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B
頭上では月が輝いていた。街を優しく照らしている。星が霞んでしまうような光に僕は目を細めた。
結局、僕はアカネくんを止めなかった。僕が言う必要なんて無い。アカネくんならきっといつか気付くと信じているから。
「もう帰ろっか」
「そうだね」
再び歩き出した。アカネくんの少し丸まった背中を見ていると、両手で包んでしまいたくなる。腫れた頬を指先で冷やしてあげたくなる。
僕は胸に沸いた感情を、不思議とすんなりと受け入れていた。元々長い間、ここにあったような感覚だった。
この気持ちを伝えたらどうなるだろう。伝え方も、言うべき言葉も分かっていないけど。
きっと、これを伝えたら全てが変わる。元の関係に戻ることはないだろうな、そんな確信めいた予感がする。無意識のうちに考え込んでいたようで、少し離れたところからアカネくんの声がした。
「何?急に立ち止まって。寒いから急ごうよー」
「ご、ごめん」
駆け足で近づくと、アカネくんは空を見上げていた。
「今日はやけに明るいな。ああ、月か」
「うん。月が綺麗だね」
言葉を発してから、顔が熱くなるのを感じた。月が綺麗、だなんて。僕の想像の中で一番キザな表現だ。
恐る恐る顔を上げる。アカネくんは何て言うだろう。
彼はポケットから箱を出して、タバコを一本くわえた。火を灯しながら言う。
「何それ?月が綺麗とか知らねえけど。まあ、置いてって悪かったな。行くかあ」
頷くしかなかった。顔の火照りは治らなかった。僕は卑怯だ。他人の言葉を借りて、気持ちを伝えた気になっていたのだから。
彼の吐いた白い煙が月明かりを曖昧なものにした。滲んだ月は綺麗だった。
田圃道が終わり、見慣れた住宅街に差し掛かった頃、アカネくんが思い出したように言った。
「そういや進路アンケート出した?」
「まだだよ。確か明日提出だったよね」
「あー、ヤベ。でもさ、夢なんて無いから訊かれても困るんだよね。倉井くんはどうなの?」
「えーっと、何個か志望校書いたよ。そろそろ本格的に受験かあ」
忙しくなったらこうしてゆっくりアカネくんと過ごせる時間は減るだろう。想像するだけで胃が重くなった。
「アカネくんはどこ受けるの?…ってアレ」
隣にいたはずのアカネくんが後ろにいた。さっきと逆の立場だ。次は彼が立ち止まってしまった。
「どうかしたの?」
「いや……。倉井くんは俺と違うんだなって。ちゃんと先のこと考えて生きてるんだね。前向いて進もうとしてる」
アカネくんはまだ残っていたタバコを地面に捨て、爪先ですり潰した。執拗に、地面に穴でも開きそうなほど。
「そうだよな、俺が邪魔しちゃ悪いよなぁ。
……勉強頑張れよ。じゃあね」
最後の方はほとんど聞こえなかった。
暗闇に溶けていくアカネくんの背中に手を振ったけど、彼は一度も振り返らなかった。それでも僕は手を振り続けた。腕が痛くなっても、背中が見えなくなってもやめなかった。腕を止めたら何かが変わってしまいそうな気がした。
嫌な予感は当たるものなのだろうか。
翌日からアカネくんは学校に来なくなった。進級して卒業するまで、顔を合わせる機会は無かったので彼が無事に卒業出来たかは知らない。
その後、進学のために僕は引っ越した。あの土地にいるとアカネくんのことばかり考えてしまいそうで、年末年始以外は地元に帰らなかった。
♢
年の瀬に帰ってきた僕は意味もなく街をぶらついていた。家にいてもやることは無いし、この土地に友人は一人も居ない。
それでも、薄味のノスタルジーを感じるのも悪くないと、目的のない散歩を楽しんでいた。
数年前に比べて寂れたホテル街を歩くまで、アカネくんのことを思い出せなかった。いや、思い出さないように記憶の片隅に押しやっていたと言った方が適切だろうか。
呻き声が路地裏から聞こえた時、自分の頭がおかしくなったのかと思った。あの日同じだった。路地裏に行けば、あの日に戻れるんじゃないか。そんな馬鹿げた妄想に駆られた僕は燈に誘われる夜光虫のようにフラフラと歩いていた。
二つの影があった。一つは倒れており、もう一つは僕の気配に気付くと、奥の方へ逃げていった。
「大丈夫ですか?」
呻いている人に声を掛ける。倒れているのは小柄な男だった。殴られたのか、少し血の臭いがする。その上、酒とタバコ臭かった。
彼は顔を上げながら答える。
「へーきです…。死ぬかと思ったけど」
伸びた髪の隙間から見知った顔が見えた。鋭く、大きな瞳に白い頬。
「もしかして君…」
「あ、気付かれちゃった?倉井くん久しぶり」
髪をかきあげた彼の顔は傷だらけで、白い肌にグロテスクでカラフルな痣が滲んでいた。目元に真新しい打撲痕がある。少し血が滲んでいた。
その傷から目を離せずにいると、彼は僕の目を覗き込むように言った。
「漫画はまだ描いてる?」
すぐに答えられなかった。呆然としていると、彼は一人で立ち上がり、服についた汚れを払い落とした。
「まあいいや、今日見たことは忘れてよ。俺は結構元気でやってるからさ」
彼は奥へ歩いて行った。きっと、先ほど逃げた人を追いかけるのだろう。僕はその場から立ち上がらなかった。しばらくの間、視界のピントが合わなくて、何も考えられなかった。何故か水滴がコンクリートに染みた。
♢
1年経った冬。成人式から帰る途中で、彼の家に寄った。
扉から痩せた女性が出てきた。目元が彼に似ていた。彼の母は僕を見るなり玄関口で泣き崩れた。彼女曰く、家に息子の友人が来たのは初めてらしい。
居間に通された。出された茶を啜りながら学生時代の話をしていると、彼女は僕に見せたいものがあると言って奥へ行った。
そして一冊のノートを手渡された。
「鍵のついた引き出しに入っていたの。あの子、勉強机なんて殆ど使わなかったのに、あの引き出しだけ使っていたんだよ」
「これはもしかして日記…ですか」
「そう。裏表紙にこう書いてあったの。『親でも読むの禁止!でもクライくんならいいよ』って。私が持っていても読めないから、もし良ければ貴方にあげる」
僕は頷いた。何処にでもある有り触れた大学ノートが重く感じた。
彼は皆と違って、秘密を持ち歩かなかった。鍵の付いた引き出しにしまって、見せる人を予め決めていた。
君のことをあんな風に知りたくなかった。
成人式特有の、近況報告が終わった後話題が尽きた頃に始まる、地元であったスキャンダラスな事件の情報交換の時間に、君の名前を聞きたくなかった。
君の話題は、地元に残った人間の間で散々語り尽くされたせいか、簡潔にまとめた内容だったよ。
あの日の頬を腫らして歩いた帰り道、僕が予想していたことが当たってしまった。
やっぱり誰かの恨みを買ってはいけなかった。そうなる前に僕があの時止めればよかったのだ。
田舎町の路地裏で白線になった君を思い浮かべても、僕の中の君は高校の制服を着て、僕にタバコを買ってきてとねだってくる。
あの日、僕が君に嫌われる覚悟で警告すれば、今頃君はこの場でスーツを着て同級生をつまらなさそうに観察していたのだろうか。年齢の割に吸い慣れたタバコを片手に。
震える手でノートを開く。これから読むことを僕は記憶に刻みつけるだろう。もし薄れたら、古傷を掻き毟るように瘡蓋を剥がして、常に真新しい状態にするよ。何度も血を拭って膿が出てもいい。君を忘れたくないから。
使い古されたノートの裏表紙には『倉井くんは読んでもいいよ』というメッセージの隣に、僕が好きだった漫画のキャラクターが描かれていた。そして1ページ目には、授業中に落書きをする僕の背中が描かれていた。
アカネくんは絵が上手だった。
僕はアカネくんのことを全然知らなかった。こんなノート越しじゃなくて、君と言葉を交わしながら、ゆっくりと長い時間をかけてお互いのことを知って行きたかった。
感情が言葉になっても、伝える相手がいないので、僕はそのまま飲み込んだ。
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