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04
どうやら俺は気を失っていたらしい。
遠くから聞こえてきた着信音にはっとし、そこで俺は自分が気絶していたことに気付く。
痛む全身。全身はまだ火照っているようだ。
まだ体内に異物が残っているような感覚があった。どうやら気を失ってそれほど経っていないようだ。
ベッドの上、ほぼ全裸で転がされていた俺は目だけを動かしなかなか鳴り止まないその音源を探る。
そして、それはすぐに見付かった。
「……」
ベッドから離れた位置にそいつはいた。
テーブルの側。携帯端末を手にしたまま、栫井はそれをじっと眺めていた。
「栫井」と恐る恐る声をかける。思いの外声が出なくて掠れてしまったが、栫井の耳には届いたようだ。ゆっくりと栫井がこちらを振り向いた。
「なんだよ」
「あ、あの……それ……」
出ないのか、と続けるよりも先に「お前に関係ないだろ」と栫井は乱暴に携帯端末をテーブルに置いた。その物音に驚く。そして、そのまま大股でこちらへと近付いてくる栫井に全身が緊張する。
「……お前さ、人の電話より自分の心配した方がいいんじゃねえの?」
「か、栫井……ッ」
嫌な予感がして咄嗟に起き上がって逃げようとするが、それよりも先に伸びてきた細い腕にベッドへと押し倒される。
腰に鈍い痛みが走り、動けなくなる。構わず胸元に這わされる掌に息を飲んだ。
――まさか、まだやるのか。
「待っ、無理だって、これ以上は」
「黙れよ」
いつの間にか着信音は途切れていた。
静まり返る部屋の中、布が擦れる音がやけに大きく響くのだ。未だ情事の熱が残った身体は少し触れられるだけでも再び疼き始めるのだ。
栫井、と懇願するように枯れた声で名前を呼んだときだった。
コンコンと、栫井の部屋の扉が静かに叩かれる。瞬間、びくりと栫井の肩が震える。そして、身体を張っていた手が動きを止めた。
しかし、そのノックに答えるわけでもない。玄関口の扉を睨んだまま固まる栫井。そして、再び扉が叩かれる。
「栫井、誰か来……っ」
「黙れよ、お前に関係ないだろ」
「え、ちょ……っ、ん、んんぅ……っ!」
コンコン、コンコンと執拗なノック音が響く部屋の中。栫井は苛ついたように唇を塞いでくるのだ。
俺の目には栫井がなにかに怯えているように見えた。本当にこのまま無視していいか、俺にはそう思えなかったが、唇を塞がれてしまえばそれ以上なにも言うことはできなかった。
「っふ、ぅ……っ」
荒々しく、性急なキスに酸素を奪われる。栫井の肩を叩き、慌てて止めようとするが栫井は離れない。それどころか伸びた手に腰を抱き寄せられ、重なる腹部に熱が宿る。
「は、っぁ、ちょ、栫井……っ」
息苦しさに堪えきれず、唇から逃げるように顔を逸らした俺は僅かに出来た隙に相手の名前を呼ぶ。しかし、すぐに唇を重ねられその先は言葉にならなかった。
長い長いキスの間、一向に現れない栫井に訪問者は痺れを切らしたようだ。ノック音は止んだ。
そして、再び静寂が部屋に戻る。
そこでようやく栫井は俺から唇を離したのだ。
「は……っ」
ようやく気が済んだのか。そうほっとするのもつかの間、そのまま栫井は俺の肩に顔埋めるのだ。言葉もなく、ただ浅い呼吸を整えるように深く息を吐いた。
一体どうしたんだというのか。
安堵するわけでもなく、まだどこか怯えたような様子の栫井に戸惑う。それでも俺はやつを振り払うことができなかった。
「栫井……」
大丈夫なのか。なんとなく心配になり、その上下する肩にそっと触れようとしたとき。栫井に手首を掴まれる。
「……っ、え、ちょ、待って……栫井」
「……」
「本気で、また……」
「……良いから黙れよ」
なんなのだ、本当に。
怒ったり、怯えたり、笑ったり、栫井が何を考えているのか分からない。
それでも強く拒むことができない俺も俺だろう。抵抗する手を止め、観念した俺は再び栫井を受け入れた。
あれから、俺は栫井に文字通り抱き潰された。愛撫らしい愛撫もなく、ひたすら栫井にオナホかなにかみたいに肛門に性器を挿入され、何度目の射精かわからなくなって、そんで、体力の限界に達した俺はまた眠っていたらしい。
「ん……」
朝か夜かもわからぬ微睡む意識の中、鉛のように重い瞼を持ち上げれば薄ぼんやりとした照明の明かりが視界に入る。そしてその中央。顔のすぐ側に見慣れた顔があった。
短い黒髪に張り付けたような無表情――灘和真がそこにいた。
「おはようございます、齋籐君」
一瞬、状況が読めなかった。
まだ夢を見てるのだと思ったが、違う。本物だ。
「うわっ!」と飛び起きれば、全身の筋肉がずきりと痛み、呻いた。
「急に起き上がらない方がいいですよ。……気分はどうですか?」
「だ、大丈夫……じゃなくて、なんで灘君がここに、っていうかなにして……っ」
そうだ、そこは栫井の部屋だ。
夢でないというならなんで灘がここにいるのか余計わからなくなって目が回りそうだった。
そんな俺とは対象的に、やはり灘はいつもと変わらない様子で。幸い服は着ているようだが、誰が着せたのか。色々な疑問が一気に溢れ出しどうにかなりそうだ。
「自分は齋籐君が目を覚ますまで様子を見ておくようにと申しつけられたので、こうしてここで貴方を見ていました」
……申し付けられた?
灘の言葉に疑問を覚えて「だ、誰に?」と恐る恐る尋ねるが、灘は「お答えできません」と即答する。なんだそれは。
とにかく俺は自分のおかれた状況を整理するため辺りを見渡した。
場所は変わらず簡素な栫井の部屋の中。服はシャツに着替えさせられていたが、恐る恐る確認すれば下は下着一枚だ。そして、灘の手にはスラックスが抱えられている。
まさか、先ほどベッドに上がっていたのは俺に服を着せるためかもしれない。そこまで考えて、顔が熱くなる。
肝心の栫井はいないし、少なからず灘は俺が脱がされているようなことをされていたと気付いていてもおかしくはない。でも、灘が触れてこないのだからわざわざこちらから言うのもおかしい気がした。
とにかく話題、話題を変えよう。そう咄嗟に視線を泳がせ、俺はふと疑問を口にした。
「あ、あの、そうだ、栫井は……」
いきなり現れた灘に気を取られていたが、先ほどからここの部屋の主である栫井の姿が見当たらない。
ただ離席してるのか、だとしたらさっきの訪問者は灘だったってことか?
そんなことを考えながら灘に尋ねれば、灘はじっとこちらを見る。相変わらず温度を感じさせないその冷静な目になんとなく胸がざわついた。
「栫井君ならここにはいません」
「なら、どこに」
「それは申し上げられません」
「なんで」
「そういう風に申し付けられているので」
あくまで答えようとしない灘。流石にここまで頑なな態度を取られたら嫌でも気付いてしまう。
いなくなった栫井、そしてその代わりにここに残っている灘。
二人の共通点を考えれば、脳裏に一人の男子生徒が思い浮かんだ。
そして、まさか、と息を飲む。
「会長が……?」
「……」
やはり、灘は答えようとはしない。しかし、その沈黙は肯定するも同然だった。
いつの日かの傷だらけの栫井の背中と、ついさっき手当した栫井の上半身の傷が鮮明に蘇ると同時に、頭に過る一つの可能性に全身の血の気が引いていく。
あくまでも妄想の域を越えない下世話な想像だとはわかっていた。
わかっていたが、考えれば考えるほどいても立ってもいられなくなって。ついには我慢出来ずにベッドを降りようとして、灘に止められた。
「齋籐君」
肩を掴まれ、静かに名前を呼ばれる。
無骨な指先は栫井のように乱暴ではないが、しっかりと掴み離さない。
……厄介だと思った。
「灘君ごめん……離して」
「それは出来ません」
「……会長に言われてるから?」
「あなたの体が本調子ではないからです」
眉一つ動かさずに続ける灘。
ベッドから降りようとした拍子に大きく布団が捲れてしまったようだ、そのまま灘は俺の下半身に目を向けた。
「第一、そんな格好で寮内を歩き回るつもりですか」
その鋭い指摘に、言葉に詰まる。
真っ当な意見に恥ずかしくなり、慌てて掛け布団を掛け直して下半身を隠そうとすれば、「これを」と灘は手にしていたスラックスと、それから制服一式を渡してきた。間違いない、俺のものだ。
「ありがとう」とそれを受け取り、一先ず俺は人前でも恥ずかしくない格好へと着替えることにした。
その間、灘との会話はない。
そもそもこの制服、俺は自室に置いていたはずだ。何故灘が持っているのか。
着替え終え、そのまま俺は部屋を出ようとすれば、「どこへ行かれるんですか」と案の定呼び止められることになる。
「……トイレ」
「それなら部屋にありますよ」
無表情のまま続ける灘が引く気配はなく、このままじゃ一生ここに留まることになり兼ねないと青ざめた俺はどうしようかと悩み、そして閃く。
「こっ……公共のトイレでしたいんだ」
言ってからあまりにも意味深な自分の発言にハッとする。
変態か俺は。しかし、灘はというと表情一つ変えずに「ならご一緒します」と即答してみせた。
灘も灘でなかなかだった。
「い……いいよ、大丈夫だって」
この部屋から出るための口実なのに灘まで着いてこられちゃ元も子もない。
どうにかして灘から逃れられないかと考えたとき、近付いてきた灘に腰を掴まれる。瞬間、絶賛筋肉痛諸々が発症していた下腹部に鈍い痛みが走る。
「いっ」
「大丈夫なようには見えませんが」
「な、灘君……っ」
俺が即答できないのを確認して、俺から手を離した灘は「ご一緒します」とだけ口にした。
やはり、灘を出し抜くことは一筋縄ではいかないようだ。それでも一先ず部屋を出られることに安堵する。
それから暫く腰の灘の手の感触が張り付いて離れなかった。
◆ ◆ ◆
ついてくると言って聞かない灘とともに栫井の部屋を後にしたのはいいが、正直俺はどうすればいいのかわからなかった。
本能は栫井を探せと叫び、その裏では下手に出歩くなと警告してくる。
壱畝のこともあったし、恐らく心配しているであろう阿佐美と会って事情を説明したい。
それなら灘も文句を言ってこないだろう。しかし、やはり栫井のことが気にかかった。
別に情が移ったわけでも昨日のことを快く思っているわけでも新しい扉を開いたわけでもないが、気になるのだ。やはり、怪我のこともあるからか。
俺は決心を固め、一先ず芳川会長がいそうな場所を当たることにした。
――学生寮三階、エレベーター乗り場前。
俺と灘はエレベーターに乗り込み、三年の部屋がある四階へと移動する。
「どちらに向かわれるのですか」
そして静まり返ったエレベーター機内。
なにも言わずについてきたらのでもしかしたらと思っていたが、やはり灘は尋ねてきた。
「灘君は芳川会長がどこにいるのかわかる?」
「その質問の理由を聞いても宜しいですか」
灘が質問を質問で返してくるのは珍しい。
やはり、なにかあるのは間違いないだろう。
「……自分の恋人に会いに行くのに理由がいるのかな」
押し出すように言葉を口にする俺に、顔を上げた灘はそのまま俺を見た。相変わらずその目に感情はない。
いつの日か、阿賀松が俺に言った言葉を思い出す。
灘にこんな言葉が通用するかわからなかったが、他にうまい言葉が見当たらなかったのだ。仕方がない。
暫し沈黙が続き、灘と見詰め合う。あの冷めた目と真っ正面から向かい合うのはかなりの精神力を要いたが、俺はなにも考えようにしただ灘の目を見据え返した。
そして、どれくらい立ったのだろうか。四階に着いたエレベーターはゆっくりとその扉を開き始める。
そんなときだった。
「わかりました」
そう言って、灘は飾りっ気のない携帯端末を取り出し、どこかに向かって電話を掛け始めるのだ。
どうやら俺は灘とのにらめっこに勝利したようだ。嬉しいとかそんな気持ちより、安堵の方が大きかった。
俺は機内に灘を残し、一足先に四階のロビーに出る。携帯を耳に当てたまま灘もエレベーターを降りた。
そして待つこと暫く。響き渡るコールが途切れることはなかった。
「……」
無言で携帯を耳に当てていた灘だったがとうとう諦めたようだ。そして、再度エレベーターへと戻る。
考えるよりも先に、俺は慌てて閉まりかける扉をこじ開け、機内の中へと転がり込む。
そんな俺に、灘は静かに目を向けた。
「あなたが着いてくる必要はありません」
背後でエレベーターが扉が閉まる。
その声は冷静でもありながら、どこか突き放すようなものも含んでいた。
「……必要はなくても、駄目ってわけじゃないんだよね」
こういうとき、志摩の屁理屈は役に立つ。
しつこく食い下がる俺にじっと目を向けてくる灘だったが、やがて痺れを切らしたように1Fのボタンを押した。それから静かに機体が動き出す。
やはり、灘はなにも言わない。しかし、それ以上「着いてくるな」と言うこともなかった。
学生寮一階まで降りてきた俺達はそのまま学生寮へと向かった。
既に外は明るくなり始めており、早朝独特の冷たい空気の中俺達は渡り廊下から校舎へと向かう。
そして学園校舎内、最上階――生徒会室前。
まさかこんな朝早くから会長が生徒会室にいるというのか。緊張する俺の横、相変わらず無表情のまま灘は扉を叩く。
廊下に響くは数回のノック音。しかし、反応はない。
「失礼します」
これ以上待ったところで無駄だと悟ったのだろう。扉を叩くのを止め、ドアノブに手を掛けた灘はそのまま大きく生徒会室の扉を開いた。鍵は掛かっていないようだ。
なにも言わずに扉の向こうへと突き進んでいく灘。躊躇いつつも俺はその背を追った。
生徒会室に人気はなかった。
もしかしたら、ここに芳川会長はいないのかもしれない。
そう早速諦めていた俺の横、灘はそのまま生徒会室の奥へと進む。
その先には一枚の扉があった――確か、仮眠室に続く扉だ。
まさか、と慌ててその後を追い掛ける。
仮眠室の扉を開こうとしていた灘だったが、どうやら扉には鍵がかかっていたようだ。すると、制服からなにか針金のようなものを取り出す灘。
ピッキングという単語が脳裏を過ぎった。
「灘君、なにして……」
「見ての通り解錠です」
「俺はこの場所の鍵は持っていないので」言いながらも、慣れた手付きで鍵穴に変わった形の針金を挿し込む灘。これって法的に大丈夫なのだろうかだとか、そもそもどこでこんなこと覚えたのかだとか、聞きたいことは色々あったが真剣な顔を見てるとそれを邪魔することはできなかった。
ここは灘に任せよう。
邪魔にならないようにやや離れたところで灘の解錠作業を見守ること暫く、カチャリと鍵が外れる音が辺りに響いた。
どうやら成功したようだ。こちらを一瞥した灘は、そのまま針金を仕舞う。そしてそのままドアノブに手をかけ、扉を開いた。
そのときだった。
ガシャン、と硝子が割れるような音が仮眠室の方から聞こえてきた。
慌てて仮眠室の扉へと駆け寄った俺は、その先の光景に背筋が凍り付く、
「栫井……っ!」
灘の肩越しに覗いた仮眠室の残状に、口から声が漏れる。
フローリングの床の上に散乱した白い陶器の破片は花瓶だろうか。辺りには水が飛び散り、数本の花が水溜まりの上に落ちていた。
そのすぐ側に栫井平佑はいた。床の上で蹲り、腕を抑える栫井。そして、身につけていた白シャツの二の腕から袖の部分まで真っ赤に染まっていたのだ。
――血だ。それも、その指先からぽたぽたと溢れ、床には赤い水溜りができている。
考えるよりも先に仮眠室内の栫井に駆寄ろうとして、灘に腕を掴まれ引き止められる。
「灘君」とその手を振り払おうと振り返ったときだった。
「わざわざ施錠してまでくるから何事かと思えば、どういう了見だ。――灘」
部屋の奥、聞こえてきたその声に血の気が引いていく。
聞き間違えようのない、落ち着いた声。
「……俺の指示無しに勝手に部外者を連れ込むなと言っていたはずだが」
栫井の奥で人影が動き、そしてこちらへと一歩踏み出す。ぱきり、となにかの破片が砕ける音が聞こえた。
そしてゆっくりと薄暗い部屋の奥から現れたその人に、次第に血の気が引いていった。
予感はしていた。散々周りに忠告もされた。
……けれども、信じていたかった。
「っ、芳川会長……」
そうその人物の名前を口にすれば、芳川会長はいつもと変わらない涼しい表情でこちらを見下ろした。そして。
「おはよう、齋籐君。体の調子はどうだ?」
まるで流血した栫井など存在しないかのように、世間話をする芳川会長。そして、その手に握られた歪に凹んだ金属バッドを手にしたまま芳川会長は小さく笑うのだった。
「か、会長……っ、どうして……」
「その様子からして、もう平気なようだな。……ならよかった。しかしまだ無理はしない方がいい。部屋でゆっくりと休んでこい」
まるで会話が噛み合わない。
バットの先端を引き摺り、一歩、栫井に近づく会長。その音にびくりと栫井の肩が震えるが、逃げ出そうとはしない。
何が起こってるのか一瞬理解できなかった。違う、理解したくなかった。
けれど、目の前のそれは紛うことなき現実で。
灘の制止を振り払い、俺は会長と栫井の間に割り入る。自分でも自分の行動に驚いたが、このまま見逃すことはできなかった。
「っ、会長……」
目の前に立ち塞がる俺に、会長は顔を上げる。
「どうした、まだなにか用があるのか」
「会長は……なにを、してるんですか」
「なにを? そうだな、スウィングの練習だ」
「最近、体を動かしてなかったからな」あまりにも平然と答える芳川会長に気を覚えた。
その場凌ぎの冗談でも、本気でも、どちらにせよ会長がここで後輩に暴行しているのは確かな事実だ。
栫井の怪我も、全て全部阿賀松の言いがかりだったらいい。そう思っていたからこそ余計裏切られたようなショックはあった。
けれどそれ以上に今まで芳川会長に感じていた違和感が確かなものになったのだ。
「なに、言って……っ、そんなの。なんで、栫井に、こんな……」
会長と栫井が揉めていたことも知っていた。そう仕向けたのも、俺だ。それでも、だからといってこんなことが裏で行われてると思わなかった。
止めなければならないのに、口が回らない。
言葉に詰まる俺に、芳川会長は笑うのだ、
「君は優しいな。本当、優しい」
「会長……」
「優しくて――甘い。ああ、本当に甘いな」
いつもと変わらない態度。
いつもと変わらない笑み。
いつもと変わらない優しい声。
偽りでもなんでもない。だけど、だからこそ、なおさら気分が悪かった。逸そのこと全て演技だったらどれほどよかっただろうか。
「お人好しな君が言いたいことも大概想像つく。あながちそいつに手を出すなと言いたいのだろう。しかし残念ながらそれは出来ない」
「っ、なんで」
「そいつがなにをしたか君が一番よくわかっているだろう。この前の阿賀松のとこもそうだ、盗聴器についても。物分りのいい君には理解出来ないだろうが、こいつは体に直接叩き込まなければわからない側の人間だ」
「しかしまあ、それでも未だ理解出来ないようだけどな」そう、会長はバットを持ち上がる。
あっと思った次の瞬間、ごく当たり前のように会長はそのバットで俺の背後で蹲っていた栫井を殴るのだ。
「……ッ、ぐ!」
「っ、栫井っ!」
腕を抑える栫井。その顔からは血の気が失せ、玉のような脂汗が無数に浮かんでいた。
慌てて駆け寄れば、抑えたその腕の血は広がってる。見てるこちらまで貧血になりそうなほどだった。
「そこを退け、齋籐君」
「……いや、です」
「なら君がそいつの代わりにでもなるか」
それは感情のない声だった。
それでも会長が本気だというのは分かった。
――会長は、詰まらない冗談を口にしない。
「……っ、わかりました」
どくどくと鼓動が早くなる心臓。それを抑え込み、俺は会長を見上げる。
「俺が、俺がなんでもします。お願いだからこれ以上栫井を殴らないで下さい……っ」
口から出任せだ。本当はそんな覚悟などない。
心のどこかで俺は一縷の望みに賭けていた――会長は、俺のことを殴らないという希望に。
灘と栫井の視線が突き刺さる。それでも、言葉を撤回する気はなかった。
栫井を庇うように立つ俺を前に、会長は小さく息を吐いた。
そして、
「……君は本当に単純だな。冗談に決まっているだろう、君を叩いたところでどうにもならない」
「それともなんだ、君はこいつに良心の呵責を望むのか」だとすればなかなか悪趣味だなと、会長は笑った。小さく喉を鳴らしたまま、手にしていたバットをゆっくりと肩に担ぐ。
「そういうつもりじゃ、」
ないんです。辛うじて否定を口にした俺に芳川会長は「わかっている」と頷いた。
「君のことだ。自分が身代わりになれば事が納まると考えたのだろう」
「……っ、会長……」
「栫井、よかったな。齋籐君が心が広い人間で」
俺の背後に目を向けた芳川会長。名前を呼ばれた栫井は何も答えなかった。
そんな栫井に何を言うわけでもなく、会長は仮眠室の入り口の前に立っていた灘に目を向けるのだ。
「灘、そいつを連れていけ」
「わかりました」
そう会長の命令に対し即答する灘。
栫井に近付いた灘は、そのまま栫井の怪我をしていない方の腕を引っ張り立ち上がらせる。
もしかしたら血が出ていないだけで他にも怪我をしているのかもしれない。呻き声を押し殺し、よろよろと立ち上がった栫井は俺を見た。目が合う。
「栫井」
丁度そのとき、芳川会長は栫井を呼び止めた。
俺に向けられていた栫井の視線はそのまま怯えるように会長に向けられる。
「次やったらそこから下が無くなると思えよ」
それは脅迫だった。
真っ白な顔をしたまま、汗栫井は「すみませんでした」と小さく呟く。そしてそのまま灘に連れられ仮眠室を後にする。
栫井の怪我のことが気にならないわけではない。寧ろ心配だったが、二人の後を追いかけることはできなかった。
俺の目の前に芳川会長が立ち塞がったのだ。
「齋籐君、さっき君はなんでもすると言ったな」
「……はい」
「なら丁度いい。……君に頼みたいことがあったんだ」
手にしていたバットを壁に立て掛ける会長。
この流れで『はいわかりました』と喜んで受け入れる気分にはならなかった。
俺が答えに詰まっていると、「それとも、やはりさっきのは出任せか?」と会長は続ける。
見えないなにかに首を締められていくような感覚だった。危険だと分かってて踏み込んだのは俺だ。そして、身代わりになると言ったのも俺だ。
「わかり……ました」
俺にはそう答えることしかできなかった。
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