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09※

無闇に動かない方が良い。 ホアンはそう言ったし、それは確かに俺も同意なのだけれども。 「……黒羽さん、大丈夫かな」 すっかりぬるくなった水の瓶を抱き締める。 俺は懐中時計を取り出し、今の時刻を確認しようとする。そこで、異変に気付いた。 「な、なんだこれ……っ!」 懐中時計の蓋を開けばその盤の上で、時計の針の部分がぐるぐると回転し続けるのを見て血の気が引いた。 何事アルかとこちらを覗き込んでいたホアンは、異様な光景を見て「アー」と納得するように口にする。 「マオの仕業アルネ、完全に」  「ど、どういうことだ?!もしかして俺の知らない間に時間がめちゃくちゃになってるってこと……?」 「まあそんなに気にすんなアル。マオはああだけどやつは幻術に関しては無駄に長けてるアル。その影響で時計や現実を映し出すものが機能しなくなってるアルネ」 「それってやばくないか……?」 「是的」 「っお、おい!」 当たり前のように頷くホアンにそこ認めちゃうのかよ!と突っ込みそうになるが、逆にいつもと変わらないホアンにこちらまで落ち着いてくる。 「こうなったらどうしようもねーアル。外の人たちが阿拉たちがいないことに気付いてなんとか現実世界のマオを懲らしめてくれるのを待つしかないアルヨ」 「そ、そんなの……いつになるんだよ……」 「阿拉に聞くなアル」 そ、そういうところだぞホアン! 開き直りというか肝が据わってるというか、もしかしたらホアンもこの状況に慣れているのだろうか。 それともこの気の長さは妖怪だからこそなのか。 「……黒羽さん」 大丈夫だろうか、と懐中時計を握り締める。この時計を手にして強く念じれば俺を守ってくれるはずと黒羽は言っていたけど……。 以前のような光は感じない。やはり状況が状況だから効かないのか、それとも俺の念じ方が足りないのか。 もしくはその両方か。うんともすんともいわないその時計に、俺はしょんぼりしながらそれを仕舞った。 「やっぱり、ひたすら待つしかないのか……?」 「幻術は深みに嵌まれば嵌まるほど相手の思う壺アル。こういうのはひたすら耐え忍ぶアルネ」 「なんか、経験者みたいな言い方だな……」 「マオの幻術はよくあることアル。他人に幻術掛けて食い逃げなんて日常茶飯事アルヨ」 「よ、よく出禁にならないな……」 「できるものならしたいアルヨ。けど出禁にしても別人のフリしてやってくるし無駄アル、阿拉はもう諦めてるアルネ」 そう、階段の段差に座り込むホアンはやれやれと肩を竦める。 こういうの、なんていうのかな。なんだかんだホアンたちもマオと険悪ではないようだし、近所のいたずら小僧みたいな扱いなんだろうな……。 俺はホアンの隣に腰を下ろす。 持久戦。とは言ったものか。 黒羽のことは心配だが、心配すればその心の弱みに付け込まれる。そうホアンは言っていた。 ならば黒羽たちを信じて待つしかない。 ただでさえ過保護な黒羽のことだ、俺がすぐに戻らなかったら異変に思うだろう。 ……心配なのは、酔いが悪化してないことなのだが。 「……お腹減ったな」 「その水飲んじまえばいいアル」 「駄目だって!これは黒羽さんに……」 「そうアルカ?ヨウが平気ならそれでも良いアルが、後から辛くなっても知らんアルよ」 「う……」 「本当にヨウは黒羽サンが好きアルネ~」 そう言葉にされると照れ臭くなってくる。 無言で瓶を抱き締めれば、隣でホアンが喉を鳴らして笑う。 呑気というか、ここに来てからマイペースな妖怪たちに囲まれてるせいか俺が考え過ぎなのかと思えてきた。 けどやはり黒羽と別れるとそわそわして落ち着かない気分になるが、最早性分に近い。 と、そんなことを話してると不意にお腹がキュルルルと鳴り出した。慌てて抑えたのだが、バッチリホアンに聞かれていたらしい。 目を丸くしていたホアンは、「ヨウは大物アルネ」と笑う。 「うう……笑うなよ」 「そんなに腹減ってたアルか。そういやあの場でも黒羽サンが飲んでただけアルもんな」 「……一応夜ご飯は食べてたんだけどな……やっぱり時間経つとお腹減っちゃうな」 「人間ってのはつくづく不便アルネ」 「ほ、ホアンだって元人間なんだろっ?」 俺の持ってる精一杯のキョンシーの知識を駆使してホアンに聞いてみれば、ホアンは「是」と頷いた。 「とはいえ生きてるときのことなんか覚えちゃいないアルよ。死んでからの方が長いとどうでも良くなるアル」 「そういうもんなのか?」 「そういうもんアル。ヨウだってこれからずーーっと魔界にいるならそのうち人間界で生きてた十数年ぽっちのことなんてあっという間に忘れるアルヨ」 「……それは……なんか、寂しいな」 人間界で最後の一日を過ごしたとき、ずっと忘れないようにと友達や家族の顔を目に焼き付けてきたつもりだった。今でも思い出せるが、それも数年も経てば薄れていくと思うと心細くなってくる。 時間を潰すためだとはいえ、考えただけで気分が落ち込む話題だった。 「寂しいアルか?」 「ホアンは寂しくないのか?家族の顔とか、友達の顔とか忘れたら」 「それも最初だけアル。きっとヨウもその内気にならなくなるアルヨ」 前にホアンの年齢聞いてから驚いたことがある。ホアンのように三桁も妖怪として生きていると思考も変わってくるのだろう。俺もこの先ずっとここにいるのだろうか、なんて考えるとなんだか寂しくなってくる。 ここ最近はホームシックなんてなる暇ないくらいバタバタしてたからか、こうしてホアンと話してると家族の顔が浮かんでじわっと目の奥が熱くなる。 「ちょ、泣くなアル!」 「な、泣いてないから!」 「ズビズビ言いながら言う台詞アルか!腹減ってるから情緒不安定になるアルヨ、我慢しないで水飲むアル」 「えう……黒羽さん……」 「これだからお子様は困るアルネ~」 「お、お子様じゃないって言ってるだろ……!」 黒羽さんだったらすぐ慰めてくれるだろうに、この男は慰めるどころか追い打ちを掛けてくる。 「ハイハイそうアルネ」とか言いながら俺から瓶を取り上げたホアンはそれを器用に長い爪で開け、俺に返した。 「幻術が解けたらもう一本黒羽サンに渡せばいいアル」 「……そうする」 「ごねた割にあっさりと受け入れるアルネ」 「悪かったな、意思弱くて!」 「違うアル。素直な方が可愛げがあっていいアル」 可愛げって、ますます子供扱いされてる気がしてならないんだが……。 ニコニコ笑いながら眺めてくるホアンを睨みつつ、俺は瓶の口に口付ける。 そのままいっぱいに入った水をぐっと喉の奥に流し込んだ。 水に味なんてないと思っていたが、空腹にその水は染み渡る。 ……美味しい。そう感じるのはこの状況だからか、階段を上がりすぎて疲弊した体にはぬるさすら心地良く感じた。 「いい飲みっぷりアルネ」 「ホアンも、飲む?」 「不要了。ヨウが飲めアル」 「ん……そっか、そうする」 そもそもキョンシーって何食べるんだろう。 ホアンとは結構話すことは多くなったが、この店以外で会うことはあまりないので働いてる以外のホアンは初めてあったときぐらいか。 「そういやホアンとテミッドって仲良いよな。……なんか、珍しい組み合わせっていうか……」 「そうアルか?阿拉もテミッドも似た者同士だからウマが合うアルヨ」 「ええっ?似てはないだろ!」 「ヨウはおこちゃまだからわかんね~アル」 「何をっ!」 なんて話しながら水で腹を満たしていく。 ……喉の乾きは潤うが、やはり固形物が恋しくなるというか……。 「……いつになったら帰れるのかな」 「ヨウ……」 「黒羽さん、もしかして酔っ払って寝ちゃってないかな……」 「正直、あれだけの酒を呑んで意識保ってられる方がすごいアルヨ」 「う……やっぱり……」 「けど、トゥオも玉香もいるアル。マオのことよく知ってるあの二人ならすぐ勘付くアルヨ」 「だと良いけど……」 どれくらい時間が経ったのかもわからない。マオに会ってなんとかしてもらうよう詰め寄った方がいいんじゃないかとも思えてくる。 ホアンの言う通り、空腹のせいで余計不安が煽られてるのだろうか。水もいつの間にかに空になっていた。あとはもう何もない。手持無沙汰の俺は空瓶を膝に乗せて弄んでいたが、それにも飽きてくる。 話題にも尽きた。いや、ホアンは喋ったら答えてくれるのだろうが俺の方が話す気分じゃなくなってるのだ。 寂しさや焦燥感とは違う、また別のものがふつふつとお腹の奥から込み上げてくるのを感じた。 この感覚には身に覚えがある。だからこそ、焦った。 「……ほ、ホアン……どうしよう」 「今度は何アルか」 頭一個分高いところから切れ長の目で見下されれば、じぐりと腹の奥が熱くなる。俺は、込み上げてくるそれを必死に抑えるため、膝と膝をくっつけてなんとか下腹部に力を込めた。 滾るように熱くなる血。そして、震える指先でホアンのチャイナ服の裾を引っ張った。 「…………トイレ行きたい」 「なっ、トイレって……まさか……冗談はやめろアル!何言って……」 「こ、こんな状況でこんな冗談言うわけ無いだろ……!」 「はぁ〜〜……っ」 な、なんでホアンの方が溜息つくんだよ……!俺の方が嘆きたいのに……! 恥を忍んで助けを求めただけに余計死にたくなってくる。 なんだか泣きたい気持ちでいっぱいになる俺に、呆れたような、困惑したような顔をするホアンが見てくる。 「ヨウ……あとどれくらい我慢できるアルか?」 「あ、あと……三分……」 「三分……」 珍しく真剣な顔をするホアン。 確かに俺だって一緒にいるやつが漏れそうと騒いでたらまじかよ!ってなるけど、そんなに嫌なのか。 いや、でも嫌だな……そうだよな……そりゃ嫌だわ、他人が漏らしてるの見て喜ぶやつなんてどこぞの元獄長くらいしかいない。 何やら考えていたホアンだったが閃いたらしい、パンと手を叩いた。そして、 「マオをぶっ捕まえてくるアル」 「えっ、できるのか?!」 「そうするしかねーアルしな、けど、ここから抜け出す前に限界がきたら……」 「げ、限界がきたら……?」 「これに出すアル」 『これ』とホアンが示したのは水が入っていた瓶だ。 声のトーン落とすホアンに何を言い出すかと思いきや、本当に何を言い出すんだこの男は。 ボトラーよろしく、ある意味し尿瓶ではあるが、だからってそれは流石にどうなのか。 「こ、これに出せって……」 「いいアルネ、そうしねーと大変なことになる困るアル」 確かに漏らした時点で俺自身がすでに大変なことになってるわけだが、ホアンが危惧してるのはなんだか別のところにあるような気がしてならない。 ホアンの気迫に押し負け、俺は「わかった」と頷いた。 待った俺、わかったってなに?正気か俺? 「好的!あ、あとちゃんと蓋で栓するアルよ」 「わ……わかった……!」 「……ならいいアル。それじゃあ、少しの間ここで待つよろし」 そう、立ち上がるホアンは階段の上を登っていく。 その後ろ姿を眺めながら、俺は瓶を見詰めた。反射して映るのはなんとも情けない自分の顔だ。 ……本当は一緒に行きたかったけど、いまの俺がついていったところで足手まとい確定だ。それに、ホアンが嫌がるだろう。 頭では理解してるつもりだが、それでもやっぱり心細いと思うのはホアンの言うとおり俺が子供だからなのだろうか。 やがて、ホアンの足音が聞こえなくなる。 おかしい。そう思ったが、そもそもこの状況自体がおかしいのだ。 きっと、すぐにホアンが幻術も解いてくれて、元いた刑天閣に戻れるはずだ。そう思うことでしか安心できない。 ホアンの気配が消えると同時に不安と尿意が同時に襲いかかってくる。 ホアンが戻ってくる前に出していた方がいいのだろうか。 そんなこと言ってる場合ではないほど限界がすぐ側にまで来てるのはわかった。わかってるけど、人としての挟持とかそんなものが邪魔をする。 「……ん……っ」 もしかしたら、我慢したらそのうち尿意がどっか行ってくれないだろうか。そう思ったけど、時間が経過すればするほど下腹部が張るような、そんな息苦しさすら覚えてくる。額に汗が滲む。やばい、本格的にやばい。少しでもお腹を押されたら衝撃で漏らしてしまいそうだ。 我慢、しないと。ホアンが嫌がる。けど、でもしたい。 出したら絶対気持ちいい。でも。ホアン。こんなところでできるか。でもでも。 出したい、今すぐ腹に溜まったこれを全部吐き出して楽になりたい。生理現象相出に我慢なんてあったもんじゃない。頭はすぐに尿意に支配される。 考える余裕もなかった。下腹部、ウエストを引っ張って履いていたパンツから下着を取り出そうとしたとき。 「ほうほう、曜君の下着はグレーなんだね」 俺のすぐ足元、いつからいたのか胡座を掻いて座り込んでいたマオに驚きすぎて若干漏れそうになる。 慌てて下着をずり上げようとしたとき、伸びてきた手に腕を掴まれ制される。 「は、な、せ……っ」 「そんな釣れないこと言うなよ[D:12316]。ほら、おしっこ漏れそうなんだろ?我慢せず出しちゃいなって、ここで」 「な、なんで……っ」 「そりゃなんでも知ってるさ。だってオレ、ずーっとここにいたもん」 悪びれもせず、大きな目を細めて笑うマオ。するりと伸びてくる指、その長い爪で下着を摘まれ、腰が震える。 「離して」とマオの腕を振り払おうとするが、この男はなよなよしてそうなくせして馬鹿力だ。 身動き取れない俺をいいことに、マオは「ん〜曜君の香りがする〜」なんて言いながら人の股間に頬ずりをしてくる。 「や、やめ……っマオ……っ!」 「我慢は体に毒だって知らないのか?ほら、出しちゃいなって。今なら、ホアンの野郎もいないんだから」 その言葉に、はっとする。 そうだ、ホアンの気配が消えたのはもしかしなくてもこいつのせいではないのか。 「ホアンは、ホアンはどこに……」 「さぁ?どこだと思う?ここはオレの腹ン中同然だからさ、わかんないんだわ。もしかしたら気づかない内に排泄しちゃったかもしんないし?」 「んな……っ!ふざけ……んんっ!」 マオの髪を引っ張って頭をどかしてやろうとした矢先のことだった。呆気なく俺の下着から性器を取り出したマオは、転がっていた瓶を手にする。 今最も敏感な部分に触れる指に驚くのも束の間、取り出したその萎え切った先端部に瓶の口を押し当てる。 「な、や、め……ッやめろ……っ」 「ほらほら、もうこっちは準備万端だぞ、いつ出してもオレが曜君のおしっこ受け止めてあげるからな」 「なに、言って……この……ッ!」 全身に力を入れ死ぬ気で堪える。けれど、腹の中でぐるぐると回るその尿意は確実に悪化しては俺を蝕んでいく。嫌だと引き離そうとしたとき、性器を掴んでいたマオの指先が先っぽに触れた。そして、長い爪で優しくその尿道口をくすぐられた瞬間、全身の血が滾るように熱くなる。 「ぁ、や、め……だめ……やめてマオ……っ!」 「お?曜君はここが弱いのか?」 「ぁ、あ……っうそ、だめ、だめ、いやだ、マオっ」 触れる部分が爪先から指の腹に代わったとき、窪みを穿られるような感覚にぞくりと全身に電流が走る。 瞬間、頭の中が真っ白になった。

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