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09

 肉詰め込んで、俺が完食する頃、政岡も皿のものを平らげグラスも空にしていた。  気まずさが勝るこの空気だが、俺は時計を確認し予定よりも少し早く食べ終わることが出来たのにホッとした。  席を立ち、支払い済ませようとレジへ向かおうとすれば、政岡が財布から取り出した万札を無造作にトレーに置いていた。 「あの、俺の分……」 「別にいらねーよ。最初から俺が誘ったんだし」  お釣りを貰うなり、さっさと店から出ようとする政岡。  奢ってもらえるなんて思ってもいなかっただけに、余計申し訳なくなる。せめて、ステーキの分はと思うが、政岡は「いらねえ」と言って頑なに受け取らない。 「……ありがとう」 「……」  無視かよ、と思ったけど、寧ろ反応なくて良かったのかもしれない。  こちらを見ようともしない政岡に、このまま嫌われた方が楽なのかもしれないなんて思えた。  政岡は良いやつだと思う。だから、余計、騙したり振り回したりすることに抵抗を感じる。狡猾で、馬鹿みたいに真っ直ぐなやつとは思うけど、それでも、相手を知れば知るほど上手く立ち回れない。  自分勝手だとは思うが、俺は今までこうしてきたのだ。  ゲームなんて、するもんじゃないな。なんて、思いながら、店を出た俺は店の横、裏通りに繋がる小道へと引っ込む。静かな場所でタクシーを呼ぼうと端末を取り出したときだった。  端末を取り出した手を、いきなり背後から掴まれる。 「っ、何……」  背後から抱き締められるような体勢に、驚いた。薄暗い通路の中、政岡の表情は陰り、よく見えない。慌てて離れようとするが、強い力、体重を掛けるように背後から覆い被されれば、上手く動きが取れなくて。 「っ、政…………ッん、ぅ……ッ」  いきなり顎を掴まれたかと思うと、無理矢理唇を重ねられる。いきなりのことで、頭が動かなかった。完全に、油断していた。政岡に背中を見せたこと、無防備に電話を掛けようとしたこと、いくらいいやつであろうが俺はこの男が誰なのかを忘れていたのかもしれない。 「ッ、は、ふ……ッ」  思いっきり、やつの唇に噛みつく。けれど、血の味が広がるばかりで、政岡は俺を離さない。それどころか腕の拘束は強くなり、気が付けば壁際へと追い込まれていた。 「っ、ぅ、……ん……ッ!」  こんなこと、してる場合ではないのに。時間が、一分一秒も勿体無いと思うこのタイミングで、こんな。  唇の薄皮ごと嬲られ、太い舌を根本まで挿入されれば目の前が、霞む。抵抗しなければと思うのに、不意打ちであれ、完全に羽交い締めにされ、その舌を受け入ることしかできなかった。口を閉じようとするにも、歯を突き立てようとするにしろ、舌根まで挿入されれば顎が閉じれないのだ。 「……っ、お前を、あいつのところに行かせたくない」  ぼんやりと霞む頭の中、吐息混じり、政岡の声が低く響いた。  あいつが誰なのかは分かった。  岩片だ。やっぱり政岡は岩片だと思ってるのだ。 「っ、だから、違うって言って……ッ」 「便所で、岩片のやつと電話してだろ」 「……ッ、な、んで……」  知って、と言い掛けて、言葉を飲んだ。  聞いていたのか、ずっと。扉の向こうで、やり取りを。  そう思うと、政岡の様子がおかしかったのも頷ける。  俺の嘘も、全部、気付いていて騙されたフリをしていたのか。  そう理解した瞬間、目の前が、眩む。  政岡の顔を見れなかった。自分がどんな顔をしてるのかも、分かりたくない。 「ッ、離せよ……ッ!」  咄嗟に、端末を握る腕を振り回し、政岡に肘鉄を食らわせようとするが、逆に腕を捻り上げられてしまう。痛みに指から力が抜け、端末が音を立て地面に落ちた。  拾おうと思うが、体を捻ることすらできなかった。 「離さねえよ……っ、離すわけねーだろ……。……なんで、お前があんなやつのために我慢しなきゃなんねーんだよ……」 「っ、政岡……テメェ……ッ」 「……っ、俺は、お前を助けたい」 「助けたいんだよ、あいつから」と、口にする政岡。  助けるとか、助けないとか、別に、俺はそんなことを望んでいない。望んでいないのに。あいつは。 「……そんな辛そうな顔したやつをこのまま帰せるかよ」  そう言って、俺を抱き締めるのだ。  何を勘違いしてるのだ、俺は、確かに岩片の我儘さにはうんざりしてたしムカつくとは思っていたけど、そんなこと、望んでいない。寧ろ、こんな風に同情されることが何よりも屈辱的で、俺は思いっきり政岡を突き飛ばす。  固い胸板の感触、それでも、ほんの一瞬生じた隙を狙って逃げ出そうとしたが、敵わなかった。俺よりも、政岡の方が上手だったのだ。  伸びてきた腕に行く先を塞がれる。避けて逃げることも出来た、けれど、その威圧感に、ほんの一瞬の判断が遅れた。 「ッ、……ん……ぅ……ッ!!」  胸ぐらを掴まれ、唇を、塞がれる。壁に押し付けられ、何度も角度を変え、咥内を舐られる。  足元で、端末のディスプレイが光っていた。岩片からの着信だ。  時刻は既に、岩片に言われていた30分を過ぎていた。 「ッ、ぅ、ん……ッ」  肉厚の舌が唇を這う。顔を逸らそうとするが、がっちりと固定された顎は動かない。嫌悪感よりも、強い怒りがこみ上げる。まるで政岡に騙されたような、そんなショックすら覚えた。 「っ、お前、ふざけ……っん、ぅんんッ」  そんなに俺を邪魔したいのか、陥れたいのか、岩片をこけにしたいのか。唇を重ねられ、吸われ、噛まれ、割入ってくる舌先に唇の薄皮を舐められれば、ゾクゾクと体が震えた。 「ふ……ッぅ……」  突き飛ばしたいのに、密接した体勢ではろくに力が出せなかった。人に助けを求めればいい。恥なんて言ってる場合ではない。すぐ数メートル先には人が歩いてる。助けを求めればいい、分かってても、口ごと塞がれている今どうしようもなくて。  歯列、それから上顎、喉奥その舌の根を舌先で強引に撫でられれば頭が真っ白になる。 「……っ、お前が、好きなんだよ」  「……あいつのところに、行かせたくない」薄暗い路地裏に低い声が響く。  重々しく吐き出されたその言葉に反応するよりも先に、体を抱き締められた。肩口、押し当てられる政岡の顔。  茫然自失。俺は、動くことも、何かを答えることもできなかった。  そして改めて好きだ、と言うその政岡の言葉がすとんと頭に落ちてきたとき、顔が熱くなった。込み上げてくるのは、怒りにもよく似たものだった。 「そう言えば、俺が喜ぶって思ったのかよ……」  聞きたくなかった。  こんなタイミングで、そんな、計ったような言葉を。 「尾張……」 「離せ!」 「……ッ、嫌だ、離したくねえ……離したら、行くんだろ、あいつんところ」 「っ、て、め……ッンんッ!」  何度目かのキスは貪り食うようなものだった。  開いた口に捩じ込まれる舌に息が詰まりそうにかる。子供みたいな駄々とは裏腹に、そのキスはただ力任せなものではなかった。 「ふ、ぅ……ッ、む、ぅ……ッ!」  絡み取られる舌を根本から舌先までねっとりと舐られれば、頭の芯までじんと甘く痺れる。自然と拳に力が入ったとき、政岡の手が重ねられる。すりすりと手の甲、指の谷間を撫でられ、ぎゅっと手のひらを重ねられた。手のひらに気を取られたとき、「尾張」と名前を呼ばれる。 「……、尾張、尾張……っ」  頭がおかしくなりそうだった。脇腹を撫でられ、逃げる腰を更に抱き寄せられ、またキスされる。力が、入らない。抵抗しないといけないのに、なんで。 「……好きだ、尾張」  こいつのが苦しそうな顔してるんだ。 「……っ、ふざけんな……」 「お、尾張……」 「何が好きだよ、バッカみてぇ……俺のこと、なんも知らないくせに、よくも……そんな、こと……」  正直ムカついた。ムカついて仕方なかった。どうしてこいつは俺の邪魔ばかり、俺がしたいようにさせてくれないのかと思うと感情の波がどっと溢れて、どうしようもなく情けなくなって、遣る瀬なくて。声が、震える。 「……おわ、り……」  そのとき、政岡の手が確かに一瞬緩んだ。俺は、その隙を狙って思いっきり政岡の足を踏み、そして、その鼻柱に思いっきり拳を叩き込んだ。鈍い音ともに、もろにそれを食らった政岡は顔を抑える。手が離れたのを確認し、俺は、間を縫うようにすり抜ける。 「ッ、……尾張ッ!」  落ちていた携帯拾い、走り出す。政岡の声が聞こえてきたが、俺はそれを振り払うように走り出した。フォームもクソもない、縺れた足を無理矢理動かすような無様な走りだ。それでもいい。今はいち早く政岡から逃げ出したかった。  こいつといると、俺が俺でいれなくなる。  それが何よりも恐ろしかった。  ずっと、手にした携帯は震えていた。岩片からだと分かっていたが、出ることは出来なかった。  どうやって帰ってきたのか記憶が定かではなかった。間違いなく走って帰ってきたのだろうが、途中、何を考えていたのかも分からない。気付けば学園の前までやってきていた。  岩片に連絡しなければならないとわかってても、既に遅刻している今何を言っても手遅れなような気がしてできなかった。早い話、岩片の反応が怖かったのだ。情けないことに。  自室へと戻るまでの間、どうすれば岩片の怒りを少しでも軽減することができるのかということばかりを考えていた。  自室の扉を開けるまではなんとか、と思ったが、そんな時間すら俺には残されていないようだ。  学生寮、自室前。  そこには、見覚えのある人影が一つ。  壁に凭れ掛かっていたそいつは、ぐるぐる眼鏡をこちらに向けると「おかえり」と軽く手を上げる。 「い……っ、岩片……」  まさか、ここで待っているとは思っていなかっただけに、心の準備がまだ終えていなかった俺は足元から急激に冷えていく感覚に襲われた。一見いつもと変わらない、というよりも表情が分からないだけなのだろうが、岩片は腕時計に目を向ける。 「えーと、どれどれ……57分遅刻ねえ……あれ、おっかしーな、俺、30分で戻ってこいって言わなかったっけ?」  軽薄な声、言葉、だが、その纏う空気はいつものそれよりも遥かに重く、威圧感に押しつぶされそうになる。 「……悪かった。ちょっと、道が混んでて」  馬鹿だろう、俺も。嘘なんか吐いたところで自分の首を締めるだけだってわかってたのに、真っ当に岩片の言葉に返すことができなかった。なんとかして誤魔化したかった。  だから、岩片の反応には驚いた。 「ふーん、混んでてねえ。なら仕方ないよなぁ」  ぱっと手を離した岩片は笑う。一瞬その明るい声にほっとしたが、それも僅かな間だった。 「……なーんてな」  岩片の手が、伸びる。思いっきり襟首を掴まれ、顔を寄せられた。鼻先同士がぶつかりそうなほどの距離、分厚いレンズの向こう、凍てつくような冷めた岩片の目と確かに、視線がぶつかった。 「よくそんなクソつまんねえ嘘吐けたな。どうせあいつだろ、あの脳筋色恋馬鹿。あの少女漫画野郎に当てられたかよ?」  首元がきつく締まる。俺の服が破れようが伸びようが構わないと思ってるのだろう。細い指からは想像できなほどの力に、嫌な汗が滲んだ。  政岡の顔が浮かび、咄嗟に俺は「あいつは、関係ない」と声をあげた。なぜそんなことを言ったのか自分でもわからないが、多分、勘付かれたくなかった。岩片には、知られたくなかったのだろう。  けれど、岩片はそんな返事ではいそうですかと納得するような男ではないということは重々承知だ。  壁に叩きつけられる体。咄嗟に受け身を取ったので痛みはそれほどなかったが、強く壁に押し付けられるほど器官は押し潰され、息苦しい。多分それは体勢だけの問題ではないのだろう。 「……ッ岩片……」 「……ハジメ君、俺さぁ確か遅れたら罰ゲームって言ったよな……覚えてる?」 「……っ……」 「それなのに遅れてんだからわざとだろ? 俺を怒らせたくてやっちゃうわけね? 本当なぁ……可愛いよな、本当、あー可愛い可愛い」 「可愛くて……本当、憎たらしい」陰る表情、その下が歪むのを見て、ゾッとした。軽薄な言葉は感情を感じさせない。口元は笑みを描いているのに、全く笑っていないのだ。だからこそ余計不気味で、息が詰まりそうになる。 「……っ、岩片……」 「なぁハジメ、お前は誰の親衛隊だ?」 「……俺は、お前の……」 「じゃあ、お前は誰のものだ?」 「……ッ……」  その言葉に、心臓を鷲掴みされたような息苦しさを覚える。ああ、そうだ。岩片はいつもと同じだ。いつもと変わらない。それなのにこれほどまでに恐ろしく思えるのはきっと俺が以前と違うからだ。そう思えば思うほど、圧迫感は増す。息が、浅くなる。 「言えよ、ハジメ」こんなに近くにいるはずの岩片の声が遠くに感じるのだ。分かってる。岩片が何を求めているのか、以前の俺ならば間髪入れずに「お前のものだ」と答えられただろう。それなのにこんなにも躊躇ってしまうのはその言葉を口にしてしまえば今度こそ、俺は。 「……俺は……」  汗が滲む。深く息を吐き、呼吸を整える。  俺は、襟首を掴む岩片の手を掴んだ。細い、骨っぽい手首。冷たくて、体温を感じさせない手。 「ッ……俺は、物じゃねえよ」  答えは単純明快だった。それなのにこれほどまでに答えに詰まるのは、頭ではない部分が邪魔していたからだ。  今思えば長距離走ったせいでアドレナリン出まくって、どこかしらの器官が麻痺していたのかもしれない。それほどまでに俺はとんでもないことを言ってしまった。きっと、それも全部これも全て政岡とかいう男のせいだ。そうに違いない。岩片の額に青筋が浮かぶ。ぴくりと痙攣するこめかみを見て、あ、やばいと思ったときには最後。 「……やり直し」  思いっきり壁を蹴る岩片。その衝撃に建物全体が振動したかのような錯覚を覚えた。  顎を掴まれ、無理矢理正面を向かされる。 「どうせなにも考えてないだろうハジメにはもう一度チャンスやる」 「チャンス……って……」 「今ここで俺にキスしろ」 「はっ……?」  理解できなかった。こいつが何言ってんのか。 「そうすれば今のはなかったことにしてやるよ」と、岩片は軽々しく口にする。岩片が何を求めてるのか俺には分からなかった。恐らく、岩片自身も俺との口付けを心の底からしたいと思ってるわけではないのだろう。俺が岩片にそれほどまでの忠誠を誓えるかどうか、それを再確認しようとしてるわけだ。この男は。  キスだけだ、唇くらいどうってことない。そう思うけど、さっきの今で男相手にキスなんてできるかというのが本心だった。 「嫌だ……っつったら?」  汗が滲む。なんとか時間稼ごうとして問いかければ、岩片は猫のように目を細め、笑った。 「ここで犯す」

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