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第1話
その日、アツシは何だかとても身体がだるかった。
仕事を開始して僅か1時間だというのにどうにも足元が覚束無い。熱でもあるのか、身体がぼんやりと暑かった。
これは、来たばかりだが早退を申し出た方が良いだろうか。
そう悩んでいると後ろからロイさんに手首を掴まれた。
ロイさんはアツシの働くお店のマスターだ。
「何ですか?」
突然のことにアツシは首を傾げる。
ぐんっ、と後ろへと引かれ匂いを嗅がれた。
――え、何??
一体何事かと肩を竦めた所でロイさんの口からは予想外の言葉が飛び出してくる。
「……アッシュ君、発情期 してる?」
「…………はい?」
言っている意味が分からずアツシは何とかそれだけ聞き返した。
【アッシュ】とはアツシのこのお店での名前だ。源氏名的なものだとでも言えばいいだろうか。
ここRanunculus は彼が二丁目のお店から独立して作ったただのカフェバーだ。
しかしそのお店の人気ナンバー1だったロイさんを追いかけるものが後をただず、結局ここは本名を禁止した仕事名のあるお店となった。
勿論中身はただのお店なのだが、ロイさん自身とスタッフの安全を考慮しての事だろう。
しかし今はそんなことよりも、ロイさんの言葉の意味を考えなくてはならない。
ヒートとは、Ω にだけ訪れる発情期のことだ。
10代後半から約3か月に一度訪れるそれは繁殖の為に相手を誘うフェロモンを誰彼構わず発してしまう。
ヒートの間は寝ることも食べることもままならない程の性欲に悩まされ続けるらしい。
――この世界には男女の性の他に3つのわけ方が存在する。
それがα とβ とΩ の3つである。
アルファは他2つの性と比べてとても秀でた存在だ。会社の社長やスポーツ選手などはほぼアルファと言っても過言ではない。優秀な分、数は少ないらしいが種 を残す為オメガと番い になることが出来る。
ベータは総人口数が1番多い性だ。特にこれといって特徴的なものはなく、結婚はするが番は作れない。ベータの間で産まれる子も多くは親と同じベータ性であるらしい。極一般的といえばベータを指す言葉だ。
そしてオメガは1番人口数が少なく、社会的な地位も低い存在だ。その大きな理由がオメガにだけ訪れる発情期にある。
これは持って生まれた性質なので完全に消すことは出来ない。
特にアルファに対して強く効果を誘い、アルファが誘発された状態を発情期 という。
オメガのヒートは番になりうるアルファを呼び込んでいるというのが今最も有力とされている説らしい。
しかし、アツシはオメガでもなければアルファでもない。
「あの、俺ベータなんですけど。ロイさんだって知ってますよね。ちゃんと面接の時に診断書見せましたし」
かれこれ7年前のこと、まだ当時アルバイトとしてここへ面接にきたアツシは第2次性診断の診断書の提出を求められた。
ここに限ったことではなく、就職などの際にもこれは求められることが多い。
というのも、オメガがベータと偽って就職し、発情期を迎えてしまい会社内で大パニックが怒る事態が多発した為だ。
「知ってるけど……」
そう言いつつロイさんで不思議そうに首を傾げている。
首を傾げると音がしそうなほど艶やかな紺の髪がサラリと落ちる。サイドには剃り込みが入っているが全くヤンキー感はなく、むしろフワリと軽く爽やかささえ感じる。
左目は覆われていて分からないが右目はじっとこちらを見定めるように見つめている。
美形という言葉が似合う容姿の完璧な男性。言わずもがな、彼は社会的優遇者 である。
言葉を切ったロイさんはクン、とアツシの項辺りの匂いを嗅ぐ。
何だか首がゾワゾワする。
不安感にも似たそれにアツシは内心首を傾げながらも咄嗟に項を隠した。
どうしてそうしたのかは分からないが、そこに人が近づくのが物凄く嫌だった。まるで本能であるかのように。
「いや、絶対そう。かなり軽いけど、匂いするし」
匂いとは、オメガがヒート時に出すフェロモンの事だろうか。
いやいや、そんなはずない。それではまるっきりオメガではないか。アツシはそう心の中で否定したが、ロイさんはなおも続ける。
「ヒートが遅い子はかなり重度の子が多いって聞くけどすっごく軽いね。でも今すぐ病院行って見てもらった方がいいよ」
「気の所為、とかじゃ…」
往生際悪く言い続けるアツシにロイさんも痺れを切らしたのか、アツシの手を退けるとするりと項を撫でた。
「何ならこのまま項 を噛んで試してあげようか?」
「いえいいです!病院行きます!!」
さっきまで感じなかった本能的な危機感をひしひしと感じてアツシは大人しく早退を申し出た。
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