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05
――灘を追いかけよう。
そう決意してどれくらい経っただろうか。
結果だけ言おう、俺は絶賛迷子になっていた。
元からこの学園はこう、無駄な部分が多いのだ。
使われていないいくつもの教室が並ぶ静かな通路の中、今更そんなことを思わずにはいられなかった。
どうしよう。もしここでもたもたしている間に灘が捕まっていたら。
相手は怪我人だとはいえ、俺に灘を助けることはできるのだろうか。
いや、そもそも灘が捕まることが有り得るのだろうか。だって相手は神出鬼没の灘だ。
そう思うと、俺でさえ灘を探し出すことができるのか不安になってきた。
そんなときだ、通路の奥の方から複数人の話し声が聞こえてきた。
慌てて物陰に身を潜めた俺は、声のする曲がり角の奥をそろりと覗き込んだ。
そこには丁度数人の生徒が集まっていた。
そして、その中に見覚えのある青髪と金髪を見付けた。――縁と仁科だ。
とある教室の前にいたその生徒たちといくらか言葉を交わす縁。その内容まではここまで聞こえてこなかったが、縁の言葉を聞いた生徒たちはそのまま道を開けるように部屋の扉を開ける。
そして、縁と仁科は開かれた扉の奥へと足を進めた。
二人が部屋に入ったあと、見張りらしきその生徒たちは再びそれぞれの持ち場へと戻る。
見たところ灘の姿はなかっただが、まだ気は抜けない。もしかしたら既にこの部屋の向こうに灘が連れて行かれている可能性もあるわけだし。
念の為、部屋の中の様子を確認できないだろうか。
そう思った俺はそのまま見つからないように、縁たちが入っていったその部屋の周囲の様子を観察する。見たところ、出入りできる扉は見張りがいるあの扉だけで他にそれらしき窓も扉も見当たらない。
こうなったらヤケクソだ。ダッシュで扉を開けて中を見て、捕まる前にダッシュで逃げよう。
そう半ばヤケクソに物陰から立ち上がろうとしたときだった。
「ちょっと!」
すぐ背後から驚いたような声とともにいきなり伸びてきた手に首根っこを掴まれる。
なんだと驚くよりも先に、そのまま俺は口を塞がれ、再び物陰へと連れ込まれた。
「騒がないで。……バレちゃったらどうすんの」
バクバクと鳴り響く鼓動。
背後から抱き竦められるように掴まえられる腰。そして、すぐ耳元から聞こえてきた声に俺は思わず背後を振り返った。
――そこには呆れ果てた志摩がいた。
志摩、と呼びかけようとするが、口を塞がれたままでは言葉はすべてくぐもってしまう。もごもごと口篭れば、志摩は「静かにできる?」と尋ねてくる。数回頷き返せば、そのまま志摩は俺の口から手を離した。
「しっ、志摩……どうしてここに」
「それはこっちの台詞。……それより、あの部屋がなんなのかわかってるの?」
「――え?」
どういう意味だろうか、と志摩を見上げれば、志摩の眉間に深い皺が寄る。
そしてそのまま俺の腕を掴み、軽く引っ張るのだ。
「こっち来なよ。裏口あるから」
「……」
「なに、その目。もしかして俺のこと疑ってんの?」
裏口と聞いても反応しない俺に、志摩は心無しか不機嫌になる。
疑っていない、といえば嘘になるかも知れないが、それ以前に当たり前のように助けてくれる志摩に戸惑ったのだ。
志摩はそんな俺の沈黙を別の意味で捉えてしまったらしい、その表情には皮肉げな笑みが浮かぶ。
「まあ別に構わないけどね。齋藤が無策でノコノコ扉の前通って見張りに捕まって部屋に引きずり込まれた瞬間殴られようが構わないって言うならだけど」
「そ、じゃなくて……」
相変わらず刺々しい物言いがなんとなく懐かしさすら感じた。それでいて、相変わらず志摩の真意が読めない。
「なら来なよ」
強要はしないから、とだけ言い残し、志摩は俺の言葉を待たずしてさっさと逆の通路へと歩き出した。あの部屋と正反対の方角だ。
いつものように強引に誘導されるのもだが、この泳がせられるような感覚も反応に困る。
誘導尋問だとしても、やはり俺に選択肢は残されていないのも事実だ。
……それに、志摩には聞きたいことがあった。その点ではここで会えたのは不幸中の幸いでもあったのかもしれない。
なんて思いながら、俺は志摩に置いていかれないようにその背中を追い掛けた。
志摩に「着いてこい」と言われるがまま着いていったはいいが、なんだか先程よりも目的の部屋から遠ざかっている気がしてならない。
というより、確実にそうだ。こんなところに裏口があるはずがない。
どういうつもりかは分からないが、本当にこのまま着いて行っていいのか迷った俺は思い切って立ち止まる。
静まり返った通路のど真ん中。
勇気を振り絞り、「あの、志摩」と声をかければ、志摩はこちらを振り返る。
「なに?」
「本当にこっちなの? ちょっと、離れているみたいだけど……」
どこで志摩の逆鱗に触れるか分からない。
なるべく言葉を選んで尋ねれば、志摩は意外なことに笑っていた。いつもの笑顔だ。
『俺のことを信じられないの?』と怒るかなと思っていただけに、志摩の反応に戸惑った。
「あ、あの……志摩?」
――その笑顔に寒気が走る。
なんとなく嫌な予感がして、咄嗟に俺は志摩の方を見たまま後退る。一歩、また一歩と後退れば、とうとう背後の壁に背中がぶつかった。壁だ。
しまった。
そう思ったときにはなにもかもが遅かった。
背後の壁に気を取られたときにはもう目の前まで迫っていた志摩の手が伸びてきて、そのまま俺の逃げ道を遮るように壁を叩いた。
「……っ!!」
「……へえ? 少しは賢くなったみたいだね」
「志摩……っ、騙したの?」
「いや、それ言うの遅いよ。普通に考えてさ、俺が齋藤をあんなところに行かせると思う?」
「行かせるわけねぇだろ」そう、喉奥を鳴らして笑う志摩。その笑顔に咄嗟に逃げようとするが、遅かった。目の前の志摩を突き飛ばそうとするが、逃げるどころかそのまま手首を掴まれる。
そして、志摩は自分のネクタイに指をかけるのだ。しゅるりとそれを解き始める志摩に血の気が引いた。
「っ、志摩、退いて」
「行かせないよ、もう。少し目を離した隙にこんなことになってるんだもん。ちゃんと俺の言った通りにしないからだ」
全部、とその形のいい唇が動く。
「っ、志摩……ッ」
「やっぱり齋藤には無理だよ。危機感は少しは湧いたのかもしれないけど、それでも遅すぎるくらいだしね。本当に、俺の寿命をどれほど削れば気が済むの?」
「っ、だからって、なんで……」
離して、という言葉は締め付けられる手首の痛みに掻き消された。解いたネクタイを縄のようにし、そのまま人の手を縛りあげようとしてくる志摩にぎょっとしたが、逃れることはできなかった。
「っ、志摩」
「『なんで』って? ……本当、齋藤って酷いよね」
信じられないとでもいうかのように目を見開いた志摩。その口元には笑みが浮かんでいた。まるで自嘲するような笑みが。
「あのさ、俺はいつも言ってるよね。俺は齋藤が心配だって」
「なら、どうして邪魔するんだよ」
こんな真似、本当に心配しているというのならするはずない。志摩は目を丸くしたまま、束ねた手首をそのまま俺の頭の上にもっていくのだ。そして、そのまま壁に背中を押し付けられる。
冷たく硬い壁の感触に、ひんやりとした汗が流れ落ちた。
「……邪魔だって? 俺が? ……俺の何が?」
静まり返った通路に、志摩の声が響く。
その声が微かに震えて聞こえたのは反響のせいだろうか。いや、恐らく違うだろう。
「どうすればいいのか、どうしたら齋藤が苦労せずに済むのか、どうしたら齋藤が喜んでくれるのか。いつも齋藤のことばかり考えてるのに……俺が邪魔だって?」
見上げた志摩の顔は、笑っているようでも怒っているようでも、悲しんでいるようでもなか。っ力が抜けたような、そんな虚ろな表情のままこちらを見下ろす志摩にぎょっとする。
そういうつもりで言ったわけではなかった。
……ただ、志摩に言い返したかったのかもしれない。志摩に心配されなくても自分は大丈夫だと。だから心配しなくてもいい、と。
――だけど、今のは完全に俺の失言だ。
「し、ま……」
今の違うんだ、と言い掛けて、志摩の方が微かに震えていることに気付く。
「……志摩?」言い過ぎたか、と恐る恐る相手を覗き込んだときだった、その口元は笑っていた。
「っ、ふ、ふふふ……」
押し殺すように肩を揺らし、喉を鳴らす志摩。その顔はどこか吹っ切れたような、そんな清々しい程の笑顔が浮かんでいた。
「……っ、志摩」
「ああ、そう……齋藤はそう思ってたんだ。邪魔だなって、俺なんか居ないほうがよかったって、俺がいるせいで全部俺のせいでおかしくなったってさ」
「そ、そこまでは言ってな……」
「言ってるよ、齋藤。俺にはちゃんと聞こえるんだから」
――目が据わっている。
このままではまずい。そう逃げ出そうと体を捻るが、縛られた体勢ではあまりにも分が悪かった。
胸ぐらを掴まれ、そのまま顔を寄せられる。
「志摩……っ」
「全部俺のせい、全部俺が悪いんだよね、齋藤」
「っ、ち、が……んんっ!」
否定しようとした言葉すらも唇に塞がれる。
キス、なんて甘いものではない。黙らせるための一方的な動作で唇を塞がれ、そのまま胸ぐらを掴まれる。締まる首元に頭の中の酸素は薄くなっていき、あまりの苦しさに死を悟った俺は堪らずその唇を噛み付いた。
がりっと、唇の薄皮が歯で切れるような感触とともに、じわりと咥内に甘い血の味が広がった。志摩は舌打ちをし、俺から唇を外した。
「っ、は、志摩、落ち着いて……っ、」
「やだなあ、齋藤。落ち着いてるよ、齋藤のお陰で嫌ってほどね」
「落ち着きすぎて今なら身投げできそうだ」そう微笑む志摩の目は笑っていなかった。
「しま、」
「ごめんね、齋藤――俺は今までずっとずっとずっと齋藤を不快にさせてきたんだ。……ごめんね、齋藤」
ただの謝罪だったらまだ良かっただろう。
けれどこの状況、この流れの志摩の謝罪にいい予感など一ミリもない。
がら空きになった腹部、捲し上げられたシャツの裾の下。外気に晒される下腹部に思わず身震いしたとき、そのまますっと志摩の人差し指が臍に触れ、そのままゆっくりと這い上がるように腹部に浮かぶ筋をなぞっていく。
その感触に青褪める俺に、志摩はにっこりと柔らかく微笑んだ。
「だからこれからは齋藤のことなんて考えないようにするよ」
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