37 / 126
08
自分の体が自分のものでなくなる瞬間が来るとは思わなかった。
舌先に砂利の感触が触れ、嫌なのに、突き出した舌は執拗に獄長の靴に這わされる。
今すぐ口を洗いたい衝動に駆られるが、体は相変わらず俺の意思命令を遮断したままで。
「人間、名をなんと言う」
口元から離れた靴先は、頬から顎のラインをなぞるように滑り落ちる。
こんなやつに名前を教えたくないと思うのに、口は俺の意志と関係なく「曜」と掠れた声で応えるのだ。
俺の名前を聞いた獄長はふ、と笑う。
「曜」
その声で名前を呼ばれた瞬間、心臓に無数の鎖が絡み付く感覚に陥る。実際には心臓はむき出しにもなっていない。そのはずなのに、この男に名前を呼ばれただけで見えない鎖に雁字搦めになるような、そんな息苦しさが増すのだ。
体から引き離され、宙ぶらりんになった思考。脳味噌にまで獄長の指が絡みついてくるような得体の知れない恐怖。
「……お前の心の声は随分と騒がしいな」
その一言に、カッと耳が熱くなる。
心の声すらも聞かれているのだと思うと、自分の、自分だけの体だったはずなのに急に自分のものなんか一つもなくなったみたいで。
獄長に心を読まれたくない、そう頑なに何も考えないようにするが、それこそ難しい話だ。
「これで分かっただろう。お前は俺に逆らうことは出来ない」
わかった。身を持って理解した。
けれど、それを認めると本当にこの体を、自分という存在を見失いそうで怖かった。
そんなわけない、と心の中で強く思う。
やつに伝わるように、強く、念じる。
そして、それは獄長にしっかりと伝わったらしい。
感情の宿っていないその目が、確かに不愉快そうに細められる。
「……まだ分からないか、物分りの悪いガキだ」
そう言って、黒衣の下、獄長は何かを取り出した。
そして、取り出した棒状のそれを俺の目の前に投げ捨てる。
「それを拾え」
そう一言、言い放つ。
地面に落ちたそれは、鞘に収められた短剣のようだった。
なんで、俺に、武器を渡すんだ。
理解できなかった。下手すれば、俺はこの短剣を使って獄長に襲い掛かる可能性だってあるかもしれない。
と、そこまで考えて、気付いた。
だからだろう、俺が絶対に自分に逆らえないということを誇示するために敢えて武器を使おうとしたんだ。
そんな俺の思考を読んだのか、獄長は口元に不気味な笑みを浮かべる。
「それで自ら腹を掻き切るんだ」
それは、地獄の底から這い上がるような不気味な声だった。
恐ろしいことを口にする獄長に耳を疑った。
けれど、獄長は撤回も訂正もしない、ただ薄く笑みを浮かべ、俺を見詰めるのだ。
そんなこと、誰がするものか。
そう、獄長を睨もうとしたときだった。手が、勝手に短剣へと伸びる。
「……っ」
嘘だ。冗談だろう。
必死に体を止めようとするが、動かない。
拾い上げた手からは、見た目からは想像できないほど重量が伝わってきた。
嫌だ、駄目だ、駄目だ、止まれ、止まれ……――ッ!!
念じるが、体は少しも言うことなんて聞いちゃくれない。
指先は勝手に鞘から短剣を抜く。
中から現れた鈍色の鋭い刃物。その表面に反射して写る自分の顔は、魂が抜け落ちたような、見たことない顔をしていて、ゾッとした。
短剣の先端が、ゆっくりと自分の方へと向く。
腹部、臍の上辺り。短剣の先端を突き刺そうと体が動いた。
その瞬間だった。
頭が、真っ白になる。
そして、襲い掛かってくるのは頭が割れそうなほどの頭痛。
手元から短剣が滑り落ちる。鈍い音を立て、それは足元を滑った。
俺は、それを拾うこともできなかった。刺してしまったのかと思ったが、痛みは頭からのみだ。
「っ、ぐ、ぅ……っ!」
頭を抑え、呻く俺を見て獄長は不快そうに眉根を寄せる。
痛みに喘ぐ俺を見て、そして、笑った。
「その首輪……なるほど、そういうことか」
そう、短剣を拾い上げる獄長は呟く。
死ぬほど頭が痛い。痛くて、本当に頭が割れてしまったのではないだろうかと思うほどの痛みだったが、一時的だが確かに体は獄長からの呪縛を逃れたのだ。
短剣を遠ざければ、痛みは和らぐ。
助かったのか、と息をするのも束の間。
「立て」
獄長に命じられれば、再び見えない鎖に拘束されたように自由を奪われる。
命じられるがままに立ち上がれば、獄長は俺の目の前に立った。
そして、その短剣の表面で俺の頬を撫でるのだ。
冷たい感触に、全身が反応する。ぴりっとした痛みとともに皮膚が濡れる感触を感じた。
……焼けるように熱い。
「どうやら貴様は自害できないように出来てるらしいな」
獄長は首輪を見て気付いていた。
ということは、恐らく、自害できないようにしたのは和光で間違いないだろう。
仮死状態とはいえど、俺に本当に死なれたら困るからか。
守るためなのか、それとも俺が自害して逃げ出すことを危惧したからか、わからない。
「……随分と可愛がられてるようだな、貴様のようなやつにそれほどの価値があるとは到底思えないが……」
「こんな下らん玩具まで着けてまで守ろうとしたものを壊され、あの能面のような男がどんな反応を示すかは興味がある」シャツの襟首から滑り込んできたその指先で首輪を撫でられる。
先程までの滲み出るほどの殺気とは違う、獄長の雰囲気に嫌な予感を覚えた。
「服を脱げ」
冷たい声、その命令が胸の奥底へと落ちる。
理由が分からなかった。何故だ、と反応するよりも先に、制服越しに腹部を撫で上げられ、思わず逃げたくなったが獄長はそれを許さない。
「一度魔物と体を交わした人間は内部から魔に侵食される。本人が意識せずとも、魔物を誘い、受け入れるように作り変えられるのだ。……それに俺が気付かないと思ったか」
この男が何を言ってるのか理解できなかった。
したくもなかった。
昨夜散々黒羽に嬲られた体を触られ、それだけで、酷く反応してしまいそうになる。
恐ろしい気持ちよりも、恥ずかしいという気持ちが大きかった。俺のことを馬鹿にするような、一人の人間として見ないようなこの男に本当に全部覗かれてるみたいで、悔しくて、ムカついたのに、逃げ出すことも抵抗することもできない。
命じられるがまま、体は勝手に制服のボタンを外していく。脱ぎ捨てるシャツ。獄長は目の色を変えないまま「下もだ」と続けた。
自害できないようにできるなら、この男の命令を聞かなくてもいいようなシステムをこの首輪に付けてほしかった。
制服を脱ぎ、下着から脚を抜く。恥ずかしさはない。だってそうだろう、この傲慢不遜なムカつく男は土人形だ。
そう思うと、まだましだった。
ただ脱ぐくらいなら全然いい。寧ろ俺の裸を見てなにが楽しいのか理解できない。見たきゃ見ればいいだろ、と半ばその時俺はやけくそになっていた。
「……知っているか」
伸びてきた手に、顎を掴まれる。
俺が逃げられないのがわかってるくせに、力づくでも自分の方へと向かせようとするのだ、この男は。
「この監獄では人間が好物のやつは少なくはない。肉や血だけではなく、骨や臓器、その体に食べ余すないものはないと言うくらいだ。しかし人間でも高値で取引されるのは肉のついて熟した人間よりも、肉付きも普通の貴様のような年端もいかぬ子供だ。何故だか分かるか?」
「種付し、子を孕ませ、産ませたあとに好きなだけ肉を付けて食うこともできるからだ」変わらぬ、淡々とした口調で告げられる言葉に、血の気が引いた。
逃げ出したい気持ちになった俺を見て、獄長は笑う。
「俺にはお前のような乳臭いガキを妾にする趣味はないが、俺のペットの餌くらいにはなりそうだ」
その言葉と同時に、ぼたりと剥き出しになった背中に何かが落ちてくる。異臭。濃厚な泥の匂い。
え、と目だけを動かして上を見たときだった。血の気が引いた。
土が剥き出しになった天井に巨大な何かが蠢いていたのだ。それがなんなのかわからない。俺は今までにこんなものを見たこともなかった。
例えるなら、泥を纏った液状のクリーチャー。
「こい、お前の新しい玩具だ」
そう獄長が口にしたのと、天井のそれが落ちてきたのはほぼ同時だった。体の上、頭からぼたぼたと降り注ぐそれを避けることすらできずに直撃する。
見た目以上に質量のあるそれは重く、思わず倒れそうになるが全身を包み込むように絡みついてくるそれに、息を呑む。
慌てて避けようとして、そこで、自分の体の自由が効くようになってることに気付いた。
「ここ最近お気に入りの玩具だった囚人をうっかり飲み込んでしまってから落ち込んでいたんだ。……人間、精々たっぷり遊んでやってくれ」
そう、部屋の隅へと移動した獄長は指を鳴らす。
瞬間、巨大な檻が地面と天井から生え、俺とこの謎の化物を隔離する。
「っ、何、言って……」
酷く久し振りに言葉を発したような気がした。
慌てて檻を掴もうとするが、びくともしない。それどころか、背後から濡れた音を立て、近付いてくるそのクリーチャーに伸ばした手ごと絡め取られそうになり、情けない声が漏れた。砂利となにかが混じったようなそれはただ痛い。必死に剥がそうとするが、まるで手応えがないのだ。
両手部分が現れ、胴体を掴まれる。
そして、顔らしき場所にぽっかりと浮かび上がる大きな口のような穴。
そこから覗く闇に、青褪めた。
ともだちにシェアしよう!