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その日の夜。
仕事を終えた俺は、いつも通り徒歩五分の場所にある大和のアパートへ帰宅した。大和はまだやることがあると店に残っていて、あと二十分はかかるらしい。だからこの二十分は「唯一俺が一人になれる時間」として、有効に使わなければならない。
手を洗ってからリビングへ行き、ローテーブルの前に腰を下ろす。この横長のテーブルは俺の作業台だ。愛用ペン立てを手元に引き寄せ、テーブルの下からB5サイズのコピー用紙を取り出す。それを半分に折り、また半分、更にまた半分に折ってカッターで切り、小さな長方形となった紙を一枚テーブルに置く。これで準備完了だ。あとは直感的にペンを走らせ、好きなように描けばいい。
0.5ミリのゲルインクペンを手に取り、下書きも無しに右手を動かしてゆく。このくらい適当な方が良い絵が描ける。俺という奴は昔からこうで、本格的なデッサンなんて少しも学んだことはない。本当は、上手いなんて言ってもらえる資格はないのだ。
だけど、鉛筆でもマジックでも、ペンを握るとわくわくする。俺の唯一の趣味――幼い頃からチラシの裏やノートにたくさんの絵を描いてきた。家ではあまり自由時間というものが無かったから、学校の休み時間に思う存分描いた。そのせいであまり活発な性格ではなくなってしまったんだと思う。今でもそうだ。
動物や乗り物、ロボット、それから人物。デフォルメもリアルなのもみんな好きで、マーカーや絵の具、色鉛筆など、絵を描く時は何でも使う。高校の頃はよくスプレー缶も使っていた。地元公園の裏側にある石壁いっぱいに描いた俺のグラフティは、仲間の話によると今でもひっそりと残っているらしい。
「……ああ、寒かった。チカちゃん、ただいま」
「ん。おかえり大和」
どんなに描いてもそれらを世に出すなんて発想はなかったから、絵描きになろうと思ったこともなければ、イラストを公開するブログなども一度もやったことはない。ただ紙に描いて満足するだけの毎日なのだ。
「また絵描いてんのか」
「ん」
だから俺の絵を仕事に生かせるのは嬉しい。白いまっさらな紙に好きな絵を描き、無地のライターに貼りつけて上から透明フィルムで保護する。一本完成させるのにだいたい五分から十分。調子が良ければ何本でも作れる。勉強や習い事に縛られていない分、今の暮らしは好きなことに打ち込めて幸せだった。
「なぁチカ、政迩。チカちゃんってば」
「ん?」
「自分の世界に入るのも結構だけど、まずは夕飯食ってゆっくりしねえと」
「ん」
「聞いているのかい」
「聞いている」
「じゃあ早く立って、手洗って台所に集合。そしてスパゲティを茹でて、トマトソースと和える。ていうか作るのは殆ど俺だけど、チカも手伝ってくれるよな?」
「俺、スパゲティならペンネの方がいい」
「どっちでもいいよ。チカが好きな物なら何でも食わしてやる」
冷蔵庫から取り出した缶ビールを開けて、大和がニッと笑った。疲れている割には嬉しそうだ。しかも、相当にその理由を聞いて欲しそうな顔をしている。
「……何か良いことあった?」
「あった。白鷹くんに売上報告した時さ、……何て言われたと思う?」
「『お疲れ様』?」
「全然違う。――あのな、なんと明日、二人で休み取っていいってさ!」
「嘘」
俺は握っていたペンをテーブルに投げ出して立ち上がった。二人揃っての休みなんて、年末年始の僅かな日を除けば、半年に一度あるかないかだ。しかも今年は元日に休んだばかりなのに、ふた月とかからないうちにまた休めるなんて。
「久し振りの休みだ、どうするんだ、チカ!」
「と、遠出して買い物行く。服と、美味いモンと、春用のブーツ買う」
「待て、待て落ち着け。その前に今夜のこと考えねえと。夜更かしできるんだぞ、それも好きなだけ!」
「当前だ、寝てる暇なんてねえ。後でコンビニ行って、煙草とお菓子の補充しねえと」
「よっしゃ、じゃあ手始めに飯だ!」
顔を引き締めようとしても、嬉しすぎて自然と笑ってしまう。俺達は互いの顔に同じような表情を浮かべながら手を洗い、夕食の支度に取りかかった。
ペンネ・アラビアータは俺の一番好きなパスタ料理だ。唐辛子の効いたアラビアータソースに微塵切りしたタマネギとニンニクを加え、更に七味で辛さを倍増させる。俺はタマネギの皮を剥いただけで目が痛くなったのを理由に、早々に台所から離脱して換気扇の下へ移動し、煙草を咥えた。
「大和、思いっきり辛くして」
「チカってホントに辛いの好きだよな。激辛アラビアータとか喉が焼けそうになるぜ。だからって、水飲むともっと辛くなるしなぁ」
「辛くなったら水じゃなくて牛乳を飲むんだ。そしたら口の中がまろやかになる。唐辛子と牛乳ってすげえ合うんだよ、なぜだか」
「やめてくれよ、想像しただけで気持ち悪い」
俺は咥え煙草のままで玉杓子を手に取り、ペンネとソースが入った鍋の中をかき回した。真っ赤な鍋を底の方からかき回す時の音が好きだ。まるで雪解けのぬかるんだ道をスニーカーで歩いているようなこの音さえも、上手い具合に空腹を刺激してくれる。
「美味そう」
「俺が作って、チカがかき回した合作だからな。美味いよ」
大和がサラダ用のレタスを皿に盛りながら言った。
「なぁ、チカ。飯食って風呂入ったらさ、溜まってた映画のDVD観ながらビール飲んでいちゃつこうぜ。ここんとこ仕事ばっかでご無沙汰だし」
「ヤッたら疲れて眠くなるぞ。夜更かしできない」
「あー確かに。俺結構溜まってるからな……怒涛のごとくチカを犯したらすぐ寝ちゃうかも」
それはそれで試してみたい気もするけど、溜まっているのは俺も同じだ。二人して日付が変わらないうちに寝てしまったら、せっかくの休日前夜が台無しになる。
「よし、じゃあ頂きます」
さっき俺が作業していたテーブルで、二人向かい合って飯を食う。やっぱり激辛のアラビアータは最高だ。牛乳もサラダもどんどん進む。
「チカって、本当に美味そうに飯食うよな。見てて気持ち良いわ」
「だって美味いからさ」
「その幸せそうな顔見てると興奮してくるよ」
「……それって、変態を通り越して異常なんじゃないか」
「チカの幸せは俺の幸せってこと!」
もっともらしいことを言いながら、大和がフォークの先でパスタをつつく。どうやら刻んだ唐辛子を除けているらしい。
「明日一日楽しみだな。――なぁチカだったらさ、もし一日だけじゃなくて一カ月くらい休み貰えたとしたら、何やりたい?」
「ん。ゲーム買ってやり込む。完全に昼夜逆転生活する」
「なんだよそれ。チカなら絵描きの旅に出る、とか言うと思ったけど」
「それもいいけど、だったら学校通って絵の勉強とかしたい。言っても俺、本当に絵が上手いってわけじゃねえからな」
「充分上手いと思うけど。……俺なら旅行したいかなぁ。この時期だったら温泉とか最高じゃん」
「それならバイクでツーリングしたい。冒険とかしたい」
「冒険か、いいね。現地の美味いモン食って民宿泊まったり、キャンプで魚釣ったりさ」
実現することのない夢なら幾らでも口にできる。語っている間はわくわくするけど、また明後日から仕事が始まれば、俺も大和もそんなことはすっかり忘れてしまうんだ。
「今やりたいこと、いつか全部叶えような」
「……ん」
ただ目の前の現実を処理するのに精一杯で、自分達の店を持つとか、休暇を取ってのんびりするとか、そんな夢物語にはいつまで経っても手が届かない。
いや、絶対に無理という訳じゃない。だけどその為には、大和にほんの少し勇気を出してもらわなければならない。
白鷹にどれだけの恩だか借りだかがあるのか知らないが、ここで引いていたら、言い方は悪いが俺達は永遠に白鷹の手下だ。それは大和自身も分かっていることなんだろうけれど。
「まぁでもよ、逆に休みが多すぎるのも考えモンだよな。有難みがなくなるっつうか」
大和がビールを呷り、一つ溜息をついてテーブルに視線を落とした。
「俺はどっちかって言うと仕事してるのが好きだからさ。今の生活に慣れちゃってるから、休みなんて月イチで充分なんだよな。職場と家も近いんだし、チカとも毎日一緒だし」
「大和はそれでいいかもだけど、俺は休む時は休みたい。俺はお前と違って体力無いし、他にやりたいことだって沢山あるんだ」
「やりたいことって?」
「絵描いたり、……」
「そんなのいつだって出来るじゃねえか」
大和は何にも分かっていない。時間を気にすることなく一日を過ごす大切さや、好きな時に好きなことが出来る楽しさを。大和は「仕事」が一日の生活サイクルの中に含まれてしまっているから、極端な話、休みがあっても無くても変わらないのだ。
一日中何もしないで、ただ大和と過ごしたい。そんな俺の気持ちも知らないで。
「……別にいいけどさ」
それから二時間後、時刻はあっという間に午前零時を過ぎた。
夕食を食べ終わって風呂も済ませ、缶ビールとお菓子でリラックスしながら絵を描くのは最高だ。合間の息抜きに吸う煙草も、格段に美味く感じる。
「こっち向けって、なあ」
ただしそう感じているのは俺だけらしい。大和はさっきからしつこく俺の肩や脇腹をつついて暇そうにしている。見ていた映画が終わってしまったから、やることがないのだ。
「チカちゃんてば」
「もう少し待ってろよ。あとちょっとで完成するからさ」
「あとっていつ? そう言ってもう三十分も経ってるじゃねえか。本当、お前って勝手な奴」
暇だから構ってほしいだけの自分は勝手じゃないと言うのか。俺は最後の保護フィルムを貼り終えてから、溜息をついて大和に向き直った。
「ほら、終わったぞ。遊んでやる」
「やった。何する、何して遊ぶ」
「トランプでも持って来いよ」
そういうのじゃなくて、と大和が照れたように笑う。俺はあぐらをかいた膝に片肘をつき、目を細めて大和を睨みながら言った。
「お前はそういうことしか考えてねえのか。さっきはヤらないとか言ったくせに」
「だってホラ、よく考えたら今日はバレンタインだぜ。愛し合う恋人達にとっては、クリスマスなんかと同レベルのイベントじゃん」
「ただの平日でも好き勝手にヤッてるくせに、クリスマスやバレンタインはセックスする日じゃねえよ。腹立つぜ、そういうの」
「え? なんだよ、俺に言ってんの?」
「世間の恋人達にさ。まぁ、大和もそういう考えなら――」
言い終わらないうちに唇を塞がれ、そのまま床へ押し倒された。聞きたくないことは聞かないし、やりたいことはやる。大和は昔からそういう男だ。
「んっ、……」
「そういうお前の素直じゃない所も好きだぜ」
至近距離で俺の目を見つめながら、大和が俺の両脇に腕を入れる。背中に回された腕で強く引き寄せられ、俺は寝たままの恰好で大和の首に抱きついた。
「それで、結局俺に抱かれたがるお前も好き」
「アホ」
シャツを脱ぎ、大和が俺の顎にキスをする。そのまま首筋や鎖骨の上に唇を落とし、もう一度俺の唇にキスをしてから言った。
「チカの真っ白な肌にさ、真っ白のチョコソースかけて舐めてやる」
「………」
「もちろん、下半身を集中的にな」
「やれよ」
素っ気なく返すと、大和が愛撫の手を止めて項垂れた。
「演技でもいいからさぁ、ちっとは恥ずかしそうにしてくれよ。言ってる俺の方が恥ずかしくなるじゃん」
おかしくなってつい笑ってしまったが、大和は本当に恥ずかしそうに頬を赤らめている。こういう単純なところが堪らなく可愛い。
「大和がやりたいなら、やってもいいって言っただけだ」
俺は下から大和を抱きしめ、その頬に軽くキスをした。
「……ん」
冷たいフローリングの床にべったりと背中を付けて、大和の愛撫を受ける。耳を舐められ、俺は思わず小さな吐息を漏らした。
「あ、……」
「ご無沙汰だし、チカ少し敏感になってる? 自分でヤッたりしてねえの?」
「そんな暇、ねえ……だろ」
「俺は結構自分でしてたよ。お前が寝てる間に、お前の寝顔見ながらさ」
「……変態」
「いいよ別に、変態でも」
耳に舌を這わせながら、大和の手がシャツを捲って俺の脇腹に触れた。確かに少し敏感になっているかもしれない。今日の俺はただ腹を撫でられただけでも、腰が疼いてしまう。
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