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――この際、阿賀松でも良い。
誰でもよかった、助けてくれるのなら。そう思ってしまうほど、自分は切羽詰まっていたらしい。
とにかく灘の怪我を手当しなければ、と俺は藁にも縋る気持ちで阿賀松を見上げた。
「あの、お願いです……っ! 灘君を、灘君を――」
「助けろってか?」
阿賀松の問いかけに何度も頷き返せば、阿賀松は「は」と鼻を鳴らして笑うのだ。冷ややかな笑みを浮かべたまま灘を見下ろして。
「俺が? どうしてこいつを?」
「どうしてって、だって、怪我が……」
「俺が負わせたわけでもねえし関係ねえだろ。そもそもなあ、ユウキ君。
――お前、誰に向かって命令してんだよ」
ごつんと顎下に硬いものが当たり、脳が揺さぶられる。視界に入るのは阿賀松の足だ。顎を軽く持ち上げるそれが阿賀松の靴先だということはすぐに気付いた。
ボールでも蹴るかのように首を踏み付けられ、その反動で背後の壁へと体がぶつかった。それでも阿賀松の足は離れない。立ち上がることも逃れることもできないまま、硬い靴裏に喉仏の上から器官ごと圧迫される。
「っぐ、ぅ……ッ!」
「俺は言ったはずだぞ、つまんねえ嘘は嫌いだって。――それも、あの野郎にまんまと誑かされやがって」
「が、ァッ」
阿賀松の表情に笑みはなかった。
呼吸を阻害され、藻掻けば藻掻くほど頭に血が昇っていく。
こんなことしている暇はないのだ。
阿賀松が怒るのは無理もないが、これくらいのことは阿賀松を敵に回した時点で想定内ではあった。腕も自由に動かせない状況、俺はただ阿賀松を見上げることが精一杯だった。
「……がい、しま……す……っ」
喋る度に酸素が無くなって目の前が白くなる。
それでも、どうせこのまま残された酸素を無意味に使い果たすくらいならば。
「……っ、なだ、くんを……助けて、ください……ッ!」
最後の方は声にならなかった。
息苦しさで徐々に顔面の感覚が麻痺していく。自分がどんな顔しているのかすら考える余裕はない。
焦りからか、それとも窒息寸前の状況だからなのかは分からない。いつもならば恐怖しかなかった相手ではあるが、異常事態である今恐怖は薄らいでいた。
そんな俺に、阿賀松はただ無表情のまま視線を向けるのだ。
いつもにやついた顔をしているからこそ余計何を考えているのか分からない。それでも、隙きはない。鋭い視線は俺の真意を探るように、ただじっとこちらを見下ろした。
――そして。
「……んだよ、ゴメンナサイとかスミマセンとか言わねえのかよ、お前」
呆れたような、拍子抜けしたかのようなそんな声に『どういう意味か』と聞き返そうとしたときだった。俺の首を踏みつけていた阿賀松の足が離れた。
喉を圧迫していたものがなくなったと同時に、一気に新鮮な空気が流れ込んでくる。それを肺に取り入れようと口を開き、喘いだときだった。いきなり視界が暗くなった。
そして、鼻柱にかかる鈍い痛み――阿賀松に顔を踏みつけられているのだと気づくのに、少し時間がかかった。
「っ、ぐ、ぅ……っ!」
「仕方ねえな、可愛い恋人からの『お願い』だ。その木偶の坊、助けてやるよ」
「っ! ほ、んと……ですか……っ?!」
鼻の骨が折れていないだけましなのかもしれない。視界の奥、こちらを見下ろしていた阿賀松が「ああ」とその口元に笑みを浮かべる。
「その代わり、条件がある」
「っ、条件……?」
「――舐めろよ」
思わず、「え?」と素っ頓狂な声が漏れてしまった。
「わかんだろ? ……さっきから汚えもん踏み付けてきたせいで俺の靴、汚れたんだわ。……なあユウキ君、てめえの舌で綺麗にしてくれよ」
「こいつ、助けて欲しいんだろ?」そう笑う阿賀松の口ぶりから本気なのか冗談なのか読み取ることはできなかった。けれど、阿賀松の目は間違いなく本気だった。
靴の裏を舐めるなんて、どこを歩いてきたのか何を踏んできたというのかもわからないそんな箇所に粘膜を接触させるなんて普通に考えなくとも衛生面に問題しかない。
そんなことできるわけない、と頭の中から熱が引きかける。けれど、ここで実行しなければまず阿賀松は俺を見逃さないだろう。
それに、灘のこの出血の量。シャツの襟首まで赤い染みをつくっていたのを見て、血の気が引いた。
――悩んでる場合などなかった。
「……っ」
目を硬く瞑る。恐る恐る舌を突き出した俺は、そのまま阿賀松の靴の裏に舌を這わせた。
目を瞑って今自分が何を舐めているのか、そのことを必死に紛らすものの、舌先に感じる特徴的な凹凸は紛れもなく靴底のそれだった。
「……ほんっと、お前ってプライドねーのな」
頭の上から落ちてくる呆れたような阿賀松の声。
自分でもわかってる。本来ならば、ある程度の自尊心を持ち合わせている人間ならばこんな真似しないと。
「つまんねえやつ」
顎先を蹴られ、顎の骨が砕かれたかと思った。呻く俺を鼻で笑い、阿賀松は俺から足を退けた。
「っ、ぜ、ん、ぱい……」
顎と顔を抑えたまま、思わず目の前の男を見上げた。灘を見下ろした阿賀松は「そんなにそいつ、助けてほしいのかよ」と吐き捨てるように口にした。
頷き返せば、その目は更に細められる。
「この騒ぎだ、その内どっかのお人好しがくるかもしれねえぞ」
試すような言葉にほんの少し引っかかった。
先程突然現れた狙ったような奇襲。こんな警報の中あんな大胆な行動に出るのだ、恐らく阿賀松のいう『お人好し』は現れない。
あくまでも勘でしかなかったが、足止めされている可能性の方が大きいだろう。――灘を潰すのが狙いだとすれば。
そして、そんな場所にタイミングよく阿賀松が現れた理由など一つしかない。
「……っ、お願いします。灘君だけでもいいので、病院に連れて行って下さい」
「仕方ねえなあ、助けてやるよ」
ため息混じり、折れたように口にする阿賀松に「本当ですかっ?」と思わず声が裏返ってしまう。
「――なーんて、そう言って俺が本当にこいつを病院までご丁寧に連れて行ってやると思えんのか? お前は」
挑発的なその言葉、腹を探るようなその視線が居心地悪かった。
阿賀松にはもう俺の腹の奥まで見えているのかもしれない。この男相手に下手な誤魔化しは通用しないのだ。
「……思います」
「へえ、どうして」
「先輩が……灘君を放っておくわけがないと思うからです」
灘和真には利用価値がある。
そう嬉々として語っていたあの阿賀松が灘に恩を着せるこんなチャンスを見逃すとも思えない。
芳川会長への猜疑心を操作し、灘を引き抜くタイミングならば今がその時だ。
そんな俺の言葉に怒るわけでもなく、阿賀松はただいつものように口元を歪める。
「へえ、お前も少しは頭使えんのな」
焦るわけでもなく、変わらない調子で笑う阿賀松。
そんなときだった。廊下の奥から複数の足音が近付いてくる。
今度はなんなのだと身構えたとき、現れたのは風紀の腕章を着けた生徒たちだった。
まずい、と身構えたとき。俺の前へと出た阿賀松が軽く連中に向かって手を振る。
「あー、丁度よかった。おい、そこに転がってるやつ連れて行け」
当たり前のようにそう命じる阿賀松に、風紀委員は「わかりました」と気絶した灘の腕を掴む。
灘をどこに連れて行くつもりなのだ、と咄嗟に追いかけようとしたところに別の風紀委員に腕を掴まれる。
「伊織さん、こいつは」
何故風紀委員が阿賀松の指示を聞いているのか、などと考えたくもなかった。そんな中、一人の風紀委員に腕を引っ張られ、「あの、」と声が震えた。
状況が飲み込めず狼狽えていた俺を見て、「ああ」と阿賀松は顎を撫でる。
「そっちは俺の部屋にでも転がしとけ」
何故、何故?
何が起こってるのかもわからないまま、「分かりました」と応える風紀委員に体を抱えられる。
「っ、な、え……っ!」
「じゃあな、ユウキ君。また会おうぜ」
本当にこのまま阿賀松の部屋に連れて行かれるのか。灘と離れ離れになる状況も怖かったが、風紀委員と阿賀松の関係を考えれば考えるほど冷静ではいられなかった。
そんな俺の意思など一切無視し、風紀委員は俺を学生寮まで連行するのだった。
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