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03
口にしてみると、案外すんなりとその言葉は口から出てきた。
臭いことを言ってると思ったが、恥ずかしいという気持ちはなかった。
「何言ってんだ、お前」と醒めた栫井の視線が刺さる。それでもその視線を真っ向から受け止めることができた。
「確かに会長は優しいし、よくしてもらってると思う。……けど、わからないんだ。このまま会長を信じていいのか」
「信じればいいだろ。あの人はお前には甘い」
「俺に甘くても、栫井には冷たいじゃないか」
「別に、俺は関係ないだろ」
「……っ、関係あるよ」
意図せず、その語気に力が入ってしまう。
空き部屋の中、自分の声がやけに煩く響いた。
――そうだ、栫井に対する会長の態度を見て会長の中の優しさの存在が揺らいだのは事実だ。
もし、振り翳されたバットの先に居るのが栫井ではなく俺だったら――その可能性はないとは言い切れない。
「栫井……お願いだ。会長のことを教えてほしい」
本当に会長のことを信用していいのかどうか。
俺は表向きの会長の顔しか知らない。けれど、栫井は裏の会長の顔も知っている。
「知らねーよ、そんなの」
「じゃあ、ここに来る前のことでもいい」
「……っ、お前」
「昔から知り合いだったんだよね、会長と」
なんで知ってるのだ。
そう、こちらへと向けられた栫井の目には驚きの色が浮かんでいた。
それは確かに栫井が俺に見せた隙きだった。
「頼む、……教えてくれ。……じゃないと俺は、どうしたらいいのかわからない」
――会長を助けるべきなのか、否か。
純粋な善人ではないだろうとは思う。けれど、俺をわざわざ庇って志摩の言うことを聞いた会長のことを考えたらますます分からなくなるのだ。
あのとき人質である俺を切り捨てて逃げることもできたはずだ。会長はそれをせず、志摩の言いなりになって辞任表まで出したのだ。
部屋の中に沈黙が走る。開いた窓から流れ込んでくる外気が、酷く冷たく感じた。
そんな中、先に口を開いたのは栫井の方だった。
「あんたにとって、あの人は善人に見えるか?」
栫井が口にしたそれは、純粋な疑問だった。
以前だったらはいと頷いていただろう、頑固で不器用なほど真っ直ぐな人――けれど、今となってはその会長像すらも揺らいでいた。
「……確かに、優しいし真面目な人とは思っていた。けど……栫井には厳しいし、俺にはわからない、どれが本当の会長なのか」
「どれも本当のあの人で間違いない」
静かに返されたその言葉に、今度は俺が言葉に詰まる番だった。
栫井の口から出た言葉は、俺が心の奥底で感じていた違和感の理由そのものだったからだ。
「あの人は相手と状況によって自分を変えることができる。どう対応したら自分にとって最善なのか、それを理解して使い分けているんだよ」
その言葉に、ああ、だからか、と納得する反面、今まで辛うじて形を保っていた俺の中のなにかが音を立てて崩れていくのを確かに聞いた。
「あんたに良くするのも、理事長からそう頼まれてるからだ。だから、理事長との約束がある今あの人はあんたに絶対手を出さない」
理事長からの信頼に応えること、つまり俺に優しくするのは自分のためだから。栫井はそう言った。
「……」
裏を返せば、目的のためならなんでもする。
その言葉を聞いて、俺は納得した。
今まで会長に対して感じていた頼もしさ、その裏、そんな会長が自分の敵に回ったとしたらという可能性から芽生えてくる得体の知れない不安感。
同時に考える。だとしたら、何故、理事長がそこまで気遣ってくれるのか。
……転校生だから?
ならば、同じ季節外れの転校生という立場である壱畝遥香もその対象に含まれる可能性がある。
そう考え始めれば次々と込み上げてくる不安要素に埒が明かなくなりそうだった。そんな雑念を振り払い、俺は目の前の男を見上げた。
「……栫井は」
静かに向けられる視線。
ずっと冷たく感じたその視線に、僅かながら同情に近いものを感じたのは俺自身が栫井の 同情を望んでいるからだろうか。
「どうして、この学園に入ったんだ」
わざわざ前の学校を辞めて、会長の後を追い掛けるようにこの学園へと転入した、と五味は言っていた。
栫井にとっては触れられたくない話題だったようだ、その顔は不愉快そうに歪められる。
「それがなんの関係があるんだよ」
「いや、別にないけど……でも」
「なら余計なこと聞くな」
まあ、本来ならこうだよな。さっきまで俺の言葉に応えてくれたことの方が貴重だったんだ。
栫井の鋭い眼差しから逃げるように「ごめん」と慌てて頭を下げれば、舌打ちが飛んできた。
「……っ、やめろ、その顔……腹立つんだよっ」
「えっ、ご、ごめ……」
「――あの人は、俺の従兄弟だ」
「そうなん……えっ?!」
やっぱり軽々と教えてくれはしないか、と諦めていた矢先。栫井の口から飛び出してきた衝撃の言葉に思わず耳を疑った。
「……」
あまりにも栫井の口から出てきた言葉が衝撃的で、思わず絶句する俺。そんな俺に、栫井はだから言いたくなかったんだという顔をする。
だってそうだろう、誰が芳川会長と栫井が血縁関係なんて予想するんだ。少なからず俺はしなかった。
栫井が言うには、会長は中学を卒業してすぐ全寮制へ入学するという名目で家族と縁を切ったという。
それでも、会長の家族からしてみれば心配なところがあったようだ。だから、中学卒業を控えていた栫井を転校させたという。
「だから、監視されているみたいで面白くないんだろ。……俺がいると」
そう口にする栫井が嘘を吐いているようには見えない。だけど、なんとなく腑に落ちない。
家族とは特別仲が良いわけではないが、それでも縁を切ろうだとは思ったことなんてなかった。
人それぞれということなのだろうが、まだなにかあるような気がしてならないのだ。考え込む俺の視線が気になったのか、栫井は居心地悪そうだ。
「まだ何かあるのかよ」
「えっ、いや、あの……似て……ないね」
「あ?」
「ごめん、なんでもない」
咄嗟に口にした言葉が悪かった。慌てて謝ったが、栫井にはしっかり聞こえていたようだ。
「……そりゃそうだろうな」
そう自嘲するように笑う栫井。唇の端を片方だけ持ち上げるような笑い方は、少しだけ会長に似ているように見えた。
栫井が話してくれただけでも俺には大きかった。内容はとても簡単には咀嚼できるようなものではないし、栫井も全てを話したわけではないだろう。だとしても、血縁者ならば尚更芳川会長が栫井に暴行を奮う理由が引っかかるのだ。
「教えてくれてありがとう、栫井」
ふん、と鼻を鳴らし、そっぽ向く栫井。
芳川会長のことを知れば知るほど分からなくなっていく。
そんなときだった。
妙に重たい空気が流れる空き部屋の中、ポケットの中の携帯端末が震える。
――ああ、そういえばすぐに連絡しろと言われていたんだった。
思い出した俺は慌てて端末を手に取り、志摩からの電話に出た。
「もしもし」
『今終わったよ。……そっちはどう?』
「うん、会えた。一応怪我はないみたいだけど」
『は? いたの?』
『すぐ連絡してって言わなかったっけ、俺』そして案の定突っ込まれた。
……しかも機嫌が悪くなっている。まずい。
「ご、ごめん……今会えたんだ」
『ふーん。あっそ。……とにかく、今そっち向かってるから絶対動かないでよね』
「絶対だから」と、刺々しいその言葉に「わかった」とだけ返し、俺は通話を終了させた。
栫井の話で頭がこんがらがって、志摩へ連絡するのをすっかり忘れていた。
会ったらまたネチネチ言われるだろうな、と考えたら胃が痛くなってきた。
「おい、今の……」
すると、端末から漏れ出ていた志摩の声に気付いたらしい。栫井が露骨に嫌そうな顔をする。
「あ、ごめん。……その、志摩に協力してもらって一緒に探してたんだ。栫井のこと」
「……は?」
「すぐ来るみたいだから、それまでもう少しここで……」
「……」
見ただけでわかる、不快感を隠そうともしない栫井に冷や汗が滲む。
二人ともお互いに良い印象を持っていないとは思っていたが、そんな志摩でも栫井救出に手を貸してくれたのだ。
なんとか宥めようとしたとき、栫井に腕を掴まれる。
「っ、か、栫井……?」
「……別に、俺はそんなことを頼んでない」
栫井がそういうのは分かっていた。恩着せがましいことをするつもりはなかった。
「それは……」
分かってるけど、と口籠ったときだ。いきなりがらりと空き部屋の扉開いた。
そして、
「お待たせ、齋藤」
扉の前、現れた志摩に俺は驚いた。
まさかこんな早くに来るとは思っていなかった。学生寮からここまでかなりの距離はあるというのに、こちらに移動しながら電話をかけてきたのか。
バッドタイミングとは正にこのことだろう。栫井に掴み掛かられていた俺を前に、志摩の目の色が変わるのを見た。
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