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それじゃあ腹拵えのため食堂に向かうかとなったときだった。
少し離れた位置から岡部と岩片の後をついていってたら、いきなり、曲がり角から手が伸びてきて、強い力で引っ張られる。通路の奥、顔を上げれば視界が影で遮られる。何事かと思えば、そこには今二番目くらいに見たくない男の顔があった。
「尾張」と名前を呼ぶ声は、俺にでもわかるくらい緊張していて。
「……政岡」
神様は俺を試そうかとでも思ってるのだろうか。どうしてこうも厄日が続くんだろうか。死にそうな顔をした政岡零児に、俺は、頭が痛むのを覚えた。
まさか待ち伏せしてたのか。タイミングに驚き、身構えるが、政岡は俺の反応に気づき、慌てて手を離す。そして、
「っあの、昨日は……悪かった。……その、手荒な真似をして……」
まるで叱られた犬みたいな顔をする政岡。
どうやら、本当に悪かったと思ってるようだ。
正直、予想外だった。もしかしたら逆上される可能性も考えていただけに、本当にただ俺を止めたかっただけなのだと思うと、出鼻挫かれたような気分になる。
けど、そういう反応されると、どうすればいいのかわからなくなる。おまけに、昨日の今日だ。
「……っ、別に……もう、気にしてねーから……」
「でも……」
「大丈夫だって言ってるだろ」
今は、政岡の顔を見たくなかった。見られたくもなかった。離れたい、そう思えば思うほど語気が強くなってしまい、政岡の表情が変わる。しまった、と思ったときには遅かった。
「……何かあったのか?」
その低い声に、ギクリと全身が強張る。
何もないから、と逃げようとするよりも先に、政岡に手首を掴まれた。
「い……ッ」
包帯越し、掴まれる手首に鋭い痛みが走る。両手首のそれに、政岡の目の色が変わった。
「……なんだよこれ」
「っ、それは……その、あれだ、寝違えて……」
「昨日はここに怪我してなかったよな」
「……っ」
ひくりと喉が震える。先程までの萎縮した政岡は何処へ。目の前にいるのはどう見ても、この学園の生徒を束ね、頂点に君臨する政岡零児だった。
誤魔化そうとするが、政岡に睨まれると頭が真っ白になり余計何も出てこなくて。言葉に詰まる俺に、政岡の眉間がピクリと反応する。
「……あの野郎か」
言うな否や俺の横を通り過ぎ、岩片の方へと向かおうとする政岡に、咄嗟に俺はやつの腕を掴んだ。「おい!」とか「待て!」とか、そんなベタな引き止め文句しか出てこなかったが、なんでもいい、これ以上面倒なことになるのは御免だ。
「やめろ、少し落ち着けって……!!」
それにしても本当こいつ力だけは馬鹿みてーにある。全体重掛けて引き留めようとその腕にしがみつくが、それでも振り解けされそうになるのだ。それでも構うものかとやつのネクタイを引っ張れば、政岡はこちらを振り返る。その顔は怒りというよりも、呆れの色が滲んでいて。
「……っおい、尾張、離せよ……大体なんでお前が止めるんだよ……っおかしいだろ!」
「可笑しくは……っ、ない……」
真正面から問いかけられると、つい言葉が淀んでしまう。
そうおかしくはないはずだ、確かに岩片はムカつくやつだけど、俺はあいつの親衛隊隊長であり、それは以前と変わらない。あいつに危害加えようとするやつがいれば、変わらず止めるのが俺の役目だ。自分に言い聞かせるように問いかける。
けれど、政岡がそれにはいそうですかと納得してくれるようなやつなら最初から苦労はしない。
「……っ、お前、あいつに弱みでも握られてんのか? そこまでして止める理由なんて……」
そう言いかけて、政岡は、ハッとする。途切れる声。なんだ?とその視線の先を確認しようとした矢先だった。伸びてきた手に、肩を掴まれる。え、と思うよりも先に、壁に体を押し付けられた。
「っ、ちょ、おい、やめ……ッ!」
ただでさえ本調子ではない現状。政岡に力勝負で勝つ自信はない。ネクタイを緩められ、首元のボタンを引きちぎる勢いでシャツを脱がされる。まじか、と焦る暇もなかった。
上半身、全開になったシャツを大きく剥かれれば、昨夜の岩片の手の痕やらなんやらがもろに政岡の眼前に晒されるわけで。
「……っ、見るな……ッ!」
心臓が、痛いほど脈打つ。変な汗が滲む。政岡の視線が全身に絡みつき、離れない。俺は、恐ろしさのあまり政岡の顔を確認することはできなかった。
「っ、なんだよ……これ……」
政岡の顔色が変わる。呆れたような、悲しむような、怒ったような、様々な感情が入り混じったその声に、ああ、と思った。見られた。こんな、昨夜色んなことがありましたと言わんばかりの体を見られてしまった。
誤魔化しなんてもう通用しない。
――最悪だ。よりによって、なんで、こいつに。
「……お前……それでいいのかよ、あいつの、言いなりになって……こんな……ッ」
政岡の中での俺はどんだけ哀れなやつになっているのだろうか。
政岡の口にする言いなりという単語には違和感があった。
確かに俺は言いなりだった。けれど、昨日に限ってはそうじゃない。だからこそそうなったのだと言えば、政岡はどんな顔をするのだろうか。
……思ったが、バカバカしくなってやめた。
「お前に関係ないだろ……離せよ」
「尾張、俺は……」
「おい、離せって……ッ!」
部外者にとやかく言われることは勿論、こんな姿を他人に見られて哀れまれるのはもっと嫌だった。
腕を掴んでくる政岡を振り払おうとするが、離れるどころか強く引っ張らた。背中に当たる固い壁の感触。目の前には、死にそうな顔をした政岡。
「っ、おい……っ」
退けよ、と厚い胸を押し返そうとするが、離れない。壁を突く政岡の腕に邪魔され、その場を動くこともできなくて。
顔を、見られたくない。そう思うのに、あいつの目は、こちらを真っ直ぐ見て離さない。
そして。
「お前……っ、あいつのことが好きなのか……?」
「ッ、は……?」
素っ頓狂な質問してくる政岡に、つい俺はアホみたいな声を出してしまう。どうして、好きとか、嫌いとか、そんな話になるんだ。呆れ果てる俺に、構わず政岡は「好きなのかどうかって聞いてるんだよ」と尋ねてくる。
岩片、のことを言ってるのだろう。
そんなこと、ろくに考えたことなかった……わけではない。昨日、岩片に強要されたとき、俺は既に答えを出していた。
「な、に言ってんだよ……そんなの……」
「……」
「……そんなの……」
汗が流れる。冷房だって利いてるはずなのに、政岡に見られてると嫌な汗が滲むのだ。
そんなの、決まってる。俺は、岩片のことをそういう対象として見れない、はずだ。けれど、そんなことをこいつに言えば、その先の展開は見えている。それは俺が最も避けたい道だった。
ならば、ここでの答えは一つしかない。
「……ッ、す……きだ……」
岩片は、いない。本人はいないはずなのに、その言葉を口にするってだけで心臓はぎゅっと痛くなる。全身の血液が湧いたみたいに熱くなる。政岡に見られてるから、余計かもしれない。
……どうしたんだ、俺。なんで、こんなに心臓痛いんだよ、ただ好きって言っただけなのに。
必死に鼓動を抑えながら、俺は政岡に睨み返した。
「悪いかよ、好きだよ……ほら、これで文句ねーだろ。……だから、もう、いい加減に……」
離せ、と言い掛けた矢先のことだった。
ピピッと無機質な音が聞こえてくる。それは政岡からでもなく、もっと離れたところからだ。
「……あ?」
違和感に気付き、音のした方を振り返ったときだ。
そこには、いつの間にもう一人の部外者の姿があった。
息が、思考が停止する。
「っ、まじか……尾張、とうとう会長さんと……うわーやっぱり最終的に生徒会長様に落ちるのが安牌ってわけだな! 俺的には全然ありだよ! よくやった尾張!」
「ご、五条……お前、それ……」
今までどこに行ってたんだとか、言いたいことは色々あったがそれよりもだ。やつがこちらに向ける、その手に握られたそれは携帯端末で。そのレンズはしっかりと俺達を捉えていた。
もしかして、今の音は。血の気が引く。
「まさか尾張の方から会長さんに告白するなんて大スクープの場に居合わせられるなんて、久し振りに外の空気吸いに散歩しにきた甲斐あったよ。流石俺、すげーツイてる!」
「っ、告白って、誰が……誰に……」
「だから、尾張が会長さんに……」
最悪だ、と考えるよりも俺は、目の前の政岡を突き飛ばし、五条から携帯端末を奪おうとする、が。
政岡に止められる。なんで、と失望するよりも先に、五条は高らかに笑う。
「ぅおっと……お前のグーパン効くからまじで怖えんだよな……。悪いけどこればかりは渡せねえな。生徒会の皆様にも使えるようなこんな大スクープ、そうやすやすと手放すわけにいかないだろ」
「テメェ……」
「悪いな尾張、まあ邪魔者は立ち去るからあとはごゆっくり!俺はたっぷり稼がせてもらうとするぜ!」
勝手なこと抜かして脱兎の如く逃げ出す五条。
絶対逃がすものか。そう追いかけようとするが、政岡がそれを許さない。さっきから、この調子だ。何も言わない分気味が悪くて、それ以上に、イライラした。
このままでは俺だけではない、政岡だって被害に遭うかもしれないってのに、なんでだ。
「っ、おい、政岡、離せ、あいつが逃げるだろ!」
「……」
「政岡!」
「……俺は、構わない」
ようやく喋ったかと思いきや、そんなことを口にする政岡に耳を疑った。「勝手にやらせておけ」と言わんばかりのその態度。そこで、理解する。こいつが何を考えてるのかを。
「っ、お前……まさか……」
このまま、俺が政岡に告白したつもりにする気か。
確かに、そうすれば勝ちは政岡で決まりだ。本人からしてみれば棚からぼた餅だろう。ゲームは一人勝ち。周りからはちやほやしてさぞかし気持ちいいだろうが俺からしてみればどうだ。……こんなこと、はいそうですかよかったねと許せるわけがない。許す要素もない。
頭に血が昇る。気がつけば、政岡の胸ぐらを掴んでいた。
「っ、いい加減にしろ」
「……尾張は、あいつのせいでおかしくなってんだよ。……普通じゃねえよ、お前ら」
「それはお前もだ!」
話し合いでは埒が明かない。そう判断し、思いっきり拳を握りしめ、その頬目掛けてぶん殴る。政岡は避けようともしなかった。けれど、怯みもしなかった。まるで、最初から殴られることを分かっていたかのように。ただ、俺を見て、それでも手を離してくれなかった。
「っ、……ああ、そうだよ……俺もどうかしてるよ……」
やつの左頬が赤くなる。その痛みからか、そう口にする政岡の声は震えていた。自虐的な言葉。泣きそうな顔。なんだこいつ、と思いかけた矢先、抱き締められる。ぎょっとして慌てて突き返そうとするが、腕を抑え込まれ、がっしりと抱き締められた。自分よりもでかい男に抱き締められても恐怖しかない。はずなのに。
「おい……ッ」
「お前が好きだ、尾張……ッわけわかんないぐらいお前のことばっか考えてる……お前が辛い顔してると、こっちもどうしようもなくなるんだ」
「好きなんだ、尾張」肩口に顔を埋める政岡。やつの口から吐き出されるその言葉に、息が浅くなる。圧迫感、とはまた違う。心臓ごと締め付けられるような感覚。振りほどけばいい。政岡は、俺を痛めつけることはしない。なんなら、また殴ってやればいい。前みたいに急所を狙えば逃げられるはずだ。ぐるぐると思考が巡る。
けれど、いい年した男の弱気な姿を見てると、駄目だった。引き剥がすことなんてできなかった。
「っ、お前、おかしいよ、まじで……こんな状況で……」
「ああ、そうだ……そんなこと俺が一番知ってんだよ」
なら、どうして、なんて聞くことはしなかった。
自覚しておきながら、それでも道を踏み外す。何が正しいのか分からなくなる。そんなやつには見覚えがあったからだ。間違いなく、政岡は自暴自棄になってる。
……昔の俺と、重なるのだ。
けれど、だからこそ、手綱を取る人間が必要だった。上から押さえつけ、それで、誘導してくれる人間が。
俺の場合は岩片がいた。けれど、こいつ、政岡にはそんな人間はいない。
「お前とあいつが一緒になってお前が辛い顔するくらいなら、俺は……――何がなんでも引き裂いてやる」
理性役として働く部分の欠如。
それが、俺と政岡の決定的な違いだった。
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