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「っ、は、……ぅ……」 「伊波様……」 大丈夫ですか、と、黒羽は聞かない。 体の震えも収まり、今度急激な口渇感が襲い掛かってくる。喉がひりつく。嘔吐したせいなのか、分からない。けれど、今までに感じたことのないほどの乾きだった。舌の根から乾き、固まるような感覚に焦燥感すら憶えた。 「喉が、乾きますか」 静かに、尋ねる黒羽に、俺は、辛うじて感覚が戻ってきた体を動かし、頷いた。黒羽は、「少し待っててください」と言って、そっと俺から体を離し、その場を離れる。 黒羽がいなくなる。それだけで不安になり、行かないでくれ、と堪らず手を伸ばしかけたときだ。黒羽はすぐに戻ってきた。その手には湯呑みが握られていた。中には、白湯が入っていた。 「これを」 黒羽は俺の上半身を軽く抱き抱えると、唇にそっと湯呑みのフチを押し付ける。黒羽の湯呑みが汚れるのではないかと首を横に振ったが、勘違いした黒羽は「何も入ってません」と続ける。 そして、それでも躊躇う俺に業を煮やしたのか、黒羽はいきなり湯呑みの中を自ら口に含めた。そして。 「っ、ぅ、んん……っ」 それは、キスというよりももっと無機質で、事務的な動作だった。開いた口に水を流し込んでくる黒羽。躊躇いも内動作に、俺は、頭が真っ白になる。同時にあれほどまでの口渇感は水を得、一気に回復していった。 俺が水を飲んだのを確認して、黒羽は俺から唇を離す。何も言わずに、呆けたまま固まる俺に、そっと手拭いで口を拭ってくれた。 心臓の音が、煩くなる。 「っ、くろ、は……さん……」 他意はない、この行為にはなにもない。 分かっていたが、それでも、触れ合う感触に全神経が反応してしまう。 「……もっと……」 自分が何を口にしたのかも分からなかった。けれど、ただ喉を通るその感触が気持ちよくて、無意識にその言葉を口にしていた。 黒羽は、何を思ったのか分からない。浅ましいと思ったか、馬鹿げてると思ったのか、それとも。 「わかりました」と一言、再度それを口にした黒羽は、濡れた俺の唇に自分の唇を押し当てる。熱が、粘膜越しに触れ合った瞬間、体が恐ろしいほど反応する。至近距離、こちらを見据える赤い眼から目が逸らせなかった。 腰に、力が入らない。黒羽の冷たい指の感触が気持ちよくて、気が付けば、俺は黒羽の手を握り締めていた。 「……伊波様」 鼓膜を揺するのは、静かな声。低く、落ち着いたそれは心地がいい。けれど、今はその声すら甘く聴こえてしまうのだ。 正常ではなかった。それは、分かっていた。 黒羽は、あくまで冷静だった。 瞬間、視界が、遮られる。 黒羽の手で覆われた視界には光一つも入らない。 「っ、く、ろはさ……」 「……私は、自分の力も、理性もコントロールすることができると思ってました」 黒羽の声が、頭上から降り注ぐ。 「……ですが、貴方は……そうではない」 何も見えない。けれど、指の感触、声のする場所からして、近い位置にいるであろう黒羽の気配に心臓の音はバクバクと鳴りっぱなしで。 「貴方の側にいるのが私で良かった」 そう一言、黒羽が口にしたと同時に唇に何かが触れる。錠剤だ。二粒の錠剤が口の中へと追いやられ、そしてすぐ、水を飲まされる。 ごくごくと流し込まれる水。口から溢れた雫は浴衣の襟をも濡らしたが、構わなかった。 ソレはとても苦い薬だった。通った箇所が酷く疼く。吐き出してしまいたかったが、唇を塞ぐ黒羽にそれを邪魔された。 「っん、ん、ぅ……」 吐き出したいほどの苦味。 けれど、どうしたことか。薬を飲んで一分もしないうちに先程あれほど体の中を食い潰していた異様な熱が引いていくのだ。 まるで、霧が買ったかのような視界が一気に晴れ渡る、そんな感じだった。 「……今のは、制御剤です。……本来ならば満月時の破壊衝動を抑えるための妖かし専用の薬なのですが……どうやら効いたみたいですね」 氷が溶けるが如く浸透していくそれに、視界が晴れやかになる。俺から手を離した黒羽は、「無礼をお許しください」と口にする。明るくなった視界の先、黒羽は俺の髪を撫でる。 「……っ、苦い……」 「やはり、人の口にも合わぬのですか。それは申し訳ないことをしました」 妖怪でも苦いらしい。 黒羽は、どうぞ、と白湯の入った湯呑みを手渡してくる。 今度は口移しはしないようだ。 薬が効いてきたのか、麻痺していた思考を取り戻し、同時に先程あんなに強請ってしまったことがとにかく恥ずかしくなってきた。 俺は、それを紛らすように一口白湯を押し流す。 「……貴方を守ると言っておきながら、この体たらく。……言い訳もございません」 そんな俺に、黒羽は頭を下げた。 「……黒羽さん、さっきのは……何だったんですか」 「恐らくあれは、血液を媒体にした分身です。……自らの血に意識を流し込み、自在に変幻し、貴方の部屋へと侵入した。……自分の判断不足です、申し訳ございませんでした」 寧ろ、黒羽は助けてくれた恩人だ。 それにしても、やはり血溜まりの上で何かが動いた気がしたのは気のせいではなかったということか。 今までなら分身と言われても漫画やアニメの世界とでしか受け取れなかったが、今は別だ。俺は、疑いもしなかった。 「……俺は、黒羽さんが来てくれたお陰で、助かったんです。……けど、どうやって……」 「あくまで、限られた人物にしか開けられないというのは扉だけだったようです。壁も確かに濃い結界が張られていましたが、壊せないものではありませんでした」 当たり前のように黒羽は言うが、普通は壊せないものではないか。だから外に移動した、そう黒羽は続ける。 その判断力と行動力のお陰で助けられたといっても過言ではない。 そう思うと、安心したのか急激に睡魔が襲ってくる。というよりも、辛うじて残っていた意識を結ぶそれが音を立てて切れたかのような感覚だった。俺は、まだ黒羽に聞きたいことがあったのに、なんて思いながらもその睡魔に逆らうことができず、意識を手放した。 「伊波様……ゆっくりと、お休みください」 遠くで黒羽の声を聞こえる。 あの黒い影は、誰の分身だったのか。 そして、あの時扉の前にいた訪問者は誰だったのか。 気になることは多々ある。けれど、今はとにかく休んで英気を蓄えることにした。 次に気づいたときは、柔らかい布団の中だった。苦しくないように着付けられた浴衣は俺が着ていたものとは違う。 黒羽が着替えさせてくれたのだろう。 寝惚け眼のまま辺りを見渡したとき、視界の端で影が動く。 「体の調子はいかがですか、伊波様」 黒羽はそう、湿った手拭いで俺の口元を拭い、乾きを潤してくれる。それを抵抗するほど目も覚めていなかった俺は、「大丈夫」とだけ口にした。 万全というわけではないが、薬のお陰もあってか昨夜ほどの腹を焼き尽くすような熱もなければ体を這う感触もない。 それはよかったです、と黒羽は頷いた。 ずっと、俺を見ててくれたのか。側には座布団が一枚敷かれていて、黒羽はそこへと座り直す。 「何か食べたいものはありますか」 「……ないです」 「……まだ、本調子ではないようですね」 「あの、黒羽さん……浴衣、ありがとうございます」 お礼を口にすれば、黒羽は何も言わずに頷いた。 昨夜に比べ、黒羽の態度が余所余所しくなった気がしないでもない。やはり、昨夜のことが原因か。 寂しくはあるが、我が儘言って余計困らせるような真似もしたくなかった。布団から起き上がろうとしたとき、外が騒がしい事に気付く。 どうしたのだろうか、とまで考えて、昨夜の惨状を思い出す。真っ赤な通路を更に濃く染め上げる黒い血。 あれが原因だろうか、それとも半壊した俺の部屋か。 黒羽に目を向ければ、黒羽も気付いたようだ。「問題ありません」と、一言。俺の気持ちを汲み取った黒羽はそれだけを口にした。 「……でも……」 本当に大丈夫なのか、と尋ねようとしたときだ。 扉がノックされる。瞬間、黒羽の周囲の空気が一瞬にして張り詰めた。ひやりとした空気の中、固まる俺に、黒羽は「ここにいてください」とだけ口にし、扉へと向かった。 一人になるのは心細いし不安だが、すぐ目と鼻の距離だ。俺は、手元に置かれていた黒羽から貰った懐中時計に手を伸ばす。開けば、丁度午前五時を差していた。 満月の時間は終えたようだが、それでも、油断は出来ない。 ここは人間界とは違うのだから。

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