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※ ※ ※ 「お、っと」  玄関を開けるとパーカー姿の史晴(ふみはる)が飛び出してきた。  どうやら急いでいる様子なのを、千彰(ちあき)は立ち塞がって引き止める。 「なに。出掛けんの?」  こんな時間に、と史晴の肩越しに自宅アパートのリビングを覗いた。細い廊下の向こうはことごとく灯りが落とされて、薄く開いたカーテンの隙間からは白っぽい月が覗いている。  勤め先のホテルを出たのが午前1時。いま1時半になるかならないかだろう。古いアパートが建ち並ぶこの住宅街では、誰もが寝静まる時間帯だ。  もちろん、普段なら兄の史晴も眠っている時間だった。夜勤務がメインのラウンジスタッフである千彰とちがって、大手外食チェーン店の秘書課で働く史晴は特別朝が早い。  兄弟の共有スペースであるリビングから夜、史晴が自室へ引っ込むのも、0時を過ぎることはめったにない。 「どこいくの」 「ちょっと――」   尋ねると、どこか煮え切らない返事が返ってきた。 「コンビニ? ……は、ちがうか。わざわざ部屋の電気全部消していかないよな」  史晴は答えない。  肩には小さなトートが提げられている。仕事柄急な呼び出しがないわけでもないが、それにしてもラフな服装といい、荷物の少なさといい、とてもいまから会社に向かうような格好ではない。  身内になにか、というわけでもないだろう。  千彰と史晴は2つ違いの兄弟だ。兄の史晴と、弟の千彰。なにかあれば千彰も一緒に呼び出されるはずだし、そもそも両親は、ふたりが小学生の頃に揃って事故で亡くなっている。  それ以外に兄弟と付き合いのある親戚は、近所に住む母方の叔母だけだ。両親の死後、兄弟を引き取ったのは子どものいなかった叔母夫婦だった。その叔母夫婦にしても、ふたりが高校を卒業して家を出てからはほとんど縁の切れた状態だ。  だとすれば、考えられる行き先はひとつ。 「もしかして、コウさんのとこ?」   案の定、史晴がす、と視線を逸らしたのを見て、千彰はこれ見よがしに溜め息をついた。 「……まじかよ」   弟の口からセフレの名を聞くとき、史晴はいつも眉間に皺を寄せる。  いまも細く通った鼻の上にぎゅ、と2本、くっきりと浮かんでいる。 「こんな時間に――あの人なに考えてんの」 「おまえには関係ない」 「仕事は。明日も早いんだろ?」  セフレの家までタクシーを飛ばして30分。  千彰の名義で借りているこのアパートから、史晴の勤め先までは徒歩で15分ほど。  その清潔そうな見た目からは想像もできないほど男遊びに関してめっぽう盛んな史晴には、〝ヤることヤったあと〟アパートまで帰り着くことはできないだろう。 「着替えは置いてある」  ――なるほど、対策済み。 「対〝俺〟用、ってわけ」  自分の夜遊びにいちいち口を出してくる弟に、いい加減我慢の限界だったか――それとも単に時間が惜しかっただけか――史晴は千彰の引いた、超えてはいけない一線を越えようとしているようだ。  ――最近妙に大人しいと思ったら。  千彰は小さく舌打ちをした。   おなじ部屋に暮らせば史晴の行動をある程度は制御できるものと思っていたが、やはり相手はいい大人だ。  一筋縄ではいかないらしいと、どうにかして兄を引き止める方法を考えているうちに、焦れた史晴が口を開いた。 「もういいだろ。待ってるから」  誰が、とはいわず、そのまま隣をするりとすり抜けようとする。  その華奢な身体を千彰は肩を掴んで引き戻した。 「い……っ」  食い込む爪の強さに、史晴の整った顔が歪む。 「離せよ」  「あ、そうそう。思い出した」 「何だ」  睫毛が長すぎるせいでよけいに重たく見える一重瞼の奥から、じっとりとした目が千彰をにらみつける。 「これ。今日戻らないんなら、もう捨てちゃっていい?」  そういって千彰が器用に鞄から取り出すのは、小さなプラスチックケースに入った一枚のメモリーカードだ。  無骨な指に挟まれてひらひらと揺れるそれが目に入った瞬間、終始不機嫌だった史晴の表情が一変した。 「よこせっ」  血相を変え、千彰の腕にしがみつく。  いい大人がなりふりかまわず食いついてくるのを、千彰はひらりと身を捩って躱した。 「行儀悪いなぁ。人から物をもらうときは、どうしろって教わった?」  親の顔が見てみたいわ、などというしょうもない冗談も軽く口を突いてでる。  形成は一瞬で逆転した。  普段のすまし顔がこんなちっぽけなプラスチックの塊ひとつでおもしろいくらいに歪むのを見ると、千彰はそれだけで笑いを堪えるのに必死だ。  溜飲が下がる、とはこのことだ。 「近所迷惑だよー。時間かんがえろって」  約束守らないほうが悪いんだよ――嘲笑う弟に、兄はきっと眦を吊り上げる。 「お前がさっさとよこさないからだ! 新しいのが撮れたら、すぐに渡すって約束だろ!」  兄にくらべて頭ひとつぶんは高い弟の頭上を、夜の残像をのこして〝それ〟は舞う。 「はいはい、わかってるよ。うるせえなあ」   いい加減満足したというところで、千彰は史晴の鼻先にケースを突きつけた。  驚いた史晴が一歩うしろに退き、踵で段差に躓いた。  あ、という顔のまま尻餅をつきそうになるのを、すんでのところで千彰の腕がすくい上げる。 「……悪い」  間近に見る睫毛が、やっぱり長い。  うしろでゆっくりと扉が閉まった。  「……どんくさ」  腕の中の史晴は急いで立ち上がり、手探りで廊下の灯りを点けた。 「とにかく……よこせよ、それ」 「え? あ、ああ」  腕に残るぬくもりになにか思いそうになったのを気のせいだと振り払って、千彰はケースを手渡した。  触れた指先の熱が相手に移る寸前、千彰はぱっと手を離す。 「今日は行かないよな? アイツのところ」  念を押すように尋ねれば、史晴はどこかばつの悪そうな顔で小さく頷いた。 「行かない。……コレがあるから」  そういうと、史晴は靴を脱いで暗いリビングへと歩き出す。 「……だよな」  ――兄貴には、それがあればいいんだもんな。  靴を脱ぎ、千彰は史晴のあとを追った。

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