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 校舎内、非常階段。  横にも縦にもでかい校舎の外壁を伝うように造られたその階段は、人が登るにはあまりにも大変だ。  エスカレーターが当たり前のように移動手段として使われている今、寒い・暗い・長いという三重苦のこの非常階段を階段として使う人間はいない。  ――俺たちを除いて。 「齋藤、ついてきてる?」 「……うん、なんとか」 「ならよかった。さっきからすごい静かだったから途中で転がり落ちてんじゃないかと心配しちゃったよ」 「……」  笑えない。今まさに油断したら転げ落ちそうになっているのも事実だった。  さっきここを通ったときは下りだったからか、上がるときの足への負担は比にならない。それでも登るしかないのだ。  ……というか本当にどうなってんだこの学園は、どうせなら非常階段までエスカレーター式にしてくれたらいいのに。  なんて、現実逃避しながらひたすら前を行く志摩の背中を追いかける。 「……あのさ、聞きたいことあるんだけど」  静まり返った空間に、不意に志摩の声が響いた。  なんとなく改まったような志摩の態度が気になったが、背中を向けて歩き進む志摩は前を向いたままで表情は見えない。志摩の背中から視線を外した俺は「うん」と頷き返す。 「……また俺に騙されるとか思わないの? 簡単にノコノコついてきてさ」  いきなり何を言い出すかと思えば。  取り繕う余裕すらないこのタイミングでそんなことを聞いてくる志摩に『狡いな』と思ったが、もし余裕があったところで俺は上手いことを言えないだろう。  それなら、本心を口にするだけだ。  ……恐らく志摩もそれを望んでいるはずだから。少なくとも、俺は。 「……思ってるよ。もしかしたらまた嘘つかれてるんじゃないかって」 「なら」 「でも、それでも心配してくれてるっていうのがわかったから……いいよ、別に。嘘でも」  自分でも相当なことを言っているのはわかった。それでも、そうとしか言いようがないのだ。  志摩が嘘をついてきたように、俺も誤魔化して目を背けてきたのは事実だ。  その結果、簡単に解けるはずだったものは余計に絡まって、一度切る羽目になったのだ。  それなら、次は同じようなことはしたくなかった。  無謀無策の考えなしと言われようが、自分の直感を信じるまでだ。  俺は、志摩を信じたい。  少なくとも、今の俺はそう思っていた。 「……本当、齋藤ってさ」 「馬鹿みたいっだって、わかってるよ。……自分でも思う」 「自覚あるんならいいよ」  それは諦めたような、どこか安堵した口振りだった。 「そんな性格だから、俺と一緒にいてくれるんだろうからね。……感謝しないと」  そう言う割にはどこか皮肉めいたものを感じ、つい俺は苦笑する。  すると、ふと顔を上げた志摩は呟いた。 「そろそろ着くよ」  独り言めいたその言葉に「うん」と頷き返し、俺は段差を踏み込む足に力を込めた。  ――校舎、特別棟通路。 「最後にもう一度だけ確認しておくよ。方人さんたちを部屋から連れ出すから、俺が良いって言うまで部屋に近寄らないこと。何があっても動かないこと。合図するから、そしたら部屋に入りな。栫井を見付けた時も見つけきれなかったときも五分経ったらすぐに部屋を出る。いいね?」 「うん、わかった」  改めて志摩と作戦の確認を終えたとき、出来るだけ力強く頷き返す俺に志摩は目を顰めた。 「本当? 心配だなぁ……」 「わ、わかったってば。……志摩も、気を付けて」 「悪いけど、齋藤に心配されるようなヘマはしないよ」  どうしてこうも志摩はああ言えばこう言うのだろうか。  元々こういう性格なのか。前はもっと優しかった気もするが、そんな砕けた態度も壁が薄らいだお陰かと思うとなんとなく、悪い気はしない。  思いながら志摩を見詰めたとき、ふと目があって志摩の手が伸びてきた。何事かと後ずされば、前髪を掻き分けられる。 「え? ちょ……」  驚いて、目を瞑ったとき額に柔らかいものが触れた。  ちゅっと小さな音を立てて離れる志摩に、俺は目を見開いた。 「じゃあね、また後で」  いつもと変わらない軽薄な笑みを浮かべた志摩は、そう言って軽く手を振った。  こんなときまで誂われるなんて。  少しだけ悔しかったけど、お陰で全身の緊張が解れたのだからなにも言えない。  俺は小さく手を振り返し、志摩を見送った。  志摩曰く、縁たちが入っていったあの部屋は元々倉庫として使われていたらしい。  そのため比較的窓や扉が少ないため、出入口となる扉は一つしかない。  つまり、その扉を見張っていたらすぐに志摩が出てきたのがわかるはずなのたけれど……。 「……」  どういうことなのだろうか、どれだけ待っても志摩が出てこない。  いやまだ諦めるのは早い、俺は志摩を信じると決めたんだ。  せめて、志摩の邪魔にならないように待つしかない。  そう脳裏を沸々と浮かぶ嫌な予感を振り払い、根気強く物陰に身を潜める。  それから五分が経ち、十分が過ぎ、志摩が倉庫へと消えてあっという間に三十分が経過する。  ひたすら待っていた俺も、流石におかしいと思い始めた。  防音が施されているのかわからないが、声や音すらしないのだ。寧ろ、人の気配も感じない。  不幸か幸いか、つい先ほど俺がここへ来た時にいた部屋の見張りはいなくなっていた。  迷った末、俺は志摩が入っていった扉へと歩み寄る。    ――どうか、ただの悪い思い込みだと言ってくれ。  そう強く思いながら、俺は音を立てないように扉を開いた。  まず視界に入ったのは照明すら付いていない薄暗い室内だった。そして、次に薬品のような匂いが鼻腔を擽った。  ……人の気配は、ない。  どういうことだろうか、有り得ない。間違いなく志摩はここに入ってきたはずだ。  息を潜めながらゆっくりと扉の奥へと足を踏み入れる。  心臓が今にも張り裂けそうだった。  額に滲む汗を拭い、俺は一歩、また一歩と部屋の奥へと足を踏み入れる。  乱雑に詰まれた段ボールの山の陰を覗こうとしたとき、不意になにかが爪先にぶつかった。  驚きのあまり飛び退き、そして目を見開く。 「……志摩……?」  足元の物陰、そこには何かが転がっていた。  それがつい先ほどまで一緒にいたクラスメートだと気付いた瞬間、全身から血の気が引いていく。  考えるよりも先に体が動いていた。 「志摩……っ!」  慌てて駆け寄り、膝をつく。志摩を抱き起こそうと手を伸ばしたときだった。  カツリ、と背後で足音が聞こえ、反射的に振り返った。  そこにいた人物の姿に、今度こそ俺は言葉を無くした。 「――安心しろ。少し薬で眠らせただけだ」 「放っといてもその内目を覚ますだろう」と、細いシルバーフレームの眼鏡を押し上げ、その人はいつもと変わらない淡々とした口調で続けるのだ。  濡れたような真っ黒な髪の下、冷ややかな目が俺を捉えた。 「か、いちょう」  なんで、ここに。  薄暗い倉庫内、音もなく現れた芳川会長に背筋が凍り付いた。  どうして会長がここに。確かここには縁たちがいるはずなのに――いないといけないのに。  不自然なくらい静まり返った部屋の中、会長以外に人の気配は感じない。  そんな状況を前に脳裏に浮かぶのは赤い血と散乱するガラス片で荒れた仮眠室だった。  ――いや、まさか。そんなことは。 「どうした、そんな驚いた顔をして。……驚いたのはこちらの方だというのに」  不意に、芳川会長の手が伸びてくる。腕を掴まれそうになり、咄嗟に俺は会長の手を振り払った。  部屋の中に響く乾いた音にやってしまった、と後悔するのもつかの間。  芳川会長は自分の掌を見詰め、そして、小さく笑った。 「なにを怯えている。君が自分で選んだのだろう。それならなにも怯える必要はなれ、胸を張れ」  それは、自嘲するような笑みで。  笑っていない会長の目に、手足の末端が冷たくなっていくのを感じた。  止まらない寒気。それは先程の無理な運動のせいではないはずだ。 「どうして、会長が……ここに……」 「それを俺に聞くのか?」  呆れたような、それでいていつもと変わりのない口調だった。 「正直、十勝から君がいなくなったと聞いて驚いたぞ。……しかも、ここの辺りで君の姿を見掛けたと連絡があったときは本当に心臓が停まるかと思った」 「……っ」 「この辺りの空き教室は阿賀松たちがよく入り浸っていたからな。もしかしたら君があいつらのところに行ったのではないのか、なにかあつまたのではないかと心配で……本当に生きた心地がしなかった」 「か、いちょう」  そう続ける会長は本当に心配していたような口振りで続ける。  いつもの俺だったらうっかりその言葉を信じていただろう。  ――だったらなんで、志摩がここで気絶してるのか。  そんな疑問がただ膨れる。会長はなにも堪えない俺を気にするわけではなく、「しかし、安心した」と呟いた。  会長の言う“安心”の意味が分からず顔をあげたときだったを倒れていた志摩へ歩み寄った会長は、なんも躊躇いもなく床の上に放り出されていた手の甲を踏み付けた。 「……っ!」 「君は彼に無理矢理連れてこられたのだろう。腕を掴まれ、言うことも聞かない彼に無理矢理引き摺られて」  硬質な革靴の底は、みちみちみちと嫌な音を立て志摩の手の甲を押し潰すのだ。  あまりにも躊躇のない動作に一瞬反応に遅れてしまう。そして、慌てて俺は会長の腕にしがみついた。 「っ、やめて下さい! 会長!」  靴の裏で露出した部分を踏まれることがどれくらいの痛みを伴うか知っていた、それが神経が集中した手の甲ならば尚更。  いくら気を失っているからとは言って、痛みは変わらない。下手したら、骨だって。 「会長……ッ!!」  こういうとき、自分に力があればといつも思う。  しがみつくことで精一杯で、それでも必死に志摩から離れさせようと全体重掛けて会長を志摩から退かそうとしたとき、会長に手首を掴み上げられる。 「い……ッ!」  掴まれた手首の骨が軋む。それほど強い力で捻り上げられ堪らず息を飲んだ時、会長の顔が目の前まで迫った。 「君は気が弱い。人は優しいとも言うのだろうが、それでは駄目だ。――その内、悪い者に浸け入れられてその身を滅ぼすことになるぞ」 「……っ」 「戻るぞ、他のやつらが戻る前にここから離れる」  ゴミでも避けるように志摩の手を蹴った芳川会長は、そのまま俺の手を掴んで開いたままの扉へと向かって歩き出した。  強い力で引っ張られる。また、あそこでじっと時間が過ぎるのを待てというのか。  せっかく五味に出して貰ったのに、安久と約束したのに、栫井だって助けることができていないのに……また。  ――そう考えたとき、体が勝手に動いていた。 「ッ」  なけなしの力を振り絞り、俺は芳川会長を突き飛ばした。  今更、自分の行動に後悔しない。俺はこれ以上芳川会長に頼ることは出来ない。それが芳川会長の善意を裏切ることになってもだ。 「……どういうつもりだ、齋藤君」  立ち止まる俺に、レンズ越しに芳川会長の目がこちらを見下ろした。  先程まで志摩に向けていた冷めた目が、今は俺に向けられていた。  怖くないといえば嘘になる。今だって、少しでも油断すれば足が竦みそうだった。  それでも俺は後に引くわけにはいけなかった。  もう、これ以上芳川会長を信じることは難しいと分かってしまったからだ。俺と会長には決定的に食い違う部分がある。いくら俺だけ優しくされても、その大きな溝が埋まることはないと理解してしまったから。 「まさか、こいつになにか余計なことでも吹き込まれたのか?」 「っ、違います……! 志摩はなにも関係ない!」  また志摩になにかされたと思うと恐ろしくなり、咄嗟に志摩と会長の間に入った。  必死に志摩に近付けないよう会長の体にしがみつけば、益々会長の表情は険しくなる。それでも会長はしがみつく俺を振り払うことはなかった。  けれど。 「何故だ。……何故こいつを庇う? 君は知らないのか、こいつがどんな人間なのか。平気で嘘を口にしては何人もの生徒を騙して問題を……」 「知ってます!」 「……」 「知ってます……っそんなこと……っ」 「それでも、俺の友達なんです」これ以上、会長が手を出さないように引き留めることで夢中になっていた。  だからこそ自分の口からそんな言葉が出ることにも驚いた。けれど、それでも俺の口は止まらなかった。 「数少ない、友達なんです……っ、お願いだから、志摩にだけは手を出さないで下さい……っ」  自分が痛い思いをするよりも目の前で誰かが傷付くほうがずっと辛い。辛いし、痛い。  言葉にすればするほど緊張と恐怖で胸が苦しくなる。  それでも、会長を離さないように俺は腕にぎゅっと力を込めた。怖いし、今度は俺が殴られるかもしれないと思ったら震えが止まらない。  ――だけど、芳川会長は。 「……なんで、君が泣くんだ。意味がわからないな」 「うぅ……っ」  その言葉に、自分の頬が濡れていることに気が付いた。頬を拭うくらいなら一分一秒でも会長を止めていたくて、俺は拭うことも忘れて嗚咽を飲み込む。  そんな俺に観念したようだ、やがて会長は息を吐く。 「……わかった」 「会長……」 「分かったから、もう泣くな」  それはいつもの俺にだけ向けられる優しい声だった。そのまま背中に回された会長の手に、宥めるように背筋を軽く擦られる。  以前と変わらないその優しい手つきに恐る恐る顔を上げたときだった。 「っ!」  ハンカチで、口元を抑えられる。  しまった、と息を止め、咄嗟に会長の顔を押し退けようとしたときには既に遅かった。  鼻と口を塞がれた中、どろりと意識が輪郭をなくしていく。 「っ、……」  ――会長。  そう眼球を動かし、会長を振り返ろうとしたとき。 「――本当に、君には手こずらされる」  遠のく意識の中、会長の吐き捨てるような声だけがやけに鮮明に聞こえた。  そして、冷え切った目でこちらを見下ろす会長を最後に俺の意識は強制的に遮断された。

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