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第1話
「仙名 君、それ終わったら倉庫に在庫管理ファイルを持ってきて欲しいんだけど」
「あ、はい。分かりました」
コピー機の前でテンポよく排出される用紙をぼんやりと眺めていた仙名 航 は、壁に掛けられた時計を見上げて小さく吐息した。
予定外の残業で、仕事終わりに会う予定だった恋人――いや、友人にはまだ連絡も出来ていない。
(また文句を言われるだろうなぁ……)
俺が平川 陽介 との関係を恋人ではなく友人と言い換えた理由――それは、俺には彼に対しての恋愛感情がないからだ。
彼は同じ会社の営業部に勤務する一つ年上だ。社内研修でたまたま出会い、意気投合してからは二人きりで会うことも増えていた。陽介は俺に対して以前から恋愛感情を抱いていたと率直に伝えて来た。しかし、ここで問題になるのは男同士であるというセクシャリティの問題ではなく、もっと深刻な事だった。
そう――もっと厳密に分類される性別において、彼は一般的に人口の大半を占めるβ、そして俺はその存在が稀少とされるΩなのだ。
自身の体質を知ったのは高校生の時だったが、三ヶ月に一度訪れる発情期を抑えるために抑制剤の摂取は欠かせない。それは社会人になった今でも変わらない。
Ωは性交すれば男であっても妊娠する。それが発情期ともなれば妊娠率は格段に上がる。
一週間という期間、ただ発情し続けるだけの獣と化してしまうのは、会社勤務の俺としてはツラいところだ。
だからこのことは誰にも告げていない。もちろん、陽介にも……。
相手に恋愛感情があれば、それなりに体の関係を求めてくることは当たり前の事ではあったが、俺としては友人の枠を超えられない彼に抱かれるのは正直、心苦しかった。
でも、それを言い出せないまま、彼に求められるままに応じ、セックスの度に密かに避妊薬を飲み続けている。
そっとポケットの中に常備しているピルケースに触れて、またタメ息を吐いた。
デスクに置きっぱなしのスマートフォンが何度か着信を知らせる振動を繰り返していたが、今日は“会いたくない”という感情の方が勝っていた。
体が熱っぽく、今朝から倦怠感が拭えない。いつもよりも心拍数が高く、吐き出す息も心なしか熱い。
(マズイな……)
近くにあったカレンダーを見て、周期的に訪れる発情期が近い事を知る。
抑制剤を飲んでいても、その効果は完全ではない。自分で意識しなくとも、体は自然とフェロモンを放出し“番(つがい)”のいないαやβを引き寄せてしまう。
陽介を避けたいと思うのはきっとこのせいだろうと腑に落ちる。彼も俺の香りには敏感で、周期が近づくとやたらと会いたがる。薬で発情を抑え、避妊薬を飲んでさえいれば、彼の子供を妊娠することはないのだが、不安は常に付き纏っている。
「――あれ、仙名。まだいたのか?」
甘さを含んだ低い声に自分の名を呼ばれ肩越しに振り返ると、そこには商品管理部部長である伊瀬 遼河 が立っていた。
三つ揃いのブランド物のスーツに身を包んだ彼の体は引き締まり、週四回のジム通いの成果がありありと分かる。四十代前半でありながら異例の出世で部長になった彼はα属性だ。
日本人離れした端正な顔立ちと、一六〇センチしかない俺が見上げるほどの長身、そして何より古くから栄えた名家の出身であり、資産も十分すぎるほどある。
爽やかな香水の匂いに混じって、α特有のオスの色香を纏う彼は女子社員だけでなく属性のある者であれば誰もが憧れる存在だ。
しかし、彼には内縁の妻がいる。それに子供も……。籍は入れていないとはいえ、一緒に暮らしていれば自然とそういう関係になっていくのが普通だろう。それ故に、皆は泣く泣く諦めざるを得なかった。
俺もその一人であることは誰にも言っていない。しかも、淡くではあるが恋心を抱いていただなんて、口が裂けても言えない。
「あ…お疲れ様です。昨日出荷した商品の数量が合わないって先方から問い合わせがあって……。今、松崎さんと一緒に在庫と照らし合わせて調べているんです」
「報告は上がってきていないが……」
「すみません。何しろ大至急調べて手配してくれと、先方から……」
「そうか。まあ、俺が確認作業に気を配れなかったことも要因だな。ところで……」
遼河が俺の耳元にそっと顔を寄せた。たとえ発情していなくとも、その周期が近くなれば香りも強くなる。
無意識に全身に力を込め、手にしていたコピー原稿を掌でギュッと握り占める。
一緒に残業していた松崎という女性は、商品倉庫に行ったきり戻ってきていない。
広いフロアに残されたのは俺と遼河だけだ。
「仙名……お前、良い香りがする」
スンッと鼻を鳴らして耳朶を甘噛みした彼を咄嗟に突き飛ばしていた。
「な…何をするんですか、部長!」
近くにあったデスクに凭れて、倒れ込んだ体を何とか立て直した遼河は再び俺に詰め寄った。
今度は力強い手で俺の手首を掴み、コピー機の横の壁に縫い留めた。
ガシャン、ガシャンとコピーを繰り返す機械の音に紛れて、遼河の荒い息遣いが聞こえる。
「――お前、Ωか?」
「ちが…っ!放して下さいっ」
「前々から気になっていたんだ……。いつもいい匂いがしてはいるが、今日は一段と甘くて、強い……」
「バ……バカなこと言わないでください!俺はβですっ」
掴まれた手首からじわじわとあり得ない温度の熱が伝わってくる。その熱はまるで猛毒のように俺の体に広がり、まだ周期には早いはずのフェロモンを溢れさせる。
わだかまった熱と共にぶわっと甘い香りが広がると、遼河は二重の奥のこげ茶色の瞳を妖しく光らせた。
「誘っているのか?俺を……」
「違うっ!これは……違うんですっ」
「何が違うんだ?この香りは間違いなく俺を誘うΩの匂いだ。仙名……」
わずかに身じろいだ遼河の体から強烈なオスの匂いが湧き立ち、俺は目の前が一瞬真っ白になった。
心臓が早鐘を打つ、下半身が痺れたように疼いて立っているのもツラい。
このままでは前倒しで来てしまった発情期に、理性を保っていられる自信がない。
密かに想いを抱いていた彼に、我を忘れ、狂ったように腰を振り強請る獣のような姿を見られたくない。
「部長……いい加減に……してく……っうぅ」
自分より背の高い彼を仰ぐように顔をあげていたのがいけなかった。心とは裏腹に抗いを見せた唇は呆気なく塞がれ、厚い舌に口内を蹂躙された。
「…っん…ふ……っうぅ」
普段の冷静でスマートな彼からは想像できないほど、そのキスは荒々しくて熱かった。
深く重なったままの唇の隙間から漏れるのは吐息と俺の小さな悲鳴。
絡めた舌が食いちぎられるのではないかという恐怖に、喉の奥が締め付けられる。
遼河と繋がっているのは唇だけ――それなのに全身が快感に震えてしまう。
無意識に逞しく引き締まった腿に自分の腰を押し付けて、すでに猛っているモノを誇示する。
それに気づいていながらも、角度を変えながら唇を貪る遼河に苛立ちだけが募っていく。
――抱かれたい。この男に抱かれたい。
その想いが支配し始めた時、頭の片隅に浮かんだ陽介の屈託のない笑顔に、絡めていた舌が動きを止めた。
異変に気付いた遼河は銀色の糸を引きながら唇を離すと、俺を見下ろした。
「どうした?」
「――ダメだ。俺には…陽介が、いるっ」
「陽介?営業部の平川のことか?」
「ど…して、それを?」
涙で滲んだ視界の中で、遼河が力なく微笑んだのが分かった。
しかし次の瞬間、彼の瞳が金色に変わり、αとしての本性を露わにした。
「ひぃ……っ」
押さえつけていた手首を再び掴み直すと、彼は自分の方に抱き寄せた。不意に襲った快感に酔わされ、力なく彼の腕の中に倒れ込むと、そのまま引きずられるようにフロアをあとにした。
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