二人がいた場所は、古いマンションの屋上だった。 　よく通る道に建っているので何度も見かけたことはあるが、知り合いが住んでいるわけではないので入ったのは今回が初めてだ。だから下りるまでわからなかった。 　周りの家はどれも明かりが消えている。 　街灯だけがぽつぽつと照らす道を、快と悠利は並んで歩いた。 「体調はどうだ？」 「もう平気だ」 「そっか。ならよかった」 「これももういい」 　悠利が肩にかけていたコートを快に返してくる。 「帰るまで着てろって。あんな寒そうにしてたんだから」 「お前は寒くないのか」 「平気平気。さっきちょっと動いたしな」 「本当に少しだがな」 「いいから着てろって」 　押し返すと、彼は少し不服そうにしながらもコートを肩から被り直した。 「遅くなっちまったな。亮次さんまだ起きてるかな」 「戻ったら事務所に寄るのか」 「一応な。そういやお前、まだアパートに住むか決まってないって聞いたけど、どうするんだ？」 　たずねると、悠利が立ち止まった。 　気づいた快も足を止めて振り返る。 「……本当は、すぐにアパートを出ようと思っていた」 　彼が言った。 　明け方の近づく暗い道路の真ん中に、二人は向かい合って立っていた。遠くで車の走る音が聞こえたが、こちらへ来そうな気配はなかった。 「俺がいると、お前にも亮次さんにも迷惑をかけるとわかっていたから……お前の顔を一目見たら、すぐに出ていこうと思っていた」 「え、俺？　なんで俺……」 「だがお前の顔を見たら出て行けなくなった」 　暗い中でもはっきりとわかるほどに、悠利の目は真っ直ぐに快を見つめている。 「俺は、お前と一緒にいたい」 　まるで告白のような言葉に、快は戸惑った。彼は真剣だった。だからこそ余計にわからない。 　会ったばかりなのになんで、と。 　言いかけたのを飲み込んで、別の問いかけを口にする。 「俺は、どっかでお前と会ったことあるのか？」 　屋上にいたとき、たしかそのようなことを言っていた。 　だが今度は悠利が少し戸惑った顔をした気がして、慌てて言葉を付け加える。 「あ、悪い。実は俺、中二くらいまでの記憶がなくて」 　だから、もし中学二年生の頃より前に彼と会ったことがあるとしても、覚えていない。 　そうか、と、悠利は呟いただけだった。 「驚かないんだな」 「亮次さんから聞いていた」 　もし、快が悠利と前にどこかで会ったことがあるとするのなら、亮次もそれを知っているのかもしれない。 　自分のことを覚えていない快に悠利が戸惑わないように、亮次があらかじめ説明しておいたのだろう。 「お前とは以前に会ったことがある。だがそんなことはいい」 「いや、よくはないだろ」 「それより俺が聞きたいのは、今のお前がどう思ったかだ」 「今のって」 　どう思ったも何もない。 　今の快にとって、悠利は昨日会ったばかりの人だ。彼の人となりも、抱えている事情もまだよくわからない。 　だが一つだけはっきり伝えられることがある、これは悠利に対してだけでなく、誰に対しても言えることだ。 「俺なんかと一緒にいないほうがいいよ」 　口に出すと途端に心が重くなった。それを悟られないように、なるべく普段通りを装って彼に伝える。 「昨日も言ったけど、俺は誰かを守ったりできる人間じゃないし」 「十分強かったと思うが」 「そういう意味じゃなくて」 「ならなんだ。人を殺したからとでも言うのか」 　聞き流してしまいそうなほどにあっさりと悠利が言った。だが当然聞き流すことなどできるはずはなく、ぎくりとした表情を隠すことすらできずに快は彼を見た。 「俺にその話をしたのは亮次さんだ。文句があるならあの人に言え」 「えっ、あ、ああ……」 「ついでに聞いたのは十年ほど前だ」 　十年前。 　ということは、おそらく〝十一年前の事件〟があってすぐだ。 　亮次が彼に話したということは、それだけの関係性があったということだろう。 　だけどやっぱり思い出せない。 　当然だ。叔父の亮次のことですら、いまだに思い出せないのだから。 「正当防衛だろう」 　当然だと言わんばかりに悠利が言う。 「いや、まあそうかもしれないけど、でも」 「お前には何一つ悪いところはない」 　彼はこの場を取り繕おうとして言っているわけではなかった。 　それでも、素直に受け入れられない。 「でも、俺は……痛って！」 　いつの間にか下がっていた頭を思いきり叩かれて、快が顔を上げた。 「何すんだよいきなりっ」 「うるさい、下を向くな。お前に非のない事情など、少なくとも俺は全く気にしない。だからお前も今後一切気にするな」 　あまりにも自分本位な悠利の言葉に、快は目を丸くする。 　それから、ふ、と吹きだした。 「なんだよそれ」 　思わず笑ってしまった。 　悠利もわずかに満足そうな顔をした、気がする。 「それでどうなんだ」 「どうって何が」 「まだ一緒にいないほうがいいと言うつもりか」 　人を殺したという部分だけをくり抜いて離れていった人たちとは、悠利は違う。 　それはわかった。 　だが離れていった人たちのほうが恐らく普通の反応だ。それほどに人を殺した事実は重い。 　変わっているのは彼のほうだ。 「でも今の俺と昔の俺は違うんじゃないのか。さっきも言ったけど、俺、昔の記憶がないし」 「いや、変わらない」 　偽りなど一切ない声で彼が言う。 「昔も今も、俺が一緒にいたいと思うのはお前だけだ」 　快は悠利を見つめたままで立ちつくしてしまった。 　あまりにも真剣なその言葉を今度こそ正面から受け止めて、だけど答えが見つからなくて何も言えなくなってしまう。 　悠利がたずねてくる。 「俺じゃだめか」 　吹く風の冷たさなどとっくに感じなくなっていた。 　冗談でかわしてはいけない空気は苦しくなるほど伝わっていた。だからこそ聞かずにはいられない。 「なんか、告白みたいだな」 「そうだな」 「俺、男だけど」 「ああ。俺も男だ」 　悠利の気持ちはぶれない。戸惑っているのは快ばかりだったが、男同士だからというわけではなかった。 　男だろうと女だろうと、一緒にいたいと言ってくれる人なんていなかった。 　だが彼は言ってくれた。快が隠していることを知ったうえで、それでも。 「その、ありがとな。俺まだお前のことよく知らないけど、そう言ってもらっただけで……」 　真っ直ぐに快を見つめていた悠利の目が、寂しそうに揺れた気がした。一瞬、何かをこらえるようにつぐんだ口元になぜか胸が痛んで、思わず言葉を止めてしまった。 　ああ、とだけ言って、悠利は背を向けた。