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08

 それからは、政岡は岩片について触れることはなかった。  通るその道の付近の店を案内しながら、政岡と夜の街を歩く。目的地はそう遠くない。政岡はそう言っていた。  政岡の言う通り、そこへつくのにはそれほど時間は掛からなかった。  表通り、たくさんの人間が行き交う中。その店から薫るいい匂いに不覚にも腹が鳴る。 「ここだよ、ここ。俺のオススメ。ステーキ丼がまじで美味いんだよ」 「……やっべぇ……腹減ってきた……」 「はは、そうだな、入るか!」  笑う政岡に背中を押され、俺達は入店する。  店内は普通の洋食屋と変わらない感じだったが、たくさんの客で賑わっているそこは至るところからする肉の匂いに涎が垂れそうだった。  ウェイターに案内され、奥のボックス席へと案内される。  他の席とは一枚の衝立で仕切られてるくらいだが、完全な密室よりも気が楽だ。俺と政岡は向かい合って腰を下ろした。 「こちらがメニューになります」と差し出されたそれを受け取り、目を開く。メニューを埋め尽くすのは肉の断面図。  ロース、カルビ、牛タン、ハラミ、ホルモン。サーロインステーキ、肉寿司、しゃぶしゃぶ、焼肉……。 「尾張、口開いてるぞ」 「……やべえ、肉しかねえ……」 「言っただろ、肉料理専門店だって」  本当は、変な店に連れて行かれるんじゃないかとも思っていた自分自身が恥ずかしい。政岡はこちらを見て、「そんな喜ばれるとは思わなかった」もやっぱり嬉しそうに笑う。 「俺、これがいい、これ、サーロインステーキ。ミディアム」 「飲み物は?」 「じゃあ、コーラ」 「ああ、了解」  政岡は俺が置いたメニューを手に取り、軽く目を向ければそのままウェイターを呼び出した。  俺の代わりに注文してくれる政岡。ウェイターが下がった後、貰ったお冷を俺に渡してくる。  なんか、変な感じだ。  早速お冷に口を付ける。向かい側には政岡が座っていて、じっと見ていると少し恥ずかしそうな顔をした政岡が「なんだよ」って変な顔をした。 「……なんか、なんつーか……こうして政岡と向かい合って座ってんのって変な感じがしてさ……」 「……はぁ?」 「なんかデートみたいじゃん」 「ゴブッ」  丁度お冷に口をつけていた政岡があろうことか噴き出した。 「何やってんだよ」と慌ててナプキンを政岡に渡せば、ゴホゴホと噎せながらやつはそれで口元を拭う。 「お、お前……い、いきなりそういう……そういうのはなぁ……!」  そんな変なこと言ったつもりはなかったが、ここまで露骨に反応されると逸そ清々しいのかもしれない。 「ごめんなさい……?」と謝れば、政岡は珍妙な顔をしたまま座り直す。そして、気まずさを振り払うかのように咳払いをした。 「……俺は……」 「ん?」 「一応、その……………………つもりだけど」 「……ん?」 「だから…………でッ、デートのつもりだって言ってんだよ……!」 「…………………………」  そんな、大の男が真っ赤になりながらそんなことを言ってきたとき、どういう風に返せばいいなんて答え、俺は知らない。  不意打ち、ではない。予兆はあったはずだ。けれど、いざ、こんな顔をしてそんなことを言われてみろ。頭が真っ白になって、言葉が出てこなくなる。  それどころか。 「……そ、そうか……」 「そ、そーだよ……」  なんだ、なんだこの空気。耐えられない。  釣られてじわじわ顔に熱が集まっていく。岩片なら、きっと上手いこと言ってのらりくらり躱してきたのだろう。けれど、不意打ちに右ストレート食らった俺はなんかもう、だめだった。上手く言葉が出ない時点で、ああ、と思った。真に受けてはだめだと思うのに。 「……尾張?」  伸びてきた手に、俺は、咄嗟に立ち上がった。  驚いたような顔をした政岡が、こちらを見上げる。 「っ、お、俺……便所行ってくる!」  奥義、取り敢えず逃げる。  このままこの場にいてはだめだ、なんかダメだ。取り繕ってきたもの全てを剥ぎ取られてしまいそうな恐怖から逃げるように、俺はボックス席から離れ、店内の客用便所に駆け込んだ。  政岡の真っ直ぐな目に見詰められると、調子が狂う。  トクトクと脈打つ心音が痛いくらいだった。岩片がいないからだ。俺は、自分がどんな風に振る舞っていたのか忘れそうになっていた。  ……怖い。この前から、政岡といると俺でいなくなるような気がして、怖かった。  いつもの俺だったら、どんな風に言っていたのだろうか。「へー、なら俺彼女らしくしないとな?」なんて、笑って躱していたのかもしれない。 「……クソ……ッ」  気を紛らわすために洗面台で顔を洗う。  滴る水をハンカチで拭った。けれど、冷水では頬の熱までは取れなかった。どんな顔して戻れっつーんだよ、この場合。  あんまり便所に篭ってても変な風に思われるかもしれないし、と考えたとき。ケツポケットに突っ込んでいた携帯端末が震えてることに気づく。慌てて取り出せば、そこに表示された名前に息を飲んだ。  岩片から、電話だ。  ……なんだよ、こんなタイミングに。無視してやろうかとも思ったが、気がつけば、手は勝手にそれに出ていた。 「……なんだよ」 『ハジメ君、今どこ?』 「……外」 『ふーん、一人?』  俺が聞いても答えないくせに、俺には何から何まで聞き出そうとする。答えないと行けないと思う反面、政岡との時間を邪魔されたくないという気持ちが芽生えていることに気付き、自分で動揺する。  けれど、政岡と居ると言えば、岩片は間違いなく俺に戻ってこいと言うだろう。  だから、俺は。 「…………一人、だけど」  初めて、俺は岩片に嘘を吐いた。 『一人なら丁度いい。今すぐ部屋に戻ってこい。おもしれーもん見れるぞ』 「……今すぐって、すぐは無理だ。30分くらいは掛かるし」 『……お前、今どこにいんの?』 「知らねーよ、この辺のことは。……けど、離れてるし……」 『タクシー使って戻って来ればいいだろ。学園名言えば送ってくれるだろ?』  なんでもないことのように岩片は言う。  なんてことはない、いつも通りの岩片の我儘だ。けれど、今は、今だけは……だめだった。 「……っ、俺だって、色々用事あるんだよ。……あんま無茶苦茶言うなよ」  口から出た言葉に、自分で驚いた。そして、冷や汗が滲む。岩片に逆らうなんて真似、してはいけない。  分かっているはずなのに、俺は。 『………………お前、本当に一人か?』  聞こえてきた岩片の声は、ゾッとするほど冷たかった。  ああ、と思ったときにはもう遅い。俺が反抗した事実は既に拭えないものになっていて。冷や汗が滲む。  敏い岩片のことだ、もしかしたら俺が政岡といることも勘付いたかもしれない。  けれど、ここで『全部嘘です。俺は政岡君といます』なんて言えるわけがなかった。 「一人だって言ってるだろ」  嘘を嘘で塗り固め、誤魔化していく。泥沼だ。嘘を吐いたところで全てが好転するわけではない、余計自分の首を締めることになると分かっていて、俺は、それでも、今を選んだ。それが愚かだと分かっていても、咄嗟に、誤魔化したのだ。 『ならいいや、30分つったよな。30分までに戻ってこいよ。……過ぎたら、罰ゲームな』 「な……っ、おい! 罰ゲームって……おい、岩片!」  なんだよ、と尋ねるよりも先に岩片は一方的に通話を切った。  ツーツーと無機質な音が響く。俺は端末をしまい、息を吐いた。今になってドッと汗が噴き出した。  ……バレたのだろうか。岩片の反応からしてそれはわからなかったが、あのときの冷たい声を思い出すだけで心臓が大きく乱れた。先程の政岡の言葉とは比にならないほどの、緊張。  俺は、汗を拭い、一先ず政岡が待つボックス席へと戻ることにした。  ……30分。時計を確認する。もうすでに2分経過していた。いっそのこと、時間が止まればいいのに。余計なことなど考えなくて済むのに。そんな幼稚なことを考えてしまうほど、追い詰められてるようだ。  ボックス席では既に料理が届いていたようだ。手もつけず、待っていた政岡は戻ってきた俺を見るなり少しだけ緊張して、それから「よぉ」と笑う。ぎこちない。 「悪い、ちょっと腹の調子悪くてさ」  なんて、適当に誤魔化しながら、俺は席につく。  あんなに楽しみだったステーキも、美味しそうなのに、全く食欲が沸かなくなっていた。  理由は分かっている。俺の意識が既に別の場所へと向かってるからだ。 「おお、やっぱでけーな……一キロ」 「そうだろ? ボリュームたっぷりだしな」 「んじゃ、いただきます」 「おう、食え食え」  政岡はいつもと変わらない態度で接してくれるが、あまりにもトイレにこもってた俺に何らかは察してるのだろう。気遣いを感じ、少し居た堪れなくなる。  ナイフとフォークを使い、ステーキを切り分ける。  滴る肉汁。鉄板に押し付ければジュウと焼ける音が聞こえた。一口を口にする。けれど、まともに味がしなかった。というよりも、今の俺には味を楽しむ余裕がなかったのかもしれない。  とにかく、早く食べ終わらなければ。そんな気持ちすら覚えたほどだ。  俺が食べるのをワクワクしながら見ていた政岡だったが、次第にその表情が強張ったものになる。 「おい……そんなに慌てて食ったら喉に詰まるぞ? ほら、水……」 「わ、悪い……美味しくて、つい……」 「お前、美味しくって……安心しても肉は逃げやしねーよ。足りなければ他のも注文することだってできるだろ」  政岡は笑う。その笑顔に、チクリと心臓が痛みを覚えた。  ……政岡には、ちゃんと伝えておいた方がいいだろう。  俺のためにわざわざ遊びに誘ってくれたのを無碍にするのは正直、気持ちのいいものではない。  けれど、仕方ない。 「あの……政岡」 「あ? どうした?」 「……実は、この後急用が入ったんだ。……それで30分までには学園に戻らなくちゃいけなくなってな」 「…………は?」  政岡の顔から笑みが消える。ムリもない。すぐ感情が顔に出るタイプの男とは思っていたが、ここまで分かりやすいとは。まあ、勿論笑顔で仕方ないなと言ってくれるとは思ってなかったが。 「……せっかく飯とか誘ってもらったのに、悪いな。あ、でもこのステーキはちゃんと食べて……」 「その急用って、もしかして岩片凪沙絡みか?」  核心を突かれ、息を飲む。  岩片と言えば、政岡は許してくれないだろう。  穏便に済ませるには、否定することだ。 「……残念だけど、ちげーんだよな。……あいつは関係ないから、心配しないでくれ」  笑って誤魔化す。我ながらなるべく自然体を保つことはできたと思ったけれど、政岡の表情は変わらない。寧ろ、その視線は先程よりも鋭くなったような気すら感じた。  誤魔化すように、一切れのステーキを口に入れる。やっぱり、味はしない。 「その急用ってなんだよ」 「急用は、急用だよ。……別に、政岡には関係ないだろ」  言ってから、後悔した。  心配してる相手に、それは言いすぎたかもしれない。けれど、これ以上喋ればボロが出てしまいそうで、怖かった。  政岡は「そうかよ」とだけ口にし、それから、自分の注文していた食事に手を付ける。  残り時間は20分を切る。学園にまで戻る時間を考えれば、後5分で食べ終わって会計を済ませ、タクシーを呼べばまあギリギリ間に合うか。最悪金だけ政岡に渡して、支払を頼もうか……。  頭の中で段取りを組む。肉を食べてるのかすら解らなかった。スポンジか何かを噛んでるようなそんな気分で、ひたすら咀嚼と嚥下を繰り返す。食事してるかすらも怪しい。  その間、俺達の間に会話はなかった。ただ、周りの客たちの楽しそうな笑い声が響いていた。

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