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07

 人気のない特別教室棟。  その上階、ひっそりと佇む学園附属の図書館へと俺はやってきた。  授業中ということもあってか、使用者は見当たらない。そのことにホッと胸を撫でおろし、図書館へ足を踏み入れたときだった。  奥の本棚、そこで人影が動いたのを見逃さなかった。  誰かいるのだろうか、俺のようにサボっている人が。  緊張しながらも、それでもなるべく邪魔にはならないように図書室の奥へと歩こうとしたときだった。かつり、と足音が後方で響く。  そして、ふわりと香ってきたのは柑橘系の香りだ。 「やあ、齋藤君。こんなところで会うなんて奇遇だね」  すぐ頭の上から聞こえてきた柔らかいその声に咄嗟に振り返れば、思いの外近い位置にいた縁方人に声をあげてしまいそうになる。 「え、縁先輩……っ」 「齋藤君もサボり? いいよね、ここ。いっつも司書いないからさ、静かでいい」  一人、納得するようにうんうんと頷く縁。  なんで縁がこんなところに、もしかして阿賀松を待っているとかなのだろうか。悪い予感が過ったが、あまりにもいつもと変わらない縁に緊張する。 「いや、あの、俺は」 「でも、丁度よかった。伊織も仁科も連絡つかないしさ、やっぱずっと一人だと物足りなくてね。誰か話し相手ほしかったところなんだけど、そこにきてくれたのが君なんだよ? 勿体ないくらいじゃない?」  連絡がつかないってことは、もしかして縁は俺が阿賀松を売ったことをまだ知らないのか。  戸惑う俺の手を取った縁に連れられ、俺はそのまま近くの席に座らされられる。  そしてそんな俺の隣に縁は腰をかけ、テーブルに一冊の本を置く。古典の本のようだ。日に焼けた、ところどころ傷んだ背表紙が目についた。 「あの、本読むんですか?」 「あ、意外? 俺、アイツらと違って勉強好きっ子だからね。結構読むよ、今みたいに構ってくれる人がいないときはね」 「齋藤君は、勉強嫌いそうだね」そうこちらを覗き込んでくる縁。相変わらず距離感は近い人だが、縁と話していると不思議な感覚になるのだ。  関わらない、深く踏み込まない方がいいと分かってるのに縁は嫌味なく胸の内へと滑り込んでくる。 「苦手、かもしれません」 「だよね。っぽいもん。ほら」  不意に、縁の白い手が伸びて俺の手を掴んだ。逃げる暇すらなかった。 「何も持たない手」  そう、白く細いその指先が掌を合わせるように指に絡み付いてくる。すり、と皮膚をくすぐられ、全身が緊張した。 「……っ」 「そんは緊張しなくてもいいよ。別に取って食ったりしないから」 「どうせ食べるなら、美味しいものを最高の状態で食べたいし」と笑う縁は言いながら俺からぱっと手を離す。  今の一連のやり取りだけで鼓動は乱れていた。  ……やっぱり、苦手かもしれない。縁と話してると心がかき乱される。 「……」 「浮かない顔、どうしたの?」 「俺、そんな顔」 「してる。自分じゃ気付かないかもしれないけどね。……ほら、相談くらいなら乗るよ」 「可愛い君ならタダでいいよ」なんて茶化すように続ける縁。俺の緊張を和らげようとしてくれてるのだろう。  それ以上に、縁に見透かされてしまっているという事実にやはり余計緊張してしまうのだ。  隠していたつもりなのに、よほど俺がわかりやすいのか、或いは――。 「齋藤君?」 「先輩は……先輩は、阿賀松先輩とどういう関係ですか」  俺は縁のことを何も知らない。  縁の立場はあまりにも不透明だった。阿賀松に手を貸したと謂えばその踵を返すこともあり、それでいてこうして俺の相談にも乗ってくれる。それが下心ありきだとしても、教師すらも強く出られない阿賀松の周囲の人物としてはなんだか異質に思えたのだ。  縁自身もそんなことを聞かれるとは思ってもいなかったようだ、「いきなり直球だねぇ」と縁は顎を擦る。 「そうだな、それって体とかそういうのも含めて?」 「……」  ヘラヘラと、あくまでいつもと変わらない調子で茶化してくる縁に無言で返せば、バツが悪そうに咳払いをする。そして、「前も言わなかったっけ」と再度口を開いた。 「あいつはただの腐れ縁だよ。だからといって味方でもなければ、あいつの敵でもない」  初めて見る、真面目な顔をした縁。それも束の間。言い終わるなり「ねえ、これでいい?」と、確認してくる縁は先程までの調子に戻っていて。  しかし、聞いた言葉はたしかに嘘はないように聞こえた。 「……すみません、変なこと聞いてしまって」 「いいよいいよ、気にしなくても。伊織のことで悩んでるの?」  俺の質問から内容を察したらしい。 「よかったら教えてくれないかな」絶対に他言しないから。そう、唇だけを動かし小声で念を押してくる。  もう阿賀松伊織を敵に回したようなものだ、遅かれ早かれ縁の耳にも届くだろう。  ――隠して誤魔化す必要はない。  突破口が見えない最悪な状況だ。これ以上最悪になることなどあるのだろうか。  藁に縋りたい、という状況だからだろうか。微笑みかけてくる、優しい言葉をかけてくる縁が救世主のように見えたのだ。  この状況をどうにかしてくれるのならば神でも天使でも悪魔でもなんでもよかった。 「……先輩」  だから俺は、縁方人に助けを求めた。 「なるほどねえ。芳川のやつ、全く進歩してねえな」  俺の話を聞いてくれた縁は、開口一番そう口にした。難しい顔だ。  思い切って、縁には色々なことを話した。  栫井の怪我のこと、それを阿賀松のせいにしたこと。それを見て芳川会長が恐ろしく感じたこと――芳川会長が、阿賀松を泳がせるために俺の偽装恋人を演じていたこと。  ゆっくりと自分の記憶から引き出すように縁に話した。下世話なことはさすがに言えなかったが縁には伝わったのだろう。それでも切羽詰まっている俺を思ってくれてか、縁も真剣に俺の話を聞いてくれた。 「あの先輩……」 「大丈夫だよ」 「伊織のやつは黙ってやられるようなやつじゃない。心配しなくても、まずは芳川に逆上せるはずだろうし、君は気にせずいつも通りしとけばいい」そう縁は慰めるように俺の肩にぽんぽんと触れてくる。 「本当、ですか?」 「ああ、でもあまり一人でいるのは得策じゃないな。なにかあったらいつでも助けを呼べるようにしとくんだよ。そうしたら、大体どうにかなる」  そう微笑む縁。思いの外まともなアドバイスをくれる縁に驚く反面、いつも阿賀松と一緒にいる縁だからだろう。その言葉に納得した。 「あ、そうだ。亮太は? あいつ普段は鬱陶しいけど、あいつなら適当に持ち上げとけば喜んで世話焼いてくれるでしょ」  そして、このタイミングで飛び出してきた志摩の名前に思わずぎくりとした。  ……本当に、なにもかも間が悪いと自分でも思う。 「……えっと、志摩とは今あまり話してなくて…」 「えっ? まじで?」 「ちょっと、喧嘩して」  壱畝と仲良さげに話している志摩が脳裏に蘇る。喧嘩というよりももっと杜撰なものだ、裏切ったのは俺の方なだけに何も言えない。  そんな俺を見つめる縁は疑ってるわけではなさそうだ、「ふーん」と小さく呟く。 「まあ亮太はすぐ拗ねるもんな。あいつ、寂しがり屋だから多分凹んでんじゃない? ま、また気が向いたら仲良くしてやっといてよ」 「……えぇと、頑張ります」 「よしよし、頑張れ頑張れ」  項垂れる俺を気遣ってくれているのか、ばしばしと肩を叩いてくる縁に苦笑した。  十勝もだろうが、縁たちのような明るい人間といると気持ちが引っ張られるように晴れる。  優柔不断で他人の影響を受けやすい性分なだけ、余計。  だからだろうか、先程よりか幾分気持ちが軽くなった。本当に単純だと我ながら思う。 「取り敢えず、副会長の怪我が気になるな。適当に仁科呼びつけといてやるかな」  そして、思い出したように携帯端末を取り出す縁。  栫井に露骨に邪険にされている仁科とその胃のことを考えると少し心配だったが、栫井の怪我のことは俺も気になっていた。  縁の方からそこまで手を回してくれるとは思ってなくて、ほんの少し縁を見直した。 「あの、ありがとうございます」 「ん? なにが?」 「俺の言うこと、信じてくれて……」  これは本心だった。  失礼な話、少なからず縁の好意を利用しているという自覚はあった。  優しくしてもらえれば誰でもいい、というわけではないが自分の腹の底に『縁ならば』という気持ちがあったのも事実だ。  その見返りになにかを要求されるかもしれないと分かってていながら助けを求めたが、縁の対応は思いの外まともで驚いたのだ。……本当に失礼な話だが。  そんな俺の心境を汲み取ったのか、縁は「ああ、そんなことか」と笑った。 「自分で言うのもなんだけどさ、少なくとも、あんなに避けてた俺に齋藤君直々で相談してくれるんだもん。それって相当切羽詰まってるってことでしょ」 「縁先輩……」 「それに、好きな子にはいいところ見せたいからね」  そう言って、縁はにこりと微笑んだ。  相変わらずたらしだなと思ったが、それでも今そんな縁の優しさに救われるのも事実だ。  仁科へと連絡し終えた縁は、手にしていた携帯端末を制服に戻す。そして、「それじゃ、行こうか」と俺を見るのだ。 「え?」 「亮太の邪魔もないし、齋藤君の話聞く限り安久辺りがけしかけてくる可能性もあるし、ほら、一人は物騒じゃん」 「ってわけで、俺が齋藤君の用心棒やってあげる」そうにこーっと笑いかけてくる縁に俺は驚いた。 「え、でもそれじゃ……」 「それじゃあ、俺まで君のグルと思われるって? 大丈夫大丈夫、元々俺は伊織にそれほど信用されてないから」  いけしゃあしゃあとそんなことを言い出す縁。  ……確かに、そんな感じはしていたが。 「先輩の怪我もあるし、流石にそこまで迷惑は……」 「気にしなくていいよ、そんなの。俺は齋藤君が好きだし、齋藤君だって俺と一緒にいた方がなにかと都合がいいと思うんだよね。伊織派のやつなら大体顔見知りだからさ、何かあったら助けることもできる」 「勿論、伊織からも」そう付け加える縁。  確かに、縁の言葉は最もだ。しかし腑に落ちない。というか、ここまで来てもまだ俺は躊躇っているのだ。  重要なことを忘れていてるぞ、ともう一人の自分が声をあげるのだ。 「どう? 利害は一致してるよ」  いまいち踏み切れない俺に、縁はそう笑った。  利害の一致――その言葉は、俺の心を揺さぶった。  どんな相手でも協力関係へと持ち込める重要な武器だ。少なくとも俺はそう言い聞かされてきた。  ただ、縁のメリットが破綻しているような気がしてならない。  が、ここまできて断ったら相手に悪い。 「じゃあ、その……よろしくお願いします」  縁と行動するのは多少身に危険を感じざるを得がないが、暴力に晒されるよりかはましだ。  俺の言葉ににっと微笑んだ縁は「こちらこそ」と恭しく頭を下げてみせた。 「いやでも意外だな、齋藤君が俺を頼ってくれる日が来るなんて」  図書室を後にし、縁とともに廊下を歩いていたときだ。  「え?」と思わず隣を歩く縁を見上げれば、目があって縁は微笑んだ。 「だってほら、今までこうしてちゃんと俺の隣にいてくれたことないじゃん?」  「それは……すみません」 「あはは、謝らないでよ。別に攻めてるわけじゃないんだから。むしろ嬉しいよ、俺は。俺のこと信じてくれてるってわかるわけだからね」 「……」  信じてくれている。その縁の言葉が、やけに重く胸に響く。  確かに、縁のことは信じている――信じていたいと思っている。  だけど、その裏腹、今こうして並んでいる間も縁のことを勘繰らずにはいられない。これは最早染み付いた癖のようなものだ。 「じゃ、これからどうする? 齋藤君が好きなことしていいよ。せっかくの自由時間なんだからさ」 「俺はその、別にしたいことは……」 「なら、俺の用事付き合ってくれる?」 「……先輩のですか?」 「うん。てか、買い物だけどね。ちょっと包帯切らしちゃってさ」  そう笑いながら縁は自分の腕を指差した。捲った袖口から絆創膏が覗いている。よくみれば、腕だけではなく色々なところに絆創膏が貼られていた。ガーゼに包帯。いつも傷の絶えない縁に日頃どんな生活をしてるのか少し心配になる。 「はい、別に構いませんけど」 「よかった。ならいこっか」  本当ならあまり人目につく真似はしたくなかったが、縁の用事ならば仕方ない。  目的地に向け、歩き出す縁の後を追いかけた。  ◆ ◆ ◆  ――学生寮一階、ショッピングモール。  薬局へとやってきた俺達だったが、やはり時間が時間だからか人気がない。   「本当に買うだけでいいんですか? ちゃんと保健室に行ったりしなくても……」 「ああ、問題ないよ。寧ろこれくらいで行ってたら『またか』って顔されるからね、俺の場合」  言いながら棚に並ぶ包帯を手に取る縁。  なかなかぞんざいな態度を受けてるように思えるが、そう口にする縁はどことなく楽しそうだ。 「あの……そういうの、よくするんですか?」 「ん? 怪我のこと?」  こくりと頷き返せば、縁は苦笑した。 「まあね、ほら俺結構ドジっ子だからさ」 「……ドジっ子?」 「齋藤君と一緒だよ。なにかと巻き込まれちゃうっていうのかな」  その言葉に、脳裏には以前数人の他校の女子に囲まれ揉めていた十勝の姿が浮かぶ。  なるほど、痴情の縺れか。確かに縁はモテそうだしな。と以前一人の生徒に迫って逃げられていたときのことを思い出し、なんとも言えない気持ちになる。  そんな俺を他所に、縁は次々と買い物カゴへと薬品や医療品を投入していた。 「えーと、あとは……」 「え、あの、こんなに買うんですか?」 「そうだよ?」 「そ、そんなにひどい怪我なんですか?……」  確かに縁の肌に生傷はよく目につくが、どこも小さな切り傷や擦り傷ばかりで大きな傷口は見えない。  それとも、俺の目に見えないだけなのか。  心配になって尋ねれば、縁は優しく微笑んだ。そしてちょうど手に持っていたボトルを掲げる。 「違うよ。これはね、予備」 「予備?」  そ、予備。と縁は呟いた。  どういう意味かわからなくて、詳しく聞き出そうとしたときだ。 「……方人さん?」  聞き覚えのある声がした。その声に反応し、振り返ればそこには、 「仁科先輩」 「さっ、齋藤っ? なんで、あんたら……」  仁科奎吾は、縁の隣にいた俺に青ざめる。  どうやら仁科も買い出しに来ていたようだ。私物なのか誰かに命令されたのかわからないが、エナジードリンクの箱を抱えた仁科との遭遇に少し驚いた。  それでも、鉢合わせした相手が仁科でよかった。――当の仁科はそうではないようだが。 「やー奇遇だねぇ奎吾」 「方人さん、これ、どういうことっすか。なんで齋藤と……」 「は? なにって勿論、ただのデートに決まってんだろ? ね、齋藤君」 「あ……えっと……」  いきなり肩を抱き締められ、思わず怯む。  口籠るが、仁科は構わず縁に睨むような視線を向けた。 「方人さん、自分がなにしてるかわかってるんですか。阿賀松さんにこんなこと知られたら……」  唸る仁科の視線が俺に向けられる。  その視線には、同情や困惑、焦燥などが入り混じっている。  そんな仁科を前に、俺の肩に顎を乗せた縁は変わらない様子で微笑むのだ。 「退学だろうね」 「っ!」 「ははっ! 別に伊織がどうなろうと俺には関係ないし、むしろなんで俺がわざわざあいつのために自粛しなきゃなんないわけ? 面白いなぁ、奎吾は」 「それ、誰かに聞かれたらどうすんですか……っ」 「どうもしねえよ」  吐き捨てるような冷めた一声に、仁科は歯痒そうに奥歯を噛み締める。  ――なんだ、この空気は。  穏やかとはかけ離れた空気。仁科の言葉からして、仁科はもう知っているのだろう。俺が阿賀松を裏切ったのだと。  それはまだいい。けれど……正直驚いた。  さっき俺に見せた縁はまだもう少し人のぬくもりのようなものがあったからこそ、余計。  演技か、本心か。軽薄な口調と人当たりのいい笑みからは読み取れない。  ただ、縁に触れられた肩がやけに重く感じた。 「……方人さん、なに企んでるんすか」 「やだな、俺はなにも企んでないよ」  仁科の怪訝そうた眼差しを前に怯むことなく、寧ろ心外だと言わんばかりに縁は肩を竦める。 「ただ、好きな子を守りたいだけだって」  そう、ただ一言。こちらを見下ろす縁とばちりと目があった。  つられるようにして、呆れ顔の仁科もこちらを見るのだ。 「いえ、あの……」  二人に注目され、どう答えればいいのかわからず口籠る。  縁のいつもの軽口だとわかっててもだ、反応に困ってしまう。  ――しかも、仮にも阿賀松に近い仁科の前だ。  口籠る俺からなにか察したのだろう。俺から視線を逸らした仁科は、困ったように、そして諦めたように小さく息を吐き出した。 「齋藤、お前もあんまり出歩くなよ。授業出ねえならさっさと部屋に帰った方が良い」 「ご……ごめんなさい……」  忠告なのだろう、恐らく。ぶっきらぼうではあるが本気で不快に感じているというよりも心配してくれているというのがわかった。  だからこそ余計何も言えない。 「奎吾。お前これからなんかあんの?」 「……や、まあ、色々とありますけど」 「よかったらさ、頼みがあんだけど」  俺から手を離したかと思えば、縁は仁科に近付きなにかを耳打ちする。  その内容まで聞き取ることは出来なかったが、恐らくいい事ではないのだろう、現に仁科の顔色はみるみるうちに青褪めていった。 「至急よろしくな」 「方人さん……っ、アンタ……!」  にっこりと微笑む縁とは対象的に、仁科の顔色は悪くなる。  目を見開いたまま言葉を失う仁科はなにかを言いかけたが、そんな仁科の発言を遮るかのように部屋の中に着信音が鳴り響いた。  どうやら仁科の携帯からのようだ。ポケットから携帯端末を取り出し、画面を確認した仁科は気の毒なほどに青ざめていた。 「ほら、呼び出しかかってんぞ。早くいかねえとやばいんじゃないか?」  そんな仁科の肩を叩く縁。  仁科の様子からして電話の相手が誰なのか俺にも想像ついた――赤髪のあの男が。 「……っ、失礼します」  そして、俺達よりも電話の相手を優先させるべきと判断したらしい。俺達に頭を下げた仁科はそのまま携帯片手に店を出た。  そんな後ろ姿に、縁はいつもの調子で「頑張ってねー」と手を振り見送る。  いくら本人がいないとはいえ、ハッキリと縁は阿賀松のことを切り捨てた。  なんだろう。本来ならば、あの男よりも俺のことを優先してくれた縁に対して喜ばしく思わなければならないのだろうが……なんとなく胸に引っかかったのだ。  阿賀松に同情するわけではないが、縁を冷たい人だと思ったのも事実だった。自分がなにを考えているのか俺自身にもわからない。  ◆ ◆ ◆ 「あ、奎吾に渡すの忘れてた。まあいいか、どうせ後から渡せば」  薬局を出た俺達。  言いながら買い物袋の中身をガサゴソと漁る縁はいつもと変わらない。  そんな縁を横目に見ながら、俺は縁方人のことについて色々考えていた。  さっきああやってわざと阿賀松を切ってみせたのは俺を安心させるためなのか。  だとしても、先程の仁科の反応も気になったのだ。俺が縁と一緒にいるのを見て、仁科は酷く焦っているように見えた。  阿賀松のことを考えるとそうなのかもしれない。けれどやはり、この状況は異様なのだろう。 「あの、先輩……色々ありがとうございました」  だから、俺は立ち止まって縁に声をかけた。  ――学生寮一階、ショッピングモール通路。  釣られるように立ち止まった縁は「ううん、気にしなくてもいいんだよ」とこっちを見て笑う。  やはり縁は仁科のことも阿賀松のことも気にしていない。……縁だけが。 「……っ、その……先輩」 「ん? どうしたの?」 「あの……もう、俺一人でも大丈夫です」  そう口にした瞬間、「は?」と縁の表情筋が固まる。  まさかそんな顔をされるとは思っていなかった。  慌てて「あ、あの、これ以上は先輩に迷惑になりそうなので」と言葉を付け足した。  まだ縁といてそれほど時間も経っていない。それでも縁と一緒にいて色々思うところも会ったのも本当だ。  縁がいると心強い、けれどそれ以上に不信感は募るのだ。  縁にとっては本当に善意だとしても、このままそんな相手の気持ちを踏みにじるような邪な思考を働かせたくなかった。  そんな俺の言葉を聞いた縁は「ああ、そういうこと」とおかしそうに笑うのだ。 「さっきからやけに静かだと思ったら、そんなこと考えてたんだね? 本当、可愛いねえ齋藤君は」 「か、かわ……」 「だって俺のこと心配してくれてんだろ?」 「嬉しいよ」と、伸びてきた手に頬を優しく包み込まれ、額に唇を落とされる。  公然の場にも関わらずあまりにも自然な動作でキスをされ、一瞬思考が停止する。 「なっ、な、な……なにして……」  額に残る唇の感触に全身の体温が急上昇し、背中にじわりと汗が滲む。  跳ね上がる鼓動。堪らず飛び跳ねるように縁から離れた俺は、額を抑えたまま目の前の飄々とした男を見上げた。目があって、縁は柔らかく笑い返してくる。 「本当君はいい子だね。せっかく俺が言うこと聞くって言ってんだからさ、齋藤君は俺を顎で使うくらいしなきゃ損だよ? ……ま、それが出来ないからいいんだろうけど」  なんだか、キスで誤魔化されたような気がしてならない。 「あ、あの」と狼狽える俺に構わず、縁は俺の肩に手を回す。 「買い物、付き合わせてごめんね。もう終わったし、一旦部屋に戻ろうか」  そうこちらを覗き込むように促してくる縁。  ふと、脳裏に阿佐美の顔が浮かび上がる――阿賀松伊織の弟である、阿佐美詩織の顔が。 「齋藤君? どしたの?」 「あの、部屋は……」  口籠る俺からなにか察したようだ。 「あー」と縁は思い出したように声を上げた。 「もしかして、帰りたくない?」 「……」 「ま、無理もないねえ。詩織のことだからとっくに伊織のこと耳に入ってるだろうし。……あいつ、結構ブラコンだからな」  世間話でもするかのような軽い縁の言葉に、思わず縁を見上げる。 「……ブラコン、ですか?」 「齋藤君は兄弟いないの?」 「俺は一人です」  質問を突拍子のない質問で返され、内心疑問に思いつつも答えれば縁は「そ、なるほどねえ」と納得するように頷く。 「ま、あいつの場合はブラコンはブラコンでも、寧ろ『コン』の方が強いだろうけど」  コン、ということは……コンプレックス?  阿佐美が阿賀松に対しコンプレックスを抱いているということだろうか。  確かに、あまり特別仲良しというわけでもなさそうだったが、第一同じ血が流れるとは思えない程中身はかけ離れた二人なだけに未だブラザーという部分に疑問を覚えずにはいられなかった。  無言で考え込む俺に焦れたようだ、 「部屋に戻りたくないんならさ」と縁は強引に話題を切り替える。そして、いつもの笑顔を浮かべた。 「俺の部屋来る?」 「……縁先輩の?」 「そ。前から遊びにおいでって言ってんのに齋藤君まったく来てくれないじゃん」 「でも……」 「でも、なに? 部屋に帰りたくないんだろ?」 「そうですけど、そこまで迷惑は……」 「いいって別に、そういうのはさ」 「それに、齋藤君から被られる迷惑なら大歓迎だから」と、気障ったらしく続ける縁。その粘り強さには俺も驚いた。  このまま根負けしてしまった方が楽なのだろうが、縁の部屋は確か一人部屋だ。  自惚れたくはないが、ただでさえそういった方面でいい話を聞かない縁と共に密室で二人きりになるのは抵抗があった。 「もしかして、まだ俺のこと信じられない?」  押し黙る俺からなにかを察したようだ。本当にこういうところは志摩と同じで鋭いと思う。……俺がわかりやすいだけなのだろうか。 「ご、ごめんなさい」 「謝んないでよ、余計傷ついちゃうじゃん」  そう笑って縁は手を振る。  その笑顔はどこか寂しそうで、自分の態度のせいだとわかってるだけに心臓が鷲掴みされたように苦しくて堪らない。それでも、その笑顔に素直に甘えることが出来ないのだから、余計。 「いいよ、ならどっかラウンジで休憩しようか。いっぱい歩いて疲れてるっしょ」  ころっと表情を明るくした縁はそんな提案を持ち掛けてくる。  もっと執拗に誘われると覚悟していただけに、あっさりと妥協案を提案してくる縁に素直に驚いた。 「いいんですか?」 「本当は部屋に無理やりでも押し込んでやりたいんだけどね。あまり乱暴なことはしたくないんだよね、俺。あんまタフじゃないしさ」  冗談が本気かわからないが、縁なりの気遣いだとわかりなんだか胸が暖かくなる。 「ありがとうございます」と頭を下げれば、にこっと微笑んだ縁は胸に手を置き、恭しく腰を折ってみせた。 「では、参りましょうか。お姫様」  なんの映画か漫画か、あまりにも演技がかった縁の対応が可笑しくて、俺は頬を緩ませる。  そして、俺達はラウンジに向かって歩き出した。 「…………」

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