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第1話 ①

 静けさに包まれた午前三時の住宅街。  マンションの前に止まった車の後部座席から下りたのは、胸元の開いたワンピースドレス姿の女性だった。  運転席の榎本快(えのもとかい)が窓を開けると、冷えた空気が車内に流れ込んでくる。 「じゃあね、快。おやすみなさい」 「おやすみなさい、レイナさん」  スナック〝ルミエール〟で働く彼女を自宅まで送るのは、快の仕事の一つだ。  マンションの中へ入っていくのを見届けて車を発進させた。  周りに他の車はなかった。街灯が照らす人気のない景色ばかりが、窓の外を通り過ぎていく。  三階建てアパートの駐車場に車を止めた快は、助手席に置かれたコートを持って外へ出た。  十一月終わりの夜は寒く、足早にアパートへと向かった。一階に入っている〝榎本探偵事務所〟の窓は、明け方が近いにも関わらず室内の明かりで照らされている。 「ただいま、亮次さん」  事務所のドアを開けると、応接スペースのソファに座っていた叔父の榎本亮次(えのもとりょうじ)が振り返ってくる。 「おう、お帰り快。お疲れさん」  所長でもある彼の向かいには、一人の客が座っている。  カバンとコートを机の上に置きながら、快はついその客をまじまじと見つめてしまった。 (女? いや、男……だよな)  一瞬、女かと思った。それほどに線が細く、色白で、うつむいていてもわかるほどに整った綺麗な顔立ちには長いまつ毛が影を落としている。  この事務所に客なんてめずらしい。  しかも、こんな時間に。 「快」  話の邪魔をしないようにと、静かに事務所を出て行こうとした快を亮次が呼び止めた。 「ちょっとこっち来て座れ」 「え、でも俺、部屋に戻って風呂に」 「いいから」  早く寝たいんだけどなと思いながらも、快は仕方なく亮次の隣に座った。  目の前に座る男は少しもこちらを見ようとしない。 「今日からここで働くことになった一条悠利(いちじょうゆうり)だ」 「今日から? って……」  快は思わず壁にかかっている時計を見た。  午前三時二十五分。  今まで人員を増やす話など全く出たことがなかったのに、唐突すぎるにもほどがある。 「で、なんだが、お前に一つ頼みてえことがある」 「なんだよ頼みって」 「一緒に働くついでに、こいつのこと守ってやってくれねえか」 「は?」  思わず問い返した快に、亮次が説明を付け加えてくる。 「悠利は俺の知人の子なんだが、まあちょっと訳ありでな。狙われることが多いんだよ。だからうちで守ってやろうと思ってな」 「いや俺、ボディガードなんかしたことないんだけど」 「いつも〝ルミエール〟の女の子たちの護衛してるじゃねぇか」 「家まで送ってるだけだろ。別に護衛ってわけじゃ」 「ま、似たようなもんだ」 「違うだろ、全然。だいたい俺、護衛なんかできるほど強いわけじゃ」  ずっと黙っていた悠利が、突然立ち上がった。 「先に戻っていてもいいですか」  亮次にたずねた声は、酷くぶっきらぼうだった。 「ああ、そうだな。お前も疲れたろ。玄関の鍵はちゃんとかけて寝ろよ」  小さく頭を下げた彼は、出て行こうとしたときにちらりとだけ快を見た。笑いかけるでも睨みつけるでもない、ただ向けられただけの眼差しだった。  ぱたんと、静かにドアが閉まった。 「なんか、悪かったかな。本人の前で言い合いなんかして」 「気にすんな。あいつはいつもあんな感じだ」  亮次はローテーブルの上に置かれているコーヒーのカップを手に取った。悠利が座っていたところに置かれているカップの中のコーヒーは、ほとんど手がつけられていないままだ。 「さっきの人、このアパートに住むことになったのか?」 「いや、まだ保留だ。とりあえず俺の部屋を貸してある」  アパートの二階と三階にはワンルームの部屋が四つずつあって、快は二〇一号室に住んでいる。亮次の部屋はその隣だが、彼がそこにいることは滅多にない。 「ああ、あの放置状態になってる部屋か」 「そのままにしといて正解だったろ」  得意げに言っているが、事務所から出て部屋に戻るのが面倒になったうえに、片づけるのも面倒でそのままになっていただけだ。 「ていうか本当に新人所員なんか雇うのか? うち、仕事ほとんどないのに」  榎本探偵事務所は、現在ほぼ廃業状態だ。  亮次に仕事を取ろうという気がないのだから、客が来るはずがない。 「給料払えないだろ」 「何言ってんだ。お前にだってちゃんと払ってやってんだろが」 「だからどっから出てるんだよ、その金」  この事務所に依頼してくれる客は、スナック〝ルミエール〟だけだ。あとはこのアパートの家賃と、市内に駐車場を持っているらしいが、どれほどの収入になっているのかはよくわからない。 「働くってのは名目で、まあ、保護みてえなもんだ」 「保護か。そういや狙われてるって言ってたけど」 「ああ、それなんだが……お前、超能力って信じるか?」 「は?」  あまりに話が突然すぎて、つい聞き返してしまった。 「なんだよ、いきなり。あんたそういう非現実的な話は好きじゃないだろ」 「現実の話だ」  めずらしく真面目な顔で言い切られて、快は黙った。  どうやら冗談を言っているわけではないらしい。 「悠利には人とは違う力があってな。まあ、わかりやすく言えば超能力みてえなもんだ」 「みたいなもん、って……」  本当に、そんな人間が存在するのか。  ついそう思ってしまった快の心を見透かしたように、亮次が言う。 「お前、信じてねえな?」 「あ、いやそういうわけじゃ」 「いいっていいって。こんな突拍子もねぇ話、そう簡単には信じられねえだろうしな」  簡単に信じられないのは亮次だって同じはずだ。  それを現実だと言い切ったということは、実際に見たのだろうか。その、超能力のような力を。 「ま、そういうわけだ。頼んだぞ快」 「は? いやどういうわけだよ。俺、まだ何も聞いてないけど」 「あとは本人に聞いたほうがいいだろ」 「そうかもしれねえけど、せめて狙われてる理由くらいは……って、俺まだ引き受けるなんて一言も」 「いいじゃねえか。久々の新しい仕事だぞ」  亮次は軽く言うが、冗談じゃない。 「亮次さんがやればいいだろ。どうせいつもここにいるだけなんだから」 「俺が? 本当に俺がやったほうがいいと思うか?」  たずね返されて、もう一度、落ち着いて考えてみる。 「……思わないけど」 「はは、だよな」  笑い事じゃない。  しかし、だからといって簡単に引き受けることもできない。 「無理だろ。俺がさっきの人を守るなんて」 「大丈夫だって。お前強いし」 「強いとかそういう問題じゃなくて。わかってるだろ、亮次さんだって」 「いや、わからねえけど」 「なんでだよ」  思わず言い返した快に、亮次がふっと笑う。 「お前の言いたいことはわかってるさ。けど、だからってお前に誰かを守る資格がないとか、そんなことは思ってねえよ」  そう言ってくれるのは、亮次だけだ。  他はそうは思わない。親戚も、友人も、自分自身も。    さっきの人だって、きっと。

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