくそに足をバタつかせようとするも、びくともしない。
それどころか下着を掴んで抑えていた指を掴まれ、関節とは逆の方に曲げられる。ひん曲がるような痛みに体が強張り、思わず抑えていた下着から手を離してしまう。
「ぁ……ッ!」
下着がずり下ろされ、下半身が外気に曝されると“それ”が起きたのはほぼ同時だった。
いきなりラウンジの照明が落ち、視界が真っ暗になる。
昼間ではあるもののこのラウンジには日光を取り入れるための窓はない。
また縁の仕業なのかと思ったが、俺同様「なんだ?」と戸惑ってる連中の様子からしてそれはハプニングのようだ。
「おい、照明付けろよ」
「取り敢えず、携帯で明かりを……」
そう、どこかでぱっと携帯のディスプレイが点灯した。
そして次の瞬間、「ぐっ!」という呻き声とともに携帯が床へと落ちる。
「っおい……うわっ!」
「てめえ、なに……っぐっ!」
それは一人二人ではない。
色めき立つ空気の中、呻くような声が聞こえてきた。
――なにが起こっているんだ。
暗闇の中、目を拵えるように辺りを探った時だ。
「おいっ、なにしてんだよっ!」
すぐ側で怒鳴り声が聞こえたと思えば、体を押さえつけていたものがなくなった。
そしてすぐ近くで何かが床にぶつかるような音と振動が伝わってくる。
近くに何かがいる、連中とは別のなにかが。
そう理解したのも束の間、取り敢えず服だけを着直そうとしたとき、いきなり伸びてきた腕に体を抱きかかえられる。
「な……っ!」
「暴れないでください、落ちたら危ないので」
体を抱き起こされ、戸惑う俺にその人物は俺にだけ聞こえるように言葉にする。
平坦として、感情が読み取りにくいその声は聞き間違えようがなかった――灘だ。
「な、なんでここに……っ!」
「話は後で聞きますので、今は逃げさせていただきます」
「え、わ、わわ……ッ!」
言うなり、俺を立たせた灘はそのまま腕を掴んだまま強い力で引っ張り上げていく。
側にいるのが見知った人間であるということにひどく安心したが、それでもやはり、なぜ灘がここにいるのかわからなかった。
さっきラウンジにはいなかったはずだ。
――と、そこまで考えたとき。
「おい! 誰か明かりつけろ! 早く!」
後方から大きな声が聞こえ、緊張する。
――色々灘に聞きたいことはあったが、もたもたしている暇はなさそうだ。
脱げかけのズボンで足が縺れそうになるのを堪えながら、なんとかそれ履き直す。
そして俺は暗闇の中、灘に引っ張られるように光を目指して駆け出した。
灘の持っていた役員専用のカードキーを使い、生徒会専用のエレベーターに乗り込む。
――行き先は学生寮、最上階だ。
最上階は普段開放されておらず、一般生徒は出入りを禁じられているはずだ。
生徒会役員は特別なのだろうか。なんて思っているうちにエレベーターは目的地に到着した。
そして、やってきたのは学生寮、最上階。
学生寮最上階には、校舎と繋がった渡り廊下が存在していた。前、十勝に連れて来られた場所だ。
暗幕が張られた薄暗い渡り廊下を灘について歩いていく。道中に会話はなかった。
すると、歩いていた通路の先にうすぼんやりと人の影が浮かんでいることに気付く。
誰かいる、と緊張した時だった。
「齋藤君、連れてきました」
そう、立ち止まった灘はその陰に向かって声を掛けるのだ。
つられてその視線の先に目を向け、息を飲んだ。
「か、栫井……?」
先ほど、生徒指導室で別れた時と変わらない姿の栫井平佑がそこにいた。
壁にもたれかかり、座り込んでいた灘はゆっこりと立ち上がる。そして、相変わらず精気のない目で俺を睨むように見下した。
「お前、馬鹿だろ」
それは呆れたような声だった。
「ほいほいほいほい付いていくのは良いけど、相手くらい選べよ。尻軽」
「し……っ」
――尻軽。
何故栫井がここにいるのかも分からないまま、栫井に罵倒されますます混乱する。
そんな俺を見兼ねたのか、「栫井君、さっき言っていたことと違いますよ」と灘は口を挟んだ。
今度は栫井が押し黙る番だった。
「あ、あの……」
状況からして、灘と協力して俺を助けてくれたのは栫井で間違いなさそうだ。周りには栫井以外人気はないし、でもだとしてだ。俺にとってはそもそも栫井が助けてくれたということ自体がにわか信じがたかった。
けれど、一先ず助けられたことには違いはない。御礼は言おう、そう言葉を探した時だった。
「わ……」
栫井が口を開く。また罵倒されるのではないかと身構えたが、栫井の言葉はそのまま途切れてしまう。
聞き間違いではないはずだ。
「いま、なにか……」
「言いかけた?」と尋ねようとした時だった。栫井は舌打ちをし、そのままそっぽ向く。
そして、
「わ……悪かった」
「え?」
一瞬、栫井がなにを言ったのかわからなかった。
そっぽ向いたまま、ぼそりと口にする栫井。
「……お前が、頼んでもないのに庇ってくれるとは思わなかったから。その……ごめん」
「栫井が、あや、謝……っえ?」
これはなにかの間違いだろうか。あの偉そうで口が悪くておrに冷たい栫井が、俺に頭を下げるなんて。
つい夢かとほっぺたを抓ってみたが痛い。夢じゃない。だとしたら目の前のこいつは偽物だろうか。
なんて、あまりの出来事に目を疑えば、灘も「俺からも謝罪させていただきます」と頭を下げてくるのだから余計ぎょっとした。
「こちらの問題に巻き込むような真似をしてしまいすみません」
「ふ、二人とも……俺は、別にそんな」
「そして、無鉄砲で頭でっかちな栫井君を庇っていただきありがとうございます」
「感謝します」と続ける灘に、栫井は「おい」と不愉快そうに灘を睨んだ。
二人とも、つまらない冗談を口にするタイプではないことは俺でも知っている。
だからこそ余計、二人の言葉をうまく咀嚼するのに時間がかかってしまった。
「……」
「……おい」
「齋藤君」
「ご、ごめん……少し、びっくりしちゃって……」
あまりにも俺がなにも言わないから心配してくれたのだろう、こちらを覗き込んでくる栫井と灘に笑い返そうとした時、ようやくこの頭と体は状況が呑み込めたようだ。
眼球の奥、じんわりと熱が広がっていく。こちらを覗き込んでいた二人の顔がぐにゃりと歪んだ。
「……っ、う……」
「おい……」
「……ぅ、あ……ありがとう……お、俺も……」
滲み、目頭に溜まった涙は玉になってぽろぽろと落ちていく。面倒臭そうに舌打ちする栫井の横、ハンカチを取り出した灘は「これを使ってください」と貸してくれた。灘のハンカチを汚すのは気が引けたが、思ったよりも涙が止まらなかったのでありがたく好意に甘えることにした。
「おい、なんでここで泣くわけ。あんた頭沸いてんの?」
「ご、ごめ……っ、なんか、ちょっと吃驚して……」
ズビ、と鼻を啜れば栫井は「意味わかんねえ」と吐き捨てる。けれど、二人とも俺が落ち着くまで待っててくれた。
それが嬉しくてまた少し泣いてしまう。
どれほどどれほど経っただろうか。
涙もようやく止まり、俺は本題に入ることにした。
「それで、助けてくれたの?」
そう尋ねれば、そっぽ向いたまま栫井は答える。
「別にあんたのことは助けてないから。自惚れんなよ」
「縁方人と歩いているのを見掛けて、後を付けました。状況が状況でしたし、齋藤君の身が気になったので」
「大体、なんであの変態なんだよ。お前ドMかよ。自分からノコノコ相手の思うツボに入りやがって」
めんどくせぇ、と栫井。
無言ではあるが灘の視線にはどこか俺を咎めるようなものもあった。
現に大変なことになってしまっているだけに何も言い返す言葉もなかった。確かに深く考えなかった俺にも非はある、二人にそう思われても仕方がない。
「ご、ごめんなさい……」
けれど、確かに最初縁に相談に乗ってもらっているときは嘘を吐いているようには見えなかった。
ただ単に自分が正常な判断が出来なくなっていただけなのか、どちらにせよあのまま二人の助けも入らずに縁が仕組んだことを知らないままだったら――そう考えるとぞっとしない。
「恐らく、尾行していた俺を誘き出そうとしたんでしょうね。あんな派手な真似して」
「灘君を?」
「見せびらかすように校舎内わざわざ歩き回ってんだからわかるだろ、ふつー。ハメようとしたんだよ、お前を餌に」
こいつを、と栫井は俺、灘の順番で指さした。
「俺一人なら、齋藤君を助けられませんでした」
「お前弱いしな」
「怪我人は安静にお願いします」
仲がいいのか悪いのか、こんなに饒舌な灘は初めて見たかもしれない。
暫く睨み合っていた二人だけど、やがて諦めたように栫井が視線を逸らした。そして小さく溜息を吐く。
その二人のやり取りがなんだかおかしくて、つい頬が緩んだ。
「……ありがとう。灘君、栫井」
ふん、と鼻を鳴らす栫井だが、悪い気はしていないようだ。いやわからない。けれど、そうだったら嬉しい。
しかし、対する灘はといえばまだその表情は硬い。
「齋藤君、まだ安心するのは早いのでは」
「え? ……あ」
――縁の怪我、阿賀松の対処、阿佐美との生活。
問題は何一つ解決されていないどころか積み重なっていっている。
そして今回の縁のことも考えれば、立場は最悪ともいえるだろう。
「これから、どうするんですか」
「どうするって……その……部屋に戻るよ」
縁のことは、今現状あの現場の物的証拠も握られている状況だ。俺にはどうすることもできないし、せっかく逃げられたのにまたノコノコ縁の元へ行ってみろ。今度こそなにされるかわからない。
今回、俺を陥れるためだけに自分の腹を刺すような相手だ。
あの怪我なら一先ずは本人もすぐには動いてこない……そう思うしかない。そもそも、本当に俺は巻き込まれた立場だ。あの画像や映像が出回ったとしても、「縁を刺したのは縁本人だ」と事実を述べることしかできない。
「部屋で阿佐美と顔合わせるのは怖いけど、ちゃんと話してみる。それでも無理だったら、それまでだけど……」
そうするしかない。それが最善だ。いくら阿佐美と阿賀松の血が繋がっていようが、阿佐美は話せばわかるやつだし阿賀松たちのように暴力で訴えかけてこない。
だからこそ余計会いにくいのだが、今俺にできることはそれくらいだ。
「あんた、本気でいってんの?」
しかし、そんな俺の勇気を振り絞った提案も栫井にばっさり切り捨てられてしまう。
「阿佐美詩織が阿賀松伊織の関係者って知ってんだろ、あんたも。部屋に戻った瞬間アウトだ」
「でも阿佐美はいいやつだから、話したらきっと分かってくれるかもしれないし……」
「根拠がない」
投げやりな口調だが、栫井は痛いところを適確に突いてくる。
だからだろう。そんな栫井の言葉に詰まりたくなくて、なにがなんでも俺は言い返したかった。
「根拠はなくても……ちゃんと知ってるよ、阿佐美は話せばわかるやつだし、俺、ちょっとだけだけど一緒に生活してたんだから」
しどろもどろと反論すれば、細められた栫井の目から鋭い視線を向けられた。
「たかが数ヶ月で知ったような口聞くなよ」
その一言に、全身の筋肉がぎくりと緊張した。
「あんたがいくら信じたところで阿佐美詩織は阿賀松伊織の味方をするに決まってる――必ずな」
だって、と栫井が畳み掛けるように言いかけた時だった。
「取り敢えず、」と、灘は俺達の間に立ち、パンパンと手を叩いた。その音に驚いて灘を見れば、目があった。相変わらずその目に感情はない。
「今夜のこともそうですが、俺が言っているのはこれからのことです」
もっと広い視野で見てください。口に出しやしないが、灘の纏う空気がそう言っているように聞こえた。
「会長に言われたとはいえ阿賀松伊織を敵に回してしまった現状、齋藤君は非常に危険な立ち場になってしまいました。今後の学園の生活での支障が出るのは目に見えてます」
「……うん、そうだね」
「俺は、なんとしてでもそれを避けたいと思います」
冗談も言わなければ軽口も叩かない。
無駄のない灘のストレートな言葉は、直接心に染みていく。
「灘君」
「取り敢えずそういうことだから。……俺も、他人に借り作りっぱなしにすんのやだし」
「あ、ありがとう……」
そう、感謝の思いを声に出した時。ぶわわっと目から涙が溢れた。
蛇口が壊れた水道のように号泣する俺に、栫井は「何回泣くんだよ」と眉間に皺を寄せた。
「ご、ごめんね……そう言う風に言われるの慣れてなくて……」
「めんどくせぇ」
ごもっともだ。
そんな俺達を横目に、灘は暗幕カーテンの向こう、生徒会室がある方角へと視線を向けた。
「取り敢えず、しばらくの間生徒会室に身を置くのはどうでしょうか。会長も君のためなら力を貸してくれるはずです」
灘はそう提案する。そのとき、灘の口から出た『会長』という単語に、心なしか栫井の顔色が悪くなるのを俺は見逃さなかった。
「でも、いいの?」
「状況が状況なので会長も無視することは出来ないはずです。会長にとってもこうなることは分かっていたはずでしょうし。五味先輩も十勝君も、君のことは気に入っているようでしたから大丈夫でしょう。……ただ」
「……ただ?」
「あくまでも自己判断で頼ってきたということで、会長に持ちかけて下さい。決して、自分達の名前は出さないように」
達、ということはその中にも栫井が含まれているのだろう。
灘の提案にちくりと胸の奥、心臓に小さな針が埋まるような痛みを覚えた。
「どうして……」
確かに栫井と芳川会長のことを思い返せば胸は苦しくなる。けれどあれは栫井が阿賀松と組んでいたことが大きな原因でもあった。
やりすぎだとは思ったし、今回のことも正直戸惑っているし怖いと思ったのも事実だ。
それでも、会長はただの分からず屋ではないはずだ。二人が助けてくれ、ここまで協力してくれたのだと分かればまた会長も考えを改めてくれるのではないか。
真っ直ぐにこちらを捉える灘の目は逸らされることはなく、俺も負けじとみつめかえせば、一瞬だけ僅かに灘の口元が緩んだ――ような気がした。
そして、そんな俺の淡い期待もすぐに打ち砕かれる。
「裏切り者と思われたくないでしょう」
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