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05

 五十嵐の腕から逃げた俺はそのまま走り出す。  逃げないとやばい。五十嵐もだが、俺がだ。  前々から、場の空気に流されてしまう感じはあった。女の子に「好きだ」と言われたら、前までは特に気にしてなかった子が急に可愛く見えてきたり、「リーダーはお前だ」と言われればやる気になってきたり。  そしてなんだ?今度は「脱処女させてやろうか?」と囁かれれば「じゃあ頼むわ」ってなるのか?冗談ではない。  自分の顔面を思いっきり引っ叩く。痛い。じんじんと痺れる頬を抑えながら、俺は、五十嵐が追いかけてきていないことを確認した。  あの男のことだ、もしかしたら俺がノコノコ戻ってくるなんていう訳のわからない自信を持ってるかもしれない。  そう考えた今になってムカムカしてきた。 「……最っ悪だ」  シャツの前を閉めながら、息を吐く。  俺は、認めたくないが、残念ながら身体は正直なようだ。  下着の中の嫌な違和感を感じながら、一旦トイレに逃げ込むことにした。  下着は汚れるし岩片はあんな調子だし、五十嵐はいけ好かないし、最悪だ。  男子便所、個室。  水の流れる音を聞きながら、俺は一度部屋に戻ることにした。今はとにかく、こう、触られた感触とか汗とか体液的なものを洗い流したかった。  学生寮へ戻ってきたとき、なんだかロビーは騒々しかった。  柄の悪い連中がなんか声を上げて騒いでる。  よりによってこのタイミングで賑わってるロビーにちょっとヒヤッとしたが、無視すれば問題ない。最短ルートで部屋に戻ろうと一歩踏み出したときだった。 「おう、尾張! 今帰りか?」  なんでこうも俺の思い通りにならないのだろうか。笑顔で手を振ってくる担任・もとい宮藤雅巳に、嫌な汗が滲む。  笑顔のマサミちゃん程ろくなことはない。そう俺の意識に刷り込まれてるせいかもしれない。  どうしてこうもさっさと帰りたいときに限って次から次へとやってくるのだろうか。  おとなしく誰にも会わずに帰りたいと願うからか、そうなのか。  ……しかし、宮藤にはなんの罪もない。 「マサミちゃん、何、どーしたの?」 「いや、どうってわけじゃないんだがな……岩片に会わなかったか?」 「会ったっていえば、会ったけど……」  また厄介ごと押し付けられるのだろうかと思ったが、どうやら違うみたいだ。  思い出したくないことまで思い出してしまい若干テンションが下がるが、宮藤はそんなことお構いなしに「本当か?!」と俺の肩を掴んできた。 「わっ、ちょ、マサミちゃん……」 「お、悪い、なあどこで会ったんだ?」 「ふ……風紀室だけど……もうどっか行ってると思うぞ」 「そうか! ありがとな、尾張!」  余程尻尾が掴めなかったのか。神出鬼没なやつには俺も困らされたことがあるので、宮藤には同情した。  が、それよりも気になることがあった。 「あの……岩片がどうかしたのか?」  教室では岩片の無断欠席も気にしていなかったというのに、今になって探すという宮藤の行動からして嫌な予感しかしないが……。  宮藤は少しだけ困ったようにボリボリと頭を掻き、それから俺をみた。 「あーいや、なんつーか、そうだな……ちょっと面倒なそとになってるみたいでなぁ」 「面倒?」  いつものことじゃないのか、と言い掛けて、言葉を飲む。普段から腰の重い宮藤を立ち上がらせるまでの面倒ごととなると、マジで面倒臭そうだ。冷や汗が滲む。 「まあ、見たらわかると思うが岩片に会ったら自室にはまだ戻るなよって伝えといてな」 「……りょーかい」  というわけで、口にするのも憚れる程面倒なのか、宮藤はそれだけを言えば風紀室に向って走り出す。  宮藤が走ってるところ、初めて見た……。  が、そんなことに感動してる場合ではない。  部屋に帰ってさっさと休みたい俺は、宮藤の不穏な言葉の真偽を確かめるために自室へと戻ることにした。  相変わらずくせーしきたねーしゴミが散らかった学生寮内通路。今日は一段と酷かった。 「あー……」  ゴミだけならまだいい。無視するか避ければいい話だ。けれど、今俺達の部屋の前にいるのは明らかに人の形をしたそれだ。  扉の真ん前にたむろして煙草吸っては辺りに吸い殻を散乱させるそいつらに、正直俺は頭が痛くなってきた。  どう見ても話が通じなさそうな感じの連中だしなんだよこれ、岩片どころかこれじゃ俺も戻れねーだろ。  正直誰とも顔を合わせたくない俺にとって、これ以上にない難関でしかない。おまけに、腕力で突破しようにもこの人数じゃ一筋縄にはいかないだろう……。  どうしたものかと考えていたときだ。 「随分と憂いてるようだけど、どうしたんだい? 子鹿ちゃん」 「おわッ!!」  いきなり項をすぅっとなぞられ、飛び上がりそうになる。というか実際二センチくらい飛んだ気すらする。  慌てて振り返れば、そこには甘いマスクの金髪碧眼の優男もとい風紀副委員長様がそこにはいた。 「かっ、かん、寒椿……ッ!!」 「嬉しいな、僕の名前を覚えてくれたんだね。けれど、どうせ呼ばれるのなら下の名前を呼んでほしいな。僕の名前は深雪だよ……み・ゆ・き、さぁ、その可愛い唇で呼んでくれ」  こいつの戯言はともかくだ、何故こいつがここにいるのか分からず目を白黒させていると俺の思案を汲み取ったようだ。寒椿は「野辺ならいないよ」と俺が問いかけるよりも先に答えてくる。 「え」 「僕といるときに他の男のことを考えるのはショックだけど、そうだね、ここにいるのは僕と君だけ。二人きりというわけさ」 「どうだい?」と詰め寄ってくる寒椿から三歩後退る。  どうもこうもないだろ。  そもそもあそこにいる吹き溜まりは人数にいれていないのか。 「な、なぁ……なんでここにいるんだ?」 「それは君の匂いが……」 「そういうのじゃなくてさ、もしかして……あれもあんたの仕業か?」  考えたところで寒椿の考えを理解出来る日はこない。  俺は単刀直入に聞いてみることにした。自室の扉の前、座り込んでは騒いでる輩を指差せば、寒椿は「んー」と悲しそうに眉根を寄せる。 「……君は僕とあの輩が繋がっているとでも思ってるのかい?だとしたら心外だな。僕の繊細なハートが傷付いてしまいそうだよ。君も彼と同じことを言うんだね」 「彼……?」 「宮藤ティーチャーだよ。ティーチャーも僕に『またお前らか?!他の生徒から苦情がめっちゃ入ってんだが?!』って掴みかかってきたんだ……ああ、僕がそんなことをするはずがないのに……君も、君もそうなのかい?僕がそんなことをするような人間に見えるというのかい?」  そう目をうるうるさせる寒椿だが全くもって可愛くない。  ……が、嘘はついていないようだ。鬱陶しいので俺は「わかった、信じる信じる」と寒椿を引き剥がした。 「……でも、だとしたらあいつらは余計なんなんだよ……」 「あそこは君の鳥かごなのかい?」  部屋って言え。 「ああ、けど……あの始末だよ。疲れたからさっさと帰ってきたのに……」 「そうか……それは災難だったね」  一人や二人ならともかく、数十人もいれば諦めるしかない。ここまで無駄足だったが、仕方ない。未来屋のような変態臭い医者がいる保健室には世話になりたくなかったが、あそこに頼るしかないようだ。そう考えたときだった。  いつの間にかに、隣にいた寒椿の影がなくなっていた。  そして、 「そこの君たち、ラウンジ以外でのたむろ行為は校則十四条で禁止されてるはずだろう。加えて通行の阻害、部屋の前に居座る行為は特定の生徒の他生徒に対する嫌がらせと受け取っても構わないだろうね」  気が付けば、寒椿は数十人はいるそいつらに向って啖呵切ってるではないか。  まじかあいつ、とド肝抜かれそうになるのも束の間。 「あぁ? なんだよお前……って、ゲッ、風紀の金髪の方の変態野郎だ!!」  現れた寒椿の姿に、別の意味で連中は怯を現していた。……やはり変態で罷り通ってたのか。  そんなことに納得するのも束の間。寒椿がわざわざこうして発破掛けてくれたということは、自分が囮になってる間に部屋に入れということだろうか。ありがとう、寒椿。セリフの大半何言ってっかわからねえけどありがとう。そのままどうか頑張ってくれと心の中で応援したとき。 「あ゛あ?! 俺らがどこで何してようが勝手だろうがよ!! いつ誰が困ったつっーんだよ!!」 「そこの可憐な小兎ちゃんだよ」  コソコソと騒ぎに乗じて部屋に戻ろうとしていた俺は突然寒椿に指差され、停止する。  もうこの際小兎が子鹿かどちらか統一しろだとは野暮なことは言わない、言わないが、これだけは言わせてくれ。  お前本当は俺のこと嫌いだろ? 「テメェ、尾張元か?! オイ同室者はどこに居るんだよ! 今すぐ連れてこい!」  こんな面倒な連中に絡まられるなんて冗談じゃない、と思っていたがどうやら奴らが用があるのは俺ではなく岩片の方らしい。  一先ずほっとするが、だとすると問題は他に出てくる。 「やー……あいつ最近部屋に戻ってきてないんでちょっと分かんないですねー。どこ行ってんのかな、はは」 「テメェ耳腐れてんのか、連れてこいっつってんだよ。連絡先ぐらい分かってんだろ、携帯出せやコラ!」  言うなりいきなり胸倉掴まれ、怒鳴り掛かられる。唾が掛かりそうな至近距離。  適当に笑ってその場を濁そう作戦失敗。  これは話が通じなさそうだ。というか、本当あいつ何やってんだよ。こんなゴツいのに目を付けられてるなんて。 「いやー俺ちょっと今携帯壊れてて使えないんすよねー。力になりたいのは山々なんですけどね」 「見え透いた嘘吐いてんじゃねえよ。テメェ使って放送室から呼び出してもいいんだぜ、こっちは」 「おっと、それは聞き捨てならないね。放送室を私用で使うのは校則で禁止してるはずだが……」  そう、元凶でもある寒椿が俺と不良の間に割って入ってきたときだった。一人の不良が寒椿の手を振り払い、掴み掛かる。 「うるせぇな、こっちはお話中なんだよ! くねくねくねくねしやがって気持ちわりーんだよこの貧弱ナルシスト野郎! 引っ込んでろ!」  どよ、と青褪める周りの不良たちは「おい、馬鹿っ」と慌てて不良を止めようとするが遅かった。目の前で思いっきりその不良は寒椿の顔面を殴った。正しくは殴りかかったが、間一髪、寒椿はそれを避けた。が。 「……誰がなんだって?」  ぎり、と不良の手首を掴んだ寒椿はにっこりと微笑んだ。次の瞬間、容赦の無いアッパーが不良の顎先に叩き込まれる。耳を塞ぎたくなるような音が響く。そのまま、不良は床の上に仰向けに倒れた。  打ちどころが悪かったのか、白目剥いてそのままピクピク痙攣してる。 「言っておくけど、先に手を出したのは『君たち』だよ。……だったらここから先は正当防衛。何をされても良いですって認識で間違っていないね?」  失神した不良を足蹴し、寒椿は笑いながら腕まくりをする。青褪める他の不良たちをゆっくりと見回すこの目には見覚えがあった。野辺だ。あいつがどいつから甚振ろうかと獲物を選ぶときと同じ目をしている。 「い、今のはこいつが勝手に……」 「集団での恫喝も同罪じゃないのかい? それとも、自分の仲間を見捨てて保身に走るのか。……美しくないな」 「ひ、ィ!」  言いながら、寒椿は逃げようとしていた一人の不良の腕を掴み上げる。ワキワキと手を動かしていた寒椿と青褪める不良が見てられなくて、俺は寒椿を止めることにした。 「おい! ……こいつら謝ってるからもういいだろ、やめとけって」  それに、後から逆恨みされて付き纏われても面倒だ。  敵意がない相手をいたぶったところで要らぬ遺恨ができるだけだ。  寒椿は少しだけ驚いたように目を丸くし、それから華のように笑った。 「……どうやら、今回の姫は野蛮なものがお好みではないようだ。……気を付けないといけないな」  とうとう姫に昇任してしまった……。  けれど、寒椿も一応は俺の意を組んでくれたようだ。不良から手を離し、寒椿はひらひらと手を振った。 「……彼に感謝しなよ。それと、君たちの全員の顔は覚えておいたからね。……次何かあれば……そうだな、女の子にしてあげるよ。そうしたら男子校から共学になっちゃうけど、まあ……いいよね」 「う、うわああぁ!!」  逃げるようにその場から駆け出す不良たち。あの厳つい連中が女の子になってるのも見たい気がするが、冗談にしては笑えない。  気絶していた不良も一緒に連れ行ってもらえたようだ。  ようやく無人になった通路で、俺はようやくほっと息を吐いた。 「大丈夫? ……随分と顔色が悪いようだけど……」 「大丈夫……なんかドッと疲れがきただけだから。……つーか、あんた、結構喧嘩とか……するんだな」 「君を護るためなら僕はなんでもするよ。……怖い思いをさせたことは謝るけどね」  一度、寒椿には俺の姿はどう目に映ってるのか見てみたい。  適当にはぐらかされた感はあるが、あの咄嗟の動きにしては迷いのないパンチ。それなりに経験がないとあの判断は出来ないはずだ。  やけに綺麗な顔をしたなよなよ男だと思っていたが、袖を捲くった下の腕は筋肉がしっかりとついているし、自分のものと見比べて見てもそれほど差はない……どころか寒椿の方が骨格ががっしりしてることに気付き、衝撃を受ける。 「……どうしたんだい? やっぱりどこかまだ……」 「いや、なんでもない。少し意外でさ。……それよりも、ありがとな。……その、まあ、助けてくれて」  元はと言えば寒椿が突っ込んで行って俺のことをバラしたせいで事が大きくなった感もあるが、なんであれ助けてもらったのは事実だ。一応、こうしてあの邪魔だった連中も退散出来たわけだし。 「こんなことお安い御用だよ。……それよりも、常闇の彼はなんであんなに追われてたのだろうね」  一瞬なんのことだと思ったがどうやら岩片のことを言ってるようだ。というか何故分かった俺。段々寒椿の思考に似通ってきたのか。本当に勘弁してほしい。  が、寒椿の疑問も最もだ。  気になったが……さっきの様子からして、どうやらまた何かを企んでるのは一目瞭然だ。  ……俺に、なんの相談もしないということは、別に俺が心配する必要はないということだ。……そう言い聞かせてはみるものの、無視することもできない。 「寒椿……あの、聞きたいことがあるんだけど……今日って、風紀室、誰かいるのか?」 「大抵日中は委員長が駐在してるよ。すぐに駆け付けることが出来るよう、いつでも竹刀で素振りしてるしね」  暇かよあの眼鏡。 「じゃあ、今日も?」 「そうじゃないかな? 僕は普段は見回り担当だからね。風紀室の状況は把握していないけど最後顔出したときは野辺ともう二人、委員の子がいたよ。野辺のシャドーボクシングにサンドバッグとして付き合ってたよ」  それは止めてやれよ。 「……そう、か……」  けれど、なんとなく見えてきた気がする。岩片が何をしていたのか。  あいつが野辺とこそこそ会ってることは知ってたけれど、こうして第三者に確認を取らないといけないということが情けない。  俺はあいつのこと何も分かっていないんだと認めてしまうようで悔しいが、そんなことを悩んでる暇もなかった。 「寒椿、今日はありがとう。……それじゃ、俺、戻るわ」 「あぁ、また何かあったらいつでも呼んでくれて構わないからね。……一人で眠れなければ添い寝もしよう。これ、僕の連絡先だよ」 「ど、どーも……」 「よい夢を、姫君」と、寒椿は恭しく頭を下げ、その場を立ち去った。  意図せぬ形であいつの連絡先を手に入れてしまったが、何かに使えるはずだ。  俺はそれを一応、念のため、万が一何かあった時用に連絡先として登録した。

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