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第3話 ⑩

 屋上の鍵が壊れていることを知っているのは、おそらく亮次と快だけだ。  夜明けは確実に近づいているはずだが、まだ空は暗いままだった。真っ白な雪だけが鮮やかに目の前を舞っている。  ポツポツと灯る町の明かりを見つめながら、快はライターの火をつけた。そしてくわえていた煙草に火をつけて吸うと、ため息とともにその煙を吐き出した。 (ここのところ頼らずにすんでたんだけどな)  一つのライターと一本の煙草だけ、いつも必ずポケットに入っている。だけど火をつけたのは何年ぶりのことだろう。 「あー……頭痛ぇ」  頭を抑えて、快は手すりに寄りかかった。  実際のところ本当に頭が痛いのかはわからない。ただ漠然と体調が悪くなってくる。  何年たってもこの調子だ。思い出し始めるとすぐにこうなってしまう。 (同じ人殺し、か)  強く冷たい風が雪とともに吹きつけてきて、掻き消えそうなほどに激しく揺れる煙草の煙をぼんやり見つめていたその時。  バン、とドアの開く音がして、快が振り返った。  そこには悠利がめずらしく焦った様子で立っていた。 「あれ、悠利」 「なぜ電話に出ない」 「え? あ、忘れてた」  携帯電話はたぶんまだ車の中だ。  はあ、と悠利が呆れたように息を吐いた。 「お前は何のために部屋を出たんだ。戻ってこないと思えばこんなところに」 「あー、悪い。ちょっと……」  言いかけたところで、快は自分が煙草を持っていることに気づいた。 「待った、悠利」  こっちに歩み寄ろうとしていた悠利を慌てて止める。 「お前、煙草嫌いなんだろ。ごめん、これ俺の悪い癖でさ……ほんとごめん。臭い消えたら戻るから」  快は再び前を向くと、持っていた煙草を再びくわえた。 (……がっかりされたかもな)  だけど今は、煙草の火を消そうとは思えなかった。これ以上の言い訳をする気にもなれなくて、ただ目の前の景色を見つめる。  落ち着いたら部屋に戻るつもりでいた。だけどそれがいつなのかは見当もつかない。  そもそも戻ってもいいのだろうか。  両親を殺した犯人と同じ、人殺しなのに。 「おい」  声とともにガチャ、と古い柵の鳴る音がして顔を向けると、いつの間にか横に悠利がいた。 「悠……」  悠利は細く長い指を伸ばすと、快がくわえている煙草をとった。そしてその唇に、彼が自身の唇を重ね合わせる。  その温かく柔らかな感触に思わず目を閉じた快だったが、彼が離れたところではっとする。 「お前、煙草苦手なんじゃ」 「ああ。思ったより苦い」 「だからなんで」 「これも含めてお前なのだろう」  当たり前のように受け止める彼に、何も言えなくなってしまった。返された煙草を、快は彼から遠いところで消した。 「いいのか」 「ああ。もう十分だ」  以前は吸い始めたら止まらなくなっていた。だから一本しか持ち歩かないようにしているのに、一本目の途中でやめられたのは初めてだ。  いつの間にか薄らと肩に積もっていた雪を、悠利がそっとはらってくれる。 「お前が戻ってこないから随分と探した」 「だから悪かったって」 「何かあったのか」  たずねられて、快は返答に迷った。  すると彼が別のことをたずねてくる。 「朋希と会ったのか」 「えっ、何で知って」 「やはり朋希か。亮次さんが、若い男がアパートから出てくるのを見たと言っていた 「亮次さん、お前に連絡したのか」 「俺がお前を探しに事務所へ行った。お前が部屋に戻っていないと聞いて、亮次さんも心配していたぞ」  どうやら朋希と話していた内容は聞かれていなかったらしい。  いや、もしかしたら言わなかっただけかもしれない。 「話したくないのなら無理に話さなくていい」  黙っている快に、悠利が言った。  彼もまた黙ったままで隣にいてくれる。  静かだった。  雪は変わらず降り続いていて空気は冷え切っているはずなのに、このまま何時間でもいられそうなほど居心地がいい。 「……俺、正直あの日のことをはっきり覚えているわけじゃないんだけど」  まさか自分からこの話をする日が来るなんて、想像もしていなかった。  十一年前、快の住んでいた町で起こった強盗殺人事件。刑事だった快の父はその事件の捜査を担当し、犯人を追っていた。 「いや、覚えてるっていえば覚えてるのかな。なんていうか、記憶が細切れみたいで」  思い出したくない、だけど忘れてはいけない場面ばかりが積み重なって、いびつなパラパラ漫画のようにつながっている記憶。  あの日、中学校から帰ってきた快が見たのは、血まみれで倒れている母親の姿だった。  そばに立っていたのは、包丁を持った見知らぬ男。彼が強盗殺人事件の犯人だったということは、あとで亮次から聞いて知った。  そのときは目の前の状況が理解できなくて、ただ立ちつくしてしまった快のほうへ男が包丁を向けて向かってきた。  刺されたのは目の前に飛び出した父だった。  スーツ姿だった父は拳銃を握っていた。刺されて倒れたと同時にそれが床に落ちた音だけが、今も耳に残っている。 「もしあのとき撃たなかったら、俺も殺されてたと思う。だから正当防衛っていうのも間違ってはないんだろうけど」  ずっと思い出さないようにしていたからだろうか。一度思い出してしまったら次々とよみがえってきて止まらない。 「だけど、思うんだよ。あのとき父さんの銃を拾った俺は、自分の身を守るために撃ったわけじゃないんじゃないかって」  無意識に深く吐き出した白い息が、雪とともに風に流れて消えていく。  柵に肘を乗せて頬杖をついていたはずの手は、いつの間にか自分の頭をつかんでいた。 「父さんと母さんが刺されたのを見て拾ったんじゃないかって。だからあれは身を守ろうとしたんじゃなくて……」  ただ怒りに任せて引き金を引いただけなんじゃないか。  気づいていたけれど言えなかった。誰にも、亮次にも。  あまりに強く頭を抑えすぎて震えてしまっていた快の手を、悠利がつかんだ。  顔を上げた先の悠利の表情はただただ快のことを心配していて、思わずふっと笑みがこぼれた。 「悪い。けど、話したら結構すっきりするもんだな」  こんな話、誰にもすることはできないと思っていたけれど。 「それならいつでも俺に話せばいい。煙草に逃げる前に」 「簡単に言うなって。これでもかなり勇気が必要だったんだぞ」  快に撃たれた犯人は死亡が確認された。  結果的に犯人を撃ち殺した快から、親戚も友人も遠ざかっていった。  唯一そばにいてくれた亮次にさえも、もしこのことを話したら離れていってしまうのではと言えずにいた。  だけど悠利は、変わらず隣にいてくれる。 「さっきの煙草、おじさんが吸っていたものと同じものか」 「よくわかったな」 「銘柄まで知っていたわけではないが、おじさんがよく隠れて吸っていたところをおばさんに見つかって怒られていたのは覚えている」 「昔っからそうだったんだな。父さん、ずっとそんな調子で怒られてたよ」  そして快には、これだけは真似するなよと何度も言っていた。  目の前に広がる夜空を見つめて、ふと思う。 「俺が吸ってるの、父さん怒ってるだろうな」 「おばさんはもっと怒っているんじゃないか」 「だろうな。ああでも、父さんも怒られてるだろうな。あなたが煙草をやめなかったからよって」 「なるほど。その可能性が一番高そうだな」 「だよな」  ははっと快が笑う。  屋上を吹く雪交じりの風に、火の消えた煙草が挟んでいた指をすり抜けて飛ばされていく。  少しも寂しいとは思わなかった。  もう微かな父の面影に頼らなくても大丈夫だろうと、そんな気がした。

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