109 / 126
10
夢を見た。
全部が夢だった――という内容の夢だ。人類サンプルに選ばれたことも、死神の和光に出会ったことも、魔界に来たことも、黒羽や巳亦、テミッドたちと出会ったことも全部夢で、夢の中で俺は目を覚まして以前と変わりない生活を送っていた。
「おはよう、曜。弁当はそこに用意してるからね」
「曜兄ちゃん、寝癖だ! 変なの!」
「兄ちゃん、リボン結んで!」
「曜、そんなにゆっくりでいいのか? 遅刻してもしらないぞ」
母、幼稚園にあがったばかりの双子の兄妹、父が俺へと声をかけてくる。夢の中の俺は笑っていた。そして、“俺自身”はそんな俺をただ俯瞰で見ていた。
もう帰れないのだと分かっていた、覚悟もしていた。……だからだろう、こんな夢を見たのは。
『あの頃に戻りたいか?』
不意に、頭の中に聞いたことのない声が響いた。耳障りのいい男の声だ。甘く、蠱惑的な色すらあるその声は再び俺に問い掛けてくる。
『ここでは愛しい家族と生きられる。……叶えられない願望なんてない、終わりもない幸せな世界だ。お前は本心では望んでたんだろう、これを』
――望んでいた。
けれど、それは最初の話だ。俺はもう、俺の中で踏ん切りを付けた……付けたはずなのだ。
『ならなんでこんな夢見るんだろうな? それはまだ、お前自身が望んでるからじゃないか?』
なにも言い返せなかった。
『……お前は目を覚まさなくていい、ずっと、好きなだけここにいたらいい。誰にも邪魔されない幸福の中で生きていくんだ』
悪魔のような囁きだった。
――確かに、魅力的だ。揺らいでいた。そう、以前の俺だったらだ。
「……っ、なみさま……」
頭の中、響く声にほんの一瞬世界にノイズが走る。
家族たちの顔が蝋人形のようにどろりと溶け出し、そして、あんなに明るかった世界が絵の具の色が混ざるように歪んだ。
――黒羽さんの声だ。黒羽さんが俺を呼んでいる。
……起きなければ。
『……つまんねえやつ』
俺の幸せは俺が決める。
今更過去にすがりつくつもりも、このまますべてを投げ捨てて逃げるつもりもないのだ。
その俺の声が声の主に届いたのかどうかはわからないが、それでも意識は次第に覚醒していった。
そして。
「っ、伊波様ッ!!」
「わっ」
耳元で名前を呼ばれ、強く身体を揺すられる。その音圧に驚いて飛び上がれば、目の前には血相を変えた黒羽がいた。
「く、ろはさん……?」
「……っ、良かった……伊波様……っ!」
「ど、どうしたの……? なにかあったの……?」
声を出そうとすれば、ひどく掠れた声が出てしまう。
見たところ部屋が荒らされてることもない。が、部屋の中には黒羽以外にも見知った顔があった。アヴィドとニグレド、そしてテミッドがそこにいた。ベッドの側、なかなかに寝起きには濃いメンバーに覗き込まれていた事実に一気に頭が冴えてきた。
起き上がろうとしたら全身の関節がひどく痛んだ。節々が硬い。
「君は丸々三日眠ってたんだ」
何事かと狼狽える俺に応えるのはアヴィドだ。
思わず「三日?」と声を上げてしまう。
「ああ、三日だ。……見たところ外傷もなにもないようだが、君は夢を見てたんじゃないか?」
アヴィドに指摘され、俺は夢の中の声を思い出した。
「確かに……見ました。それと、変な声が聞こえて」
「起き抜けのところ悪いが、詳しく聞かせてもらっていいか?」
「わ……わかりました」
差し出される水を受け取り、カラカラに乾いていた喉を潤す。それから俺はアヴィドたちに夢の内容、そしてその中で聞いた奇妙な声について説明した。
静かに聞いていた黒羽たちだったが、声のことを話した途端その目つきが変わった。
「夢魔の仕業だな」
そう口にするアヴィドに、室内の気温が僅かに下がったような気がした。
ともだちにシェアしよう!