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獄長から逃げていたときはアドレナリン放出していたせいで大分全身の感覚が麻痺していたのだが、時間が経てば経つほど左腕が焼けるような熱を持ち始める。
鍵の使えそうな場所を探索していた俺だったが、我慢できずに思わず脚を止め、腕を掴んだ。
「伊波様、すごい汗が……」
「さっきまでまだましだったんだけど、ちょっと、キツイな……」
肘下が焼け落ちそうなほど痛み、滲む汗の玉を掌で拭う。
「見せてください」と神妙な顔をした黒羽が俺の側に飛んできた。
見るのは怖いが、仕方ない。俺は再生した制服、その上着を脱ぎ、シャツの前を緩めた。左肩部分をそっと下ろし、袖の部分から腕を抜こうとした瞬間痛みが走る。
案の定、骨が折れているらしいそこは真っ赤に腫れ上がっていた。
「こんなになるまで放っておくとは……何故早く言ってくださらなかったのか」
「う……ごめん、先に逃げなきゃって思って……それに、あんま痛くなかったから……」
「なんて無茶を……」
黒羽は怒ったような顔をしていたが、心配してくれてるのはよく分かった。「先日私が渡した薬、持ってますか」と尋ねられ、俺は慌てて上着の内ポケットを漁る。
すると、薬包紙に包まれたいくつかの薬が出てきた。黒羽はその内の一つを嘴で掴み、「これを飲んでください」と俺に差し出した。
「ここまで綺麗に折れている骨を接合させるのには時間を要するだろうが、放置しておくよりましだ。……それと、添え木があれば……」
「……真っ直ぐなやつ、ない、みたいです……」
「いっそのこと、骨を引き摺り出してくるか……」
渡された粉薬を飲んでいたとき、とんでもないことをさらりと口にする黒羽に思わず噎せ返りそうになる。
黒羽ならし兼ねない。
「あー、黒羽さん、俺はもう大丈夫だから!骨くっつくまで動かないし!ほら、薬飲んだら元気出てきた!」
「伊波様、ですが……」
「俺のことはいいからさ、ほら、そろそろ移動しないと獄吏たちがまた来ちゃうだろ」
ここに来るまでなんとか獄吏たちと会うことは避けられていたが、それも時間の問題だろう。
黒羽はまだ納得いかない様子だったが「わかった」と頷いた。
「その腕が完治するまでは無茶な動きはしないように頼むぞ」
「わかった、わかったってば」
「…………」
この目は疑ってる。
過保護なんだか、心配性なんだか、嬉しい気持ちは確かだが、黒羽は他のものよりも俺を優先するところがあるから逆に心配になってくる。
贅沢な悩みだろうが。
刺激を与えないため左の袖は通さず、制服の学ランを羽織り直す。
そして、探索を再開させたときだった。
奥の通路の方から声が聞こえてくる。
「あっちだ」とか、「たたっ斬れ」とか、そんな物騒な野次に、複数の足音。獄吏たちだろうかと思ったが、そうではない。野蛮な罵声に、重量のある複数の足音、そして、喧騒。
「何かあったのか?」
そっと覗き込もうとしたところをテミッドに「伊波様」と止められる。そして、テミッド同様黒羽は「道を変えるぞ」と提案した。
騒ぎに近づくなと言うことだろう。
獄吏たちではないとしたら、囚人たちしかいない。
俺は二人に頷き返し、来た道を引き返そうとしたその時だった。
床が、軋む。地響きにも似たそれに、振り返った俺はそのまま硬直した。
剥き出しの牙、見開いた獰猛な眼。
体毛に覆われた、それでも分かる盛り上がった強靭な肉体。手足に伸びる刃物のように鋭く尖った爪。
濃厚な獣の臭いに混じるそれは、血だ。
俺は、この生き物を知っている。
――狼。
動物図鑑で見たことがある。けれど、俺の知っている狼と決定的に違うところがあった。
まるで人間のように二足歩行で立った狼は、俺たちを見つけるなり真っ赤な舌を覗かせた。開いたそこからは唾液が垂れる。何も発さない、ただ、唸るそれは間髪入れずに飛びかかってきた。
あまりの出来事に、俺は反応に遅れる。テミッドに首根っこを捕まれ、慌てて後退させられた。瞬間、壁に突進するその狼男は怯むことなくすぐに体制を立て直し、今度はテミッド目掛けて鉤爪を振り翳す。
「……ッ!!」
俺よりも小柄なテミッドと狼男の体格差は大きい。
リーチの長さと巨大な一撃だが、テミッドの身軽さなら避けられただろう。
けれど、テミッドはそれを避けることよりも俺を背に庇うことを優先させた。
「テミッド!!」
まともに鉤爪を食らったテミッドの背中が微かに反応する。ぼたぼたと、テミッドの足元に赤黒い血が溢れ出すのを見て、血の気が引いた。
慌ててテミッドの元へ駆け寄ろうとしたところを、黒羽に引っ張られ「伊波様!」と引っ張られる。
「けど黒羽さん、テミッドが……!!」
「……大丈夫、です、伊波様……」
え、とその言葉に思わずテミッドを見たとき。確かに目があった。
乱れた前髪のその下、普段伏し目がちなその緑色の瞳は見開かれ、そして、その薄い唇は釣り上がり、歪な弧を描いた。そこに覗くのは鋭く尖った白い牙。見たことのない表情にゾットするのも束の間、テミッドは狼男の太い腕の上にとんと乗り上げる。
瞬きをする暇もなかった。狼の顔面、その右目部分に躊躇いもなく膝で蹴りを入れるテミッドに、狼男は悲鳴のように短く吠える。
赤く充血する目。怯む獣相手にテミッドは躊躇なく開いた顎に手を捩じ込み、そして、思いっきり抉じ開けた。
本来ならば開かないくらい顎を開かされた狼は悲痛な声をあげる。
その口内、大きく垂れる舌に尖ったナイフを思いっきり突き立てたテミッドはトドメを刺すかのように下顎を蹴り上げ、無理矢理口を閉じさせた。
狼男の閉じた口から真っ赤な鮮血が溢れ出す。
怯む男を思いっきり蹴り飛ばし、その巨体は壁へとのめり込んだ。
「っ、……すげ……」
見事だった。あまりにも流れるような動作に、俺は目を離すことができなかった。
完全に気を失っているらしい狼男を見て、テミッドは俺たちに気づいたらしい。そこには先程までとは違う、いつものテミッドがいた。
「……伊波様、大丈夫……?」
「俺は大丈夫だけど、テミッド、さっきの傷は……」
「ぼくは、大丈夫……です、これくらいなら……全然……」
そうはいうものの、大きく裂けた制服、その腹部は赤黒く変色していた。
ただでさえ死体のような顔色のその顔が余計青く見え、本当に大丈夫かと聞こうとしたときだ。
後方で、複数の足音が響いた。
テミッドと黒羽は、俺を庇うように立つ。
「なんだあ?すげえ音したと思ったら、なんで人間様がここにいるんだよ」
ぞろぞろと現れた連中は獄吏とは違う。
到底人間には見えないような様々な種族の者が、そこにはいた。
そして連中に共通しているのは、明確な『敵意』だろう。
今の咆哮で近くにいた囚人たちが集まってきたらしい、向けられる無数の目に、俺は、全身から嫌な汗が滲んだ。
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