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杖を突くコツコツという音が聞こえたかと思うと、闇の中から、ひとりの老婆が現れました。
「どうして、あなたが、ここに……!?」
エルンストが目を瞠ります。
目の前の老婆は、靴屋でここまでの道のりを教えてくれた、あの老婆だったからです。
「待ちに待ったぞ」
老婆はエルンストには目もくれず、ミゲイルの傍へ歩み寄ると、その顔を見上げました。
「これで、もういいのだな?」
老婆の問いかけに、ミゲイルは満ち足りた顔付きで深く頷きました。
エルンストは何が起こっているのかわからず、ミゲイルと老婆の顔を怯えた瞳で交互に見やります。
老婆がおもむろに杖を振りかざしました。
するとその先から赤い光が迸り出て、ミゲイルの首元を廻りました。
途端にミゲイルが苦しそうに眉根を寄せ、喉元を押さえます。
「魔法使いさんっ!」
エルンストは咄嗟に腕を伸ばし、ミゲイルの身体を支えました。
赤い光は幾重にもミゲイルの首を取り巻いたあと、しゅるんと老婆の持っていた小瓶の中に入りました。
「よし、約束通り、おまえの声はもらった」
老婆は小瓶の蓋を閉じながら、満足そうに嗤いました。
「っ!」
エルンストが驚いた瞳で老婆の手元を見つめます。
小瓶の中には海のような煌めく碧い液体が入っていました。
「魔法使いは、このわしじゃ。この男は自分の声と引き換えに、愛しい人に一夜の魔法を与えたいと、わしに願ったのじゃ」
「……っ、そんな……!」
エルンストは魔法使いの言葉に身体を震わせながら、ミゲイルを見上げました。
しかしミゲイルはエルンストに向かって、大丈夫だよと言わんばかりに、穏やかな表情で小さく頭を左右に振ってみせました。
「だが、ガラスの指輪を完成させ、愛しい人に祝いの言葉を伝えるまではどうしても待ってくれ、などと言いだしおって。もう少しで痺れを切らすところだったわい」
老婆は手元の小瓶を楽しげに揺らしました。
「だ、だから、僕にここを教えたんですか!? 早く声をもらうために!」
エルンストは泣き出しそうな声で老婆を問いただします。
けれども老婆はニヤリと口端を上げただけで、杖の先を空に向けると、くるりと回しました。
その途端、霧が晴れるように暗闇が取り払われ、辺りに光が戻ってきます。
エルンストが眩しさに腕で目を覆っている間に、老婆の姿は忽然と消えていました。
「どうして……そんなことっ」
ふたりきりになると、エルンストは絞り出すように疑問を口にしました。
胸の奥が熱い塊で詰まったようになり、それ以上言葉が続きません。
ミゲイルも何も答えてはくれません。
ミゲイルにはもう声がないのです。
あの深い海のような声はもう二度と聞けないのです。
しかし、その表情はこれ以上なく幸せそうでした。
エルンストの幸せだけを想う気持ちがミゲイルを優しく包み込んでいました。
エルンストは震える手で、ミゲイルの大きな左手を取りました。
そして、手のひらに握っていたガラスの指輪をひとつ、その薬指に通しました。
「……!」
ミゲイルが驚きに目を見開きます。
(なぜ?)
その顔がそう言っています。
「僕が……、僕が好きなのは、あなただからです……!」
エルンストはミゲイルの瞳を見上げ、わななく声でやっと、そう告げました。
堪え切れない嗚咽が込み上げ、頬に涙が伝っていきます。
「!」
エルンストの想いを聞いたミゲイルの目元がふっと和らぎました。
そしてその瞳が、心底愛おしいものを見るように細められます。
ミゲイルの眼差しに哀しげな様子は、もうありませんでした。
ミゲイルもエルンストの左手を取ります。
その手の内に握られていたもうひとつの指輪を、エルンストの薬指にそっと嵌めました。
ガラスの指輪はエルンストの指にぴったりでした。
それを見たエルンストの泣き濡れた顔が、花が開くように綻びます。
エルンストは腕を伸ばすと、ガラスの靴とともにミゲイルの胸に勢いよく飛び込みました。
***「①Fairy tale」終わり
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