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最終話
※ ※ ※
「いらっしゃいませぇ」
ねっとりとしたドアベルの音が鳴ると、カウンター前でボトルを手にした男が振り向いて、店に入った千彰を出迎えた。
「お客さんひとり? 見かけない顔だけど、ココ初めて?」
酒と煙草で灼けた嗄れ声が矢継ぎ早に訊ねてくる。照明がダウンライトと安っぽいガレ風のテーブルランプのみという暗い店内では、5席ほどある客席がすべて埋まっても、奥にいる客の顔までは見えない。
「人を探してるんです。向かいの店で、いるならここじゃないか、って教えてもらって」
客の中に目当ての人物がいないかたしかめたいと千彰がいうと、店の店主らしき男はタイトなシャツの袖を意味深に捲り上げ、首を傾げた。
「へえ。だぁれ?」
〝人探し〟と聞いてとっさに対人トラブルを心配するのは、閉じられたコミュニティに生きる者の性 か。
揉め事ならよそでやって。そうでなくてもウチは簡単に仲間を売ったりしないと、挑発的な視線を送ってくる。
「お客さんみたいなイケメンがアタシの知ってる誰かに一目惚れしてて、どうしても連絡先を知りたいっていうんなら、話くらいは聞くけど?」
好感のもてる口調で軽く突き放してくる。
一筋縄ではいかない雰囲気を感じながら、千彰は態度を多少砕けたものに変えた。
「それはないですね。俺、好き人いますから」
「あ、そう」
つまらない、と店主は上辺だけ残念がる素振りを見せて、
「なにかあったら、そこの交番からすぐにケーサツが飛んでくるから。それでもいい?」
「かまいません。ちょっと話をするだけなので」
店主はしばらく迷う素振りを見せたあと、わかった、と頷いた。
「その人の名前は?」
「〝コウさん〟っていうんですけど。髪はちょっと長めで髭生やしてて、歳は――」
「コウちゃん? ……待って。おにいさん、もしかして」
フミの、と呟く男の視線が一瞬店の奥に向けられたのを千彰は見逃さない。
「いるんですね、ここに」
失礼します――カウンターを足早に横切って店の奥へ進もうとする千彰の前に、慌てて店主が立ち塞がる。
「ちょっと待って! わかった……わかったから、ちょっとここで待ってて」
呼んでくるから、といって店主が向かったのは客席ではなくスタッフルームのような場所だ。途中、相手をしておくようにいわれたのか、遊び人風の店員が千彰にカウンター席を勧めてくる。千彰は素直に従って、迷惑料代わりの水割りをグラスで注文した。
グラスの底が見えてきた頃、てっきり裏口から逃げたものと思っていたコウが姿を現す。
「突然すみません」
立ち上がった千彰が頭を下げると、コウは戸惑ったように暗い店内を見廻し、重い口を開く。
「こっちきて。ココじゃ……目立つから」
「ただいま」
ドアノブを音を立てないようにゆっくりと捻って、少し空いた隙間から身体をねじ込んだ。
超したばかりのマンションの廊下からは、まだどこからとはなしに消毒剤の匂いが漂ってくるようだ。
まやかしの真新しさにそれでもどこか心躍るものを感じながら、千彰は天井を点々と彩るオレンジ色の光を上機嫌で数えながら廊下を進んだ。
途中、煙草と香水の匂いが染みついたチェスターコートを脱ぐ。
――明日にでもクリーニングに出すか。
あの人に、馴染みの匂いを嗅がせたくない。適当に畳んだコートを廊下の隅に放り、だらしない、と怒られる未来の自分を想像して、やっぱりもう一度手に取った。
コートは廊下の中程にある自室の床へ放り込む。
そのまま部屋へは入らず、向かうのは一番奥の部屋だ。
2LDKの一室をふたりの寝室として使っている。
「……兄貴?」
扉を開くと、夜の早い史晴は予想通り眠っている。
ベッドは多少奮発してワイドのキングサイズを買った。神経質で眠りの浅い史晴が、寝室を一緒にすると言い張って聞かない千彰に出した条件だ。シングルをふたつだと最後までごねていた兄も、弟の〝それなら、ベッドは寝るとき以外つかわない〟という最低な宣言の前にあえなく陥落した。
眠る史晴の枕元に膝をつく。寝息ひとつ立てず、死んだように眠っている。
廊下から差し込む光が史晴の頬に睫毛の影をつくっている。夢でも見ているのか、可憐に震えるそこへ、千彰は耐えきれずに指先を伸ばした。
「はは。白雪姫みたい」
「やめろ、気色悪い……」
指が触れるか触れないかのうちに目を覚ました史晴がふう、と長い息を吐く。濃い睫毛に縁取られた両目はよほど眠たいのか、しっかりと閉じられたままだ。
「あ、起きた?」
「……いま何時」
「2時?」
「はやく寝ろ、バカ」
風呂は入れよ、と吐き出す声が萎んで尻窄みに消える。
「ねえ、兄貴、兄貴」
兄がこちらを見ようともせずにまた寝入ってしまったのを寂しく感じて、怒らせるだけとわかっていながら千彰はつい呼び止めてしまう。
案の定、ふたたび眠りの底から引き戻された史晴は、狭い眉間にぎゅうと不機嫌そうな皺を寄せてごろりと千彰に背を向けた。
「待ってよ」
「うるさい」
「ガキじゃないんだからさ、少しくらい相手してくれてもいいじゃん」
「どっちがガキだ……残業で疲れてるんだよ。夜中にホイホイ遊びに出歩ける、どっかの体力バカと一緒にするな」
「疲れてるのは、昨夜 張り切りすぎたせいだろ」
今朝起きたときから、もうヘロヘロだったし――千彰は昨夜の史晴を思い出してひとりニヤける。
もうイケない、と泣き言をいうまで可愛がってやったのは事実だが、そもそもそんなになるまで求めてきたのは史晴のほうだ。
遊び相手も唯一のオカズも失って、史晴の性欲にはますます拍車がかかっていた。ついでに千彰の手によって後ろの快感にも目覚めてしまったから、ますます独り寝の夜が耐えられない。千彰の〝ワガママ〟で新居での寝室を一緒にすると、思うように欲を発散できない不満からか、こちらに苛立ちをぶつけることも多くなった。
だが千彰にとっては、八つ当たりのような史晴の言動のひとつひとつが愛おしいので、まったく問題はない。
むしろ大歓迎だとばかりに頬を弛ませていると、史晴がおもむろにベッドを下りた。
「どこ行くの」
「目が覚めた。シャワー浴びてくる」
「俺も一緒に入る」
「あのなあ……おまえ、まとわりつくのもいい加減に――」
しろよ、と溜め息交じりに振り返る史晴に千彰は手を伸ばした。
薄手のTシャツ越しに、史晴の腕がぴくりと跳ねる。
「アキ」
離せ、と目が訴えている。
親しい兄弟の戯れのその先にチラチラと垣間見える、千彰の男の顔に怯えている。
「ねえ、俺、さっきコウさんに会ってきたよ。やっぱり一度ちゃんと謝らないとと思ってさ」
引っ越しが終わってから、史晴のスマートフォンからコウや他のセフレたちに繋がる連絡先はすべて消去した。彼らとはもう二度と関わないと決めた本人が、一番禍根の残る人間と会ってきたのだと聞いて、史晴の顔に動揺が走った。
「ついでに、いってきた。兄貴は俺のモンだって。アンタらじゃ兄貴を満足させられないって」
「そんなの、いまさら……」
わざわざ話を蒸し返しにいくなんて、新たに諍いの種を蒔くようなものだ。今度こそ本当に呆れたらしい史晴が、どういうつもりだと千彰を睨めつけた。
「俺はおまえに逆らわない――逆らえない。それで済んだはずだろ。あの人たちを、おまえの遊びに巻き込むな」
「〝おまえの〟? まさか。〝俺たちの〟、だろ?」
訊かれて、史晴がぐっと唇を噛む。
「兄貴は逆らえないんじゃない。好きで俺と一緒にいる。そこんとこ、ちゃんとわかってもらおうと思った」
――コウさんと、史晴に。
いつだって選択肢は史晴にある。自分は彼に選ばれてここにいる。
なによりも、それを〝自分自身〟にわからせるために会いに行った。
「だから……なんだ」
「キスしてよ。兄貴から俺に。可愛い弟に、ちゃんと謝れたご褒美ちょうだい」
キスは、まだしたことがない。指で何度も触れたことのある史晴の唇は、想像の中ではいつも甘かった。
本物はきっと、もっと美味いにちがいない。
はじめて史晴を抱いた夜のあの快感と恍惚を下腹のあたりに思い出しながら千彰が迫ると、史晴はふっとひとつ息を吐く。
じわじわと手のひらに熱が生まれる。
じりじりと、手のひらに熱が伝わってくる。
「風呂、入ってから……」
この期に及んで抵抗を見せる史晴に愛しさが募る。
千彰に余裕があるうちに、いうことを聞いたほうがいい。わかっているはずなのに、史晴はあえてギリギリまで焦らすのだ。
「どうせこれからふたりで入るんだから、一緒だろ」
「全然ちがう」
「はいはい」
それなら楽しみはあとにとっておこうと、渋る史晴の肩を千彰は抱いた。
どうせ、この人は逃げられない。
自分の性 からも――千彰からも。
「いこうか、兄貴」
誰も邪魔できない、ふたりだけの世界へ。
闇エンド Fin.
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