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 それから淡々と時間が流れていく。  痛覚は麻痺し、痛みも次第に薄らいできた。なのに、灼けるような熱だけは傷口にまとわりつくように残っている。  ――時計のない会長の部屋の中。  芳川会長は手にしていた万年筆をテーブルへと置く。 「ほら、これでいいのか」  やや投げやりな口調で志摩へ声を掛ける会長。志摩は置かれた用紙を手に取り、その文面に目を通す。  志摩の持つそれを横目で盗み見る。  やや書き殴るような字ではあったが、確かにそこには会長が生徒会長を辞任するといった旨の文章が記されているようだ。それを再びテーブルに戻した志摩は「まだですよ」と、返す。 「これからこれを生徒会顧問に提出してきて下さい」 「構わないが、君も着いてくるんだろう。まさか人の首にナイフを突きつけたまま俺の後ろにくっついてくるつもりか?」 「流石にそこまで馬鹿じゃないですよ、俺も」  自嘲混じりの嫌な笑みを浮かべた志摩はそう、ソファーに座っていた俺の元へやってきた。  ナイフを握り直す志摩。嫌な予感がした矢先だった、そのまま背後に回った志摩に肩を掴まれた。  そして、 「ひッ」 「これでどうですか?」 「……君は、少しは改心したと思ったんだがな」 「またまた。会長さんは心にもないことを言うのがお上手ですね」  背後から馴れ馴れしく肩に回された手には先程まで会長に突きつけていたナイフが握られていた。  その刃先が向いているのは俺の丁度顎の下、顔の付け根。沢山の神経が収束した部位、首だ。  首筋に突き立てられたその鋭い刃先は軽く触れただけでも皮膚を裂くことが出来そうだ。そんなものが今、俺の首に突き立てられている。  先程までとはまた違う、冷たい汗が背筋へと流れ落ちていくのを感じた。 「俺の命令に背く真似をしたら齋藤の脈一本ずつ切り取るから」  それは俺に対しての警告か、それとも会長に対する脅迫なのか。 「……」 「では、行きましょうか」  ……冗談だよね?  そんな俺の問い掛けに、答えてくれる人はもちろんいなかった。  ◆ ◆ ◆  会長の部屋を後にした俺たちは、渡り廊下を使って学生寮から校舎へと移動する。  今日は休日だからか、校舎内に人気はあまりない。それが唯一の救いでもあった。  ――職員室前。  扉の前まで歩いていく芳川会長。そんな会長から数メートル離れたところを俺と志摩は歩いていた。 「し、志摩……」 「ほら、ちゃんと前見て歩いて。転ぶよ」 「っ、でも」 「しっ、大きい声を出さないで。……あっちまで聞こえる」  注意され、つい「ごめん」と謝ってしまったが、よくよく考えるとナイフを突き付けられた状態で平静を保ってられる人間のほうが殊勝なんじゃないだろうか。  いや、正確には、ナイフを手にした男が背後からこちらを狙っている――だろうが、俺の方からしてみればどちらも同じだ。心臓に悪いことに違いない。  言葉数少ない志摩に段々不安になってると、「とにかく、俺を信じて」と志摩は小さく耳打ちした。そしてそう軽く腰を叩かれる。まるで励ますような、勇気付けるような仕草だった。 「……わかった」  志摩なりになにか考えがあるということだろう。  とても褒めるようなやり方ではないが、中途半端に失敗させてしまえば会長どころか志摩まで問題になるだろう。  とにかく、穏便に済むならそれが一番だ。  ならば俺は、志摩のことを信じたいと思う自分を信じるだけだ。  小さく頷き返せば、志摩は小さく笑った。  さっきまでの凶悪な笑顔でも胡散臭い笑顔でもない、少しだけ気恥しそうな顔だ。  職員室前では顧問らしき男教師と芳川会長が言葉を交わしていた。  声までは聞こえないが、会長の唇の動き方から『すみません』とかそういう感じだろう。そして狼狽える男教師に、会長は手に持っていた書類を手渡した。 「擦り替えてはないみたいだね」 「うん……」  血相を変え、止めようとしてくる教師を振り払い、芳川会長はこちらへとやってくる。 「これで用は済んだだろう。彼を離せ」 「その前に行きたいところがあるんですけど」 「なに?」  それは俺も聞いていなかった。どこに行くつもりなのだろうか。見当付かなかったが、笑う志摩の目に嫌なものを感じた。  そしてそれが気のせいではなかったことは、すぐに証明されることになる。  ◆ ◆ ◆  学園敷地内、今はもう使われていない旧体育倉庫の前。  会長とともに中に入った志摩に「待ってて」と言われ、待ちぼうけくらうこと数分。  前回のことがあるので神経擦り切らせて中の様子を伺おうと高窓にしがみついていると、倉庫の中から志摩が現れた。 「ねえ志摩、何してたの……?」  恐る恐る尋ねれば、倉庫の扉に鍵を掛けていた志摩は何かを取り出した。  そして、 「はい、これお土産」 「っ! これって……」  手渡されたのはシルバーの携帯端末だった。  どこかで見覚えがあると思えば、それは会長が使っていたものだ。 「それと、これね」  なんで携帯を、と驚いている矢先、どこから取り出したのかばさばさとなにかを地面に捨てる志摩。足元に散らかるそれに、更に俺は青ざめた。 「ちょっ! ちょっと、なにしてんだよこれ!」 「そりゃ、逃げられないようにするにはこれしかないでしょ」  そう平然と言いのける志摩。地面の上のそれは、芳川会長が先程まで身に着ていたものだ。  だとしたら今、会長は……。そう考えただけで血の気が引いていく。 「大丈夫だって、心配しなくても齋藤が煩いから脱がす以外はなにもしてないよ」 「当たり前だよ!」  誇らしげに言う志摩になんだか頭が痛くなってきた。  なんてことを。会長は絶対怒っているはずだ。そもそも、逃げられないようにするためにということは本当に会長をここに閉じ込める気なのか。  いくら気候が温かくなってきたとはいえ、夜は冷えるというのに。  一度ここに閉じ込められているからこそ、分かる。それなのにおまけに身ぐるみまで剥いでしまうなんて。 「志摩、いくらなんでもあれはやり過ぎじゃ……」 「何言ってんの、俺はあれだけでも物足りないくらいなのに」 「でも、だからって」 「それより齋藤、なにかおかしいと思わない?」  あからさまに話題を変えられ、思わず俺は「え?」と間抜けな声をあげてしまう。 「だってあの会長さんが素直に俺の言うこと聞いたんだよ、おかしいと思わない?」 「そりゃ、刃物で脅されたら誰だって言うこと聞くよ……」  なにを当たり前のことを言っているんだ。  突っ込む気力もなくなって、力なく答える俺に志摩はまだ腑に落ちない様子だった。 「本当はさ、俺、会長さんは齋藤を見捨てると思ってたんだ。だってそこまで齋藤に入れ込んでるとは思えないから」 「た、確かにそうだけど……」 「でも、会長さんは齋藤を見捨てなかった。おかしいよね」 「会長は、志摩には冷たかったかもしれないけど……優しかったよ」  少なくとも、俺にとって会長は憧れの先輩だった。優しくて、かっこよくて、いつも堂々としてて。  ……どうしても過去形になってしまうのが、悲しい。 「会長の権限まで捨てて齋藤を庇うメリットねぇ……」 「ごめんね、庇うメリットがないようなやつで」 「なに、怒ってるの?」 「そうじゃないけど……」 「面白い顔になってる」  喉を鳴らし、愉快そうに笑う志摩を睨めば、志摩は「冗談だって」と肩を竦めた。 「でも、俺だって怒ってるんだからね。俺がいいって言うまで入ってくるなって言ったのに」  まさかこのタイミングで蒸し返されると思わなかっただけに、つい俺は口籠った。 「だ……だって、いつまで経っても連絡がなかったから、なにかあったんだと思って」 「何かあったから連絡がないのは当たり前でしょ。なんでそんなところにノコノコ出ていくのかが理解できないな」 「分かってて無視できるわけないだろ」 「……はぁ」 「な……なにその溜息」 「……ねえ、キスしていい?」 「えっ?!」  今の会話でどうしてそんな流れになるんだ。  怒ってるのかふざけているのかわからず、志摩の方を見上げれば徐ろに志摩は俺から視線を逸らした。  珍しく、バツが悪そうな顔。 「俺の言うこと聞かないし、綺麗事ばっか吐いてはすぐ捕まっちゃうわでムカつくんだよね」  吐き捨てる言葉に、いつものトゲトゲしさや含みはない。 「……ムカつくのに、すげー喜んでる自分に余計苛々する」 「し、志摩……」  全て、本音なのだろう。どことなく悔しそうなのが不思議だったが、それでも志摩の言葉に自然と体の緊張が緩む。自分が喜んでるのだと、すぐに気付いた。  俺も、そう思ってくれて嬉しい、なんて言ったら引かれるだろう。はたまた日和見野郎と呆れられるかもしれない。  敢えて言葉を飲んだその次の瞬間、辺りに無機質な着信音が響く。聞き覚えのある音だ。なんだっけ、と思った時、志摩は「それじゃあ」と軽く手を叩いた。 「一先ず休憩しようか。それに手当もしなきゃだし。せっかくの綺麗な手なのに傷が残ったら大変だ」 「でも、どこで……」 「いいから、齋藤は静かにしててね」  言うや否や、制服のポケットから携帯端末を取り出す志摩。  ピンクのその端末には見覚えがあった。――そうだ、安久の携帯だ。  震えるそれを耳に押し当て、志摩は電話に出た。

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