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 夢を見た。  全部が夢だった――という内容の夢だ。人類サンプルに選ばれたことも、死神の和光に出会ったことも、魔界に来たことも、黒羽や巳亦、テミッドたちと出会ったことも全部夢で、夢の中で俺は目を覚まして以前と変わりない生活を送っていた。 「おはよう、曜。弁当はそこに用意してるからね」 「曜兄ちゃん、寝癖だ! 変なの!」 「兄ちゃん、リボン結んで!」 「曜、そんなにゆっくりでいいのか? 遅刻してもしらないぞ」  母、幼稚園にあがったばかりの双子の兄妹、父が俺へと声をかけてくる。夢の中の俺は笑っていた。そして、“俺自身”はそんな俺をただ俯瞰で見ていた。  もう帰れないのだと分かっていた、覚悟もしていた。……だからだろう、こんな夢を見たのは。 『あの頃に戻りたいか?』  不意に、頭の中に聞いたことのない声が響いた。耳障りのいい男の声だ。甘く、蠱惑的な色すらあるその声は再び俺に問い掛けてくる。 『ここでは愛しい家族と生きられる。……叶えられない願望なんてない、終わりもない幸せな世界だ。お前は本心では望んでたんだろう、これを』  ――望んでいた。  けれど、それは最初の話だ。俺はもう、俺の中で踏ん切りを付けた……付けたはずなのだ。 『ならなんでこんな夢見るんだろうな? それはまだ、お前自身が望んでるからじゃないか?』  なにも言い返せなかった。 『……お前は目を覚まさなくていい、ずっと、好きなだけここにいたらいい。誰にも邪魔されない幸福の中で生きていくんだ』  悪魔のような囁きだった。  ――確かに、魅力的だ。揺らいでいた。そう、以前の俺だったらだ。 「……っ、なみさま……」  頭の中、響く声にほんの一瞬世界にノイズが走る。  家族たちの顔が蝋人形のようにどろりと溶け出し、そして、あんなに明るかった世界が絵の具の色が混ざるように歪んだ。  ――黒羽さんの声だ。黒羽さんが俺を呼んでいる。  ……起きなければ。 『……つまんねえやつ』  俺の幸せは俺が決める。  今更過去にすがりつくつもりも、このまますべてを投げ捨てて逃げるつもりもないのだ。  その俺の声が声の主に届いたのかどうかはわからないが、それでも意識は次第に覚醒していった。  そして。 「っ、伊波様ッ!!」 「わっ」  耳元で名前を呼ばれ、強く身体を揺すられる。その音圧に驚いて飛び上がれば、目の前には血相を変えた黒羽がいた。 「く、ろはさん……?」 「……っ、良かった……伊波様……っ!」 「ど、どうしたの……? なにかあったの……?」  声を出そうとすれば、ひどく掠れた声が出てしまう。  見たところ部屋が荒らされてることもない。が、部屋の中には黒羽以外にも見知った顔があった。アヴィドとニグレド、そしてテミッドがそこにいた。ベッドの側、なかなかに寝起きには濃いメンバーに覗き込まれていた事実に一気に頭が冴えてきた。  起き上がろうとしたら全身の関節がひどく痛んだ。節々が硬い。 「君は丸々三日眠ってたんだ」  何事かと狼狽える俺に応えるのはアヴィドだ。  思わず「三日?」と声を上げてしまう。 「ああ、三日だ。……見たところ外傷もなにもないようだが、君は夢を見てたんじゃないか?」  アヴィドに指摘され、俺は夢の中の声を思い出した。 「確かに……見ました。それと、変な声が聞こえて」 「起き抜けのところ悪いが、詳しく聞かせてもらっていいか?」 「わ……わかりました」  差し出される水を受け取り、カラカラに乾いていた喉を潤す。それから俺はアヴィドたちに夢の内容、そしてその中で聞いた奇妙な声について説明した。  静かに聞いていた黒羽たちだったが、声のことを話した途端その目つきが変わった。 「夢魔の仕業だな」  そう口にするアヴィドに、室内の気温が僅かに下がったような気がした。

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