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夢を見ていた。
旭日は今よりずっと小さく細っこい、昔の旭日だ。生暖かく湿っぽいベッドに寝かされて、とろけそうに柔らかくて重いものが体の上に覆いかぶさっている。息苦しい。押しのけて逃げ出してしまいたいが全く動けない。セミの声が耳元のすぐ横でじわんじわん鳴っている。重い、うるさい、気持ちが悪い。
吐き気がしてきて眠りから覚めると時計が六時のベルを鳴らしていた。
『嫌な……夢だ』
覚醒を感じてからゆっくりと目を開ける。目の前にはいつものごとく黄ばんだビニールクロスの壁があった。それを確認して安心したが、まだ体に重さを感じる。はっと気づいて横を見るとツキヤが旭日の体にぴったりと寄り添って眠っていた。
「うぁぇ!」
飛び起きてベッドのすみに避難し、がたがた震えているとツキヤが目をこすりながら起き上がった。
「なんでここで寝てんだよ!」
ツキヤはぽかんと大きな口をあけて欠伸をした。
「……じぶんちと間違えた」
そういうとまたぱたんと布団の上に倒れこむ。
「起きろ馬鹿!何時間寝れば気が済むんだ!」
「九時間……くらい?」
「寝すぎだ!脳みそとろけてんのはそのせいだアホ!」
「俺、不眠症……だから」
「不眠症がそんなに寝れるか!」
ベッドから蹴落としてやりたいが、夢の中の感触とツキヤの耳たぶの柔らかさが重なり合って足が出ない。
「俺はもう起きるんだよ!とにかくそこどけ!」
「ふぁ~い……」
寝転がったまま足だけを畳に下ろして、体を回転させるようにこたつに移動していく。息を整えてから旭日はベッドを降りた。
「旭日は、何時間寝たらいいの?」
背後から急に名前を呼ばれてどきっとした。名のった覚えはない。そういえば宅配便を勝手に受け取っていたからその時名前を見たのだろうか。ぼんやりしているようで本当に油断ならない奴だ。
「……三時間」
「いいね、うらやましい。……さわっちゃって、ごめんね」
「……」
黙って冷蔵庫を開けて卵を二つ流しの上に置いた。飯はタイマーどおり炊けている。
「おい、目玉焼きぐらい作れるんだろ」
「うん」
「作れ」
「うん……」
ツキヤはのそっとこたつから這いだして台所に立った。
黒いタートルネックのセーターの袖をちょっとまくりあげたツキヤは、フライパンを熱して油を敷き片手で手際よく卵を割った。旭日はちょっと意外に思いながらツキヤの横に立ち、漬物を切って茶碗と汁椀に飯を盛る。
「平気なの?」
「何が?」
「俺が作ったごはん」
「……それは、多分、大丈夫」
「ふうん、直接触るのだめなだけなんだね」
核心をつかれた。
「あ、ああ」
「俺、最初、すっごい嫌われてるのかと思った」
「え……」
そういえば、嫌っていたはずだ。関わり合いになりたくないと思っていたはずだ。それがこうして一緒に朝食を作っている。
触れば嫌悪感がわいてしまうのは他の人たちと変わりはない。その点ではツキヤが「特別」ということもないが、このところずっとツキヤの記憶を反芻していて感じていた不思議な「不快感の無さ」が今も旭日を包んでいた。
「その人が好きとか嫌いとか……お前がどうとか、そういうのとは関係ない。俺は……もともと、こうなんだ」
「もともと?なんてあるの?」
「あるよ」
「散髪は?」
「自分で」
「上手いね」
「慣れてる」
「誰にでもそうなの?」
「誰にも」
「女の子でも?」
「ああ、どっちでも」
「ミホコさんって誰?」
思わぬ名前が出て包丁を取り落とした。
「……お前……何で、知ってる」
「うなされてたよ」
ツキヤが横で寝ていた時以上にがたがたと震えがきた。眩暈がして何も入っていないはずの胃からせりあがってくるものがある。流しに黄色い液体を少しだけ吐き、そのまま台所の床にしゃがみこんだ。
『なんてことだ』
不意打ちにもほどがある。
ツキヤも一緒にしゃがみこみ、旭日の肩にかけようとした手を止めて顔をのぞきこんだ。
「大丈夫?俺、なんか悪い事……言った?」
「……いや、お前のせいじゃない」
「でも……」
「俺の、最初のひとだ」
嘘をつく余裕すらなく本当のことを言ってしまった。
「俺は、本当に、もともと、こうなんだ。だから、途中で気持ち悪くなって、動けなくなった」
もう七、八年も前のことだ。
しゃべるほどに力が抜けていくのがわかる。もうどう思われてもいい。旭日は口を動かし続けた。
ツキヤは同じように床にぺたんと座った。
「ごめん……」
「だから、お前のせいじゃない」
「なんか、不思議で……こんなになるなんて」
そういうと、ツキヤは相変わらず人形の様な固い顔をしてほろりほろりと涙を流した。
「なんでお前が、泣くんだよ」
「ごめん……」
「……もういい。俺だってここまでひどいとは、思ってなかったんだ。お前が気にすることじゃない」
大きく息を吸うと空気が焦げ臭い。
「あ、たまご」
「うぁぁ、火消せ!」
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