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09
「っ、は、なせ!」
がむしゃらに暴れる。
半ばやけくそになりながら、体を拘束してこようとしたそれを思いっきり振り払う。
思った以上に体は脆い、手応えは泥と同じだ。ぐしゃりと崩れ、しかしすぐに体は元通りになる。
酔狂な獄長のお陰で妙な技から抜け出せたのはでかいが、それでも状況が好転したわけではない。
おまけにろくに身を守れるものもない。
自由になった身で、俺がまずしたのは制服を拾うことだった。広くはない檻の中、逃げながら落ちていたシャツを拾い上げようとすれば泥の化物が俺のシャツを掴んでくる。
え、まじか。
ものすごい力で引っ張られ、思わず手を離してしまいそうになる。
というか、よく見たら掴まれた箇所が溶けているように見えるのは俺の気のせいだろうか。
「っ、だめだ、やめろって!おい!こら!」
うーだとかあーだとなんか呻きながらもよたよたとこちらの声に反応する化物は歩きを覚えたての赤子のようにすら見えた。
俺はそいつから思いっきりシャツを奪い返し、慌てて袖の部分に腕を通した。
するとすぐに繊維が肌に張り付くように体に密着する。
魔界のものはやはり万能のようで、溶けかけていた箇所は既に直り、ご丁寧に下着やスラックス部分まで作ってくれる。
「再生衣か……人間のくせに随分と身分不相応なものを身に着ける」
「っ、そんなことどうでもいいからここから出せよ!」
「お前、人の話を全く聞いていないようだな。お前の墓場はここだ。お前の骨もレーガンの餌になる、これ程名誉なこともないだろう」
レーガンというのはこの化物のことだろうか。
とてもじゃないがレーガンという顔じゃない、むしろドロドロとか、マルマルとかそんな感じだ。
けれど、レーガンの名前を口にする獄長の声は気味悪いほど甘い。相当可愛がってるらしい。名前を呼ばれ、反応するレーガンは獄長のいる方へとのそのそと方向転換し、そして檻に体をめり込ませるように獄長へと近付こうとするのだ。
「レーガン、俺はいい、そこにお前の好きな肉があるぞ。好きなように遊んでいい。どうだ、嬉しいだろう?」
言いながらレーガンの顔らしき部分を撫でる獄長。余程懐いてるらしい。感情を表すかのようにドロドロと体を蕩けさせるレーガンに、俺は何を見せられてるのだとしばし呆けた。
しかし、これはチャンスかもしれない。
「……獄長さん、あんたのペットは随分と獄長さんと遊びたがってるみたいだけど?」
「貴様がレーガンのことを分かったような口を聞くな。こいつは甘えん坊なのだ、三時間おきに撫でないと暴れる」
「そういえばまだ今日は触れてなかったな」と言いながら手を離す獄長。すると、満足したようにレーガンは体を蠢かせ、それから身を固くする。スライムのような形状から手足の生えた泥人形へと変化するに、青褪めた。
「磨り潰してもいい、溶かすのも悪くないだろう、砕くか?踊り食いもお前は好きだろう」
このままレーガンが獄長に甘えてあわよくば檻を開けて入ってこないかと思ったが、甘かった。
それどころかより一層大きくなったレーガンに、血の気が引く。
「っ、ぉわ」
大きな分厚い掌に頭を掴まれそうになり、頭を下げ、間一髪避け切ることができたがそのままバランスを崩してしまった。転びそうになる俺に、伸びてきた手に今度こそ脚を掴まれる。
砂利混じったグチャグチャの手に持ち上げられ、視界がぐるりと傾いた。真っ逆さま。このままレーガンが手を離したら頭から落ちてそのまま脳挫傷コースに違いない。
受け身を取るには高さがありすぎる。体勢を立て直すため、俺はレーガンの腕にしがみついた。そして、そのままレーガンの顔面部分を、思いっきり片方の脚で蹴り上げようとしたときだ。相変わらず手応えがない。けれど、崩れた泥は瞬時に脚に絡みついてくる。
「な、え……ッ」
そして、衝撃。視界が大きく傾いた次の瞬間、咄嗟に頭を腕で庇う。
声も出なかった。思いっきり地面に叩きつけられた体は悲鳴を上げる。咄嗟に庇う体勢をとったものの、そんなもの無意味だと思い知らされるほどの激痛に頭が真っ白になる。絶対、腕イッた。顔面を庇った左肘辺りが焼けるように痛む。アドレナリンが大放出中の脳味噌はそれを痺れとして受け止めてるようだ。力を入れても動かないそこに、今度こそ死を覚悟した。
本気で、このままでは殺される。
息が上がる。汗が止まらない。出血はないものの、強く叩きつけられた体は立ってるのもやっとだった。
獄長の言うとおりなのかもしれない、人間の俺は魔法を使えるわけでもすごい力があるわけでもない、魔族に勝とうなんて思うこと自体が間違えなのか。
レーガンがゆっくりと歩み寄ってくる。
その巨体が一歩踏み出す度に微かに地面が揺れた。
黒羽さん、黒羽さん。
頭の中で何度も繰り返す。辛うじて神経の繋がってる右手で、制服の中の時計を握り締めた。
――この際なんでもいい、この状況を打破できるなら神でも仏でも邪神でも……っ!!
誰か俺を助けてくれ、と硬く目を瞑ったときだった。
「貴様!!伊波様から離れろ!!」
……一瞬、幻聴かと思った。
今はもう聞き慣れたその低い声に、俺は、ハッと顔を上げる。そして、息を飲んだ。
檻の隙間から飛んできた黒い毛玉はレーガンの巨体、その顔面に突進する。
そして、ぽてっと音を立て地面に落ちた。
「っ、く、黒羽さん……?!」
状況が読み込めなかった。
咄嗟に落ちたその黒い毛玉を片腕で抱き上げれば、この毛玉はわなわなと震えていた。右目部分縦一文字に裂けた大きな傷跡。間違いない、黒羽だ。
「黒羽さん、大丈夫ですか……っ!っていうか、どうしてここに……」
「伊波様の命を守れずして何が眷愛隷属……命に代えてでも貴方を守ります」
そう、キリッと目を細める黒羽だが如何せんぬいぐるみのような姿のままのせいか締まらない。いや、違う。ぬいぐるみのような愛くるしい姿ではあるが俺にとってはいつも通り、いやいつも以上にかっこよく見えた。
俺の腕からそっと降りた黒羽は、俺とレーガンの間に立ち、そして何かをしようとしていたが傍から見れば丸い烏が羽撃きしてるようにしか思えない。
すぐに黒羽から悲痛な声があがる。
「クソ……なんだこの忌々しい体は……!術も使えぬ、技も使えぬ、こんな体で伊波様を守れるか……!!」
羽撃き、激しく己を叱咤する黒羽の姿を見て、獄長は愉快そうに笑った。
「随分と愛くるしい姿ではないか、囚人1876905。この騒ぎに乗じて脱獄するとは愚かな……貴様も餌になりたいようだな、構わん、レーガン、遊んでいいぞ」
現れた黒羽に動揺するわけでもなく、獄長は黒羽を指差し、命じた。最初きょとんとしていたレーガンだったが、すぐに黒羽に興味湧いたようだ。黒羽に向かってその大きな腕を振り下ろす。
「遅い!」
それを難なく避ける黒羽だが、それが面白いのかレーガンは夢中になって黒羽を潰そうと体全体を使って襲い掛かる。
もこもことした体のわりに俊敏な動きをする黒羽だが、そう長くは持たないはずだ。
このまま黒羽共々食われるなんて真っ平だ。
どうにかできないかと辺りを見渡した、そのときだった。
天井が落ちてきた。そう、文字通り、天井部分である土が落ちてきたのだ。
幸い檻の天井があったお陰で瓦礫が落ちてくることはなかったが、何事かと顔を上げた俺は驚いた。
「……伊波様、発見……」
か細い声、華奢なシルエット、血のように真っ赤な髪の下から覗く大きな目は俺を捉え、無邪気に微笑む。
そして、檻の鉄柵部分を掴んだテミッドは、躊躇なくそれを折り曲げた。そう、折り曲げたのだ。ぐにゃりと針金細工かなにかのように容易く人の体くらいはある太い鉄柵を押し曲げたテミッドは、そのまま檻の中にすとんと降りてきた。
それに1番驚いたのは獄長だった。
「っ、貴様……何をしてる……」
「……こんなところ、伊波様がいていい場所、じゃ……ない。汚いし、くさいし、ジメジメして……やだ……」
「……ッ、不法侵入者めが」
そう、獄長が壁を殴った瞬間、壁から大量の鎖が現れる。テミッドはレーガンの背後に周り、レーガンの巨体を盾にして、思いっきりその大きな背中を鎖に向かって蹴り飛ばした。瞬間、鈍い音を立ててレーガンの体が倒れ、標的を見失った鎖たちは戸惑ったように傾くレーガンを支えようとした。
「……伊波様、こっち」
一瞬の出来事だった。呆気取られる俺の横にやってきたテミッドは、その生白い手を伸ばして俺の体を抱き上げる。
「っ、ちょ、テミッ……」
「……ごめんなさい、けど、伊波様、怪我してるから……こうします……」
たどたどしく言葉を紡ぐテミッド。
「しっかり捕まってください」と囁かれ、俺は黒羽を抱き締めつつ、テミッドの胸元にしがみついた。
「おのれ、レーガンを足蹴にするなどここ無礼者が……監獄長の俺に逆らうことがどれほどの重罪か理解した上での行動か……!!」
逆上する獄長。テミッドは獄長を振り返ろうともせず、そのまま崩れた天井目掛け、瓦礫を足場にして駆け上がる。
このまま逃げるつもりなのだろう。咄嗟に振り返ろうとしたとき、テミッドに「だめ」と目元を掌で覆われた。
「伊波様、あの人の目を見たら、だめです……洗脳にかかっちゃうから……」
長い前髪の下、テミッドの目が淡く光る。
なるほど、と思った。だからあの男の目を見たらおかしな気持ちになるのか。頷く暇もなく、テミッドはどんどん走っていく。地上を目指してるのか、いま自分たちがどこにいるのかもわからない。が、後方で砂利の上をなにかが走るような音が聞こえてくる。擦れるような金属音。獄長が追ってきてるのだと思うと、生きた心地がしなかった。
途中、擦れ違う獄吏たちが鎖の波に呑まれる悲鳴が聞こえた。
このままでは埒が開かない。俺は咄嗟に「水」と声を上げる。
テミッドがこちらを見た。
「獄長は、水が駄目なんだ……水がある場所なら、きっと追ってこないはずだ!」
「……みず」
少しだけ思案して、テミッドは突き進んでいた通路、その行き止まりで脚を止める。そのときだった。
腕の中にいた黒羽が動いた。
するりと腕から落ちる黒羽に、落としてしまったと咄嗟に手を伸ばしたが、すぐにそのもふもふの羽を拡げ、飛ぶ。
「テミッド、こちらだ!この壁を壊せ!」
そして、何度か迷路のような地下通路を駆け回っていたときだ。土の壁の前で黒羽は声を上げる。
扉もない、変哲のない壁だ。けれど、何かを感じ取ったらしい。テミッドはこくりと頷き、そして躊躇なくその壁を殴った。軋む壁。蜘蛛の巣状の亀裂が入る。
そこに、二発目、三発目と拳をのめり込ませたとき。
ゴッと音を立て、壊れた壁の向こうから大量の水が溢れてきた。とてもじゃないが、新鮮な水とは違う。
鉄の臭いが混じった、その独特の異臭に吐き気を催す暇もなかった。
通路いっぱいに水が流れ出す。巳亦よりも水量は少ないものの、膝の上まで浸水するそれに、鎖の音は止む。
どうやら、テミッドが壊したそこは水槽のようだった。
見たことのない奇妙な形の生き物が水の中を泳いでいたが、テミッドはそれを無視して壊した壁の奥を覗いた。
薄暗い、赤く照らされたその部屋。その壁の一部が巨大な水槽と繋がっていたらしい。噛み付いてくる魚のような生き物を振り払い、テミッドは水槽の中を覗いた。
そこには、ぐったりと倒れる姿があった。
銀の枷に繋がったその人影には見覚えがある。
黒と紫が混ざった、派手な頭髪。
そして、死人のような肌は最早土気色で。
俺と同じ制服に身を包んだそいつは、青紫色の唇を動かした。
「……なんでお前らがここにいるんだよ」
全身びしょ濡れになったリューグは、虚ろな目をこちらに向けて鬱陶しそうに俺たちを睨んだ。
残念ながらそれはこちらのセリフでもあった。
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