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「では、戻りましょうか」
結局、最後の後処理まで灘任せになってしまった。
灘の顔をまともに見ることが出来ないまま、俺は腕を掴まれ男子便所を後にすることとなる。
「……」
「……」
手の拘束は相変わらずだ。隣を歩く灘も、相変わらずで、逃げ場を探そうにも隙そのものが見つからない。
常に灘の視線を感じながらも、俺は俯いたまま生徒会へ戻る通路を歩くしかなかった。
「――齋藤君」
不意に灘が俺の名前を呼ぶ。
どうしたのだろうか、と灘の方を振り返ろうとした矢先のことだった。
なにかプラスチックのようなものが砕かれるような破壊音が聞こえてきた。
それは然程遠くない通路の奥からで、次の瞬間、静まり返っていた通路にけたたましいサイレンが響き渡る。
「え、なに……ッ?!」
その音には聞き覚えがあった。火災などの非常時、もしくはその模擬として避難訓練で校内に響かせるサイレンだ。
なにかあったのだろうか、と思った次の瞬間、いきなり灘に抱き締められた。
「――動かないでください」
灘の胸に顔を押し付けられたまま、え、と固まる俺。そして瞬きをするよりも先に、前方から足音が聞こえてきたかと思うと今度はなにかが噴出するような音が聞こえてきた。
辺りが白く染まっていく。
それにただ事ではないのはすぐに理解した。何が起こっているのかも。
――奇襲、なんて言葉が頭を過る。
そして、恐らく狙いは。
「オラ……さっさと、くたばれッ!」
罵声とともにごっと鈍い音がして、背中に回された灘の手が僅かに強張るのが伝わってくる。
それでも、灘は声を上げずに俺を抱きしめたまま離さなかった。
「……ッ」
灘君、と声をあげように上げることはできなかった。
そしてすぐ、二度目の攻撃とともに灘は俺の腕を掴んだ。そして、
「息を吸わずにこのまま階段を下りて下さい」
耳打ちされたその声、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だった。
どういう意味かと聞き返す前に、灘に思いっきり突き飛ばされる。まるで自分から引き離すかのように。
受け身を取ることができず、徐に転がる俺。咄嗟に、立ち上がろうと灘を見上げた。
その正面には見知らぬ生徒がいた。そして、対峙する灘の横顔が赤く濡れていたのを見て息を飲む。
――血だ。
凍りつく俺の目の前、生徒は丁度手にしていた消火器を灘に向かって振り下ろす。さっきもあれで殴られたのだろう。あんなの、鈍器だ。下手したら死ぬ。
「灘君……ッ!」
このまま逃げるわけにはいかなかった。
灘に夢中になっていた生徒に向かって、思いっきり体当たりをする。生徒を巻き込み、そのまま転倒する俺を見て灘は僅かに目を丸くした。
それも束の間。
「くそ、邪魔すんじゃねえ! この――」
今度は襲撃者である生徒の矛先がこちらへと向けられる。縛られたまま、ろくに受け身が取れない俺目掛けて振り下ろされるそれに今度こそ死を覚悟したときだった。目を瞑り、来るべき衝撃に備える。
――が、こない。
目を開いた瞬間、いつの間にかに俺の前に立ちふさがっていた灘がそれを腕で受け止めるのが目に入った。
「な、だくん」
「……」
何故、逃げなかったのですか。そう言いたげな灘の視線を感じた次の瞬間、消火器を素手で受け止めた灘はそのまま相手の手から消火器を奪う。そして間髪入れずに相手の顔面を思いっきり消火器の側面で殴りつけた。
「ぐぅッ!」
「ひ……ッ」
まさかの灘の反撃に、咄嗟に目を瞑っていた。
何かが潰れるような音に混じって呻き声が辺りに響く。
容赦なく男を殴りつける灘に、とうとう俺はその悲痛な呻き声が聞こえなくなるまでその場を動くことが出来なかった。
「……は、っぁ……」
呼吸が、息が苦しい。
顔を真っ赤に腫らした男の口に消火器のノズルを押し込んだ灘は、そのまま思いっきりそのレバーを引いた。
「うぅううう゛ッ!!」
「灘君ッ!!」
もう相手が戦意喪失しているのは一目瞭然で、それでも尚手を止めない灘を見兼ねた俺は慌てて呼び止める。
俺の声に反応したのかわからないが、レバーから手を離した灘はそのまま消火器を男の顔面に投げつけた。男は口から白と赤が混ざったような何かを吐き出しながらそのまま後ろに倒れるのだ。
「……っ、……」
死んではいないはずだよな。
そう、咄嗟に恐る恐る近付こうとすれば、灘に腕を掴まれて止められた。
びくりと顔を上げれば、殴られた拍子に額を切ったのだろう。額から血を流した灘はこちらをじっと見下ろしていた。
「……」
まだ心臓がバクバクといっている。
俺には、灘に掛ける言葉が見つからなかった。
額や頬、あらゆる箇所が切れているようで、赤い血で真っ赤に濡れた灘の顔面は痛々しい。
先程食らわせた最後の一発が灘にとって絞り出した力だったのか、よろめき、もたれかかってくる灘に俺はぎょっとした。
「灘君……ッ」
「……問題ありません、それよりも、その男を――」
「も、問題ない血の量じゃないよ……っ!」
灘にはまだ辛うじて意識が残っているようだった。
早く、病院に電話をしないと。
けたたましく鳴り響くサイレンの中、携帯を探そうとするにもなにもそもそも腕が使えない。
誰かが来るのを待つことしか出来ない自分が歯痒くて堪らなかった。
そんな中、不意にもたれかかっていた灘の唇が動いた。
「え……?」
咄嗟に灘の口元に耳を寄せようとするが、あまりにも煩いサイレンに掻き消されてとうとう灘の声は聞こえなかった。
そのままゆっくりと目を閉じる灘に、血の気が引いていく。
早く、早く誰か――。
そう、いるかもわからない神に願った時だった。
かつん、とサイレン混じって硬い靴音が通路に響いた。
そして、
「おーおー、こりゃすげえな」
聞こえてきたのは緊張感のない声。それは最早俺にとっては聞き慣れたものだった。
こうして直接聞いたのは酷く久し振りのような気がする。最近、電話越しに聞いたばかりだと言うのに。
恐る恐る振り返れば、そこに立っていた男の姿を見て汗が流れた。
「っ、阿賀松……先輩……」
「久しぶりじゃねえか、ユウキ君。……随分と楽しそうなことしてんなぁ?」
赤髪の男はピアスのぶら下がった唇を歪め、だらしなく笑ったのだ。
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