9 / 126
08※嘔吐
濃厚な血の匂い。照明の消えた、薄暗い通路の下。
俺は、手にしていた懐中時計をぎゅっと握りしめた。手のひらに食い込む装飾部分、その痛みにより、鈍りかけていた思考を取り戻す。
「黒羽さん、ありがとう……ございました。ごめん、それだけを言いたくて……」
このままではいけない。本能がそう警報を鳴らしていた。
早く、黒羽から離れないと。血管の下、巡る血は熱したかの如く熱く湧き上がる。
汗が滝のように流れた。
「そ、それじゃあ……」
おやすみなさい、と、扉を閉めようとしたときだった。
足元、濡れていた床の上で何かが動いた。
咄嗟に視線を下に向けるが、変わりない。もしかしたら自分たちの影を見間違えたのかもしれない。思いながら、俺は改めて黒羽に別れを告げ、部屋の扉を閉める。
「……はぁ……」
なんか、変だ。原因は恐らく、満月のせいだろう。
ドクドクと脈打つ心臓は収まらない。
怖くて堪らなかったはずなのに、おかしな話だ。その恐怖すらも心地よく思えてしまうのだ。
黒羽の血走った目、その赤い視線を思い出し、腰がずぐりと重くなる。
なんだか、自分の体が自分のものではないみたいだ。
あんな濃い血の匂いを嗅いだから気が立っているのだろうか。
俺は、深呼吸を何度か繰り返し、そして、再び寝床へと戻った。
扉を開けたのは間違いだったかもしれない。
それにしても、何があったのか。やはり、扉の外には何かがいて、黒羽はそれを切り捨てたのか。
やめよう、明日もあるんだ。今日は早く寝て、充分に休養を取らなければ……。
自分に言い聞かせ、布団に潜る。
そして枕に頭を落ち着かせ、目を瞑ったときだった。
どこからか、鉄のような匂いがした。
先程通路で嗅いだ匂いが鼻に残っていたのだろうかと思い、特に変に思うこともなくそのまま俺は目を瞑っていた。
けれど、すぐにそれが異変だと気付くことになる。
ぽたり、と頬に何かが落ちたのだ。
気のせいではない。ぎょっとし、目を見開けば天井ではなく、真っ黒な影が俺を見下ろしていた。影からはひたひたと血が溢れ、俺の顔を濡らす。
見間違いではない、何かが『いる』。
咄嗟に起き上がろうとするが、体の上に跨ったその影により体がびくともしない。
心臓が張り裂けそうなほど痛くなる。
いつの間に、どうやってここに、どうして。混乱する頭の中、先程扉を閉める前に足元で何かが動いた気配がしたのを思い出した。
「……っ、退け、よ……ッ!退け!」
怖い、と思うよりも先に体が動いていた。枕を掴み、咄嗟に人影に向かって投げつける。けれど、まるで感触がなかった。
薄暗い室内、血で濡れた影の指先が腕を掴み上げる。ぬちゃりとした粘ついた感触とともに濃厚になる血の匂いに、吐き気が込み上げた。体を捻り、なんとか布団から抜け出そうとするが、金縛りにあったみたいに体が反応しなくなった。
近づく影に、頬の汗を舐められる。這う舌の感覚は、本物だった。濡れた生暖かな肉の感触に、全身が鳥肌立った。
「ッ、や、めろ、離せッ、……クソッ、黒羽……!黒羽!」
名前を呼ぶ、けれど、辺りは静まり返ったままだった。
聞こえないのか、そんなはずはない。
そこまで考えて、この部屋の構造のことを思い出した。
俺でなければ扉は反応しない。ということは、扉までいって開けないと、黒羽は入ってこれないのではないかと。
だとしたら、どうやって。
と、そこまで考えていたとき、細く長い舌がねちょりと音を立て唇に触れる。
「っ、ん、っ、ぐ……ッ」
吐き気がした。唇を硬く結んでいても、血を塗り付けられるような舌の動きに濃厚な鉄の味が染み込んできて、嗚咽が漏れそうになる。
早く、黒羽を呼びに行かなければ。そう思うのに、体がいうことを利かない。
せめて、懐中時計を、と手を動かそうとするが、布団の傍、落ちた懐中時計に手が届かない。
こじ開けようと唇を舐める舌先に、俺は必死に逃れようと首を動かした。けれど、力の差がありすぎた。
固定された顎先、その唇を大きく指で抉じ開けられ、その隙間から強引に舌を捩じ込まれた。直接粘膜へと触れてくるその舌に、血の気が引く。
「ん゛ッ、ん、ぐッ、ぅぐッ!」
なんで、とかそんなことを考える暇がなかった。
喉の奥まで入り込んでくる舌に器官をねじ開かれ、何かを流し込まれる。濃厚な鉄の味に混ざって奇妙な味が喉奥から胃へと浸透していく。吐き出したいのに、それすらも儘ならない。怖くなって、バタついて影を押し退けようとした。けれど、暴れようとすればするほど体の力は抜け、そして、先程まで全身を駆け巡っていた熱が腹の奥で一気に弾け飛ぶ。
早鐘打つ心臓。力は入らないにせよ先程までは確かに機能していた全身の筋肉が弛緩し、腕も、足も、糸が切れたみたいに布団の上で横たわることしかできなくなってしまう。
舌を引き抜いた影。先程飲まされたものが、毒に等しい何かだったのだろうか。麻痺し始める思考の中、俺は、必死に眼球を動かし、枕元、懐中時計の位置を確認しようとする。
薄暗い部屋の中。提灯の薄明かりに照らされ、影に隠れていたその2つの目が真っ赤に染まっていることに気付く。
怪しく光るその目に睨まれ、脈が、弾む。息が浅くなった。体の輪郭を確認するかのように、開けた浴衣の上からその骨ばった手が脇腹から腰、そしてそのまま腿へと滑り落ちた。
殺すなら、食うのなら、早くすればいい。まるでこちらの反応を楽しむかのような手付きが余計気持ち悪くて、それ以上に何一つ抵抗できない自分の非力さが情けなくて、耐えられない。
「ッ、……か、は……ッ」
黒羽、と呼ぼうとするが声が出ない。掠れた吐息だけが溢れる室内、衣擦れ音がやけに大きく響いた。
乱れた裾の下、直接腿へ触れる濡れた指の感触にびくりと
腰が震える。
黒羽、黒羽、黒羽……。
助けてくれ、黒羽。
腿の付け根へと徐々に上がってくる指先、やがて、下腹部まで這い上がってきたそれは徐に下着の中の膨らみに触れた。
くにくにと指の腹で刺激され、嫌なのに、気持ち悪いのに、されるがままに揉みしだかれてしまえば熱が下腹部に一点集中してしまう。何故、どうして、こんなことをする必要があるのか。分からない。けれど、訳がわからないまま好きにされるのはもっと、耐えられない。
「っ、く……ろ、は……」
喉の奥から声を絞り出した、そのときだった。
凄まじい破裂音とともに、部屋の窓ガラスが一気に吹き飛ぶ。そして、降り注ぐガラスの雨の中、満月を背にした黒羽がそこに立っていた。
俺は、夢でも見ていたのだろうか。
黒羽がいる、と思った次の瞬間、覆いかぶさっていた男の首が吹き飛んだ。と、同時に大量の黒い血が噴き出し、胸元から顔へと吹き掛かる。マグマのように熱い血を避けることも出来ず、それをまともに被った。熱、そして匂い。どろどろとした液体に、せめて目に入らないようにと瞑っていた恐る恐る開けたときだ、覆いかぶさっていた影は塵になり、割れた窓から吹き込む風に流され消えた。
「っ、伊波様、大丈夫ですか!」
それも束の間、短刀を仕舞い、駆け寄ってきた黒羽は最初と同じ敬語に戻っていた。けれど、俺も俺でそれに突っ込む余裕もなかった。血を被ったまま動けない俺に察したのだろう、顔を青くした黒羽は自分の服の袖で俺の血を拭ってくれる。
「……っ、伊波様、口が利けないのですか……」
頷くこともできなかった。ただ、切羽詰まった顔をした黒羽を見上げることしかできなくて、悔しそうに歯噛みした黒羽は、そのまま俺の体を抱き抱える。
そして、落ちていた懐中時計を拾い上げ、そのまま玄関に向かって歩き出した。
まるでお姫様でも抱きかかえるかのような丁寧な抱き方に驚く暇もなかった。その間も体の中を巡る毒は健在しており、血すらも、皮膚を爛れさせるかのように這いずり回るのだ。痛み、よりも、しびれ、疼きが強かった。無数の小さな虫が皮膚の下を這い回るような気持ち悪さに、腹の底がぞわぞわと震える。
「もう少し、辛抱してください。……今、安全な場所へと移動しますので」
聴こえてくる黒羽の声が、心地よかった。
どこへ向かってるのか、認識することも出来ぬほど思考力は低下していた。
扉が開く音がする。
部屋の中へと移動した黒羽は、そのまま俺をどこかへと寝かした。硬い床の感触。眼球を動かせば、黒い天井と、そこに取り付けられた小さな照明が視界に入った。
黒羽の部屋なのだろうか。
「伊波様、……失礼します」
黒羽は、俺の唇に触れ、そして、そのまま指をねじ込んできた。
「っ、ぅ、ぶ、ぇッ」
「貴方の中に侵入した毒を全て吐き出させます。我慢してください」
「ぅ、お゛、ぇ゛えッ」
言いながらも、躊躇なく喉の奥、口蓋垂を指で刺激してくる黒羽。その刺激に大きく縮小した器官。同時に、大量の唾液とその奥、溜まっていたあらゆるものが溢れ出してくる。まだ消化もしきっていない形の残った晩飯が最初に溢れた。吐瀉物で手も部屋も汚れることも構わず、黒羽は尚口蓋垂を指の腹で挟み、柔らかく刺激する。顎が外れそうだった。
続いて第二波とともに胃液に混じった固形物がびちゃびちゃと床を濡らす。噎せた拍子に別の器官に入ってしまったせいで酸味の刺激と痛みに堪らず涙が滲む。
それでもまだ、黒羽の手は止まらなかった。
ひりつく喉の奥、今度は胃液のみが溢れる。次第に唾液の量は多くなり、黒羽の指は俺の吐瀉物と唾液でどろどろに汚れていた。
「伊波様、もう少しの辛抱です……大丈夫です、すぐに、すぐに楽にしますから……」
優しい声だった。ビクビクと震える背中を擦りながら、黒羽は囁きかけてくる。ぐっと喉奥を抉られたときだ、空になっていたと思っていたそこからはごぽりと音を立て、真っ黒な血の塊みたいな吐瀉物が口から溢れ出した。
それを見た黒羽の顔色が変わる。
それと同時に、ようやく指を引き抜きた黒羽は咳き込む俺の背中を擦ってくれた。「よく頑張りました」「これでもう大丈夫です」と、何度も口にする黒羽に、俺はなんだかほっとして、つい、堰き止めていた涙がボロボロと溢れてきた。
「助けるのが遅くなってしまい、貴方に怖い思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」
そんな言葉が聞きたかったわけではないが、黒羽の声に、心底ホッとするのだ。怖かった。痛くて、それ以上に気持ち悪くて、なのに、手も足も出ない自分が情けなくて、これほどまでに今まで自分の無力さを呪ったことがあっただろうか。
服が汚れるのも構わず、黒羽は俺の体を抱き締め、頭を撫でてくれて。不器用で、ぎこちない手付きだが、そのぬくもりは確かだった。
ともだちにシェアしよう!