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第1話 序
「こっちだ。ラウル、あの鹿を狙え!」
漆黒の髪をなびかせ、頬を上気させて馬上で叫ぶ少年は、齢15歳。スラリと伸びた手足に色白の肌、エメラルドの瞳に小ぶりな唇は桜桃のよう。少年の名はスゥエン-ラドリック-フォン-ナヴィア、ナヴィア公国の第二皇子で---Ωだった。
ナヴィア公家は三男二女の子宝に恵まれた家系だったが、兄弟姉妹はみんなαで、彼だけが、Ωだった。
「スゥエン様、深追いはなりません。私が追い立てますから、これにてお待ちを。」
答えるのは、ラウル-ファーガソン。宰相グレイム-ファーガソンの息子で、スゥエンの傅役だった。五つ年上のラウルを、スゥエンは誰よりも信頼していた。Ωである自分を他の兄弟と同じように、剣も馬も人並み以上にこなせるように仕込んでくれた。
大きな牡鹿が目の前に飛び出してきた。スゥエンは臆せず弓を引き絞り、放った。
どぅ---っと大きな音を立てて、鹿の身体が地面に倒れた。
「お見事でございます。」
ラウルに誉められて、得意気に満面の笑みを浮かべるスゥエン。その耳にあわただしい蹄の音が飛び込んできた。
「スゥエンさま。」
振り返ると、藍色のローブをまとった導士が息をきらせて馬を走らせてきた。
「お客人がお見えになるお時間です。館にお戻りください。」
「父上のお客人だろう。オレはいなくても良かろう。」
「いけません。」
そっぽを向くスゥエンに導士がピシャリと言った。
「お客さまは、家族皆でお迎えするのが、ナヴィア公家のしきたりです。早くお戻りください。------仕留められた獲物は、今夜の晩餐で御披露目いたしますから。」
「わかった。ラウル、後を頼む。」
「はい、スゥエンさま。」
ラウルと導士は軽く会釈を交わし、スゥエンは馬の首を館の方に向けた。導士は、スゥエンの今ひとりの傅役、エラータ-カナン。ナヴィア国立図書館の館長を務める博士で、スゥエンの学問の教師、そしてこの国の数少ないΩのひとりだった。
ナヴィア国には、Ωは殆どいない。王家の人間のうちに、ごく稀に産まれる以外には、産まれないからだ。エラータは、前代のナヴィア公の八番目の娘の子。重臣に嫁いだ母もΩだった。他の王族は皆αだった。
ー学問の世界には、性差別はありませんから。ー
エラータは、学者になった理由をにこやかにこう語った。
もっとも、Ωである------ということは、この国では王族である、ということを示すものであり、王家と血縁の無い貴族階級のαよりも上位に見られていた。庶民はその大半がβであり、能力によって貴族階級に格上げされたβもいたが、Ωと結婚することは許されなかった。
傅役のラウルはαであり、エラータの『番』だった。つまりは、ラウル夫々が、Ωのスゥエンの養育を任されていた。Ωであるスゥエンの養育を最も適切に行い得る傅役を父王は選任していた。
「今日のお客はどなたなのだ?」
馬を並べて、スゥエンはエラータに訊いた。
館を訪れる客の殆どは、スゥエンがΩであることを知らない。スゥエンにはまだ発情期は訪れていないし、家族も余計なことを口にしない。
「バスティア王国王太子、オルテガ様です。」
途端に、スゥエンの顔が曇った。バスティア王国は、ナヴィアの隣に位置する大国で、周囲の国々を次々に膝下に隷属させている強国。ナヴィア国は、その文化的地位の高さから尊重されているが、いつ支配下に置かれるかわからない。しかも---
ーバスティア王国では、Ωは自由を与えられていない。どんな扱いをされているかもわからない。ー
ナヴィア国以上にΩの数が少ないせいもあるかもしれない。が、支配下に置いた国のΩを無理やりバスティアのαと番わさせている---という話もある。
その方針を推し進めているのが、オルテガ王太子である---という噂もある。
「会いたくない。」
スゥエンは苦々しそうに呟いた。
「お嫌いなのはわかりますが、ご挨拶だけは---。お父上のお立場もありますから---。」
エラータは、宥めるように言った。Ωを蔑視しているという王太子だ。Ωのスゥエンが会いたがらない気持ちはよく解る。この国の者でさえ、Ωを蔑視している者もいる。
「わかっている---。」
スゥエンは重い溜め息と共に小さく呟いた。
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