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分岐点
「か、返してよ……!」
精一杯跳ねても眼鏡が揺れるだけで、体は動かず、お目当ての物には手が届かなかった。
「おら、精一杯ジャンプしろよ。大事なノートは帰ってこねえぞ!」
耳に鋭く刺さる笑い声と誹謗中傷。僕は唇を噛み締めた。教室で自分の好きなように過ごせるなんて言葉、嘘だ。僕のような人間は自分の部屋に引きこもって趣味を楽しめば良かったのだ。
「それにしてもキメェな、倉井!エロ漫画なんて描いてんじゃねえよ」
「そんなのじゃ、無いよ…返して」
膝を曲げて思い切りジャンプしたら指先がノートに触れた。その拍子にクラスメイトの手からバサリと音を立てて落ちた。
「歯向かうのかよ!?倉井のくせに」
僕よりもずっと背の高い彼が怒鳴り声上げると恐ろしくて仕方がない。足がすくんで動けなくなる。いつ殴られてもいいように、身を固くした。
「なーにしてんの?アンタら」
背後から間延びした声がした。床に落ちていたノートが拾い上げられる。
教室の入り口に、男子生徒が立っていた。僕より身長が低いのに、今までの人生で一度もチビと呼ばれたことが無さそうな威圧感。大きくて鋭い瞳で僕らを睨む。
「あ、アカネくん…。何でもねえよ。からかってただけだって」
先程まで激昂してた勢いは失せ、目の前の生徒に言い訳をしているように見えた。媚びているのか、声が少し高くなっている。
「知らねえよ。てかウザ、怒鳴り声うるせえんだよ。あっちいけ」
“アカネくん”は僕が怖くてたまらなかったクラスメイトを指先であしらう。彼はそのまま尻尾を巻いて教室から出て行ってしまった。
「ああ、ありがとうございます…。助かりました」
「お礼とかマジでいいから。それよりもさ、これ描いたのアンタ?」
ノートを両手で開いてこちらに見せる。そこには大剣を構えた少女が、敵の竜を睨んでいるシーンだった。
「かっ、返してよ!恥ずかしいから見せないで」
「ハズい?上手いんだから自信持ちなよ。クヨクヨしてっからマキグチくんに舐められるのよ」
「いや、さっきの牧原くんだけど…。というか、僕たち皆、同じクラスだよね」
「話の腰を折るなよ。人の名前なんて覚えられないし。それよりもさ、これってもしかして…」
彼は言葉の途中でノートをマジマジと見つめた。僕の顔は熱くなって、穴があったら入りたい気分だった。
「やっぱそうじゃん。これ、『冀望のプレギエーラ』のラディーだよな?エロ漫画じゃないじゃん」
僕は耳を疑った。そして普段の自分の立場も忘れて、思わず大声を出した。
「え!?きぼプレ、しっ知ってるの!?」
「うわ声デカ。俺も漫画くらい読むけど。まあ倉井くんはさ、もっと自信持ちな」
そう言って彼はノートを僕に手渡した。僕は両手で受け取って、表紙がひしゃげるほど強く握った。
「帰るわ。マキノくん帰ってきたらメンドーだし。じゃあね」
「あのっ…」
ドアを開けたアカネくんが振り返った。廊下の窓から差した夕日が、彼の髪を照らす。
「助けてくれて、ありがとう…」
頭を思い切り下げた。返事がなかったので恐る恐る顔を上げると、彼はそこにいなかった。
慌てて廊下に出ると、振り向かずに、僕に向かって手をヒラヒラと振るアカネくんがのんびりと歩いていた。
♢
「意外だったな…あのアカネくんが僕を助けてくれるなんて……」
顔の火照りがようやく治ったので、僕はノロノロと廊下に向かっていた。放課後の学校は静かで、僕の足音と独り言がよく響く。
あの角を曲がれば昇降口だ。少し早く動かした足を、僕は慌てて止めた。下駄箱の前に牧原と、彼の友人が立っていたのだ。物陰から覗いてもわかるほど、牧原の表情は怒りに満ち溢れていた。
「アカネのやつ…調子乗りやがって」
荒々しい口調で吐き捨てた。やはりアカネくんの選択は正しかった。あんな牧原と再会していたらかなり面倒くさいことになっていただろうから。
「今に始まったことじゃねえだろ!オレだってムカついてるぜ」
友人が同調する。つかさず牧原は言葉を続ける。
「クソっ!あれがなきゃ今頃ボコってたぜ。畜生…あの時油断しなければ…!」
「油断しちまうのは仕方ねえよ。誰だってするぜ。だってアイツ、顔だけはいいもんな」
「アソコも上モノだからな!ギャハハ」
下品な笑い声から逃げるように、僕は裏口に向かって歩き出した。靴は諦めた。彼らの会話がすぐに終わるとは思えないし、それに恩人の悪口を止めることなくただ聞いているのは苦痛だった。
アカネくんは、正直言って良い噂を聞かない。だからこそ、僕を助けてくれた彼が、皆の言うアカネくん像と一致しなくて、今でも混乱している。
上履きの靴底は薄く、コンクリートの凹凸がそのまま足底に伝わるので歩きにくい。帰る頃にはボロボロになっているだろうな。ため息を吐きながら顔を上げると、空はすっかり暗くなってしまっていた。ここ最近は陽が落ちるのが早いし、すぐに冷たい風が吹く。僕の嫌いな季節が始まると思うと憂鬱になる。
駅前の賑やかなエリアに着いた。この辺はキャッチやガラの悪い若者が多いからあまり寄り付きたくないけど、ここを通らないと家に帰れないのだ。
僕が一番嫌いなホテル街に差し掛かった。ここは路地裏に続く道が多くて薄暗いからおっかない。その上、カップルが多いような気がするから歩いていると惨めになる。
少年漫画のタイトルをもじったホテル看板の前を通り過ぎた時、真っ暗な建物の隙間から音がしたので思わず立ち止まった。
「人の声…?」
腹のあたりがスッと冷たくなる。人が苦しむ時に上げる、喉元から絞り出したような細い声が聞こえたような気がしたのだ。それだけだったら気のせいだと再び歩き出していただろう。
しかし、あの人によく似た声が聞こえたとしたら?僕の足は無意識のうちに路地裏に向かっていた。
♢
心臓が痛いほど激しく動く。今にも口から飛び出してきそうだ。
早く明るい場所に逃げたかった。しかし、奥に彼…アカネくんがいる可能性が残っている。
先程、呻きの後に聞こえた声はアカネくんにそっくりだった。間延びした、退屈そうな口調。教室で聞いたばかりだから耳に残ってる。
奥の方に二つの人影があった。一人は地面と同化する様に倒れていて、もう片方は拳を握って立ち尽くしている。
目が慣れてきたので、次第に状況を把握出来るようになった。やはりあの声はアカネくんで間違いなかった。目の前に居るのは紛れもなく、僕を助けてくれた恩人だった。
アカネくんは幽霊のように立っていた。悶えている男性を見下ろすようにして。
「アカネくんなの?」
「あー。見られちゃったか」
彼は振り返って僕に目を向けた。笑っていた。口角だけ上がっている。
「よりにもよって知ってる奴に見られるとか最悪だわ。まあいいや、もう手遅れだし」
「……これって、アカネくんがやったの?」
「うん。コイツ、ヤるだけヤッてさ、金払わずにゴネやがったから軽く殴ったらコレよ」
すんなりと事実を認めた。彼は当事者なのに、僕よりも落ち着いていた。
「これって…暴行とか犯罪だよね…?」
「犯罪犯罪。まあチクるなり何でもしなよ。俺は今更ジタバタしねーから。ポイント稼ぎにはなるんじゃない?」
アカネくんは倒れてる男に背を向けて、通りに向かって歩き出した。その背中に向かって僕は叫んだ。
「誰にも言わないよ!」
「もーそういうのいいってば」
そう呟きながら、彼はペッと口から何かを吐き出した。白く濁った液体がコンクリートに叩きつけられる。
「本当だって、誓うよ!何でもするから信じて!」
「は?ってか倉井くんは何でそんなに必死なの。なんでもするとか簡単に言うなって」
「本気だよ…」
「じゃ、言ってみなよ」
僕は唾を飲み込んで、口を開いた。
「奴隷…例えばその、せ、性奴隷…とか」
静かになった。いや、空気が凍ったと言った方が正しいだろうか。
アカネくんの顔を見るのが怖くて、僕は下を向いた。
なんて馬鹿なことを口走ったんだ。自分でも信じられなかった。口が滑ったとはこのことだ。
すると頭上から笑い声が降って来た。思わず見上げると、アカネくんが涙を目に浮かべて腹を抱えていた。
「は!?本気で!?冗談とかじゃなく?面白いねー倉井くん!」
「おもし、ろい……僕が?」
「うん、アンタギャグの才能もあるのかよ。…あー苦しい」
彼は人差し指で涙を拭った。少し頬が赤らんでいた。僕は自分の発言が信じられなくて放心しているというのに、アカネくんは容赦なく畳み掛けた。
「当ててやろう。どうしてアンタがそんなこと言ったか……。俺に関する噂を聞いたんだろ」
アカネくんの指摘に、一瞬心臓がおかしな動きをした。
「そ、そうです……。すみません」
「謝んなって!面白かったからさ。
…まあ、なんでも言うこと聞いてくれる奴って前から欲しかったんだよね。便利だし」
アカネくんは僕の肩をバシバシと叩いた。
「じゃ採用ってことで!マジなら俺の代わりに煙草とか買って来てくれんの?」
「やります!」
「威勢いいじゃん。教室でもそうしたら?」
僕が痺れる肩を摩っているうちに、アカネくんは路地裏から出て行った。追いかけると、彼はホテルの看板の前で立っていた。そして僕の耳元で囁く。
「人のチンポ舐めてばっかで飽きてたからさ、たまには舐められる側になるのも悪くないよな」
彼の台詞は僕の聞き間違いじゃないか?全身が硬直した僕の肩を再び叩いて彼は「そういうことで明日からからよろしくー」と、間延びした挨拶をしてホテル街から去って行った。
♢
アカネくんの言う通り、僕があそこまで必死になって縋り付いた理由がよく分かっていなかった。
初めて出会った趣味の合いそうな人だったからだろうか。それとも、初めて助けてくれた人だから?
昔からそうだった。優しくしてくれた人にコロッと依存して、失言して相手に失望される。そんな経験を積み重ねていくうちにこんな性格になってしまったのだ。他人と関わることを恐れるくせに人一倍寂しがり屋で、自分の発言に自信が無いから意見を持たない中身空っぽ人間。
それだけでも最悪なのに、僕はさらに最悪なことを口にした。アカネくんに対する偏見が露見した、最低な発言だった。彼は笑っていたけど、正直言って全然面白くない。あれを気に入ったと喜ぶのは彼くらいだろう。
「今から何するの」
「きぼプレの続きを想像して勝手に描くんだ」
へぇ、と相槌を打ちながらアカネくんが僕の前に座った。二人きりの茜色に染まった教室。夕暮れの静かな教室は集中できるから好きだった。クラスメイト全員が退出するまで待っている間、アカネくんはずっとこちらを見ていたのを僕は知ってる。
僕がペンを動かしている間、アカネくんはノートを眺めたり、窓の外を眺めたりしていた。特に何か用事があるわけではないのに居残りをしているようだった。
ここ数日、ずっとそうだ。僕の奴隷発言がキッカケなのか、彼は僕によく話しかけるようになった。とはいえ、命令をされたことは一度もなかった。
主人公の少女と、相棒の男が合体技を決めるシーンを描き上げた後、僕はずっと気になっていたことを口にした。
「あの、一つ聴いてもいい?」
「質問の内容によりまーす」
思わず口をつぐんだ。そんな様子をアカネくんは頬杖をついて笑った。そして質問を促すように瞬きをした。
「あの日、どうして僕を助けたの?牧原くんと揉めたら面倒くさいよね。メリットの方が少ないと思うけど」
アカネくんには今まで殆ど関わりのなかった僕を助ける理由も、義理も無かった。尋ねたはいいが答えを聞くのが、怖い。会話の間がいつもより長く感じた。
「理由?ああ、すげーしょうもないよ。俺、アイツのこと嫌いだからアイツの邪魔がしたかっただけ。マイハラくんが調子乗って誰かをイジってる様子とかムカつくじゃん。だから中断させたの」
「そうだったんだ。そんなに仲悪いの、知らなかったな。あ、そうだ…トイレ行ってきていい?ずっと我慢してたの忘れてた」
「いってらー。漏らすなよ」
手を振り返して教室から出た。あと少し動くのが遅かったら涙が出ていたかもしれない。
正直、期待していた。アカネくんは特別な理由があって僕を助けたと。時間が経つにつれて贅沢な奴になっていたようだった。
たまたま助けてくれた人が僕と同じ趣味を持っていてラッキー、それくらいで留めておけば良かったのだ。
でも彼は初めて僕を褒めてくれた。自信を持てと鼓舞してくれた。手を差し伸べてくれた。
きっと全て、アカネくんにとってなんてことない言動だったのだろう。僕は沢山いる知り合いの中の一人でしかないのだ。噂によればアカネくんには数え切れないほど“相手”がいるのだから、一人一人の名前なんて把握していないだろう。
僕には、アカネくんしかいない。一緒に下校したり寄り道したり、好きな漫画について話したり。みんなにとって当たり前のことだ。でも僕はそんなことを誰かとしたのはアカネくんが初めてだった。
だからあの日の夜、必死に縋り付いたのだろうか。初めて僕の力を褒めて、認めてくれた人だったから。自信を持つキッカケをくれたから。
トイレを済ませて教室に戻る途中、必ず外廊下を渡らなくてはならない。冷たい風が頬をなでる。すると、風に乗って話し声が聞こえた。無視して通り過ぎようとしたが、会話の中に聞き慣れた単語があった。
忍び足で声の元に近づく。渡り廊下と焼却炉は地続きになっている。あんな場所、滅多に生徒が近づかないはずなのに。その上、アカネくんの名前が聞こえたから近づかずにはいられないだろう。さっき目に浮かべた涙を忘れて、耳を澄ませた。
「結局、アカネの奴、オタクをペットにしてるってことで確定か?」
「ああそうだ。そうでもなきゃ、あんなにベッタリしてねえだろ!」
確実に僕とアカネくんについて会話していた。声の主はお馴染みの牧原とそのお友達だ。彼を含め周囲の人間には、僕はアカネくんのパシリに見えているようだった。
僕が物陰にいるとは微塵も感じていないようで、二人は飽きることなくアカネくんの悪口を言っていた。アカネくんは露骨に牧原を嫌っていた。牧原も同じくらい、いや、それ以上に敵意を持っている。
「そういやアイツが町中の中年オヤジと寝てるって噂、ホントか?マジだったら頭おかしいだろ」
「そうらしいぜ。まあ、校内であんなふうに有名になった奴が、変態親父の子猫ちゃんになってることに違和感なんかねえよ」
二人は嫌いだと言っている割に、アカネくんについて詳しいことに誇りを持っているようだった。そしてアカネくんについて勝手な憶測を立ててあれこれ批判することが楽しくて仕方がなさそうだった。
僕は無性に腹が立って、思わず拳を握りしめた。少し震えていた。それが情けなくて歯を食いしばる。
お前はこの場に突っ立って耳を傾けているだけなのかと。唯一自分を励ましてくれたと、恩人だと縋り付いた相手への罵詈雑言を黙って聞いているだけなのかと。
気付けば僕は、あの時、夕方の昇降口で出来なかったことをしていた。足を前へ動かして、下らない会話に興じる奴等に詰め寄っていた。
「君たちに、アカネくんの何が分かるんだよ!」
語尾が震えているのが、自分でも分かった。勿論相手にもそれは伝わる。二人組は僕の顔を見るなり吹き出した。
「は?オタクじゃねえか。いきなり何だよ!?もしかして盗み聞きしてたのか」
僕は呆気なく取り囲まれてしまった。逃げようにも全くその場から動けない。無策で飛び出したことを少し後悔した。僕は笑い飛ばされるために叫んだわけでは無いのだ。
「ああ、聞いてたよ!そんなにアカネくんに対して文句があるなら直接言えばいいじゃないか。陰口なんて、情け無い」
牧原たちを見上げながら叫ぶように言った。精一杯睨みつけたが、二人の表情はピクリとも変わらない。半笑いで僕を見ている。
「はあ、オタク君さ…立場が強いアカネくんと一緒にいたから勘違いしちゃったのかな?調子乗んなよ」
突然、目の前が真っ暗になった。頬と胃の辺りが熱くなる。思わず体を折って咳き込んだ。殴られたと気付くまで、時間がかかった。
そこからは呆気なかった。地面に横たわり、ダンゴムシのように丸くなって背中に伝わる衝撃を、目を閉じて耐えることしか出来なかった。
身体が痺れてきた頃、遠くの方から耳に馴染んだ声がした。僕の名前を呼んでいるような気がした。
辺りが静かになった頃、恐る恐る目を開けるとアカネくんがこちらを覗いていた。
「そんなとこで寝てたら風邪引くんじゃない?」
「今は冷たさとか、よく分からないや」
暫くコンクリートの上にいると、身体が徐々に冷えるのを感じた。空を仰いで、僕は最低だと小さく笑った。青黒い空に大きな亀裂が入っていたのだ。
アカネくんは隣で体を縮めて座っていた。
「ごめんね」
上手く伝わっただろうか。口の中が腫れているから。
彼はこちらを見た、と思う。景色が歪んでいるせいか、辺りが薄暗いせいかは分からないけど、彼がはっきりと見えない。
「そうやって簡単に謝るなよ。倉井くんは悪いことしてねえじゃん」
「だって、それ……」
鉛のようになった指で彼の頬を指差した。アカネくんはそこを手でさすりながら、笑った。
「こんなのノーカウントだから、気にすんなよ。そろそろ動けそうか?なんか食って元気出そうぜ」
僕はアカネくんに持ち上げられるようにして立ち上がった。その拍子に眼鏡が落ちた。テンプルの根本から折れてしまっていた。
体のありとあらゆる箇所が軋む。今日だけで五十年分は老けたかもしれないね、なんて笑いながら街灯の明かりを頼りに歩き出した。
♢
「まだ痛む?」
背中に軽い衝撃と痺れ。アカネくんが背中に覆いかぶさってくる。揺れた髪からシャンプーの香りがした。
買ったばかりの氷を頬に当てながら、お目当ての物を彼に差し出す。
「氷あるからもう平気。それより、これ、買ってきた」
「サンキュ」
日付の境目、暗闇が空を覆う時間帯のコンビニの明かりは何故か暖かく感じた。
アカネくん曰く大人っぽい顔の僕(要は老け顔ってことだろう)の方がタバコを購入できる確率が高いらしい。
「やー、助かった。この辺にあるコンビニ全部に顔覚えられてるからどこも買えないんだわ」
「そんなに…。タバコってそこまでハマるの?」
彼は口に咥えたタバコにライターを近づけた。ジュ、という小さな音と共に体に悪そうな臭いが鼻をかすめた。
煙を吐き出すアカネくんは少し幼い顔つきをしているからか、目が離せなかった。大きくて丸い瞳はこの世の汚れを映したことが無さそうだ。タバコを吸うために窄めた唇は薄桃色で、艶々している。白い頬に青黒い痣が呪いのように染み付いていた。
「なーに見てんの?あ、もしかしてコレ?」
視線に気付いた彼はタバコの箱を僕に向けた。君を見ていたんだよ、なんで言えるはずがない。慌てて箱をアカネくんに返した。
「す、吸えないよ……。まだ未成年だし」
「倉井くんは真面目でいい子だなあ。俺みたいなのと一緒にいたらアホになっちゃうね」
ケケ、と喉を鳴らして笑う。
「アンタ、呼吸器系が弱いとか煙が苦手だったりする?」
「全然平気だけど。何で?」
答えた直後、アカネくんはタバコのフィルターが凹むほど吸って、僕の顔に向けて煙を吹いた。白く苦い霧が僕を覆う。いつもアカネくんから微かに香る匂いに覆われる。
アカネくんが吸って吐いた煙が、僕の肺に入っていくのを感じた。
喉元まで迫り上がる咳を抑える。発作的に吐き出したくなかった。肺を通り、全身の血管を巡るまで、体内に留めておきたかったのだ。
「な、何するの急に。ビックリした」
目尻に溜まった涙を拭って、アカネくんの顔を見た。彼は少し驚いたようで、目を僅かに見開いていた。
「ごめんごめん。自分でもよく分からんのよ。なんか倉井くん見てるとさあ…」
彼は吸いかけのタバコを駐車場のアスファルトの上に押しつけた。グリグリと執拗に擦る。
「からかいたくなるんだよな…。初めて喋った時はオドオドしてる感じだったのに意外と変なこと口走るし。いかにも眼鏡くんってキャラなのに変なとこで肝座ってて勝ち目ないのに飛び出しちゃったり、俺が頼めばタバコ平気な顔で買うしさー」
「変なとこ、って言い過ぎだよ。僕も最初はアカネくんのこと怖い人だと思ってたよ」
「正解じゃん」
彼の言葉に僕は首を振った。
「でも今は優しいって思ってるよ」
アカネくんはフラッと立ち上がった。コンビニからゆっくりと離れる。僕は慌てて付いて行った。
コンビニより何倍も大きな面積の駐車場は、端に行けば行くほど闇が滲んでいる。ほとんど黒に溶け込んでしまった彼はポツリと呟いた。
「今夜さ、どうする」
小さく、細い声だった。僕は首を傾げながら答えを探した。僕の顔に煙をかけるなんて、様子がおかしい。いくら僕にからかい甲斐があるにしても、こんなに急じゃ面白い反応も出来ないだろう。
「これからって…もう遅いし…。危ないから送ろうか」
アカネくんはピタリと足を止めた。笑ったのか、少し肩を揺らした。俯いてるから表情までは見えない。
「急にどうしたの?」
「いや、こんなことマジで初めてだから面白くて。まあこっちの話だからきにすんなよー」
顔を上げたアカネくんはいつもと同じ表情を浮かべていた。
「良い子は寝る時間だねー。……今日はからかって悪かったな。じゃ、お家に帰りますかあ」
♢
意外と眼鏡なしでも生活できるんじゃないだろうか。そんなことを思い浮かべながらアカネくんと田圃道を歩いた。等間隔に置かれた電燈以外の明かりはほとんど無く、辺りは闇に包まれていた。しかし、いつもより月が明るいおかげで視力の悪い僕でも助けを借りずとも歩けた。
「ホントに一人で歩ける?」何度かそう尋ねてくれたけど、差し伸べられた手を取るのがなぜか無性に恥ずかしくて、僕は大丈夫だと答えてしまった。
「俺、嘘ついてた」
鈴虫の合唱に掻き消されそうな、細い声だった。街灯の真下に立ち尽くすアカネくんは白い光に包まれて、溶けてしまいそうだった。
「さっき俺が倉井くんを助けた理由話したよね?あれ、嘘なんだよ。マキハラを邪魔する為だなんて、あの場で思い付いただけ」
「じ、じゃあ本当の理由は…?」
「本当は、倉井くんと話したかったんだよな。虐められてる現場に居合わせた時、正直言って嬉しかった。俺みたいなやつが堂々とアンタに話しかけるチャンスなんて滅多にねえから」
アカネくんを見たけど、視界が歪んでよく分からなかった。おかしい。眼鏡なんてとっくに外しているはずなのに。
どうして僕に話しかけようと思ったんだろう。尋ねようとしたけど、口が動かなかった。アカネくんはそれを察したのか言葉を続けた。
「一学期さ、俺と倉井くんは前後の席だったじゃん。あの時からアンタのこと気になってた。覚えてない?授業中にコッソリ漫画描いてただろ」
その瞬間、記憶が脳の最深部から滝のように流れ出した。まだ蒸し暑い時期、僕は授業中の退屈を凌ぐために、下らない創作に興じていた。背後からの視線を感じながら。
「じゃあ全部見てたってこと!?」
「うん。担任と学年主任のバトル漫画とか…。後ろから覗いてる時間が楽しかった。だからあの時期はよく学校に来てたんだよね。でもさ」
車が通った。道が細く、端に避けなくては衝突する。そう分かっていたのに、磨りガラス越しみたいな視界じゃ気づけなかった。避けた所までは良かった。勢い余って畦道から足を踏み外してしまった。転ぶ、そう覚悟した瞬間、アカネくんが僕の肩を支えた。車に続くように風が吹く。
「でもさ倉井くん、いつも辛そうに教室の隅で小さくなってたじゃん。あれがよく分からなくて、なんでこんなに面白い奴が肩身狭い思いしなくちゃいけないんだってムカついた。
すぐ話しかければよかったんだけど、ほら、俺ってこんなじゃん……って倉井くん泣いてる?」
目から熱いものが溢れていた。鼻水が垂れないように必死にすする。
「もしかしてさっきの傷が痛む?怖かった?」
「違うよ、安心したんだ。さっきのアカネくんの嘘ですごく動揺してたんだから。勝ち目無いのに喧嘩しに行くくらいにはね。でも、良かった」
僕は掌で目を擦った。目蓋がじんじんと疼く。
「僕は嬉しかったよ。あの時助けてくれて。それに、僕のことを褒めて、自信持てって言ってくれたのは君が初めてだった。初めて自分が好きになれた。全部アカネくんのおかげだよ」
「そっか…。はは、俺みたいな奴でもそんなこと出来るんだな。人を勇気付けるなんて」
「アカネくんこそ、どうしてそんなに自分を卑下するの」
「俺のこと、知らねえの?…知ってるよな。頼まれたら誰とでも寝るって」
稲が風に揺れた。まるで大きな生き物の毛ように蠢く。いつの間にか涙は止まっていた。
「アイツらが言ってたことは全部ホントだよ。倉井くんが耳にした俺に関する噂もね。金とか権力持ってそうな奴と寝て、そいつの弱みを握って脅す。そんな奴」
牧原が言っていたことを思い返した。あの時油断さえしなければ弱味なんて、と。
「もしかしてお金に困ってたの?」
「んー、理由なんて忘れた。昔から知らない奴と寝たけど、ある日突然気付いたんだよね。皆俺のこと、都合のいいオナホか何かだと思ってるって。俺のこと舐めてんだよ」
ベッドで眠りこけてる相手の携帯電話を開いて、都合の悪そうな情報を抜き取る。そして金が下僕の二択で脅す。主導権を握ることに必死だった。アカネくんはつまらなさそうな顔で説明した。
「アイツらは馬鹿だよ。秘密なんて持ち歩くなよな。そんな見られて困るモノ、鍵付きの引き出しにでもしまっとけよ」
彼は再び口を閉ざした。真白な光に照らされた少年は人一倍寂しそうで、幼い表情を浮かべていた。構ってもらえないから、お気に入りのぬいぐるみに話しかけてるみたいに。
僕はぬいぐるみじゃない。アカネくんと言葉を交わせる。
「まあ、そんな俺も馬鹿だけど」
アカネくんはポッケに手を入れて、電柱にもたれかかる。タバコを吸おうか迷ってるようだった。
アカネくんは分かっている。このままじゃ駄目なことを。悪い方向へ堕ちて行くことを。
止めたい。でも、僕にアカネくんを止める資格があるのだろうか。つい最近知り合って、少し身の上話をしただけの僕に。
不特定多数の人間の弱みを握るような生活、いつか破綻するに決まってる。人の恨みを買ったらロクなことにならないだろう。
アカネくんの横顔を見る。輪郭のぼやけた彼の頬に、真新しい痣がある。きっと痣や傷が増えるだろう。アカネくんの行動が原因とはいえ、もっと酷い暴力や悪意が彼を襲うかもしれない。
そんなこと、アカネくんはきっと分かりきってる。分かり切ってることを他人から指摘されるほど腹が立つことはない。
結局、どうすればいいのだろう。
僕は、
「ねえ、アカネくん」と言った。
→ A
黙って空を見上げた
→ B
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