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 突然バランスを崩し、背中から落下しそうになった。瞬間的に冷や汗が噴き出し、激突を覚悟する。――が、気付けば俺の体は床に落ちず、途中でピタリと止まっていた。 「大丈夫か?」  白鷹の太い腕が俺の背中をしっかりと支えている。痛い思いをしなくて済んだと安堵した半面、何だか少女漫画のベタなワンシーンのようで恥ずかしくなった。 「気を付けろよチカ、危ねえなぁもう!」  血相変えて走ってきた大和が、俺の手からフィルターを取り上げる。二人の時しか呼ばないはずの俺の呼び名を口にしているということは、大和も相当焦ったようだ。  俺は白鷹に礼を言ってからその腕を離れ、「大丈夫」と大和にぎこちなく笑ってみせた。最初の衝撃が過ぎ去って、大和の顔に「白鷹に抱かれてる俺」に対する不満が浮かんだのが見えたからだ。 「なるほど、マサチカだからチカちゃんか。いいな、それ」  その言葉に、今度は大和が「しまった」の表情を浮かべる。 「フィルター掃除は俺がやっとくから、チカちゃんは大和から別の指示もらえ」 「白鷹くん、今度安定した脚立買ってくださいよ。落ちて頭でも打ったら、洒落になりませんて」 「そうだな。明後日にでもホームセンター行ってくるわ」  白鷹がフィルターを持ってスタッフルームに引っ込んで行く。その姿が見えなくなったところで、大和が俺の頭に付着していた埃を払い落としながら口を尖らせた。 「今の出来事、何もかもがムカつく」 「バランス崩したのは俺のミスだし、俺の名前を呼んだのは大和のミスだろ」 「もう使えねえよあの名前。俺達だけの秘密じゃなくなっちまった」 「それほど俺を心配してくれたってことだろ」  地団太を踏む勢いで苛立ちをあらわにする大和。俺は小さく笑ってから、その場に放置されていた脚立を畳んで肩に担いだ。 「それより大和、俺何すればいい」 「もう危険な真似はさせらんねえから、カウンターで大人しく絵でも描いてろよ」 「じゃあ今日入荷したTシャツのポップ描いてくる」 「俺店頭にいるから。何かあったら呼べ」  過保護ともいえる大和の気遣いに軽く頷き、俺はレジ横の引き出しからポップ用の厚紙とマジックを取り出した。  嬉しいことに今日入荷してきたTシャツには、俺の好きなアメコミのキャラクターがプリントされている。こういう絵は大得意だ。「NEW ITEM」の横に、片腕を上げて飛んでいるヒーローっぽいキャラクターを描くことに決めた。  もしも大和と俺で店を持てたら、好きなだけ絵が描けて、しかもそれを商品にしてもらえるかもしれないという。俺にとって、これ以上幸せな仕事はない。 「オッ、早速ポップ描いてるのか。上手いモンだな」 「わっ」  背後から白鷹の顔がヌッと出てきて、せっかく上手く引けていた線がとんでもない方向に曲がってしまった。マジックで直に描いていたから変更は効かない。始めから描き直しだ。 「びっくりさせないでください、白鷹さん」 「びっくりさせて失敬。なあ、ロボット描けるか?」 「多分、描けますけど」  白鷹が俺の手からマジックを奪い、新しい紙を取り出して得意げに言った。 「俺もロボットだけは描けるんだ。見てろ」  俺は黙って、横で絵を描き始めた白鷹の手元を見つめた。 「……のっけから失敗した。チカちゃん、もう一枚紙くれ」  何も考えないで線を引くからバランスが悪くなるし、スペースも足りなくなる。それに、そんな太いペンで描いたら細かい所は全部黒く塗りつぶされて、何が何だか分からなくなってしまうじゃないか。 「なかなか難しいな。チカ、もう一枚」 「白鷹さん、なんで頭とか体じゃなくて足から先に描くんですか?」 「上から描くと足が小さくなっちまうんだよ」 「………」  白鷹に渡そうとしていた紙に、何となくペンを走らせる。ロボットなんて最近は描かないからあまり自信は無いけれど、少なくとも白鷹よりは上手く描けるはずだ。 「おおすげえ、そんな感じだ。それで背中を燃えさせてくれ」 「背中を? ……ああ、ブースターか」  少し古臭いデザインだけど何とかそれっぽく描けたと思う。  完成した紙を差し出すと、白鷹が子供みたいに目を輝かせて大事そうに両手で受け取った。 「すげえ、チカ天才じゃん。漫画家になればいいのに」  なんて、遊んでる場合じゃない。幾ら暇でも今は仕事中なのだ。 「白鷹さん、そろそろちゃんと仕事した方が……」 「だって、外全然人歩いてねえし。昨日より暇だぞ」 「白鷹さんはオーナーでしょ。フリでもいいから仕事した方がいいです。それに、こんな場面を大和に見られたら、また面倒臭いことに――」 「何が面倒臭いっての?」  途端に言葉に詰まる俺。付き合ってることを隠すって、本当に大変だと思った。今まで大和と二人だけで好き勝手やってきた分、白鷹の存在がもどかしくて仕方ない。  店頭では大和が子供達とじゃれ合っていた。その横で母親らしき若い女が、ジーンズに覆われた細い脚をくの字に折って、ラックの下の方にあるキーホルダーを物色している。  子供達と戯れる大和を見ているうちに、俺と大和の間にも子供ができたら、なんてことを思ってしまった。大和だったらその辺の若い男よりも、ずっと良い父親になれる気がする。 「じゃあ俺、ステッカーの補充してくる。チカは引き続き頑張れよ」  俺の頭を軽く叩き、白鷹が再びスタッフルームに引っ込んで行った。  白鷹が昔住んでいたバルセロナでは、ゲイ同士の結婚も認められているという。彼は幼い頃から男女問わず多くのゲイカップルを目にしてきたそうだ。だから白鷹自身も、そういうことに関してはかなりオープンなのかもしれない。何の含みもなく俺の頭を撫でもするし、隙があれば大和の尻を揉んだりもする。  大和にとっては危険極まりない人物かもしれないが、もしかしたら白鷹は、俺達の良き理解者になってくれるんじゃないだろうか――何となくだけど、俺はそう思い始めていた。大和と相談して、俺達のことを打ち明けても良いかもしれない。

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