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「夢魔って……」
凡そ漫画やアニメでくらいしか聞かない単語だ。しかも、その詳しい詳細すらわからず尋ねれば、ニグレドはそんなこともわからないのかと呆れたような顔でこちらを見るのだ。
「夢魔というのは他者の夢の中でしか粋がれない下等かつ下劣な悪魔を言う。またの名を……」
「インキュバスとも言うね〜!」
そう、その場にはそぐわない程の明るい声が響き渡る。いつの間にかにアヴィドの肩に留まっていたその水色の蝙蝠は俺の目の前まで羽を羽撃かせてやってくる。
この声は、
「クリュエル……?」
名前を呼んだ次の瞬間、パステルカラーのカラフルな煙とともにぼむ、と視界が眩む。そして、ずしりとした重みが膝の上に乗った。
「曜君、やほ〜〜っ」
厭な予感がしたときには遅い。いつもの人の姿に変身したクリュエルに抱きつかれそうになるよりも黒羽がクリュエルの首根っこを掴み引き剥がす方が早かった。
「ちょ、ちょ、ちょっと〜〜! 僕まだなにもやってないんですけど〜〜!!」
「やろうとしていただろうが痴れ者がッ!! その手に持ってるものはなんだ!!」
そうクリュエルから取り上げた蠢く縄を手に黒羽がキレていた。いや本当になんなんだ。まさか初手人を縛りあげるつもりだったのか。
「いやはや済まない。……こいつにはしっかり俺の方から灸を添えておこう」
アヴィドに捕縛されたクリュエルは嫌だ嫌だー!!と喚いていたが、やがて何かを思い出したようだ。「あっ! そうだ!」と声をあげた。
「てかてかっ! 確かに僕たちの中には夢の中に入れるやつもいるけど、そんなこそこそした真似するのなんて下級も下級。雑魚くらいだよ〜!」
「この学園にもインキュバスは少なくはない。それに、クリュエルの行動は俺も把握しているが今回の件は他のインキュバスが関与してる可能性はあるだろう」
縛られたままぷんすかと怒るクリュエルの隣、アヴィドはあくまで冷静に返す。
確かにこれだけたくさんの種族が収容された施設なのだ、おかしなことはないが、なんだか不思議な感じだった。
「それで、この寮に生徒としているのか? そこの水色の痴れ者を除いた夢魔とやらは」
「いるにはいるが……いや、『いた』と言った方が適切だろうな」
黒羽の問い掛けに、アヴィドは言葉を選んでいる様子だった。
というよりも、なんだか引っかかるところがあるのだろう。ニグレドもなんだか眉根の皺が深くなっている。
そんなに言い出しにくいことなのだろうか。
「……彼は元々地下監獄に入れられててね、それでこの寮に汚名を塗ったということで除籍されて最下層のF館に堕ちたはずだ」
「なら、もうここにいるはずはないってことですか?」
「ああ、そういうことだ。……このSSS館のセキュリティは完璧――……のはずだった、が……」
言い掛けて、アヴィドの視線がこちらを向く。顎を擦り、何かを考えてるようだ。
「俺が不在のときのハウスメイドの暴走の件、ニグレドから聞かせもらった。……どうやら、この寮に招かざる不届き者が忍び込んでる可能性は高いようだ」
「それに、また地下監獄絡みになるとヴァイスが絡んでる可能性は大いにあるだろう」
黒羽の言葉に「そういうことだな」とアヴィドも同調する。その言葉に、空気が変わるのが分かった。
「これは由々しき自体だ。この寮だけの問題ではない。……これは、魔王様の沽券に関わる問題だ」
システムの穴は大きさ関係なくこの収容施設に置いて重要な問題になるのだろう。
部屋の空気がずんと重くのしかかってくる。
「ん〜〜んじゃとにかく、そのインキュバスをとっ捕まえてみたらいいんじゃないかな? どうせ雑魚だろうからなんとかなるよ!」
そんな重い空気の中、クリュエルはぴょんと跳ねる。「ねー、曜君っ」と両サイドのポニーテールをしっぽかなにかのようにゆらゆらと揺らしながら話を振ってくるクリュエル。
まさかこちらに振ってくるとは。
「でも、確かに……もしかしたら俺がもう一回寝たらまた夢の中で……」
「駄目だ」
……即答だった。まだなにも言っていないのに。
怖い顔をしてこちらを見る黒羽はもう一度念押しをするように「駄目だ」と口にした。
「く、黒羽さん……俺まだなにも言ってない……」
「言わずとも伊波様の考えは分かる。自身を囮にするなどと考えてるだろう」
「う」
「そのような危険な真似は許可しない。もし下手したら――」
「じゃあさ、僕も一緒に曜君の夢の中に入るよ」
それは思いもよらなかった提案だ。
俺も、黒羽も、ニグレドも。先程から話に入れずあわあわとしてたテミッドも驚いている。
ただ一人、アヴィドは「なるほど」と頷いた。
「クリュエルと俺ならば夢の中からでも通じることは可能だ。なにか本体の手がかりでも掴めれば外部でも動きやすくなる」
「待て、淫魔二匹と伊波様を同じ空間に閉じ込めるつもりか?」
「ああ、クリュエルはこう見えて上位インキュバスだ。魔力に関しては俺が保証する」
「そういう問題ではない、伊波様に危険な真似をさせるわけにはいかないと言ってるのだ」
黒羽は黒羽で俺のことを心配してるということは分かってる。けれど。
「――黒羽、この状況下最優先すべきは不穏分子を排除することじゃないか」
「それは……」
「このまま放っておけば穴は防ぐこともできないくらいに広がる。そうなると、我らが魔王の理想は崩壊する。……黒羽、アンタはそれを邪魔するつもりなのか?」
「その一人の少年のために」アヴィドの言葉は酷く冷たく、淡々と響いた。
その問いかけに黒羽はほんの一瞬口籠る。
――……黒羽さんが迷ってる。
元はと言えば、黒羽は和光やまだ見ぬ魔王の命令のために俺の側にいてくれるようになったのだ。同じ魔王からの命で動く管理者側のアヴィドからしてみれば、黒羽の言葉は離反と取られかねない。
そう考え、背筋がうっすらと冷たくなる。
俺は自分のせいで黒羽が裏切り者扱いされるのだけは嫌だった。
ならば、俺がすべき選択は一つしかない。
「黒羽さん、俺、大丈夫です。できます」
「っ、伊波様……」
「三日くらいは眠っちゃうかもしれませんけど……ほらさっきも起きれましたし、それに、一人と違ってクリュエルがいるなら心細くないですし」
「そーそー! 僕がいると寂しくならないよ〜!」と縄に縛られながらもうんうんと相槌打つクリュエル。
黒羽の隻眼はただ俺を見る。
怒ってるのだろうか、それともまだ迷ってるのか。黒羽が優先すべきものなど最初から決まってるだろうに、まだ秤に掛け兼ねているのだと思うとこんなこと考えてる場合ではないとわかってても嬉しかった。
「だから、心配しないでください。……絶対その人捕まえて戻ってきますんで」
「伊波様……」
俺にはこう応えることしかできないが、安心させるための方便ではない。俺だって守られてるだけでは性に合わないのだ。何か少しでも役に立てられるのならば、と黒羽をじっと見上げれば、目を瞑り苦悶の表情を浮かべていた黒羽はゆっくりと口を開く。
「――クリュエル、伊波様のことを頼んだぞ」
ゆっくりと開いた隻眼には諦めたような、歯痒さが色濃く滲んでいた。まだ納得しきれていないのだ。それでも俺を、俺達を信じることを選んでくれた黒羽が嬉しくて。
クリュエルの捕縛が解かれ、「まっかせてよクロちゃん!」とぴょんと跳ねるように黒羽に抱き着こうとしていたクリュエルは捕縛されていた。
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