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06

 翌朝。  結局これからのことを考えてる間に頭はギンギンに冴え、ろくに眠れないまま朝を過ごすことになる。  阿佐美は今日も教室までついてきてくれるようだ。あくびを噛み殺しながらも眠たい顔で着替える阿佐美の存在が今は頼りだった。  昨夜の志摩の態度からして、志摩は俺に愛想尽かしたのは間違いないだろう。  そして教室にはあいつがいる。  壱畝のことを考えるだけで具合が悪くなったが、今は阿佐美がいる。そのことだけが支えになるのだ。  そんな最悪の朝のまま、俺は教室まで向かう。  そして教室の扉を開こうとしたときだ。 『へー、意外だな。君って得意そうな顔してるんだけど』 『それってどんな顔だよ。誰だって嫌いな人多いと思うけどな。志摩君だって、嫌だろ』 『まあ、そうだね。気持ち悪いし。鳥肌が立つ』  扉越しに聞こえてきた聞き慣れた二つの声に阿佐美も気づいたようだ。  控えめにこちらにアイコンタクトを送ってくる阿佐美は小さく頷き、そして俺の前に立つなり扉を開いた。  ――すでに数人の生徒がいる教室の中、俺の席がある後列には壱畝遥香と志摩亮太が楽しげに談笑していた。 「……ッ、……」  あいつ、と喉元まで出かかって、飲み込んだ。  俺が壱畝と仲良くしてほしくないと知っててあいつは――志摩は。  震える手で拳をつくり、握り締める。震えを止める方法をこれしか思いつかなかった。  そして、阿佐美の背後で固まる俺の視線に気づいたようだ。  二人の視線が俺に向けられたと思えば、席に座っていた志摩は「ちょっとトイレ」と壱畝に告げ、そのまま立ち上がる。  一歩、また一歩とこちらへ向かってくる志摩。とうとうその場から動けずにいると、目の前まで志摩がやってきた。 「……っ」  真っ向からお互い見詰め合うような形になる。  そして、志摩がにこりと微笑んだ。 「邪魔なんだけど、退いてくれないかな」  変わらない笑顔。柔らかい声。その裏側から覗くどす黒いそれを隠すわけでもなく話しかけてくる志摩に驚いたことに俺は怒りを覚えていた。  ショックもあった。あったが、それ以上にこんな子供みたいな拗ね方をする志摩に呆れ、そしてわざわざ壱畝と仲良く接するやつになにも言えなくなる。  そんなに俺の気が引きたいのか。そう口に出しそうになるのをぐっと堪え、俺は無言で道を開けた。  そのまま脇を通り抜けていく志摩の後ろ姿を一瞥した俺は肺に溜まった息を吐き出すした。  しかし、身体の緊張はほぐせなかった。  先ほどのあからさまな志摩の態度に気がついたのは俺だけではなかった。 『なんなんだ、あいつは』とでも言いたげな阿佐美に志摩の方を向く阿佐美。それから阿佐美は俺の手にこつんと手の甲を少しだけぶつけてくる。  気にしないで、そういうことなのだろう。阿佐美がいてくれて本当に良かったと思う、一人だったらきっと俺はこの教室に入ることは出来なかっただろう。  小さく頷き返し、俺は自分の席へと向かった。  左隣の席。まだ登校してきたばかりらしい壱畝遥香は俺と目が合うなり微笑んだ。嘘くさい、安っぽい笑顔だ。 「おはよ、ゆう君。珍しいね、こんな早くに来るなんて」 「……」 「丁度よかった。なんかさ、俺の教科書まだ届いてなくて。よかったら貸してくんない? お陰で昨日の課題、全然終わんなくてさ」 「昨日借りようかと思ったんだけどゆう君、いなかったから」そう何気無く付け足す壱畝。  どの口で言ってるんだ、こいつは。  殴られた痛みが蘇る。なにを考えているのか分からない。理解したくない。話しかけてくるな。  指先が震え、呼吸が浅くなった。 「ゆう君、」  さっきよりも強い口調で名前を呼ばれる。  慌てて教科書を引っ張り出そうと机のなかに手突っ込んだとき、うぞりと指先になにかが触れる。チクチクと小さな針のような感触には覚えがあった。  伸ばした指先にゆっくり這い上がってくる机の中のそれは一匹だけではなく、薄暗い机の中の目を向けた俺は咄嗟に手を引き抜いた。そして理解するよりも先に咄嗟に手を振り払えば、ぼとりと床の上にそれは落ちた。  青ざめ、下を見ようとせずに席から立ち上がる。が、立ち去る前に咄嗟に腕を掴まれた。  壱畝は笑っていた。その薄い唇が何かを言いかけたときだった。 「教科書なら、俺の貸すよ」  同時に、壱畝遥香の机の上にバサバサバサと大量の教科書と参考書が山積みになる。  呆れたように目を丸くする壱畝遥香に、鞄を手にした阿佐美は口角を持ち上げる。いつもの柔らかい笑顔とは違う、冷たい笑顔。 「帰国子女ならこれくらい読めるよね?」  山積みになった書籍に日本語は見当たらず、最早どこの国の言葉かわからないような文字が並んだそれらに壱畝は引きつったような笑みを浮かべた。 「……流石に、俺はそんなに色んな国回ってないよ」  一冊一冊違う国の言葉で綴られた教科書をパラリと捲った壱畝は「どうも」と顔を引つらせた。  床の上では次々と机の中から溢れてきた毛虫がぞろぞろと這いずっている。叫び声も出ない俺の横、一冊の本に転がるそれらをまとめて乗せた阿佐美はそのまま窓際まで歩いていくのだ。 「詩織、それ」 「……ゆうき君は毛虫嫌い?」  ざわつき、青ざめたクラスメイトたちの視線や悲鳴も全部無視して窓の外、近くの木の枝へと乗せる阿佐美。  そして最後の一匹を木の枝に登らせた阿佐美はそう俺を振り返った。  既に俺たちに興味を失ったらしい壱畝遥香は大人しくどっかの国の教科書を読んでいて、志摩は便所にいったまま帰ってこない。  俺は突然の問いかけにどう答えればいいのか解らず、「えと」と口ごもった。 「嫌いじゃないけど、好きでもないな」 「じゃあ、成虫は? 蝶とか」 「普通、かな」  この質問にはなんの意図があるのだろうか。俺の言葉に満足するわけでもなく阿佐美はなんとなく寂しそうな顔をして笑う。 「ゆうき君らしいね」 「あの、だめだった?」 「いや、特に深い意味はないから気にしないでいいよ」 「なんとなく毛虫だけこういうのに使われるのは可哀想だと思って」中身は同じなのに、と阿佐美は木の枝の先を眺めたまま呟く。  その独り言にどう反応していいかわからなくて、それと同時になにかが胸に突っかかった。中身は同じ。その一言が脳内で反響する。 「……詩織」  今のは、どういう意味だ。そう尋ねようとしたときだった。  再度、教室の扉が勢いよく開く。 「佑樹」  不意に教室に大きな声が響き渡った。名前を呼ばれ、咄嗟に扉に目を向ければそこには担任がいた。  いつもと違う、真面目で困惑が混じった顔の担任が。 「ちょっと、来てくれ。話がある」  ああ、もしかしなくてもこれは、あのことだろう。芳川会長が行動を始めたということだろう。もう少し、待ってくれてもいいだろうに。  結構、せっかちな人かのかもしれない。  教科書とにらめっこしていた壱畝の目がこちらを向いた。それを無視し、俺は「わかりました」と廊下へ向かう。その途中、心配そうにしていた阿佐美に目配せをした。「一人で大丈夫だよ」と。  ……そうだ。こんな面倒な役を引き受けるのは俺一人だけでいい。  担任に連れて行かれ、暫く。  歩いていた担任はある扉の前で立ち止まる。その扉には生徒指導室と書かれたプレートがぶら下がっていた。  扉を開けば、広くはない部屋の中に数人の教師と見覚えのある顔が会議用デスクを囲むように並んで座っていた。  そこには気難しい顔をした芳川会長――そして、隣に座るその生徒を見て息を飲んだ。 「……っ、栫井」  栫井はこちらを見ようともしなかった。なにを考えているのかわからない無表情。  てっきりこれは俺と芳川会長と阿賀松の問題だと思っていただけに、栫井もこの指導室に呼ばれていることに驚いた。 「すまない齊籐君、わざわざ来てもらって」  君には聞きたいことがあるんだ、と学年主任そっちのけでしきり出す芳川会長。  どうやらもう、演技は始まっているらしい。 「……聞きたいこと、ですか」 「四月のことだ」 「君は、阿賀松伊織に暴行を受けたようだな」周りの教師たちの目付きが変わる。肌で指導室内の空気が冷たくなるのを感じた。  正直、ここまで外野がいるとは思っていなかった。  緊張し、「あの」と言葉に詰まっていると、立ち上がった芳川会長は優しく俺の背中を撫でるのだ。 「思い出したくない記憶だと言うのはわかっている。ゆっくりでいい、ゆっくり、君が覚えていることだけを話してくれ」  囁くようなその声は優しい。これが全て演技なのだというから恐ろしく思えた。  突然触れられ、余計緊張してしまうがそんな俺の様子がよりリアルに映ってるのかもしれない。そんな中、俺は栫井を盗み見た。栫井はこちらを見ようともしなかった。  けれど、夢ではない。……そうだ、俺は栫井の代わりに芳川会長と交渉したのだ。  そのことを再確認し、決心する。 「……わかりました。でも、その……時間が経っていて、それで、動揺してたので記憶に自信はないですけど」 「それでいい」 「君は、君が言えることだけを口にしてくれればいい」あとは俺がなんとかしてやる。  ……そう、教師たちに背を向けた芳川会長の唇は確かに動いた。  本当に大丈夫なのだろうかと半信半疑だったが、ここまできて引き返すことはできなかった。  俺は予め芳川会長に言われていたように俺は発言する。阿賀松に殴られたのは間違いないと。  教師たちは予め芳川会長に監視カメラの映像を見せられていたようだ、まり詳しく話さなくてもよかったのは助かった。  それでもただ、自分が言葉を口にすればするほど教師たちの顔は強張っていくのは怖かった。  そしてどれくらい時間が経っただろうか。  一頻り話し終え、「もう、いいですか?」と恐る恐る顔をあげる。 「ああ、……辛かったことを思い出させて悪かったな」 「協力感謝する、齋藤君」と、会長は続けるのだ。まるでひと仕事終えた人間に対する義務的な言葉のように聞こえてしまい、俺は何も返すことはできなかった。 「なんでそのことをはやく知らせなかったんだ。監視カメラを管理していたのだろう、お前は」  そんなときだった。芳川会長に向かって声を荒げる教師がいた。  訝しむような表情のその人物は確か、学年主任だ。 「ええ、その仰る通りです」 「ならば……」 「ですが、彼も一人の人間です。どうすることが最善なのか伝えても、やはり実際に被害を被った人間でなければわからないこともあります。そして今日、怖い思いをしたにも関わらずこうして彼が決心してくれました」 「それに、映像だけ持っていったところで証言がなければ実際に信じることはできなかったのではありませんか、先生方は」芳川会長は淡々と続ける。学年主任の反論の隙きも与えぬまま一つ一つ言葉で詰めていき、そして。 「……彼は阿賀松伊織の被害を受けた友人を守るため、こうして頑張ってくれたんです」  その言葉に、学年主任も他の教師たちも口を閉じた。  俺は一瞬、会長の言っている意味がわからなかった。 「これでわかったでしょう。このまま阿賀松伊織を野放しにしておくのは構内の秩序の乱れに繋がります」  殺風景な室内、席を立ち、ホワイトボードの前まで歩いていった芳川会長は指導室内にいる教師を見渡した。 「俺の後輩が二人も被害にあっているのに見過ごせません」 「……芳川、一先ず落ち着け」 「俺は落ち着いてますよ、先生。ただ、これ以上何も見なかったフリをするつもりはない」  どよめく教師陣を前に、芳川会長は一歩も引くことはなかった。 「阿賀松伊織をここに呼んでください。抵抗しても構いません」 「なんせ、彼にはこの学園の生徒である資格はないのですから」我慢できず、薄く笑みを零す芳川会長。  その一言はいつもの優しい綺麗事よりも生々しく、恐らくそれが芳川会長の腹の底に隠されていた本音なのだとわかった。  誰も、それ以上芳川会長に対してなにも言わなかった。  その代わり一人の教師が慌ただしく指導室を後にするのだ。芳川会長もこれ以上はなにも言うこともないと判断したらしい、再び椅子に腰を下ろす。  そして、どれくらいが経っただろうか。  既に数人の大人たちが集まった指導室に、あの男は――阿賀松伊織は現れた。  こうしてこの男と芳川会長が並ぶのを見たのは何度目だろうか。  びりっとした空気の中、阿賀松はただ芳川会長の方を見た。誰も口を開けない状況の中、第一声を上げたのはピンク髪だった。 「またあんたか、バカ芳川! 伊織さんを呼び出してなんの用なんだよ!」  連れてくる途中に暴れ出したのだろう。教師たちに捕獲されている安久は今にも噛み付きそうな勢いで芳川会長に食いかかる。  そんな安久を止めるわけでもなく、阿賀松は芳川会長の正面に立った。 「よぉ、わざわざデートのお誘いなんてやってくれんじゃねえの?」 「御託はいい。さっさと座れ」  余裕のある阿賀松とは対照的に、芳川会長の態度は冷ややかなものだった。――その分、隙もない。 「……は、どうせならもっといい椅子用意してくれよ」  なんて、軽口を叩きながら阿賀松は簡易椅子に腰をかける。普段上等な革製のソファーに座る阿賀松ばかりを見ていたせいだろう、安物の椅子に座る阿賀松というのは酷くアンバランスな光景のように見えた。 ――そして、指導室に当事者全員が揃った。 「で、なんの集まりだ、これ。つまんねーことだったらその眼鏡、叩き割ってやるよ」 「貴様に退学処分を申し付ける」 「あ?」 「罪状は下級生への暴行恐喝に校内設置物の器物破損、その他諸々。この学園の校風に相応しくない生徒はすみやかに立ち去ってもらわなければならない」 「仮にも理事長の孫である貴様ならそれくらい承知だろう」どうやら阿賀松はここに連れてこられた理由も聞かされていなかったようだ。  つらつらと述べられる罪状に、阿賀松の目が細められる。 「待て、なんつった? 今」 「阿賀松伊織。貴様は退学だ」 「バカでも退学の意味くらいはわかるだろ?」無表情のまま、芳川会長は優しく問い掛ける。  しかし、阿賀松は退学という言葉ではなく、もっと別のとこに反応しているようだった。 「……俺がこの学園に相応しくないだって?」  低く、地を這うような冷えた声音に背筋が凍り付く。念の為、阿賀松から離れた席に座るようにセッティングしてもらっていたがそれでも今にでも掴みかかられるのではないか。そう思えるほど、阿賀松の怒りが肌で伝わってくるのだ。  芳川会長からは予め、自分のことは置物だと思い込めばいいと助言はもらっていたがそれはそれだ。  そして、大好きな御主人様を馬鹿にされてアイツが黙ってるはずがなかった。 「おいっ、そこの陰険メガネ! 言ってる意味がわからないぞ! 伊織さんがいつそんなことを――」 「証拠ならある」  テーブルを殴りつけ、立ち上がる安久に対し芳川会長は待ってましたと言わんばかりに監視カメラの記録媒体を安久たちの目の前に叩きつけるのだ。 「四月の齋藤君への暴行に今回の栫井の怪我。他にも生徒会宛に阿賀松伊織による暴行の被害報告が複数寄せられているようだな」  どこから取り出したのか、大きな茶封筒を阿賀松たちの目の前でひっくり返す。瞬間、大きな音を立て多量の紙切れたちはテーブルの上へと舞い落ちる。 「っなに、これ……」  青褪める安久。  ひらひらと舞う一枚の紙切れを手に取った阿賀松はそれを一瞥し、微笑む。そして、ぐしゃりと手の中の紙切れを握り潰した。 「よくもまぁ、こんな無駄に手の込んだ真似をしやがって」  俺は青筋を浮かべながら笑う人間を初めて見た。  不穏な空気。あくまで笑顔は崩さない阿賀松に対し、会長はそのままゆっくりと教師達を振り返る。 「以前『もう問題を起こさない』と教師たちと約束したようだったがな、どうやらこいつには反省の余地がないようです」 「それとも、自覚がないのだろうか。自分から諸悪の根源だという」次ぎから次へと畳み掛けるような罵詈に、阿賀松を尊敬し、慕っている安久は耐えられなくなったようだ。 「あんた、黙って聞いてりゃ……っ」  ガタリと音を立て、自分が座っていたパイプ椅子を掴む安久。それで殴りかかろうとした矢先、テーブルを囲んでいた教師たちが慌てて安久を止める。  羽交い締められ、パイプ椅子を取り上げられる安久。そんな安久を見て、芳川会長は呆れたように笑った。 「御手洗、お前も処分を受けたいのか?」 「っ、てめぇ」  ぎゅ、と拳を握りしめた安久が自分を羽交い締めする教師の腕を思いっきり振り払った時だった。 「安久」  椅子に深く腰を下ろしたまま、阿賀松伊織は後輩の名前を呼んだ。  ようやく口を開いた阿賀松に、安久は縋るように目を潤ませる。 「伊織さんっ、こいつ伊織さんのことハメる気ですよ! 伊織さんはなんもしてない、そこの齋藤を殴ったのだって伊織さんじゃないから! 全部、僕がっ」 「――安久」  もう一度、阿賀松は安久を呼んだ。  駄々を捏ねる子供を宥めるような、柔らかい声だった。 「お前は黙ってろ」  そして、もう一度。押し黙る安久に、阿賀松は静かに続けた。  阿賀松に言われたら何も言えないのだろう。なんで、というかのように唇をきつく噛み締める安久は心底不服そうに見えた。それでもそれ以降安久は口出さなくなる。  そんな安久を確認し、阿賀松は目の前の芳川会長に目を向けた。   「お前がなにを企んでるかはよぉーくわかった。俺を退学させたいなら好きにすりゃいい」 「出来るもんならな」相変わらず、軽薄でどことなく冷めた声。  だけど、その声はただの強がりとも虚勢ともつかなかった。何か確証があるような、そんな自信に満ち溢れた言葉だった。 「よく吠える口だな」 「お前を潰したがってんのが俺だけだと思うなよ」  そう言うなり、パイプ椅子から腰を上げる阿賀松はそのまま指導室の出口へと歩き出す。  やつを見張っていた教師たちが、当たり前のように出ていこうとする阿賀松に戸惑った。 「おい、阿賀松……っ」 「どうしたんですか、先生。処分決定までの猶予は三日あるはずですよ。……それまで、俺の好きにしたっていいだろ?」  その言葉に、他の教師たちは口を噤んだ。  ――ということはまだ本決定したわけではないということなのか。  確かに、今回は唐突に会長が言い出したことなのだからある程度混乱はするだろうが、こんなに証拠が揃ってるんだ。猶予なんて必要ないはずだ。  崩れない阿賀松の余裕に不安が込み上げてくる。  てっきり即退学と思っていただけに、まだこの学園に阿賀松がいるという事実に俺は足元から地面が崩れ落ちていくような、そんな気分だった。  出口側。  阿賀松が目の前を過ぎった時、一瞬だけ目があった。そして、蒼白の俺を見た阿賀松は笑う。 「針千本飲む覚悟はできてんだろうな」  確かにそう、阿賀松の唇は動いた。心臓が跳ね上がり、目の前が真っ暗になる。  触れられてもないのに、その押し潰されるようなプレッシャーに首が締められたような錯覚に陥った。 「いっ、伊織さん……っ! 待ってください!」  何事もなかったかのように指導室を後にする阿賀松と、その後を追いかけていく安久。  二人がいなくなったのにも関わらず、指導室内には不穏な空気が満ち溢れていた。  阿賀松と安久が部屋を出てからも、暫く俺は動けなかった。  去り際の阿賀松の言葉が脳内で何度も反芻されるのだ。鼓膜にこびりついたその言葉の意味を改めて認識した時、全身から血の気が引いた。 「大丈夫か、齋藤君」  そんな時、不意にかけられる声に背筋がびくりと震えた。顔を上げれば、芳川会長がそこにいた。  教師たちは慌ただしく指導室を出ていく。これから阿賀松の件で色々調べるのだろうか、会長が用意した映像も紙切れも、いつの間にか教師たちが持っていってしまったあとのようだ。 「……会長」 「酷い顔色だな。……すまない、無理をさせてしまった」 「いえ、俺は大丈夫です」  誤魔化せるほどの余裕がないのは事実だ。震える手を握り締め、震えを止めようとするがうまくいかない。  会長といえば怖がってる様子などない、ただいつもと変わらない様子で寧ろ俺を宥めてくるのだ。 「君はもう戻って大丈夫だ。あとは、先生たちに任せておこう。戻るなら教室まで送るぞ」 「ありがとうございます。……でも、今はちょっと一人になりたいので、すみません」 「なら仕方がないな。また、なにかあいつが言い寄ってくるようなことがあればすぐに知らせてくれ」  珍しく、芳川会長の引きが早い。  しかし、俺にとっては好都合だった。わかりました、と頷き返した俺は他の教師たちに頭を下げ、そのまま単身で指導室をあとにした。  一人は心細いが、芳川会長と一緒にいるのも不安だった。  さっき会長に言ったのも事実だ。今はただ、頭を整理したい。自分の選択肢が正しいのかどうかを。  正直、俺はまさか栫井の怪我まで阿賀松のせいにするとは思ってもいなかった。  確かに阿賀松は素行がいいとは言えないような人間かもしれないが、本当に栫井を傷つけた会長を見ているからかもしれない。俺は芳川会長が余計分からなくなる。  指導室を出ても、息の詰まるような圧迫感は消えなかった。  それ以上にこれからのことを考えるとただ目の前が真っ暗になっていく。    そんなときだった。ふと、指導室の扉の近くにある人影に気付いた。そこには灘が立っていた。 「ご苦労さまでした」  目が合うなりそう告げてくる灘につられて、俺は頭を下げる。  神出鬼没な彼にはそろそろ慣れてきた。……と、思っていたが、やはりタイミングがタイミングなだけに心臓が痛くなる。 「ずっと……ここにいたの?」 「はい。栫井君の傷が気になったので」  ……栫井か、あいつも芳川会長の濡れ衣のために証言したのだろうか。  指導室に一緒にいたものの、一度も目を合わせずじまいだった。  聞きたいことも色々あったが、やはり会長の手前、下手なことは出来なかった。  元気そうには見えなかったが、大丈夫なのだろうか。なんて、思案した時だった。指導室の扉が開く。  ――栫井だ。 「……」  こちらを見ようともせず、すたすたと廊下を歩いていく栫井。  声を掛けるタイミングを失い、迷っていると「では、失礼します」と灘は栫井の後を追いかけ、歩き出した。 「あ……」  灘に別れを告げる暇もなかった。  あっという間にその場をあとにした二人に、一人取り残された俺は何とも言えないもの寂しさを覚えた。  会長の手前ああは言ったものの、やはり一人は怖かった。  灘たちのことも気になったがわざわざ追いかけるのも可笑しく感じて、渋々俺はその場を移動することにする。  ……阿賀松も壱畝も来ないような場所と云われたら、あそこぐらいだろうか。  そんなことを、考えながら。

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