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09※食べ物口移し
「ちょ……ッ、待っ、待って下さ……っ」
血の気が引いた。逃げなければと本能が叫ぶ。
が、後ろ髪をがっしりと掴まれれば首を振ることもできない。
会長、と口を開いた瞬間、視界が影で塗り潰される。
「ふ……ッ、ぅ、んんッ!」
薄く開いた唇にねじ込まれる舌。そしてその隙間から押し込まれる柔らかく噛み砕かれた肉の塊。
咥内から鼻孔まで、濃い味が広がる。
本来ならば美味しい料理なのだと分かった。けれど、強制的に流し込まれる食べやすいサイズに砕かれ口移しされるそれにはただ吐き気しか覚えなかった。
その行為は食事というよりも、まるで親鳥が雛鳥に食べさせる行為に近いだろう。
避けることもできず、受け入れることしかできない状態、俺が耐えきれずに喉奥へと押し流すのを確認してまた会長は更に口の中のものを移してくるのだ。
「ぅ゛っ、んぅ……ッ!」
唾液と料理だったものが混ざる。吐き出すこと許されない中、そんな行為を何度か繰り返したあと俺の口が空になるのを確認して芳川会長は唇を離す。
そして、脂で濡れた唇を舌で舐めとった。
「……なるほど、君はこうしたら食べるのか」
冗談なのか、本気なのか、俺にはもうなにがなんだかわからなかった。
放心したまま、口の中に残った感触にぼろぼろと涙が溢れて泊まらない。
自分が赤ん坊のように扱われることがこれ以上にないほど屈辱的だった。それと同時に、まだ自分にはこんな風に悔しく感じれるほどの矜持があったのだと驚いた。
「わ、かりました、食べます、食べます、ちゃんと自分で食べますから……っ」
だから、もうやめてください。
そう口を開くよりも先に、会長がフォークを手に取る。そして会長が目を向けたのは皿の隅、小さく盛られたそれはパスタのようだった。それを器用にフォークで巻き取る芳川会長は「なに、遠慮しなくてもいい」と小さく続けるのだ。
「喉も通らないのなら俺が流し込んでやる」
そう目の前で口にする芳川会長に目の前が真っ暗になる。咄嗟に逃げようとするが、そのまま顎を掴まれて口を塞がれる方が早かった。
「っ、ぅ゛ぐ……ッ」
止まらない嗚咽。
腹に溜まった料理を吐き出したいのに、手足も使えない今何度吐き出そうとしたところでただ胃が痙攣起こすばかりで肝心の嘔吐まで行き着かない。
あの後、俺は全ての料理を食べさせられることになった。会長を介して。
満たされた腹の中がただただ気持ち悪くて、会長のことは嫌いじゃなかった、好きだったし、かっこよくて憧れていた。だからこそ余計、ここに来てからの会長の行動を受け付けることが出来なかった。
――無人の仮眠室内。
数分前、放送で呼び出された芳川会長は空になった皿を片してそのまま仮眠室を後にした。
何も着せてもらえず、手足を括り付ける縄もそのままだ。外されていた猿轡も、また咥内に収まっている状態だった。
――つまり、振り出しどころか更にマイナスを辿っている。
「っ……ふ、っく……ッ」
俺はここでなにをしているのだ。このまま俺は会長の言うとおり阿賀松たちが処分されるまでここに居なければならないのか。
今の会長は正気じゃない。これ以上下手な真似をしたらなにをされるかも分かったものではない。
……わかっていたが、全てが終わるまで待つことは出来ない。それでは遅いのだ。
恐らく阿賀松は阿佐美を盾に逃げ切るし、全てはすぐに片付かない。だけど、そのことを会長に伝える暇も――伝える気もなかった。
どうにかして逃げられないか。今度こそ、逃げたらどんな目に遭うか分からない。分かってもその考えはもう変わらなかった。
恐らく、その本能が俺の会長に対する答えなのだろう。
会長が正常ではないとしても、こちらが本性だったとしても、それでも、俺はこのまま会長の全てを見てみぬフリをして受け入れることは出来ない。だとすれば、どうすれば。
『伊織さんへの被害届を取り消してくれ』
不意に、脳裏に安久の泣き顔が浮かぶ。
……阿賀松を自由にする。過る思考に自分で考えて驚いた。
――だけど、このままでは会長は止まらない。
恐らく止められることが出来るのは阿賀松だけではないのだろうか。そう思えるくらい、俺は追い込まれていた。
今の俺には最善の方法はそれくらいしか思い浮かばなかった。
会長が戻ってくるまでにどれくらい掛かるかわからない。
一分も無駄に出来なくて、思い立った俺はすぐ行動に移す。
とはいえど、こんな俺が取れる行動は限られている。ベッドの上、痛む体を捩るようにして体を動かした。
転がる、というにはあまりにも無様で、背後に束ねられた手足が邪魔でろくに動けない。
それでもなんとか這いずってベッドのフチまできた俺。ぎゅっと目を瞑り、そのまま俺は体を横転させた。瞬間。
「ふ、ぐッ」
落下する体。まともに受け身も取れず、腹から落ちた俺は暫くその場で悶えていた。
そして痛みが引いたところで体に鞭打って無理矢理床の上を腹這いに移動し、そのままベッド横のサイドボードの側に移動する。そして、縛られた手足を駆使してなんとかサイドボードに引っ掛ける。
あとは、思いっきり体を動かすだけだ。
「……ッ」
目を瞑り、そして思いっきりそれを横倒しにする。瞬間、ゴッと大きな音を立て床に叩きつけられるサイドボード。
これは賭けだった。恐らくまだ扉の外にいるであろう灘に、そして防音の聞いたこの部屋の物音が届くかどうかの賭けだ。
そして、その賭けは――。
「どうかされましたか」
扉が開いた音がしたと思えば、扉の方から聞こえてきた灘の声に俺は歓喜した。
しかし、問題はここからだ。ここから出るためにはまず目の前の男の隙を突かなければならない。
灘が普段から隙きのない男ということは俺もよく知っていた。容易ではないだろう。
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