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またツキヤの義理の母親という女性が廊下に立っていた。
「あ、どうも」
ツキヤの義母は目を細めながら、会釈した。
嫌な予感がする。
旭日が部屋に戻ってコートを脱ぐと、また窓を叩く音がした。ツキヤにあってからため息が増えたような気がする。鍵を外すとツキヤはからりと窓を開け枠に手を掛けて体を持ち上げた。一度窓枠に座って靴を脱ぎ、くるっと体を回転させて畳の上に立った。
「来てるぞ」
「うん」
「うんじゃねぇよ……」
そおっと玄関に忍び寄って靴を置いてくると、当たり前のようにツキヤはこたつに入った。
「もう頼まれても、嘘つかねぇぞ」
「だめ?」
「ダメダメ!一回だけでも心苦しいのに」
「……うん……」
ツキヤは猫背になってさらにこたつにもぐりこんだ。
「家族が、苦手ってのはよ……」
「うん」
「わか……らないでもないけどよ、あの人はそんな悪い人に見えないって言うか、いい人そうだけどなぁ」
「うん」
「お前、うんしか言えねぇのかよ」
「……うん」
「馬鹿か、もう知らん」
旭日は夜食と朝食の支度をするため台所に立った。支度と言っても飯を炊くだけだ。遅番で外で夕食を食べた日は夜食におにぎり一個かお茶漬け一杯、残りは朝食と昼食にする。
いつもならその間にささっと風呂に入る。が今日はツキヤがいる。知らんとは言ったが丸くなった背中が目障りで仕方がない。
部屋に戻ってセーターとジーンズを脱ぎベッドに畳んで置いていたジャージとパーカーに着替えた。ツキヤは顎をこたつに乗せて、ぼんやりとした半眼でその様子を見ていたが急に「いい人だって、わかってるよ」と言った。
旭日は立ったままツキヤを見つめた。何を考えているのか表情からは全く読めない。
「いい人でも、家族は苦手か」
「……うん」
「また、うんかよ」
旭日は棚からパソコンを取り出し、起動させてざっと今日のニュースに目を通した。法科大学院に関する記事があった。
『こんなもん、行ってられねぇもんな』
一年の浪人ですんだのはリミットがあったからだ。旧試験からの移行期間中に何とか受かりたくて根を詰めてきた。
ツキヤは時々頭を転がして、右のこめかみを下にしたり左を下にしたりした。その度に左耳につけた金の鎖が頬にだらんと垂れ下がったり、こたつの上に寝そべったり、気ままに動く。
飯が炊ける匂いが部屋にも漂ってきた。静かな部屋にくぅっとツキヤの腹が鳴る音が響いた。
「飯、食ってねぇのか」
「うん」
「本当にうんしか言わねぇな、今日は」
飯が炊けた合図の電子音がした。
ふぅっ、と一息ついて、旭日はパソコンをスタンバイ状態にして立ち上がった。
茶碗に二杯分、湯を沸かす。いつもなら一杯だ。湯が沸くのを待って飯を茶碗と汁椀に盛った。お茶漬けの素を振りかけて湯を注ぐ。
「食え」
茶碗と箸をツキヤに突き出した。
「……うん」
自分の分の汁椀とスプーンをこたつの上において、布団にもぐりこんだ。
スプーンで飯を崩して口に運ぶ。お茶漬けと言うよりスープかなにかを飲んでいる気分だ。ツキヤは背を丸めたまま、一口食っては茶碗の中をじっと見てを繰り返していた。さらさらっと食べ終わった旭日は食器を台所に運ぶと、ラップを取り出して余った飯に軽く塩を振って握った。白飯はまだ火傷しそうなほど熱々だ。
ラップに包まれた握り飯を皿に乗せ玄関のドアを開けた。帰っていることを期待したが女はまだそこにいた。
「あの、腹減ってません?」
女はうつむいていたが急に声をかけられて顔をあげた。
「え……、あ、いえ……」
「まだ、待つならどうかなって思ったんですけど」
と言って皿を見せた。
「あら」
「こんなもん返って失礼かもしれませんけど、まぁ炊きたてなんで。よかったら」
「……すみません」
女は握り飯を素直に受け取った。
「あいつ、帰ってくるかどうか、わかりませんよ」
どこまで関わっていいかわからない。なるべく嘘もつきたくない。でも全く知らん顔もできない。
「でも、終電まで待ってみます」
「そうです、か……、それじゃ……」
「ありがとうございます」
ドアを閉める瞬間まで女が頭を下げているのが見えた。
サンダルを脱いで部屋に上がり流しを見ると茶碗と箸が置いてあった。閉めていたはずのガラス障子は開けっ放しでツキヤはまたこたつの中に戻る途中だった。
炊飯器の中は空っぽだ。もう一度炊きなおさなければならない。米を研ぐ前に食器を洗ってしまおう。汁椀と茶碗を洗い箸とスプーンを同時に手にしてスポンジで軽くこすった。
流水で泡を流している時に、ふと『間接的になら、大丈夫なんだな』と気づいた。茶碗と箸はツキヤが使ったものだ。
見たり、見られたり、話をするのは全然平気だ。それはわかっていた。今日だってパートの女性達と普通に話し、お客さんにもなんの抵抗もなく応対している。だが人と直接接触するとどうしても緊張し、しまいには嫌悪感が湧いてしまう。
人がさわったものは平気だということを今更ながら自覚した。ふれるどころか人が口にしたものでも平気だ。人がさわったものを口にすることもできる。そうでなければ世の中のほとんどのものがさわれないはずだ。
水の冷たさに手がしびれてきてはっと我に返った。
もう一度米を研いで今度は朝炊き上がるようにタイマーをしかけて部屋に戻った。
「……ごめんね」
「終電まで、待つってよ」
「……そう」
「そう、じゃねぇよ。きっと何か話があるんだろ。こう何回も来るようじゃ」
「うん……」
また逆戻りだ。ツキヤが困ったように首をかしげた。金の鎖が宙ぶらりんになって揺れている。
「ちょっと、いいか」
「何?」
「そのピアスに、触っても」
「……いいよ」
ツキヤの横顔の前にしゃがみ、人差し指を鎖の先に伸ばして、触れた。
指先で金色の光が遊んでいる。
嫌悪感は無かった。
ツキヤの首が少し動いて耳たぶがふれた。柔らかさが指に伝わると途端にぞわんと悪寒がして慌てて指を下げた。
「変なこと言って、すまん」
「大丈夫?」
「うん?」
「触っても」
やはり見抜かれていた。ぼーっとしているくせに意外と鋭いので困る。
「うん……」
今度は旭日がうんしか言えなくなった。
毎日外に出て社会的には人と普通に接していたつもりでも、やはり内面は閉じこもっている。どこまでが平気でどこまでが駄目なのかいちいち確かめなければならないのだろうか。しかも確かめたところで境界線が動くだけでマイナスの領域が無くなるわけではない。境界線自体をなくしてしまいたいのに。
『こんなことで、大丈夫なのかな……』
将来への切符さえ手に入れば治るんじゃないかと漠然と考えていた。しかし何も変わりはない。
ころんとツキヤは畳の上に転がった。寝られても困るが、まだ終電まで間がある。ああ言ってしまった以上この部屋から帰すに帰せない。
「寝るなよ」
と言ったが、返事の代わりに寝息が聞こえてきた。
「しょうがねぇなあ」
毛布を一枚ツキヤの上にかけてやった。
寝苦しいのかツキヤはたびたび寝返りを打った。寝息もあまり安定していない。一度水面から浮き上がるように頭をあげて、「何時?」と聞いた。
「二時前、もうとっくに終電すぎたぞ」
と帰るように促したがまた身を横たえてしまった。
「じゃ、聞くなよ……」
もう放っておこう。勝手に帰るだろう。いつものように三時前まで勉強してベッドに入った。
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