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「あと、何日だっけ?」
トラックヤードに通函をまとめて持っていくと、青果売り場の主任が煙草を手に声をかけてきた。
「二週間です」
「ふーん、まぁ、よく頑張ったね」
「高校の時から、目標でしたから」
「俺、半分嘘かと思ってた。弁護士志望の奴がこんなとこでバイトしてるわけねぇって」
「まぁ、そうですかね。学生の時とペース変えたくなかったんで」
「そんなもん?」
赤いスチール缶の灰皿に煙草を落として主任は中に入っていった。
箱を置いてバックヤード内に戻ってくると店舗内が何やら騒がしい。さっき中に入った主任が大声で何か叫んでいる。旭日は反射的に店舗内に飛び出した。
レジの横にある休憩コーナーで銀色に光るものを振りかざしている男が見えた。
追う男と逃げる男。どちらも五十年配で酒を飲んでいるのか顔が赤い。
騒がしく思ったが実際に叫んでいるのは主任だけだった。客も店員も書割のようにピクリとも動かず、黙って男たちが争うのを見ていた。当の二人の男も息遣いは荒いものの言葉は無い。
音もなく動く銀色の光は実に無軌道だった。どこへ向かうかナイフを握っている本人ですらわかっていないようだ。
そうこうしているうちに逃げる男が人の群れに飛び込み、ナイフが後を追った。そこでようやく客の悲鳴が上がり人波が真っ二つに割れた。
刃の先に女が立っていた。地味な紺色のスーツにひっつめ頭の、会社帰りに買い物に来たといった格好だ。
女はすっと刃を避けて横に回りナイフを持った手をひねり挙げた。手から落ちたナイフを黒いパンプスで弾いて床の上をすべらせ、腰の入った動きで男の体を引き倒すと肘をひねり挙げたまま上に乗った。
店舗に入ってからここまで一瞬の出来事だった。
「早く!取り押さえて!力じゃかなわない!」
目が真っ直ぐに旭日を見ていた。
ぐっと手に力が入ったが足が動かなかった。男は押さえつけられていたがじたばたと動いている。ひっくり返って身動きがとれなくなった甲虫のようだ。
『気持ちが悪い』
怖いよりも吐き気のするような嫌な感覚が先に立つのが、自分でも思いがけなかった。
「そこののっぽのお兄さん!早く!」
一瞬わいた感触を振り捨てて旭日は覚悟を決めて駆け寄った。ぐっと息をつめて男の身体を押さえつける。旭日が動くと主任もわーっと叫びながら飛び出して男の肩を抑えた。
なんでだか知らないが男は二人とも警察に連れて行かれた。旭日も簡単に聴取を受けた。どうも気分が悪くなったのが顔色に出ていたらしい。店長の元に報告に行くと上がりの時間の前なのに「今日はもう帰っていいよ」と気の毒そうな顔をされた。
『えらいめこいた』
通用口を出て明るい表通りに回ると後ろから声がかかった。
「ちょっと、あなた」
振り向くとさっき大活躍した女だった。
「あ、さっきは、どうも……すいませんでした」
あんなにしっかりと目を合わせて、名指しされてすぐに身動きできなかったのはやはり情けない。ウドの大木呼ばわりされなかっただけでもよしとしよう。
「わかんない?」
「え?」
女が髪留めをとって髪を垂らした。
「あ、あの時の」
ツキヤを取り合っていた女の片方だった。
少女の時もそうだったが女は髪型や化粧でかなり印象が変わる。アパートに上がりこんでいたときはまともに働いている雰囲気ではなったが、今はいかにも仕事のできるキャリアウーマンという風だ。
「やっとわかった?」
「……ああ」
「あなた、あの子にお金貸してたでしょ、返すわ。いくら?」
あの子とはあの少女のことだとはわかる。
「お金?なんであんたが?」
「あの子、今うちにいるから」
「はぁっ?!」
女の話によると、あの日少女は女の家に泊まったそうだ。二人で愚痴を言い合って妙に意気投合してしまったらしい。
『わからん……』
そのついさっき前まで大喧嘩していた相手とそんなに早く仲良くなれるものだろうか。
『あ、でも』
自分も似たようなものか。携帯をぶっ壊した相手にメロンを貰って一緒に食った。
「で、また家出したのか?」
「うん、正月明けくらいに転がり込んできた」
「あいつ……っ」
あれだけ流されるなと言ったのに。
「飯はおごってやったから、いいよ。あんたに返されるいわれもないし」
「お金は親から預かってんの」
「どういうことだ?」
まぁ寒いし立ち話もなんだから、ということで近場の喫茶店に移動して話の続きをすることになった。
「家出っていや、家出だけど、今回は預かってるようなもんね」
サンドイッチをつまみながら、女が言った。
「やっぱりわけわかんねぇなぁ……」
「うちから学校通ってる。補習全部出たらお情けで卒業させてもらえるんだって。それで一応卒業まで預かることになっちゃって」
「それは……えらく面倒見がいいな」
少女なりに考えた結果がこれらしい。
「大人で信用できるのは三人だけだって、言われたら、ねぇ」
「三人って?」
「私とあなたと、ツキヤだって」
「飯おごってやったくらいで、信用するなって言ったのに……」
「私だってわけわかんないわよ。あの子から見たら私たちも大人なのね。やだわー」
そう言いながら、二人とも何となく頬が緩んだ。
「にしても、まだ……あいつのこと信用してんのか」
ただ単に女を手玉にとって喜んでいるようなタイプではないことはわかった。が、今度は違った意味で結婚するような男ではないと思う。
「私だって一緒だけどね、その点は」
「え?」
あの時はともかく、今の女の様子からは浮ついたものは感じられない。
「あんたまで……あんたも結婚、したかったのか?」
「やだ、そんなんじゃないわよ。私は家族はいらないっていうドライな一匹狼のツキヤが好きだった」
「ドライな一匹狼ねぇ……」
少女と正反対のことを言う。
第一印象ならそれも頷けるが、口の端からメロンの汁を垂らしている姿を知ってしまってからでは違和感だけしか感じない。こたつで丸くなっているところなど狼というより猫だ。
「信じない?」
「あんまり。そうは見えなかった」
「見えなくても、夜の街で生きていくにはそれなりに担保がいるってことよ」
担保とはどういう意味だろう。もちろん金の事じゃないのは分かりきっている。知識ではなく知恵と肉体。野生動物のような研ぎ澄まされた勘。生への執着。連想される肉感的な言葉と浮草のようなツキヤはどうしてもつながらない。
とはいえツキヤの事でなくとも「肉体」に関してはこの女に太刀打ちできる気はしない。違和感はあるが、言葉通り受け取るしかなかった。
「まぁ、あんたがそう言うなら、そうなんだろうけど……そんなこと言って、もし子供が出来たらどうするんだよ」
「そういうとこちゃんとしてた。ピル飲んでるか聞かれたし」
女の笑みが皮肉にゆがんだ。
「誤解しそうだから言っとくけど、お金のやり取りとかないから。誘ったのも私の方から。あの子もそう言ってた」
「……そうです、か」
女はふっと真顔になって、コーヒーカップをすすった。カップを持ったまま肘をついて窓の外を流れる車の光を眺めていた。
「でも、私も勘違いしたからね。私だけは特別だって。だからあの子と一緒」
「特別って?結婚するとかじゃなくて……特別って」
女は何か話そうとして、一度口を閉じた。
「言いたくないならいいよ」
「聞いてもらってもいい?誰にも言ってないこと」
そう前置きされると戸惑う。しかし自分から聞き出した手前「やっぱりいい」とも言いにくい。それに女は喋りたそうだ。
「ああ」
もう会うこともないだろう。旭日は少し投げやりに返事をした。
「私ね、ツキヤの首しめちゃったの」
女の口調は軽かった。あくまで、ただ単に話の続きをしているつもり、らしい。
「グっ……」
パサパサしたホットドッグのパンが喉につまりそうになった。
「はぁ、な、何言ってんだ」
女は明言しなかったが、ツキヤの部屋でツキヤと寝た時のことだというのは容易に察せられた。
「……天から花びらが降ってくるみたいな感じでさ、極楽ってこんなのかなぁって……これが一回きりだって思ったら死にたくなって。それで一緒に死んでって言ったら、いいよって言ってくれて。一緒に死んでくれるくらい、私は特別な存在だと思ったの」
「……ば、」
「馬鹿でしょ」
「馬鹿だよ!馬鹿!大馬鹿だ!」
「死ななくてもまた極楽に行けるなら、生きてる方がいいかなと思ってやめたんだけど……やっぱり死ななきゃ行けないみたいね」
女の目はどこか別の世界を浮遊していて、ようやく一本の糸で現世とつながっているように見えた。
「……間違ってる」
吐き捨てるようにつぶやいた。
「なんで俺にそんなこと言うんだよ」
「さぁ、なんでだろうね。誰かに間違ってるって、言ってもらいたかったのかもね」
「間違ってる。何度でも言う。間違ってるよ。何があったか知らないが……間違ってる」
ツキヤの長い首に女の指が光る。突き抜けるような青空から鮮やかな紅色の花びらが絶え間なく舞い落ちてくる。熱帯の濃厚な花の香りが漂う中、ツキヤは人形のように固い体と表情のまま瞼をゆっくりと閉じる。
そんな美しい画が浮かんで、骨の髄からぞっとした。
支払は女がした。昼食はおごったとしても電車賃は返すべきだと女が主張したからだ。電車賃のかわりとして支払は自分がするという。その金は少女の親から預かっている金からさっぴくつもりらしい。言うこともやっていることも支離滅裂なのに変なところだけ固い。
女はバスに乗るという。いささか気持ちの悪さが残っていたが、それを理由にそのまま立ち去るのは何か大事なことを見過ごすような気がして、バス停まで送ることにした。
自動ドアを抜けると車が巻き起こす冷たい風が鼻っ面を撫でた。旭日はポケットに手を突っ込み、女はバッグから黒革の手袋を取り出してきゅっとはめた。バス停は大通りを真っ直ぐ、二百メートルほど先にある。
「あんた、そんなので大丈夫か」
わずかな時間に焦った旭日は何を言うか決めないまま口を開いた。
「そんなのって?」
案の定、女が聞き返した。
「死ぬとか生きるとか」
「さぁね」
女は興味無さそうに下を向いて歩みを進める。
「やめろよ、自分の事だろ」
「自分の事は自分が一番わかると思う?」
女はくるりと踵を返し、旭日に向かい合った。車のヘッドライトが舞台装置のように女を照らした。
「……思わない」
「あら、意外。同意見ね」
女はわざわざ手袋をはずし、握手を求めて右手を差し出した。旭日はコートのポケットに手を突っ込んだまま、女の手を無視するしかなかった。
「ふざけるなよ……」
「今日だって私死んでたかもしれないでしょ」
その通り。その通りなのだが。
「違う。そういうんじゃなくて……生と死は隣りあわせだってわかるさ。わかるけど、そこまでぎりぎりに向かい合わなくてもいいんじゃないか。どうせいつかは死ぬんだ」
女は手をひっこめると夜目にもわかるくらいにっこり笑った。皮肉の影は全くない、静かな笑みだった。
「私はね。自分がいつ死ぬか知りたい方なの」
「だから、間違ってる」
「知りたいだけよ」
「そういうことを考えるのが間違ってる。……こう言えばいいか?」
「そうね。それでいいわ」
満足げに女は髪をなびかせて振り返り、手袋をはめなおすことなく歩きだした。
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