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08

 ――学生寮、一階。  ラウンジ前までやってきた縁は、扉を開き「おお、空いてるねえ」と笑う。  そりゃあ、普通ならば授業が行われている時間帯だ。と思いながらも縁についていこうとしたときだった。  なにかに気付いたのか、「ん?」と縁は足を止める。 「どうしたんですか?」  なんとなく気になって、縁の肩越しにラウンジ内を覗き込んだ時だった。  ――背後で、影が動いた。 「っ、齋藤君!」  不意に縁に名前を呼ばれ、「え?」とつられるように背後を振り返った時。  縁に腕を引っ張られ、そのまま庇うように抱き締められた。顔を覆う腕の隙間、棒状のものを手にした見知らぬ生徒の姿が見え、背筋が凍りつく。 「ぐ……っ!」  次の瞬間。鈍い音がし、覆いかぶさっていた縁の体が強張った。  自分を庇ったせいで、縁が殴られた。そう気付いた瞬間、血の気が引く。 「先輩……っ!」 「大丈夫だよ、こういうのには慣れてるから」  俺、と縁は笑った。  そして片腕で俺を抱きかかえたまま縁は相手の柄物を取り上げる。  ぎょっとする生徒。その顔は見たこともない相手だが、阿賀松の差し金ということなのだろうか。 「か弱い俺に手を出すなんて、酷いだろっ?」  縁先輩、と声をあげるよりも先に縁が目の前の生徒を殴る。あまりにも痛々しくて、思わず顔を逸してしまったが次に顔をあげたときには縁は俺から離れていた。 「せっかくの齋藤君とのデートを邪魔するなんて、酷いなあ……ちゃんと責任取ってくれるんだよな」  縁に殴られた拍子に転倒したその生徒、その上に馬乗りになったまま縁は手にしていた金属棒を生徒の首に乗せる。そしてその端を手に、ぐっと体重をかけるのだ。 「ぅ、ぐ……っ」 「それで誰の差し金?」 「あ゛っ、が……っ!」 「ん〜、聞こえないなあ……ま、だいたい想像つくけど」  器官を物理的に圧迫され、みるみるうちに顔色が変色していく男に俺は不安になってくる。  縁も殴られたときはヒヤッとしたが、これはやりすぎではないのだろうか。 「っ、え、縁……先輩……それくらいにしないと……っ」  その人、死んでしまうんじゃないですか。  そう慌てて縁の腕を使うとしたときだ。「なに?」と振り返った縁、その目が俺の背後に向けられる。そして次の瞬間、いきなり背後から伸びてきた腕に羽交い締めにされた。 「っ、ん、う゛……っ!」  口を手で塞がれ、「静かにしろ!」と聞き慣れない声が耳元でした。俺の方を見た縁は歯がゆそうに「齋藤君……」と呟く。 「そいつから離れろ、武器も捨てろ」 「……分かったよ、その子には乱暴なことしないでね」 「抵抗したら殺す」 「……」  そう観念したように縁は手にしていた棒を床に向かって投げた。そして、降参のポーズをしてみせるのだ。瞬間、どこから現れたのか一人の男が捨てられた武器を拾って縁に向かって殴りかかるのだ。 「っぐ……ッ!」  一度二度では止まらず、男は何度も椅子を振り下ろした。 「っ、ふ、う゛……っ」  ――止めなければ。  目の前で行われる一方的な暴行にただ目の前が真っ白になる。額が切れたのか赤い血が縁の顔を濡らすのだ。  どうやら連中は予め隠れていたようだ。一人、二人と増えてくる外野。その手には、それぞれバットや竹刀など、『使い勝手のいい凶器』が握られていた。そして全員の目が、俺たちに向けられていた。  ――なんなんだ、これは。  まるで悪い夢を見ているようだった。  縁を助けようと必死にもがいた瞬間、側にいた別の体格のいい生徒に腹を殴られる。腹部にめり込む拳は最早凶器だ。呆気なく意識が飛び、俺はそのまま縁を助けることもできないまま気を失った。  もしかしたら殴られたのかもしれない。  連中に囲まれていたのを最後に記憶が途切れ、気付いたら埃っぽい個室の中にいた。  薄暗い室内、数人の生徒に体を押さえ付けられていることに気付き、慌てて振り払おうとするがどうやら飛んでる間に殴られたらしい。腹部が痛み、四肢に力が入らない。 「誰かっ、助け……っんん!」  せめて、助けだけでも。そう声を上げるが、思いっきり鳩尾を殴られ絞りだそうとした言葉はかき消される。  目の前が白ばみ、吐き気がこみ上げた。 「っは、ぁ……っうぇ……っ」  涙が滲む。噎せ、えずいたとき、もう一発腹を殴られてあまりの痛みに意識が飛びそうになった。  肉体的痛みと精神的混乱のせいで頭が働かない。ただ、これ以上殴られるとまずいというのは直感で感じた。 「誰だよ、こいつすげー大人しいとか言ったやつ」 「面倒くせえから縛れよ」  ……せめて、せめて縁を助けなければ。  痛みで朧気な思考の中、頭から血を流した縁のことを思い出していた。 「せんぱ、縁先輩……っ!」  乾いた眼球を動かし、辺りを探る。  ――簡易な棚と段ボールがやけに目立つここは倉庫か物置だろうか。  周りには見知らぬ生徒が数人いるだけで、肝心の縁の姿は見当たらない。  もしかしたら、ラウンジに残したままなのだろうか。  嫌な汗がだくだくと溢れ、気が遠くなりそうになったとき。顔のすぐ横を、なにかが過ぎった。 「お前、自分の状況わかってんのか? 先輩の心配してる場合じゃねーだろ」  頬に掠れるスレスレのところ、鋭く尖った銀色のそれは床の板に突き刺さっていた。  俺の横顔を映し出すそれは携帯用のナイフだった。  それを見た瞬間、ドクンと心臓が跳ね上がる。 「嫌だ、誰か……っ」  ただの脅しだと思いたい。思いたいが、最悪の想像が脳裏に 浮かぶ。  首を振り、ナイフから逃げるように顔を仰け反らせば、しゃがみ込んでこちらを覗き込んでいた連中はおかしそうに笑う。 「誰かって? 誰のこと?」 「ほら、会長様々だろ。あのいけすかねー眼鏡」 「あーなるほど」「そういや付き合ってんのってマジ?」と好き勝手口々にする連中。  芳川会長の名前が出た時の連中から隠そうともしない嫌悪感を感じ、俺は直感する。――どうやら生徒会アンチのやつらのようだ。 「ああ、なら無理だな。あいつは助けに来ねえよ、絶対」 「そーそー。君も、大人しくしといた方がいいよ。怪我したくないだろ?」  なんで俺がアンチのやつらに襲われなければならないのか。  なんで仮にも阿賀松の側近である縁先輩まで巻き込まれているのか。  なんで、なんで。考えた結果、すぐに答えは出てきた。  ――この連中のバックには阿賀松伊織の指揮があるのだ。 『針千本、飲む覚悟は出来てんだろうな』  あの時、耳打ちされた言葉が鮮明に蘇る。この場にいない赤髪の男が瞼裏に現れ、息を飲んだ。  これが針千本の内の一本というわけか。  なにか、なにか身を守れるようなものはないだろうか。そう辺りを探ってみれば、すぐに目的のものを見つけることが出来た。  未だ迷う自分を叱咤し、俺は下卑な内容で談笑する連中の隙を伺う。  そして一瞬、自分から視線が逸れた時。 「……っ」  床に刺さっていたナイフの柄を男子生徒から奪い取り、そのまま引き抜くようにしてそれを振り翳した。  一瞬、俺の行動に気付くのに遅れたそいつの頬を刃先が掠める。 「っ、ぐ!」  男子生徒が怯んだその瞬間、俺は男子生徒のネクタイを引っ張りその首元にナイフの刃を押し付けた。 「てめぇ……っ!」 「あの、近付かないで下さい……っ、お願いします」 「じゃないと、手が滑ってしまうので」言いながら、男子生徒のネクタイを引っ張ったまま俺は扉へと向かって一歩、また一歩と進んでいく。  まさか、人質を取られるとは思っていなかったのだろう。……俺も、思わなかった。  だけど、腕力と人数で勝つためにはこれしか方法がないのだ。そう必死に自分に言い聞かせた。  青褪めた生徒たちは、じりじりと俺たちから離れる。  良かった、ここには友達のためを思って自分を犠牲にしてまでも飛び掛ってくるような無鉄砲はいないらしい。 「……いいですか、動かないでください。お願いですから……」  気を抜いてしまえば腰も抜かしてしまいそうだった。それを悟られないように床を踏みしめ、俺は人質を盾にしながら倉庫の扉へと歩いていく。  腕の中の人質の生徒をどこで捨てるか、そのことも考えなければならないがまずはここを出るのが先決だろう。  部屋の中の生徒たちの動きをしっかりと見つつ、背後を取られないように注意を払う。そして俺は後ろ手にドアノブを探り――見つけた。  ひんやりとした鉄製のドアノブの感触が指に触れた。そして俺は考えるよりも先にそのまま扉を開き、人質諸共倉庫から飛び出した。  取り敢えず、ここを離れよう。  そして縁を助けなければ――そう思いながら、乱暴に扉を閉めた矢先だった。 「齋藤君?」  背後から聞こえてきたのは、聞き覚えのある甘く優しい声だった。つられるように振り返った俺は、目の前にに広がる光景に凍りついた。  ――場所は、学園内ラウンジ。  そこは先程襲撃を受けた場所だった。  先程の騒ぎで散らかったテーブル席の奥、先程殴りかかってきた生徒たちが集まっていた。  それだけでも最悪だというのに、その輪の中心にその男はいた。  ――縁方人だ。  一人ソファーにふんぞり返り、側にいた一人の男子生徒に額に絆創膏を貼ってもらっていたらしい縁は、前髪を下ろしてこちらを見る。 「先輩……っ?!」 「手に持ってんのって……あー、なるほどね」 「怪我、え、ってか、なんで……っ」  明らかに、様子がおかしかった。  縁が無事なのは嬉しいし安心した、けど何故そいつらと一緒にいるのか。  そんな固まる俺の手の中のナイフに目を向け、縁は「そうきたか」と笑った。  そのときだった人質にしてい男に腕を肘で殴られる。隙きを突かれ、手にしていたナイフが音を立てて床に転げ落ちた。  慌てて拾おうとしたとき、人質は逃げ出す。そして縁の元に駆け寄るのだ。 「すみません、方人さん、こいつが勝手に……っ!」  そう、人質だった男子生徒が言い訳を口にしたときだった。  ソファーから立ち上がった縁は笑顔で人質の肩を掴み、そしてそのまま躊躇なく下半身を蹴り上げる。  人間のものとは思えない断末魔を上げながら床に崩れ落ちる男子生徒、その尻を蹴り上げた。 「……本当、使えねえ奴」  一瞬、表情から笑を消した縁はまるでボールでも蹴るかのように蹴り捨て、そして蹲る男子生徒を無視して俺に歩み寄ってきた。  しんと静まり返ったラウンジ内、縁の靴の音だけが響いた。  そして、目の前までやってきた縁は立ち止まった。 「全く、齋藤君見直しちゃったよ。君って結構大胆なんだね」  当たり前のように目の前で行われた暴行に、一瞬反応が遅れてしまった。  状況は未だ飲み込めなかったが、それでも分かることはあった。――縁は、こいつらとグルだのだ。  考えるよりも先に、俺は手にしていたナイフを縁に向けていた。ナイフに反応した体格のいい連中が動こうとしたが、縁はそれを片手で制する。 「先輩っ、なんで」 「なんで? むしろそれはこっちのセリフかな。なんで大人しくしてないの?」 「……っ、」 「それにさ……ダメだよ? そんなもの人に向けちゃ。せっかくの可愛い顔に傷が付いたら大変だろ?」 「茶化さないで下さいっ!」  ナイフで威嚇すれば、縁は肩を竦める。  周囲の目がある分余計、自分がどんどんと後戻りができない状況まで追い込まれているという自覚はあった。  どうして、なんて考えればすぐにわかった。  ――阿賀松伊織、あの赤い髪の男の顔が浮かぶ。 「なんで、こんな……俺のこと、守ってくれるって……っ」  優しかった縁を信じたかった。  信じたかったし、さっき庇って殴られたときは本当に苦しかった。  けれど、それも全て仕組まれたことだったのだ。  自作自演で心を掻き乱されたことが、ただただ悲しい。それ以上に、懲りずに騙された自分が情けなくてたまらない。  視界がぐにゃりと歪む。目の前までやってきた縁は、俺の手に握られたナイフに構わず俺の頬に手を伸ばしてきた。頬の上、華奢な指先が撫でるように滑る。 「あーあ、もう泣かないで。……ほんっと可愛いなぁ」  そう、俺を優しく抱きしめるように額に顔を寄せる。額と額をこつんと重ねる縁。そのまま縁は後ろ髪を撫で付けるように優しく俺の後頭部に触れた。  突きつけた刃先のすぐそばに縁の生白い首筋がある。それでも躊躇することなく俺に触れてくる縁に、逆にこちらが怯えてしまいそうになった。 「全部、齋藤君のためだよ」  そして、縁は楽しそうに目を細めた。 「俺の……?」 「そ、齋藤君のため。可愛い可愛い齋藤君が悪い奴に騙されないようにテストしてるんだ」  対する縁はいつもと何ら変わりない様子で微笑んだ。  細められた視線が、ねっとりと絡み付いてくる。思わず後ずさったが、背後の壁が俺の後退を阻んだ。 「けれど――残念、齋藤君は不合格」  唇に縁の吐息を感じるくらいの至近距離。  そう笑う縁は、ナイフを握り締めた俺の手首を強く掴んだ。 「っ」 「でも、俺のこと信じてくれたからおまけで優しくしてあげるよ。だからそんな顔しないで?」 「ね?」と掴まれた手首は、甘く優しい言葉と裏腹に骨を砕くほどの強い力で締め付けられる。  負けてはならない、ここでナイフを取られてはおしまいだ。そう必死に抵抗するが、時間の問題だとわかった。そして恐らく、まだ縁は本気を出していない。  せめて、誰かに助けを求めることが出来れば。しかし周りの野次馬は必死に抵抗する俺を見て同情するどころか見世物として楽しんでる気配すらある。味方など一人もいない。 「こんな、こんな人とは思いませんでした……っ」 「あははっ、それって相当俺のこと買ってくれてたってことかな? 嬉しいなあ。齋藤君の中で俺はどんな人物なのか興味あるけど、さっきも言った通りこれは齋藤君のためなんだって」 「俺の気遣いを理解した時、間違いなく齋藤君は俺に惚れ直すよ」会話を楽しむ余裕なんて俺にはなかった。  どうしたらいい、と辺りを探る。携帯から誰かを助けに呼べれば一番いいが、この状況で怪しい動きをしてみろ、すぐに囲まれて終わりだ。  時間稼ぎにも限界がある。たまたま誰かがこの騒動に気付いて助けに来てくれれば。あまりにもゼロに近い可能性だが、それしかない。  そう、そこまで考えたときだった。  手首を握り締めていた縁の手に更に力が入った。  ナイフを取られる、と思った次の瞬間、尖った銀色の先端は縁の腹部に吸い込まれていった。 「え」  ずぶりと。手のひら越し、握り締めた柄越しに肉埋まるような嫌な感触が伝わってくる。  一瞬、何が起きたのか自分でも理解できなかった。俯いた縁の口元が大きく弧を描き、釣り上がる。ナイフが埋まった縁の腹部にみるみるうちに赤い染みが広がっていくのだ。  ――何故、この男は。 「……あーあ、やっちゃったねえ。齋藤君」  慌てて縁の腹に刺さったナイフを引き抜こうとしたときだ、俺の手首を掴んだ縁はそのまま更に深く捩じ込むのだ。 「な……なに、して……」 「十四時四十三分。齋藤佑樹君を現行犯タイホしまーす」  顔を顰め、苦痛で歪む顔面に無理やり笑顔を浮かべた縁はナイフを引き抜き、それを俺の手に握らせたまま取り巻きたちの方を振り返って笑う。  真っ赤に濡れた刃先から赤い雫が落ちた。 「証人は、ここにいる皆さんってことで」

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