70 / 166
05
着いてこい。
そういう芳川会長に連れられてやってきたのはセキュリティールームと書かれたプレートがぶら下がった扉だった。
制服の中からカードキーを取り出した芳川会長は扉を開錠する。
「会長、あの……」
「入れ」
ここってなんですか。そう尋ねる俺を無視し、背中を押してくる会長。
俺はそれ以上何も聞けないまま、「失礼します」と言われるがままセキュリティルームへと踏み込んだ。
――学園内校舎・セキュリティールーム。
「……っ!!」
セキュリティルームへと足を踏み入れ、まず目についたのは壁だ。
壁一面に無数のモニターが埋め込まれており、どのモニターにも違う映像が流れている。そして、その映像は俺にとって見覚えのあるものばかりだった。
ざっと見て一年から三年までの教室に廊下、各特別教室など学園敷地内内をいろんな角度から映すモニター。それを見て俺は校内の至るところに設置されている監視カメラを思い出した。
「ここでは、この学園内に設置された監視カメラの映像をリアルタイムで見ることが出来るようになっている」
人気のないセキュリティールームの中、会長はそのたくさんのモニターの前に立つ。そして、その下段に取り付けられた大きな引き出しから数枚のディスクを取り出した。そしてそれをこちらに差し出してくる。そのケースには『4/13』など日付が書かれていた。
「……これは?」
「四月十三日の学生寮三階に設置された監視カメラの記録だ。この日、君はなにがあったのか覚えているか?」
四月上旬と言えば俺がこの学園にやってきて間もなくだ。今思えば初日からろくなことなかったな。訳もわからず阿賀松に絡まれ、安久に殴られて……。そこまで思い出して、俺はハッとする。
四月十三日、学生寮内。阿賀松の約束をすっぽかした俺は、阿賀松の部屋へ引っ張られ長い間をそこで過ごしていた。日付までは覚えていないが、確かこの日だろう。
ハッとする俺の表情からなにか感じたのだろう。芳川会長は静かに頷いた。
「このディスクには君が阿賀松に部屋に連れ込まれている様子から数時間後傷だらけになって出てくる様子までハッキリと保存されている。ああ、ハッキリとな。誰が見てもなにかがあったのは一目瞭然な映像が」
静かなセキュリティルーム内に、淡々とした会長の声が響き渡る。
モニターの明かりに照らされた芳川会長の顔が怪しく歪んだ。それは俺の錯覚ではないはずだ。
「君に頼みたいことはただ一つだ。
――証言をしてほしい。『阿賀松伊織に暴行された』と」
一瞬、会長がなにを言っているのかわからなかった。
「なに、難しいことではないだろう」そうディスクが入ったケースを撫で、芳川会長は続ける。
「ただ、先生たちの前で告げるだけでいい」
ほら、簡単だろ?
そう微笑む芳川会長の言葉に全身の熱が引いていく。
芳川会長がなにをしでかそうとしているかはすぐに分かった。分かってしまった。
会長は阿賀松伊織を陥れるつもりなのだろう。
……俺を、使って。
「なんで、そんなこと……」
「何故? 愚問だな、君だってわかっているだろう。俺は平和に暮らしたいだけだ、しかしあいつがいたらそれは叶わない」
「それは君も同じだろう、齋籐君」本来ならば、会長の言葉は同意できるものだ。言葉だけを切り取るのならばだ。
俺の知る限り、阿賀松に対したら会長もあの男に付き纏われている被害者だ。
今まで阿賀松の芳川会長に対する言動行動を考えたら会長が然るべき行動に出るのもおかしくはない。
けれどだ。先程の会長の姿を見て、阿賀松の言葉がよぎったのだ。
阿賀松の言っていた言いがかりだと思えるような酷い言葉も、全て事実だったのだ。
だからこそ、このタイミングでそんなことを言い出す芳川会長に嫌な予感がしてならなかった。
「どうした、齋籐君。まさかあいつに情が伝染つったと言いさないだろうな」
何も答えられずにいる俺を不審に思ったのだろう。会長に尋ねられ、俺は慌てて首を振る。
ここで会長に不信感を与えるのは危険だ。
否定する俺に、会長は「ならいい」と小さく続ける。
「君にとっては思い出したくもないことだろう。おまけにそれを人前で自分の口で説明するとなると君自身の心労も計り知れない。……が、しかしだ。君の証言さえあれば齋籐君はもうあいつの言いなりにならずに済む」
「そ、れは」
「利害は一致しているはずだ」
そう、ふ、と会長は微笑んだ。
俺と芳川会長の利害――それは平和な学園生活を送ることだ。
ずっとずっと夢を見ていた。楽しい学園生活に憧れて、普通の友達をつくることを目指していた。
しかし、その夢は阿賀松によって見事潰されてしまった。だから、阿賀松がいなくなればきっと俺は再びやり直すことができるはずだ。
頭では理解出来ていた。理解出来ていたし阿賀松を庇うつもりなんて毛頭もなかったが、四月十三日のあの日、阿賀松は直接的には俺に手を出していない。
気絶させられ目を覚ましたとき、俺の顔を覗き込んで笑う阿賀松の顔が蘇る。無意識に、今は完治したあの日の額の傷があった場所に触れる。
――あの男は、阿賀松伊織は俺の怪我の手当てをしてくれた。
阿賀松にとっては意味のない気まぐれなのかも知れないが、実質的に危害を加えてきたわけではない阿賀松を訴えるということに確かに俺は迷いを覚えていた。
これは本当に正しいことなのか。けれどどの道あの男は加害者なのだ、いまここにきて手段を選ぶべきなのか。俺は自分がわからなくなった。
「齋籐君」
名前を呼ばれ、顔を上げれば真っ直ぐとこちらを見る会長がいた。
「出来ないのか」
その問いかけは酷く冷たく、セキュリティールーム全体に反響する。
レンズ越しにこちらを見据える黒い眼はどこまでも深く、吸い込まれるようだった。直視し続けることができず、俺は目を伏せた。
「齋籐君」と再度名前を呼ばれる。思考がぐちゃぐちゃになっていく。考えるな、迷うな。今は迷うべきタイミングではない。ここで迷ったら、また栫井が危ない。
赤く染まった栫井の身体が脳裏を過り、俺は咄嗟に「大丈夫です」と声を上げた。思いの外、その声は大きく辺りに響き渡る。
「……っ、大丈夫です」
そしてもう一度、今度は自身に言い聞かせるように再度呟いた。
本当はなに一つ大丈夫じゃなかった。断るべきだと分かっていた。
会長の言葉に賛同するということは即ち、あの男を裏切るということだ。
それでも、今の俺に選択肢は一つしかなかったのだ。
汗が滲む。震える指先を誤魔化すようにぎゅっと拳を作れば、会長は笑ったのだ。
「君ならそう言ってくれると思っていたよ」
それはいつもと変わらない朗らかな笑顔だった。
俺は、この会長の笑顔が好きだった。会長に褒めてもらうことが、少しでも力になれることがあんなに嬉しかったのに今はどうしてかまるで心が沈んでいくばかりだった。
◆ ◆ ◆
「明日だ。明日、君は指導室に呼ばれることになるだろうが安心してくれ。先程も言ったように阿賀松に殴られたと言えばいい。……そうだな、他にもあいつにされたことがあるならそれも言え。大丈夫だ、君にはなに一つ不利はない。あいつが君になにかしてくるようなことがあれば俺が君を守る。大丈夫、君はただ事実を口にするだけだ。詳しい事情は俺の方から説明しておく。君が後ろめたく思う必要はまったくない」
暴力にも似た優しい言葉を口にする芳川会長に『作戦』の流れを聞いた俺は会長とともにセキュリティルームを後にした。
大まかにまとめれば、会長が阿賀松の起こした暴力問題を公にし阿賀松を退学させるというのが会長の企みだった。
今までも何回か阿賀松を告発しようとしたようだが、やはり被害者側が口を閉じ全てあやふやにさせられてきたらしい。それも仕方がない。相手は問題児は問題児でもこの学園の経営者の愛孫だ。必然的に裏で色々なものが絡んでくるのだろう。
そして、俺はその絡んでくる全てを断ち切るための決定的な証言者の役割を担うことになっていた。
「悪かったな、疲れているところを無理させて」
「いえ、……大丈夫です」
「君に厄介な役割を押し付けることになって申し訳ないと思っている」
「……」
――学生寮三階、廊下。
会長に部屋まで送ってもらうことになったが、正直まだ悪い夢を見ているような気分だった。
会長はいつもと変わらない。申し訳なさそうな顔をする会長と躊躇なく栫井を殴る会長、どちらが本物の会長なのか最早俺にはわからなくなっていた。
なにも答えられずにいると、ふと会長は立ち止まる。
「確か、君の部屋はここだったな」
つられて目の前の扉を見上げれば、そこには阿佐美との相部屋の扉があった。
なぜ会長が数時間前変わったばかりの新しい部屋を知ってるのか。考えただけで背筋が冷たくなる。深く考えたくない、これ以上会長のことを疑いたくない気持ちもあったが“そういうこと”なのだろう。
送っていただきありがとうございます、そう声を振り絞ろうと会長を向いたときだった。
いきなり背後から肩を叩かれる。
そして、
「ゆう君」
すぐ耳元で聞こえてきたその声に血の気が引いた。
咄嗟に振り返り、そこに立っていた人物に息を飲む。
「し、ま」
「はは、なにその顔。すごい顔だね」
くすくすと笑う志摩の手が肩に置かれた。そして、そのままぐっと顔を近付く。
「誰だと思った?」
意地の悪い微笑みに言葉が詰まり、俺はなにも言えなくなる。
……あまりにも質が悪い。
そして志摩は俺の肩に触れたまま、芳川会長の方を向いた。
「会長、わざわざ齋藤送ってくださりありがとうございます。すみませんけどこいつ、ちょっと借りますね」
「別にわざわざ俺の了承を得る必要はない」
「いえ、一応彼氏さんなのでこういうことは言っといた方がいいでしょう」
「自分の恋人がどこで誰になにされてるかわからないと不安になるでしょうし」何も言えない俺の肩を抱いたまま、笑いながら口にする志摩に芳川会長の目が細められる。
煽ってる、つもりなのだろう。それでも会長はそこで怒りを顕にすることはなかった。
当たり前だ、俺と会長の関係はあくまでも恋人の“フリ”なのだから。
それよりも、志摩がこの部屋の前に現れたこと自体が最悪だった。
「君が余計な心配をする必要はない。俺はそこまで彼を束縛するつもりはないからな」
会長の言葉が右から左へと抜けていく。あんな場面を見てしまった今、会長の見たことのない部分を知ってしまった以上吐かれる言葉の真意がただわからなかった。
束縛どころか、監視の目も行き渡っていないくせに――志摩が耳元で小さく吐き捨てる。
聞こえてるのか聞こえてないのか、こちらを振り返った芳川会長は「じゃあ、また明日」とだけ残し、そのままその場をあとにする。
そんな会長の背中を睨んだまま、志摩は「相変わらずムカつくやつ」と舌打ちをした。
「あの、志摩……」
そう、声を掛けようとしたときだった。こちらを振り返った志摩は「ねえ齋藤」と強請るようにこちらを見下ろしてくる。
「立ち話もなんだし、取り敢えず上がらせてよ」
「どうせ鍵、あるんでしょ?」そう柔らかく穏やかな口調で続ける志摩。その目は笑っていない。
この場から逃げ出したい気持ちが強かったが、肩に乗せられた手に更に肩を強く抱かれれば逃げることなどできなかった。
部屋の前、選択肢は実質一つしかない。
俺は断ることなどできなかった。
そもそも何故志摩がこの部屋を知ってるのか、これから先の展開を考えると胃が痛くなってくる。
扉を開けば、玄関先には阿佐美がいた。
「……ゆうき君、おかえり」
そう俺を出迎えてくれた阿佐美の表情は暗い。
一緒に入ってきた志摩に驚くわけでもなく、何も言わない阿佐美の態度からしてなんとなく想像はついた。
ああ、と思った。
「ただいま。……昨日はごめんね、勝手にいなくなっちゃって」
「そうじゃないでしょ、齋籐」
肩に置かれた志摩の指先に力がこもる。
その痛みに思わず顔を上げれば、至近距離、覗き込むような志摩と視線がぶつかった。
「他にももっと俺たちに言うことがあるんじゃない?」
――心当たりは山ほどあった。
志摩の忠告に構わず阿佐美に泣き付いたこと。阿佐美に対して志摩のことは心配しなくてもいいなんて法螺吹いたこと。
――そのことを言っているのだろう、二人は。
どうせ、すぐにバレるだろうとは思っていた。思っていたが、こうして志摩と阿佐美が並ぶとは思っていなかった。
「そんなところに立ったままもあれだし、……取り敢えず部屋、入りなよ」
二人に責められるような形になり動けなくなる俺に対し、阿佐美はそう言って部屋の奥へと引っ込む。
阿佐美は優しいが、それでもいつもとは違う硬い語気に緊張する。後悔したところで何もかも遅いというのに。
「なに突っ立ってるの? ほら、行きなよ齋藤」
「……わかったよ」
自分の取った行動は全て返ってくる、というのは本当のようだ。
志摩に小突かれるように部屋へと進んでいく。
――自室内。
見ないうちにまた散らかり始めていた居間。
ソファーに腰を下ろし、その向かい側、並んで座る阿佐美と志摩に汗が滲む。
二人の顔をろくに見ることができず、項垂れた。
「まあ、賢い齋籐なら大体わかってるだろうけど。なんでわざわざ俺が齋籐に会いに来たのか」
「……っ、……」
「ねえ、なんでだと思う?」
離れて座る志摩と阿佐美。阿佐美の反応が気になってちらりと盗み見たのを気付かれたようだ、机の上に置いていた手を志摩に掴まれる。
「答えなよ、齋藤」
そして、無理矢理志摩の方を向かせるように手を引っ張る志摩。
圧を隠そうともしない志摩に観念し、口を開く。
「俺が、志摩の言うこと聞かなかったから……だよへ」
「うん、そうだよ。大正解。流石齋齋藤」
「俺は齋籐のことを思って必死になって齋籐にとって最善の方法を考えて行動していたのに齋籐ったら保身のためだけに俺の作戦を全て潰しちゃうんだもん、酷いよね? 齋籐の部屋行ったら裳抜けの殻だしまあ大体想像ついたから阿佐美の部屋張ってたら案の定だし――ムカついたから壱畝にこの部屋のこと言っちゃった」あくまで笑顔のまま捲し立てるように続ける志摩の口から飛び出す事実に全身から血の気が引いていく。
そしてさっき、壱畝がこの部屋に現れたことを思い出す。
なぜだとは思ったけど、流石の志摩でもそんなことするとは思わなかった。ショックが顔に出ていたのだろう、固まる俺を見て志摩は笑みを消した。
「まあこのまま知らんぷりしようと思ったんだけど、齋籐だけが暢気に過ごしていくと思ったら癪だったから今日は阿佐美とお話したんだよね、色々」
「……色々って」
「色々だよ、色々」
志摩の言葉に嫌な予感がし、咄嗟に離れて座る阿佐美に目を向ければ、阿佐美は無言で顔を逸らすのだ。いまはなにも言いたくないということだろうか。
あからさまな拒否反応に指先が冷たくなっていく。
「本当、驚いたよ齋藤には。……今度こそ齋藤の力になろうと思ったのにさ、まさか齋藤の方からこんな仕打ちしてくるなんて思わなかった。……分かってたのにね、齋藤がそんなやつだって」
「……っ、そ、れは」
「ああ、言い訳とかいいよ。俺がここに来たのは驚く齋藤の顔が見たかっただけ、もうどうでもいいよ齋藤のことは」
「勝手にしたらいいよ、優しい優しい阿佐美に匿ってもらえばいいよ。その得意の誤魔化しと嘘でさ」そう笑いながら立ち上がる志摩。いつもと変わらない棘のある言葉だが、その表情がなんだか違和感を覚えた。まるで傷ついたように見えて、咄嗟に「志摩っ」と呼びかけるが志摩はこちらを振り返らずにそのまま部屋を出ていった。
慌てて志摩を追い掛けようとしたとき、「ゆうき君」と名前を呼ばれた。
阿佐美は座ったまま小さく首を横に振った。追わない方がいい、という無言のコンタクト。
遠くでばたんと扉が閉まる音がした。
志摩が出ていったようだ。
「詩織……」
「あいつのことはあまり気にしなくていいよ。元々、そういうやつだから」
志摩がいなくなったあとの部屋の中に阿佐美の静かな声が響いた。
「大体の事情はあいつから聞いたよ。……ごめんね、もっと俺が上手いことしてたらもっと穏便に済んだんだろうけど」
苦虫を噛み締めるように顔を歪める阿佐美。
志摩からなにを聞いたのかわからなかったが、わざわざぼかすような言い方をする辺り阿佐美なりに気を遣ってくれてるのかもしれない。
今になって自分のその場しのぎの言葉が色んな人たちを傷つけてしまっていることに気付いたが、どうしようもなかった。
「こっちの方こそごめん。ほんとは志摩に了承なんて……」
「いいよ、無理して言わなくても」
全部、知ってるから。そう、阿佐美が言ったような気がした。
「とりあえず、ゆっくり休んできなよ。……色々あって疲れただろうし」
余程疲れた顔をしてるのだろうか、俺は。
ぎこちなく笑いかけてくる阿佐美にこれ以上気を遣わせるのも申し訳なくて、「じゃあ、シャワー借りるね」と俺はリビングを後にした。
阿佐美が普段通りに言葉を交わしてくれるのが酷く身に染みた。
それは恐らく先程の志摩の冷めた態度があったから余計そう感じてしまうのだろう。
無理に踏み込んでこないその距離感が心地よく感じると同時に、芳川会長との約束を思い出せば気分は憂鬱になる。
――阿賀松伊織を退学処分にする。
あの暴君を具現化したような阿賀松から解放されるのはかなり嬉しい。嬉しいが。
阿賀松は阿佐美の身内だ。これからまた阿佐美を裏切ることになってしまうのだと思うと、ただ気分が沈んでいく。
◆ ◆ ◆
不思議なもので、暖かい湯を浴びてからようやく自分の部屋に帰ってきたような気分になった。
シャワーだけ浴びて、全身の汗を流した俺は予め用意していた部屋着に着替えた。
そして脱いだ制服を洗濯機に突っ込もうとして、不意にこの制服を用意してくれた灘のことを思い出した。
そういえば、どうやって取りに来たのだろうか。阿佐美が対応したのだろうか。
そんなことを考えながら脱衣室を後にし、居間に戻ろうとしたとき。ふと居間の方からいい香りがした。
そっと扉を開けば、まず目に入ったのはテーブルに並べられた料理の数々だった。
「あ、ゆうき君」
「どうしたの、これ」
「ゆうき君がお腹減ってるだろうと思って、頼んだんだ」
恥ずかしそうにして笑う阿佐美。
この量、どう考えても二人分どころの量ではないがもしかしなくても阿佐美の方がお腹減っているのかもしれない。見てるだけで空腹が一気に満たされたが、確かになにか腹にいれたいところだった。
「ありがとう。じゃあ、食べようか」
そう阿佐美に笑い返せば、嬉しそうに破顔した阿佐美は慌てて飲み物の用意をする。
そんな阿佐美を目で追いながらも、俺の脳裏には会長の顔が浮かんで離れなかった。
栫井は、大丈夫だろうか。考えたところでどうしようもないとはわかっていたが、考えずにはいられなかった。
もっと他に選択肢はないのだろうか。
阿賀松に絡まれようとるべく平穏に生きていこうと努めていた俺にとって、芳川会長の策は一斉一代の大ギャンブルのようにしか思えなかった。
相手はあの阿賀松だ。相手が普通の生徒なら芳川会長の言う通りにしたらどうにかなっただろうが、今回は正直勝つことができるのかただただ不安だった。
本当はやりたくない。阿賀松に逆らってまで平穏に固執したくない。そもそもあいつに逆らうこと自体が平穏の終わりのようなものだとこの数カ月で散々身を以て知らされていたからこそ、余計。
――しかし、自分の背後にはどこに刃物を持っているかもわからない芳川会長がいる。
どちらに味方したところで、自分には不利なのだ。
「……ゆうき君? どうしたの?」
用意されていたパスタを食べていると、向かい側に腰を掛けた阿佐美がこちらを見ていることに気付いた。尋ねられ、「へ」と間抜けな声が出る。
「す、すごい零してるよ……」
「零して……って、うわ……うわわ……っ!」
驚いたように、心配そうに聞いてくる阿佐美に自分の服を見れば大変なことになっていた。
慌ててティッシュを手に取って汚れた箇所を綺麗にしたあと、そのまま着替えたばかりの服を脱ごうとしたとき。
「ゆ、ゆうき君、着替え……」
これでいいかな、と適当に衣装ケースからはみ出たシャツを取ってきてくれた阿佐美だったがそのまま口を閉じた。
「ありがとう」と阿佐美から着替えを受け取ろうとして、自分の裸を見られたことに気づく。……栫井との性行為の痕跡が色濃く残った身体を。
「……っ、ありがとう、詩織」
俺は再度お礼を口にし、慌てて着替えを頭から被った。そして「洗濯機に入れてくる」と席を立った。
阿佐美はすぐに顔を反らし「うん」とだけ応えたが、前髪の下、阿佐美の視線がこちらを向いていたのは間違いないだろう。
――見られた。
昨夜帰ってこなかった上に、他の男に抱かれてきたのだと思われたのではないのだろうか。
そう思うと生きた心地がしなかった。
言い訳を考えながら居間へ戻れば、テレビが点いていた。沈黙を紛らわすようなテレビの音声はありがたい。
それから再び何事もなかったように食事を再開する。阿佐美は身体の鬱血痕や昨夜のことについて聞いてくることはなかった。
気を遣われてるとわかったからこそ余計いたたまれない。
結局、会長とのことも阿佐美に相談することもできないまま食事は終える。
ともだちにシェアしよう!